天国から地獄『酔った先生?まあ……普段よりは棘抜けるよ』
そりゃあな、と先日の楽園、もといビアガーデンとやらでネロが話していたのを聞いて興味が湧いたのは事実だ。バーに行くタイミングを狙って押しかけ、多少強引に強めの酒を飲ませた。警戒心を持たれないよう、自室にストックしておいた中から選び抜いた一級品を持参して。隠しちゃいるが、こいつもそれなりの呑んべぇだ。良質な酒であれば飲まずにはいられないはず、という俺の読みは見事的中している。
「ファウスト。水を少し飲まれたらいかがです」
カウンターに突っ伏していた呪い屋はううん、と唸り声を上げながら身体を起こし、シャイロックの差し出したグラスに口をつけている。
──我ながらではあるが、ここまで酔った呪い屋も珍しいのでは?
どうやらネロのお気に入りらしいこの陰気な呪い屋を、少しばかりからかってやろうという悪戯心があった。何せ、普段は全身黒づくめで堅物の表情を壊そうともしない奴だ。多少無茶をするところは嫌いじゃねぇが、なかなか壊れないものを壊したいと思うのは北の魔法使いとして当然の本能だ。
「おう、呪い屋」
「ん……?」
「お前、ネロとどこまでやったんだよ」
「……どこ……」
常のきびきびした説教臭い口調はどこへ行ってしまったのやら。ぽわぽわと視線を彷徨わせながらガキのような拙い言葉を口にするばかりで、会話が進みやしない。
「あ?お前、ネロと最近よろしくやってるんだろ?」
「ブラッドリー。あまりこの御方を引っ掻き回すのはおやめなさい」
「そう言うな、西のパイプ飲み。欲望も享楽も、てめえらの大好物だろうが」
「あまり品の無い言い方はよしてくださいな」
それ以上は知りませんよ、とシャイロックはあくまで穏やかに身を引き、口を挟むことを止めた。呪い屋と言えば、ぼんやりと虚空を見つめながら、どこ、とうわ言のように呟いている。
さて、どんな楽しい話が飛び出るやら。楽しみで口角がにたにたと上がるのを止められない。
グラスの氷が溶けてカラン、と音がした。
「……ネロのは、」
する、と真白い手がカソックに隠された下腹部をさする。
「ここまで入る」
眩暈がした。
オズの雷に打たれた時よりも強い衝撃が、こう、身体をドカンと貫いて、……眩暈がした。
「(流石にここまで暴露するとは思わねぇだろ!?)」
思わずシャイロックの方を向いてしまった。おやおやというような表情を浮かべたきり、助け舟を出しはしない。忠告はしましたよ、貴方がふった話題でしょう、といったところか。ぽうっと紅潮した顔でうっとりと腹を撫でる呪い屋は、恐らく、その時のことを思い出している。時折つく吐息がアルコール以外の熱を帯びているのが嫌でも分かる。
「(──おいネロ!こいつ危ねえよ一人でほっつき歩かせんじゃねえ!)」
今すぐネロの肩を掴んで揺さぶってやりたい。こいつを酔い潰したのは俺だから、完全に自業自得ではあるが。
『次の試験が楽しみだな?ん?』
『すみません……』
案の定、昼間から飲んでいたことがバレたネロは呪い屋からしこたま怒られた。血の料理人が二百も年下に情けねえ、と呆れた俺に対し、ネロはどうにも締まりのない顔をしていた。恐らくネロは、この呪い屋に叱られることを楽しんでいる……というより、喜んでいる。あいつにそんな趣味があるとは思えないが、そういえば俺はあいつを叱ったことがあっただろうか。
──思い返してみても、あいつに激昂された記憶ばかりが思い起こされる。
「ネロはかわいいんだぞ」
「おー、そーかいそーかい」
別の方向にスイッチが入ったらしい呪い屋は、一転してひたすらにネロは可愛いのだと捲し立ててくる。夜中に包丁両手に背後に立つ奴のどこが可愛いんだ、おっかねえだろ。
猫を撫でる姿も、ちっちゃいのの相手をする姿も、授業で居眠りをする姿も。どれもこれも、俺の知らない『東の魔法使い』ネロの姿だ。俺が知っているのは『死の盗賊団』のネロであり、そいつは……ここにはいない。
楽しい話が聞けるどころか、気分が色んな意味で萎えてしまった。早いとこバーを抜けるか、この呪い屋をどうにかしたいところだが。
「シャイロック、頼まれてたチーズと、ついでに試作で良ければちょっと小料理持ってきたけど……」
真打登場。
いいタイミングだ、さすがは俺の相棒!分かってるじゃねえか。
「え、何この状況……何でブラッドと先生が仲良く一緒に飲んでんの……?」
「!ねろ、」
「おや、ネロ」
「おいネロ!!」
三者三様に呼びかけられて硬直しているネロを他所に、俺はとにかくこの状況を打開したかった。平穏を求めるなんざ北らしくないが、酒とメシ以外で胸焼けするのは御免だ。
「てめぇ!この呪い屋を一人でほっつき歩かせるんじゃねえぞ!分かったな!?」
「なになになになに何なの!?」
「分かったらこの呪い屋連れてとっとと部屋に戻れ!」
ネロが来たことで喜色満面の笑みを浮かべている呪い屋を引っ掴み、ドアの前で混乱しているネロに押し付ける。ひったくった料理皿を魔法でカウンターテーブルへ飛ばし、ついでに二人をドアの外へ放り投げた。投げ飛ばされた呪い屋を見事受け止めたネロは何やらぎゃあぎゃあ喚いているが、知ったことかとドアを閉める。
バタン。
知らず力が入ったのか、やけに大きな音が出てしまった。
バーの内部は反比例するように静寂に包まれ、シャイロックが磨き終わったグラスを置く僅かな物音だけが響く。
「折角料理を持ってきてくださったのに……御礼も言わせていただけないなんて」
「……おい」
「何でしょう」
「一番度数の強い酒、頼む」
知りたくもない二人の事情を知ってしまった俺の頭は、二日酔いではない頭痛に悩まされることとなる。
翌日、ネロはどうやら事の顛末を聞いたらしい。
俺の食事はひと月ほど野菜一色だった。