一段目の隠し事俺の店から徒歩七分の距離を歩き、地下鉄の駅へ。
この駅から数駅都心側に向かったところにファウストの勤務先があり、更に数駅進んだところにファウストの自宅がある。
つまり、俺の店兼自宅に来るには、わざわざファウストはこちら側に出てこないといけない。けれど勤務先へは俺の店からの方が近いし電車も混まないらしく、付き合い始めてからファウストが泊まりに来るようになるまでは、そう時間はかからなかった。
その、お泊りの合図に変化が生じている。
最初の頃は約束をした。何日の何時ころに行くよ、と。
そのうち約束をしない日にふらりと訪れては「今夜泊めて」とねだるようになり。
次第に、客のいなくなった閉店直前に訪れることがファウストからの『合図』になった。お客さんの顔をして、閉店時間間際に俺の店のドアベルを鳴らす。その頻度は、気のせいでなければ上がっている。
どうかしたか、何かあったかと聞いても「何もないよ」とつるりと返されることばかりだ。断りもなくファウストが泊まりにくるのは大抵が仕事で嫌なことがあった時で、不機嫌を隠せていない彼をやれやれと甘やかしてやることが常だった頃は、いつの間にかいくつかの季節を遡らなければならない過去になっていた。
どうしてだろう、と思う。
「……俺の家、そんなに居心地いい?」
答えはない。聡明な光を湛える紫の瞳は瞼の裏に秘めやかに隠され、今は夢の中を揺蕩う。皺の寄りがちな眉間をくにくにと押しても、ううんと唸ってそれっきり。何の危険もない揺り籠に包まるように、安心しきって身体を横たえる姿が答えだと確信できる心が欲しかった。
緩く抱きしめていた腕を解いて、俺はそっとベッドを抜け出す。
喉が渇いていたわけではないけれど何となく水を飲み、何となくトイレに行き、何となくリビングの戸締りを無意味に確認してみたり。
夜を持て余すようにぼんやりして、そうして習慣のように、リビングに佇むキャビネットの一段目。
鍵付きのそこに秘密が残っていることを確認する。
足音を立てないように寝室に戻ると、ファウストがもぞもぞと身動ぎをしている。一時的に覚醒したのか、紫の瞳をぽやんとジャムのようにとろけさせ、俺のいる方をぼんやりと見つめている。
「……ねないの」
「ちょっと喉乾いて、水飲んでただけだよ」
「そう」
ファウストの腰あたりでくしゃくしゃになっているタオルケットを引き上げ、身体を横に滑り込ませた。随分前にコスパ重視で買ったシングルベッドが定員オーバーです、とキシリと非難の音をたてる。そろそろ買い替えてもいいかもしれない。一緒に寝るベッドくらいなら、もう結構古いからと言い訳ができてしまう自分が憎らしい。
「……からだ、ひえてる」
もっとこっちおいで。まるで自分のベッドのように俺を招き入れるファウストにぎゅうぎゅうと抱き締められる。離さないよ、とでも言うように強く絡みつく腕と脚に、深く抱えた心までツンと痛くなってしまう。
どうしても、始まりがあると終わりを考える。一緒にいるようになったら、いつか離別がやってくる。一緒に暮らすことになったら、いつか、一緒に暮らせなくなる。俺が出ていくのか、ファウストが出ていくのか。どちらもきっと、俺の心に大穴を空けて、もう二度と人のかたちを取り戻せなくなりそうで。それがずっと怖くて。
恐怖という爆弾を抱えて生きるくらいなら、さみしさを抱える方がずっとマシだ。
「きみのさみしさは、どこにあるのかな」
俺の心を見透かしたようなファウストの呟きが耳にそっと張り付く。
子守唄のように優しい声はやがて安らかな寝息へと変わり、夜の空気と混じり合って静かな寝室に漂いだす。
俺のさみしさ。
それはずっと、黒猫のキーホルダーがついた銀色の鍵のかたちをして、キャビネットの一段目に眠っている。
ずっと渡せずにいて、今日も、きっと明日も渡せない。
いつか渡そう。そのいつかは、まだ手の届かない遥か先にある。