グラジオラスの逢瀬 第二話見知らぬ土地に来て
迷子の子供の様な気持ちの僕を
時折見に来てくれる
そんな君に僕は心底ホッとしているんだ
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半間が来た日から二週間が経ち、半間が軽く蹴ってへこんだ扉も「間違えて荷物をぶつけました」と言い訳ができる程度のへこみという事もあって、大家には「この建物自体が古いものね」と怒られる事もなく、修繕費も軽くで済んだ。
あれから武道はスイカをお裾分けしてくれた小野田商店の奥さんにお礼と感想を伝えに行き、そこから商店の店長でもある旦那さんとも仲良くなり、お互いを「小野田のお母さん」「武道くん」と呼び合う仲になり、お裾分けや買い物をし合うという関係が続いた。
「あら、武道くん!こんにちは」
「小野田のお母さんこんにちは」
「今日も暑いわねぇ」と店先で打ち水をする女性に武道は挨拶を返す。大寿と再会し、二ヶ月、また別れて二週間。季節は九月になった。九月といえば秋、なのだが残暑が厳しく真夏日と言ってもいい。
打ち水をし終わったのか女性は「武道くん、どこかにお出かけ?」と聞かれ、「役所に行きがてら散歩に行く予定です」と伝える。「まだ暑いから、ちゃんと休憩しながら行くのよ」と言われ武道は頷き頭を下げ、商店の前を通り過ぎていった。
まだまだ日差しが強い、麦わら帽子を被ってきて良かったと武道は汗を拭きながら思う。最初は「大の大人が麦わら帽子って恥ずかしいな」と思っていたが物は慣れ。武道はすっかり大きめのドリンクボトルと麦わら帽子が手放せなくなっていた。
「あっちー…」
蝉が鳴く声も段々と少なくなり、木から落ちた蝉の前を通るとジジジッ!!と俗に言うセミファイナルという時期が増えてきたように思う。セミファイナルに出くわしながらも武道は役所の前に着く。自動ドアではなく手押しの扉なのでドアノブを掴むと、ジワリと熱さが掌に伝わり、「あっっっつい!」と思わず武道は声を出してしまった。
カランカランと人が入ってきた事を知らせる音に少人数ではあるが役所の人間は出入り口に立っている武道を一斉に見たあと、すぐ自分の業務へと戻るべくパソコンに目を向けた。
武道は総合窓口課に行くと、武道に気づいた職員が窓口へと近づいてきて「どうしましたか?」と聞いてきた。武道は「相談したい事があって…」と話出した。
要は職を探したいがハローワークのような施設がない、どこか働き口はないか、という話だ。職員は何度も頷き、時折調べながら話を聞いてくれたので武道は安心して話すことができた。
「なるほど…できればアルバイト、ということでよろしいですか?」
「はい…」
「少々お待ちください」
そう言うと職員は奥の机に座っていた、恐らく上司と思われる男性に話しかけに行ってしまった。武道は楽しみと少しの不安、緊張を持って引っ越しを繰り返している。最初は東卍の皆から逃げるためだけの引っ越しだったが、それを繰り返していくと新しい地で出会う人たちの温かさ、起こるハプニングやその土地特有の文化などが最近は楽しめるようになってきた。
武道も出来ることが増えたり、自分の物事に対する考え方の変化を感じる。新しい場所での人との繋がりを構築するにはまず職場からだ。そう思って役所に来たは良いものの中々良い返事はないようで、武道は溜め息を吐きそうになったので慌てて持参していたドリンクボトルに入れていた麦茶を出そうになった溜め息と一緒に飲んだ。
麦茶は一息つくには何だかぬるい。武道は無性にキンキンに冷えたビールが飲みたくなった。これはビール!と自分に言い聞かせて麦茶を飲んでいるとカランカランと自分が入ってきたようにまた、誰か役所に来た音がした。
そして職員が武道の元に「お待たせしました」と戻ってきたがその表情を見るに「今は働き手を求めてる人はいない」と言いたげで武道は「あぁ…だめか」と少し肩を落とした。
「すいません、お調べした所、今のところは…」
「そうですか…わかりました」
すると「ねぇねぇ、お兄さん働き口を探しているの?」と背後から声がした。少し驚き「ひゃっ!」と口に出して後ろを向くと赤いチェックのエプロンをつけた老齢の女性が立っていた。
「あらあら、驚かせてごめんなさいね」
「あ、いえ!俺の方こそ…」
「あ、椿さん!」
武道を担当していた職員も知り合いなのか笑顔で挨拶をする。椿と呼ばれた老齢の女性は「貴方、お名前は?」と武道に聞いてきた。その物腰柔らかな態度と声に武道は初対面と言うのも忘れるぐらいスッと緊張が抜けていくのを感じた。
「あ…花垣武道、です」
「そう、花垣くん。私は椿って言います、どうぞよろしくね」
ニコリと微笑むその顔を見て武道はどこか懐かしさを感じた。
「花垣さん、椿さんは喫茶店を営んでいらっしゃるんですよ」
「そうなんですね」
