終わりの足音図書室では静かにすること。
自分達の他に誰もいないとしても、ファウストは律儀にこの決まりを守る。怒られたくないので小声でファウスト、と呼びかけると、紫色の瞳が続きを促すように向けられる。
宿題に飽きた俺は、本にひたむきな視線を向けるファウストを見つめていた。容姿端麗な人を『彫刻みたい』と言ったりするけれど、ファウストは彫刻よりもドールに近いと思う。人間の生々しく漲る肉体美からかけ離れた、いっそ人間みを削ぎ落としたような美しさ。夜の美術室で出会ったらめちゃくちゃ怖そうなくらい、綺麗な人だと思っている。
「俺が虫になったら、ファウストはどうする」
「……何、突然」
それ、とファウストの手元にある本を指す。薄めの文庫本の表紙を返したファウストは、なるほどと納得したように呟いた後、ふむと指を顎に当てて考え込んだ。言葉を探している時のファウストの癖だ。難しい言葉を沢山知っているけれど、それ以上に、感情や物事をうつくしく捉えて表現する言葉を沢山知っているファウストの話は聞いていて心地よい。
「ネロが何になっても、僕はそれがネロだと気付くよ」
少しの間の後、ファウストはゆっくりと答えを紡いだ。
「例えばこの本のように得体の知れない虫になっても、空を舞う落ち葉のひとつになっても、ネロの手元に転がる使いかけの消しゴムになったとしても。
どんなものに姿を変えてしまっても、両手で掬いあげて、ネロ、と名前を呼ぶよ」
「喋れなくても、歩けなくても?」
「喋らなくても、歩かなくても。無機物だっていい」
ファウストがぱたん、と本を閉じる音が図書室に響く。カーテンが風に揺れてはためき、ゆらゆらと影が波のように揺れる。ファウストの両目に窓から差し込む西日が反射して、昼とも夜とも言えない色が浮かび上がっているのをじっと見つめた。
「僕は、ネロならなんでもいい」
どんな姿になってもネロはネロだから。
言い切る言葉の隅々に確かな好意が込められていて、俺はまたファウストの想いを自覚する。
ああ、この人は俺の事を好きでいてくれているのか、と。
何もかもが違う。容姿も、成績も、友人達も、この先の進路も。その先の将来も。
遠くない未来に訪れる離別が寂しくて、怖くて。でもそう思っているのはきっと俺だけなんだと思う。ファウストは未来を目指せる人だ。俺みたいに過去の顔色をぐずぐず伺って泥沼から抜け出せなくなるタイプじゃない。
出会いがあるから別れがある……出会ってしまったら、離別は必ず訪れる。始まってしまえば、あとは終わりがいつ来るのかと怯えるだけだ。
「きみが満足する答えを出せたかな?」
くすりと笑って、ファウストが俺の手を爪先でとんとんと叩く。
笑うと結構幼く見える顔を、あと何度目に焼き付けられるだろうか。
冷たそうに見えて存外体温の高いファウストの手に、あと何度触れられるだろうか。
ある日突然虫になってしまった男のように、俺のこの日常も、ファウストも、突然失われてしまうかもしれない。言い様のない漠然とした不安はいつだって俺の中に立ち込めている。
「ファウストは、俺が何でもいいって言うけど。俺はやっぱり虫も消しゴムも嫌だよ」
どうしてと問われたので、古びて軋む椅子をファウストの隣に寄せた。カタリ、木の足が床にぶつかって音をたてる。
「だって、手を繋ぐことも、抱きしめることも、触ることも出来ない」
目の前に好きな人がいるのにそんな寂しいことってない。もどかしさに心が掻きむしられそうになったとしても、掻きむしる腕すらないとしたら、一体、心の置き場はどうすればいいのだろう。
「きみが聞いたのに」
俺が聞いた。聞いたけど、自分で考えていたら段々辛くなってきてしまった。自分で自分を落ち込ませてどうするんだか、とほとほと自分に呆れてしまう。
そんな俺に、ファウストは変わらず慈愛を込めた眼差しを向けてくれる。
「……確かにそうだね。僕はネロならなんだっていいけれど」
ガタリ、木の足が木の足にぶつかって音をたてる。
ファウストが椅子を俺の隣に寄せてきた。椅子同士がぶつかるくらいに近付けば、じわりとファウストの体温が空気越しに伝わってくる心地がする。
「こうして手を繋ぐことも、抱き締めてもらうことも、キスしてもらうことも出来ないのは、寂しいな」
握っていたシャーペンを俺の手から優しく奪い取ると、そのまま持つものを失くした手にファウストの手が重ねられる。指と指の間をゆっくりと埋めるように握るファウストの手は、俺の手よりひと回り小さい。
じわりと伝わる体温に溶けてくれないこの身体をもどかしく思う日が来ようとは。
「……だろ」
笑うのは得意だ。心なんて関係ない。表情筋の動かし方偏差値なら、トップの大学だって余裕で入れる。そうして生きてきた。
多分この後も、そうして生きていくのだろう。
結局何が聞きたかったのと笑うファウストに、忘れたよと答えるしかない。かっこ悪いし、うじうじしてるし。雨模様の並ぶ天気予報を心に抱えた俺に、心配しなくてもとファウストが笑う。
「僕はずっと、ネロのことが好きだよ」
揺るがないこの言葉を、いつか来るさよならの時までに何度だって聞きたい。
そう言ったら、ファウストは呆れるだろうか。