死がふたりを分かつまでほのかに赤みを残す肌に触れれば、汗ばんだ名残でしっとりと滑らかに吸い付く。一糸纏わぬ身体に遠慮の欠片もなくぺたぺたと触れるネロの手を視線で追いながら、ファウストはくすくすと笑っている。
「どうしたの、そんなに触って」
「いや……ファウストだな、と」
「僕じゃなかったら、きみはさっきまで誰を抱いていたの」
それはそうなんだけど。ネロが思っていることは別のところを漂っているらしく、暫く好きにさせることにしたファウストは片腕を伸ばしてネロの髪に指を通している。するりと流れる空色からはほのかに汗のにおいと、最近買い替えた揃いのシャンプーの香りがする。くせのつきやすいファウストはどんなシャンプーを使っても癖毛のままなのに、ネロは何を使ってもすとんと素直にまとまることが不思議で、違う人間なのだと実感させられる。
「……なんか、今ここでする話じゃないかもしれないけど」
戸惑うようにネロは口を開き、直接言葉にはせず、発言を続ける許しをファウストに乞う。
不快にさせるかもしれない。そんなネロの先出しの心遣いをファウストは正しく感じ取り、それを嬉しいと思うけれど、どう感じるかは聞いてから決めればよいことだ。自分に対してはどうか出し惜しみをしないでほしい。そうファウストは思っているから、その心をそのまま言葉にした。
「そうだとしても、きみが話そうと思ってくれたのなら、聞かせて」
許されたネロは解放されたように息をつくと、ほんの少し掠れた声でほつほつと言葉を紡いだ。夜の暗闇に消えてしまいそうなそれらを、ファウストの耳はひとつとして零すことなく掬い取る。
「……俺さ、恋人とかパートナーは作りたくなかった」
「どうして、と聞くことを許してくれる?」
「どうせ誓い合っても死ぬ時は皆一人なんだし、だったら最初から一人でいても変わらない。最初から一人の方が寂しくないだろ、って、思ってた」
「過去形ということは、今はそう思っていないということ?」
「うん」
ネロはファウストの胸元で手を止めると、その下にある心臓を確かめるようにゆるりと撫でた。ゆるやかに上下する胸と、穏やかに手のひらを押す鼓動。確かな命の息吹はネロの目の奥をじわりと熱くする。
「今は、あんたがいないと寂しい」
穏やかな鼓動を繰り返している命の要は、しかし止まってしまえばただの肉塊に過ぎない。今こうしてネロをやわらかく見つめる瞳も、重ねればどこまでも甘い唇も、優しく抱き締めてくれる腕も、何もかもが『ファウスト』からかけ離れて肉塊と化してしまう。
「あんたがいなくなる未来を考えると、今、ここで幕引きしたくなる」
死んでも一緒、だなんて、焼かれて骨になり果てた身で一体何が分かるのだろう。おとぎ話めいた不確かなものを信じきることができる強さを、ネロは持っていない。
「あんたといると、今死んじまいたいくらいに幸せ、って思うよ」
愛するひとと熱を分け合って、微睡むような愛情の残り香に身をとっぷりと浸しながら語らう夜。いつか訪れる絶対的な離別の足音におびえるくらいなら、今この瞬間を写真のように切り取って、その幸せの瞬間のまま終われてしまえたらどれだけ幸福なことだろう。
なあ、とネロはファウストの首にそっと手を這わせた。手のひらを広げれば、細く白い首は容易く掴めてしまった。
「ファウストは今、幸せ?」
く、と首を掴む手に力を入れる。
ファウストは顔色ひとつ変えずに眦を溶かして笑むと、己の首を掴むネロの手をそっと取り、指を絡めて身体ごと抱き寄せた。脚を絡め、腕を回し、隙間など許さないというように胸までぴたりと重ねる。
「幸せだよ。今死にたくないと思うくらいに」
互いの命の音が身体に響き合う。
あまりにも優しく響く音色に、ネロは一瞬だけ、死にたくないな、と思った。