Sister's upsetting『ほーら。おいでファウスト』
幼い頃からよく可愛がってくれた近所のお姉さんのことが、ずっとずっと好きだった。
学年としたら五つ。私が小学校に入学した時の六年生。
世間的には大きな差ではないかもしれないけれど、私にとってのすべてだった。
「へぇ、デザイナーになるの」
すごいじゃん、と頭を撫でてくる手つきは昔と変わらない。髪をかき混ぜるようにくしゃりと撫でられるのが好きで、逆上がりができたとか、テストで満点を取ったとか、事あるごとに報告していた思い出が記憶の宝箱から蘇る。ファウストは胸の内をくすぐられる喜びにありがとう、と笑った。
近所のお姉さんだったネロは、大人の女性になっていた。
高い位置で結ばれていたロングヘア―は肩までに切り揃えられ、後頭部で緩く結えられている。優しい蜂蜜色は涼やかに引かれたアイラインに縁取られ、かたちのよい唇には薄く紅が引かれている。すらりとした手は指先にネイルがひかり、艶やかなそれがよりネロの手を綺麗に見せていた。
「アクセサリーとか、服とか、自分でデザインしたくて」
「昔からセンス良かったもんねぇ、ファウスト」
「いつか独立して自分のブランド持ちたいんだ。ネロの店みたいに」
「そう?じゃ、ファウストのお客さん第一号はあたしが予約しておこうかな」
今夜はファウストの就職祝いにと、ネロが自身の店を貸切にしてくれている。
ネロの店にはいつも人が集まって、賑やかだ。料理が美味しいのは勿論のこと、ネロは美人だし、気立ても良く、愚痴や相談事にもよく耳を傾けてくれるから、みんなネロに会いたくてここに来る。
そんな彼女を独り占めしている優越感は心地よくファウストを満たす。
勉強や就活で忙しく、ここ暫くは連絡を取り合うことすらご無沙汰だった。久々に会えた嬉しさにはしゃぎすぎたファウストが前のめりになっては、ちゃんと座りなとネロがくすくす笑いながら窘める。
就職先に評価された卒業制作のモチーフは、近所の野良猫がモデルであること。
ネロを真似て料理を始めたけれど、なかなか美味しくできないこと。
ネロみたいにピアスを空けたいから、相談に乗ってほしかったこと。
ゆったりと相槌を打ち、じっと目を見て聞いてくれるネロに、ファウストはとっぷりと夢中になって話をした。口が渇けば心のままに杯を重ね、やがて元々アルコールに強いわけではないファウストはしっかりと酔いが回っていた。
ぽやんとしているファウストを見守るネロの眼差しは柔らかくとろけている。水で満たされたグラスをそっとファウストの手元に差し出す細やかな優しさのひとつさえ、ファウストの心をちくちくと甘やかに刺激する。
「そうだ。御祝い、何が欲しいか考えておいて」
思い出したようにネロが発したその言葉に、ファウストはぴくりと反応した。おいわい、と拙く繰り返したファウストにネロはにこりと笑いかける。
「可愛い妹分の夢の一歩目だもん。遠慮せず好きなもの言ってくれていいよ」
「……なんでもいいの」
「あたしが用意できるものならね」
お祝い。欲しいもの。私が、欲しいもの。
ふわふわと浮遊する意識に隠れていたファウストの欲が脈動する。
――欲しいひと。
「なら、」
ガタン。
倒れた椅子が二人きりの店内に鈍い音を響かせた。突然立ち上がった挙句、椅子まで倒したファウストにネロははつりと目を見開く。ネロの中のファウストはいつだって規則やマナーに厳しく、礼儀正しいお嬢様みたいな少女だったから。
「ファウスト?どうしたの、酔った?」
水飲みな、とファウストを心配して見上げてくる表情は妹を気遣う姉のそれだ。
きっちりと引かれたアイラインに縁取られた輝く蜂蜜色。どんな宝石よりも星よりも美しい、焦がれた二対のそれが今、手の届くところにある。
