Traveling, thrilling ④積極的に旅行に行くタイプではなかったから、経験したものと言えば修学旅行や卒業旅行といった儀式めいたものだった。実家を離れる前に母と妹と祖母の四人で行った家族旅行もちょっと遠くまでのお出掛け、という感覚だった気がする。
「楽しかったみたいで良かったよ」
とどのつまり、僕は旅行というものにさほど縁が無かったのだ。
チェックアウト前に再度荷物の整理をしたら、往路では多少余裕があったはずのキャリーケースはぱんぱんになっていた。不思議なものだなとしげしげ眺めている僕を見つめるネロは、少し跳ねている後ろ髪を気にしながらも嬉しそうだ。シャンプーとかリンスが変わるとどうしてもな、とギリギリまでドライヤーと格闘していたようだが、どうやら諦めたらしい。
「うん、凄く楽しかった。ありがとうネロ。世界で一番感謝している」
「そんな大げさな」
「事実だから、大げさも何もないよ」
ごろごろと引くキャリーケースはどっしりと重く、まるで詰めた荷物の一つ一つに思い出が嵩増しされたかのよう。にこやかに見送るスタッフ達に数日間の礼を述べ、到着時よりも幾分鮮やかに見える空を見上げた。
「でも、本当にありがとうネロ。僕一人では絶対旅行なんてしなかった」
「ファウストはどちらかというと引き籠りがちだからな。でも最初の一歩を踏み出してくれれば、後は結構乗り気だったろ」
「そこはインドア派と言ってくれるかな」
僕のことをよく理解した上でそっと手を引いて連れ出してくれるネロには何度も心を動かされている。
今回の旅行もそう。外で遊ぶより教室で読書をする方が好き、という典型的な大人しい学生時代を送ってそのまま大きくなったから、色んな意味での『遊び方』を知らないできた。頭の中で情景を想像し尽くすことはできても実体験に繋げるということに意識が向きづらく、雑誌を捲りながら思わず零れたのも「『いつか』行ってみたい」だった。ネロは、そんな僕の手を優しく握って、途切れた糸を繋ぐように誘ってくれたのだ。「じゃあ行こう」と。
「言ったろ?珍しいことや新しい出来事をどんどんやらせてやりたいし、行ったことがない所や行きたい所にどんどん連れていきたいって。俺ができることでファウストにしてやれることなら、俺は何一つ惜しまないよ」
少々前のめりになった心を一夜明けて落ち着かせた僕に、ネロは同じ言葉を真摯に何度も、想いを込めて伝えてくれる。深い情を傾けてくれる黄金の双眸が穏やかに僕を映している。
『遊び方』を多少覚えた。だから、やりたいことができた。
「次は、ネロの行きたい時期に、ネロの行きたい所に行って、ネロのしたいことをしよう」
ネロの手を引いてそう提案した僕の心は、思った以上にうきうきと晴れやかだ。声も存外弾んでいて、ネロが驚いたように笑っている。
「俺?」
「そう。何がいいかな。ぶらりネロの解像度を上げる旅」
「そんなバラエティー番組みたいな」
ネロが僕のことを沢山知ってくれたように、今度は僕がネロのことを沢山知りたい。そう告げれば、「知ってもっと好きになってくれるの」と、ふわりと目尻を染めるさまに愛おしさが募る。
「きっと愛してしまうよ」
愛し合うというのは、果ての無い道を二人で進んでいく長い旅路だ。手を取りたいと思える人に出会えたのは、幸せなことだと確信している。
せき止められることなく口から抜け出した本心に、ネロがぱかりと目を見開いた気配を感じる。ネロの顔を見ることなく、僕は前だけを見て歩き続けた。
やがて痛いくらいに握り返してくれた手は、夏の暑さに負けない熱を帯びていた。
復路の便の時間までは駅に到着してからも多少余裕がありそうだ。だらだらすることは出来ないけれど、二人してこの地を離れる名残惜しさを抱えながら、思い出をあれこれ買って帰るのもいいだろう。
二泊三日の大がかりなデート。
それは、真夏の陽射しのように眩しく煌めく思い出と、熱く燃えるような感情の芽生えを僕にもたらした。
「俺の旅、どこがいいかな」
「きみとなら、どこへでも」
降りしきる蝉時雨の中、とっくに過ぎ去った青い時代をやり直すように手を繋いで歩いた。
映画みたいな台詞も、今なら恥ずかしげもなく言える。