胸元に勝負服「ファウストぉ〜……」
ふええん、と弱々しく助けを求める声がする。
自宅を出る時間よりも随分と早起きをし、一時間程自室に篭っていたネロは遂に一人で考えることをギブアップしたのか、ひょこりとドアから情けなく崩れた顔を見せた。
「そんな情けない声出さないの」
可愛いところはもちろん好きだけれど、かっこいいところも好きなのだから、両方満遍なく見せてほしい。特に今日はかっこよく決めなければならない日だというのに、今は情けなく可愛い方向に全振りしているネロの元に向かうと、クローゼットをひっくり返したようにスーツやシャツが散らばっている。
「な、何着たらいいかな……」
着るものも選べずめそめそしているネロはこれから大勝負に向かうというのに緊張感の欠片も無くて、ファウストは思わず吹き出してしまった。
海外でも絶大なネームブランドを持つ巨大企業との商談が入った、というのは社内でも随分とホットな話題のひとつである。この契約を獲れれば相当の売上を得られるどころか、企業の名を挙げることにも繋がるのだと意気込んた経営陣により敷かれた、絶対契約獲得態勢。
その中の最重要ポジションとも言えよう、商談担当の営業部隊にネロの所属するチームが抜擢されたのだった。
話を聞いたファウストは素直に嬉しかった。なんせ自分の恋人様が実力を認められたのだから。ふふん、今更気付いたのか。僕はとっくに気付いていたけどね。と一人で得意になったりしていた。その優秀な恋人様は「絶対嫌だって言ったのに……」と彼を大層重用している上司に呪詛の言葉を吐き続けていたけれど。
それでも一度任されたら最後まで匙を投げられない性格が働き、今日まで無事頑張ってきてしまったネロは、遂に商談の日の朝を迎えてしまったのである。
一世一代の大捕物だ。
どうせならネロをとびきりかっこよくしてやりたいところだが、堅苦しい格好があまり得意ではないネロは、下手に着飾ると変に緊張して自滅してしまう。
散らばったスーツとクローゼットを漁り、一着のネイビーのスリーピースを差し出す。
恐らく彼の上司殿がガッツリとした柄物を着るだろう。割と派手好きな人だ。ネロも無地よりは柄が入っている方が映えるので、並んだ時にうるさくないよう、ここはさり気ないグレンチェックを選んだ。
続けて手渡したシャツは、控え目なライトグレー。本当はサックスが良いのだけれど、ネロの髪色と喧嘩してしまいそうなのでやめた。少し幼く見せてしまいがちなネイビーに落ち着きを入れられたらいい。
「とりあえずこれで合わせてごらん」
「助かる……」
もそもそと気だるげに着替えを始めたネロを横目に、ファウストは自室へと足を向けた。
隠してはいるが、ネロが相当緊張していることくらい察している。わざわざ商談の日の業務予定を聞き出してきたかと思えば
『その日、俺直行直帰だから……その、在宅とかで家にいてくれると嬉しい、んだけど……』
と、お見送りからお出迎えまでを所望してきたのだ。取引先からの覚えもよく、後輩達からも随分と慕われている彼が見せる弱さやいじらしさが、ファウストはこの上なく愛おしくてたまらない。頼ってくれるのなら、余りあるほどのものを渡してあげたい。そう思って、ファウストは箪笥から一本のネクタイを取り出した。
「着れた?」
「うん」
鏡の前で合わせていたネロは、部屋に戻ったファウストに向け、変なところ無い?とくるりと回ってみせる。見立てた通りのいい感じだ。いい男になってるよと満足気に笑みを浮かべたファウストに、普段なら照れ隠しの一言二言を飛ばすはずのネロはしきりにお腹をさすっている。どうやら緊張が早くもピークを迎えつつあるようだ。
「腹痛い……」
「さすってていいよ。ネクタイ着けてあげる」
シャツの襟をあげ、しゅるりと細身の布を通す。幾度となく結んであげた過去は裏切ることなく、よどみなくファウストの手を動かす。
――どうか、ネロが頑張れますように。
ファウストの手で祈りを込められ、美しく結ばれたネクタイがネロの胸元を彩る。
気付いたようにぱちりと瞬きをしたネロが、襟を正しているファウストの名前を呼んだ。顔をあげると普段の出勤時よりも男前になったネロが視界いっぱいに映って、こちらが少し恥ずかしくなってしまう。
「これ、ファウストのお気に入りじゃん」
「そうだよ。だから、御守り」
明るめのパープルとネイビーのレジメンタルタイ。衝動買いなど普段絶対にしないファウストが唯一、一目惚れしてその場で買ってしまったものだった。
「僕は商談に同席できないけど、一緒にいてあげる」
今日のネロは事実上会社の命運を背負っている。姿の見えない、けれど確かに重すぎる期待はネロにとっては不本意でしんどいだけのものかもしれないが、文句も愚痴も零しながらも積み上げられた努力はきっと報われてほしい。
心強いだろ?とネクタイを整え、ベストとジャケットを整え、最後に髪を整えてやれば、整えたばかりの格好が乱れるのも気にせずに抱き締められたので、負けじと力いっぱい抱き締め返してやった。
「こんなん借りたら無敵じゃん……」
「その調子でウン百億の契約書獲っておいで」
ほらそろそろ時間だよ、と急かされたネロは名残惜しいですという空気を隠すことなくファウストを離す。もう一度スーツを整えてやり、最後に一瞬だけ唇を押し付けた。
「……頑張るからもう一回」
「だめ。無事に帰ってきたら、もっとしてあげる」
普段は可愛いこのひとが、数時間後にはきっと、世界で一番かっこいいひとになる。
とくと御覧じろ、取引先の皆様方。
これが僕の自慢の恋人だよ。