濡れたようにひかる唇がもう一度、ファウストの名前のかたちにうごめいて。
「え、」
我慢できなかった。
酔いの回った脳が理性を押し倒す。
アルコールの香りが重く漂う唇でかぶりつくようにキスをした。ちょっとだけ煙草の味がして、ネロがファウストの前では吸わないようにしていることを初めて知る。
置物にでもなってしまったように、ネロは硬直してぴくりとも動かない。
「ネロが欲しい」
抱え続けた好意はやがて純粋なばかりではないものに膨れ上がり、ファウストの中でついに爆発した。
「私、ネロのことが好き。大好き。ずっとずっと好きだった。もっとキスしたいし、それ以上のこともしたい」
妹がいるファウストにとってネロは姉のような存在でもあり、ネロもまたファウストを妹のように見ていたことは知っている。それでも好きで、酔いに任せて膨れ上がった恋心を剛速球に乗せてぶつけた。
ダメ元だった。ノーだったら酔っ払いの戯言として受け止めてもらえばいい。
そう思っていたのに。
「…………ッ、」
ファウストは意表を突かれ、へ、と間抜けな声を零してしまった。
ぶわん、と噴火でも起こしたようにネロが顔を一気に朱に染めた。控えめな照明で薄暗い店内でも分かるくらいに真っ赤で、ほんとに林檎みたい、と他人事のように観察する自分がいる。
「な、何で、そんな赤くなるの」
ネロは赤くなった顔を背け、背もたれがあるのにファウストから必死に距離を取ろうとしている。ファウストの方が急に冷静になってきてしまって、いつの間にか酔いはどこかに掻き消えてしまった。
「ね、ネロってば」
「や、ちょ、待って、まだ心の準備が」
「ま、まだってなに!?準備できたらいいの!?」
「ちが、そうじゃなくて、だって」
「だってなに!」
「いや、だから、ほんとに……タンマ……」
言葉がぶつ切れになるほどに狼狽えるネロを、ファウストは初めて見た。いつも凛として、トラブルに見舞われても夏風のようにさらりと対応してみせる姿しか知らない。慌てる姿なんか今日まで見たことなかったのに。
だって、と幼い口調でネロが繰り返す。きりりと勝ち気だった眉は困ったようにふにゃんと下がり、眦は羞恥のあまりか、ぐずぐずにふやけてしまっている。
「ずっとかわいくて仕方なかった妹分が、あ、あたしを好きとか?信じらんないよ、だって、こんなおばさんなのに、そんな、」
かわいそうなくらい真っ赤に染まった顔で、蜂蜜色の瞳がアルコールのせいではない熱で潤んでいる。口付けられた感触を確かめるように上唇に触れる人差し指の先で、ラベンダー色のネイルがきらりと光る。
「も、もしかして……ファースト、キス……?」
「…………」
無言で肯定したネロが睨むような視線を寄越す。
嘘でしょ、とファウストは絶叫した。酒も煙草の味も知る年上のこの人が、キスの味を知らなかったなんて!
すっかり覚醒してしまった頭は、ファウストに翻弄されるネロに翻弄されて大暴れしている。収拾がつかない感情達が交錯して、衝突して、やがて響き合いの中からひとつの感情が浮き上がる。
「……か、かわいい」
「え」
「可愛い……可愛い、ネロ」
うっとりと見つめてくるファウストから往生際悪く後退ろうとしたネロは、やはり背凭れに阻まれる。がたがたと鈍い音はもはや意味を成さず、ただ床に落ちるだけだ。
「ファ、ファウスト」
「そんな可愛い顔するなんて知らなかった。いつも凛としててかっこいいって思ってたのに」
「お、落ち着いて。水飲も?ほら、入れ直してあげるから」
「もう酔ってない。ねえ、もう一回キスしていい?いいよね?」
「ま、待って、まだ決心が」
「やだ」
間髪入れずに再びがぶりと唇を食む。嫌なら突き飛ばしてと願ってもいない祈りを捧げたけれど、震える手がファウストの腕を掴んだから、それが答えだろう。
もう、可愛い妹分なんて言わせない。