下拵えは念入りにするもので料理をする時、概ねの目安というものは存在する。
それは分量であったり、生地段階の柔らかさであったり、焼き上がりの色合いであったり。
ネロは長年調理場に立ち続けた経験測から勘所を掴んでいるので殆ど気にしないが、他の魔法使いと共にキッチンに立つ時は分かりやすいものさしとしてそれらを提示する。
最近はネロが一人食事の下準備に取り掛かっていると、時折ファウストが顔を出すようになった。先日大量の芋の皮剥きを一人黙々と無心でこなしていた姿を見掛けてからというもの、「きみ一人に丸投げする方が本来おかしいだろう」と手伝ってくれることがある。もっとも、他の魔法使いに目撃されたくない気持ちは存在しているらしく、他者の気配を少しでも感じると来なかったり、立ち去ったりするので何だか新入りの野良猫のようだとネロは思っている。
ファウストも嵐の谷での暮らしではひと通りの調理は自分で行っていたものの、自分以外の口に入れるものを作るのは四百年ぶりだから、と基本的にネロの指示に従うのだが。
例えばこんなことがあった。
「ネロ、エバーミルクはどのくらい冷ませばいいの」
「んー、人肌くらいになるまでかな」
「人肌」
ネロの言葉を復唱したファウストはおもむろにかき混ぜていたヘラを置くと、きゅ、とネロの手を握ってきた。
「どしたの」
「? 人肌って言ったから」
「(……基準、俺?だから手握ってんの?)」
にぎにぎとネロの手を握り、まだ少し熱いな、もう少し冷まそう、と鍋を見つめている。
どうやら人肌の温度というものをネロの体温で確認しているらしい。ネロの手を握るファウストの手こそが人肌を持つものであるというのに、だ。
「(え~……かわいい……)」
天然というか、無垢というか。ファウストの真白な心の一面を見せられたような気持ちになったネロは、握られた手に意識が向いたあまりカスタードクリームを焦がしてしまった。
またある時には、こんなこともあった。
「ネロ、生地がまとまってきたけど、どのくらいまでこねるの」
「んー、耳たぶくらいの柔らかさがいいかな」
「耳たぶ」
ネロの言葉を復唱したファウストはおもむろに調理用の手袋を片方外すと、もに、とネロの耳に手を伸ばしてきた。
「なにー……こんなところで」
「? 耳たぶくらいの柔らかさって言ったから」
「(いやだから基準なんで俺? あんたにも耳付いてるだろ?)」
前髪をはらりと流し、露出したネロの耳たぶをふにふにと揉みながら、まだ硬いか、ともったりした生地をもう片手でつんつんとつついている。
どうやら生地の柔らかさをネロの耳で確認しているらしいが、それにしたってとネロは内心で盛大なため息をついた。料理だろうとなかろうと、他人の耳たぶをしれっと揉むやつがあるか?
「(無自覚なの? こっわ)」
これはもはや天然とか無垢というレベルではない。若干の恐れに似たざわめきを抱いたネロはオーブンの機嫌を読み間違い、いつかの日のようにパンを焦がしてしまった。
そして本日も、である。
「ネロ、ソースが煮詰まってきたのだけど」
「そうだな……もう少しだけ焦がしてやると蜂蜜色くらいになる。そうしたら頃合いかね」
「蜂蜜色」
やはりネロの言葉を復唱したファウストは、じ、とネロを見つめている。
物理的な感触で測定ができないものならば、と考えていたネロは己の浅はかさを知ることとなる。蜂蜜の瓶は少し探せば見つかるところにあったはずで、時折紅茶に使うファウストがそれを知らないはずはないのだけれど。
「ネロの目の色、と思ったが、全然違うな」
きみの目の方が、ずっと綺麗だ。
ふ、と顔を綻ばせたファウストは鍋をかき混ぜているとは思えない――愛を誓い合った夫婦が互いに向けていたような――甘やかな笑みをネロに向けたものだから、ネロは「何なんだよ!」と叫び出したくなった。
本当に何なのだろう。可愛いや照れくさいを通り越していっそ怒りの感情がふつふつと沸騰するように芽生えてくる。揶揄われているのか……いや、ファウストがネロの聖域である調理場で尊厳を傷つけるような行為をしないことは分かっている。分かっているのだが、ファウストの意図が分からない。あんたさぁ、と辛うじて喉から出た恨みがましい声は搾りかすのようにぼろぼろである。
「それ、わざとやってんの?」
「それって」
「何でもかんでも俺を基準にするの」
人肌とか、耳とか、目とか、その他もろもろ!
ファウストと並んでキッチンに立つたびにそわそわさせられてしまう。怖いようなむずがゆいような、それでいて、菓子の銀紙を開くような期待。調理に向けるべき意識の大半をファウストに持っていかれてしまって、ネロとしては正直たまったものではないのだ。
そんなネロの様子を見たファウストは、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。珍しく口角を引き上げて、数分前まで浮かべていた甘やかな表情を裏に隠して。