「そうなの、最近は歳だから閉めようと思っていたのだけど常連さんの声もあってねぇ…」
それでも年齢と体力的にしんどい事もあるのよ、と困ったように言う椿は目じりに刻まれたその柔らかい皺と眼差しで武道をそっと見つめ、「貴方さえ良ければ一緒に働いてくれないかしら?」と言った。
「え!」
「あら、それは素敵ですね!花垣さんも探していましたし、良いお話ですね」
まさかのグッドタイミングに武道は驚きを隠せないが、もちろん返事は決まっていた。
「もちろん!」
「あら嬉しい」
椿はニコニコとしながら武道に「いつ来れる?」と聞いたので、武道は善は急げ、思い立ったが吉日!そう思い「今日にでも!」と元気よく応えた。
役所を出た武道は椿に案内されるままに、椿の喫茶店を目指す。その間、椿はたくさんの事を話してくれた。元々は椿も外から来て二十代から始めた店は四十年近くなること、常連さんは漁師さんから地元の主婦たちまで様々で、人気メニューはナポリタンとオムライス、そしてシチュー。冬になるとクリスマス会をしたりいつも笑い声が絶えない自慢の店だと言うこと。
椿は「ここよ」と一軒の小さな建物で立ち止まった。古いがアンティーク調のドアノブには「定休日」の札が下げられ、足元には「フランネル」と書かれた看板、店先にはパンジーの小さな花壇もあって、そして隣には良い香りのする小さなオレンジの花が咲いている木が植えられていた。
「わ、良い香り」
「気づいた?金木犀っていうのよ」
ガチャリと店の鍵を開けた椿はレジ横にある店全体の電気のスイッチをつけ、その瞬間薄暗っかった店内がパッと明るくなる。明るいと言ってもほんの少し、という感じがした。椿は今の時間帯は陽の光がメインなのだと言う。
「そうそう、明日、一応履歴書持ってきてね」
「あ、はい、分かりました」
「ふふふ、若い人と働くなんて初めてだわ。鈍臭いお婆ちゃんですけど宜しくね」
「いえ!そんな!俺もよく皆にそう言われてきましたから」
「皆ってお友達?花垣くんのお友達がこの港町に遊びにきてくれたら、きっと楽しいわね」
椿は楽しげに笑うが武道の心は少し締め付けられるようだった。しかし椿の言葉に水を差すわけにもいかず、「そうですね」と武道は返した。
「ここに備品があって、ここには食材があるの」と何処に何があるのか、最初は接客から始めること、人があまりいない昼過ぎの時間帯は洗い物やテーブルクロスの洗濯をする事、店を閉めてから明日の仕込みやトイレ掃除を済ませて解散、などを椿に教わっていると時間は夕方の五時になっていた。
「あらあら、夕飯も近いわね…そうだ、簡単なナポリタンで良ければいかが?」
と、武道に声をかける椿に武道は若干申し訳なくて「大丈夫です」と言ったがその後すぐにお腹が盛大に鳴り顔を赤くして俯いた。椿は武道の腹の虫の音を聞き楽しげに笑うと「じゃあ待っていてね、店内を見て回っても良いし座ってても良いわよ」そう言って椿は厨房の方へと移動してしまった。
椿の言葉に甘えて武道は店内をグルリと見渡すことにした。アンティークな小物や、可愛い子猫の絵画、ステンドグラスのランプ。どれも綺麗に整えられていて、外見の古さを感じさせないほど、手入れが行き届いた店内に武道は思わず「すごい」と呟く。
武道は店内を見終わり、厨房近くの椅子へと座る。するとウィンナーやピーマンを炒めているのかジュワ〜という音や微かにケチャップのような香りが鼻腔をくすぐる。
こんな風に誰かが作ったご飯を食べるだなんていつぶりだろう。今までも貰った物を食べることはあっても基本、外食はせず家で一人で食べていた武道は、「誰かが自分の為に作っている」それだけで何だか涙が出そうになり、慌てて手の甲で涙を拭う。
「はい、お待ちどおさま、有り合わせのものでごめんなさいね」
トレイに乗せられてきたナポリタンの隣にはメロンソーダが乗っていて、武道は目を輝かせた。それを見た椿も嬉しそうに笑いながら、武道の向かいの席に着いた。
「お腹空いたでしょう、召し上がれ」
「ありがとうございます、いただきます!」
手を合わせた後にトレイに置かれていたフォークを手に取り、スパゲッティをクルクルと巻きつけ小さく切ったウィンナーとマッシュルーム、輪切りにしたピーマンと一緒に口にする。
バターの風味が鼻を抜けると口の中にはトマトの甘みと酸味、そしてシャキシャキと食感が残っているピーマン、プリプリとしているウィンナー、そして弾力のあるマッシュルームに舌鼓を打つ。
「んまっ!」
思わず目を見開いて笑顔になる武道に椿はニコニコとしていて「粉チーズをかけても美味しいわよ」と粉チーズを勧められ少しかける。すると粉チーズもクセのない良いもので何度も「美味しいです」と口に出していた。
「嬉しいわ、たくさん食べてね」
ナポリタンを食べ終わり、メロンソーダを飲むとシュワシュワと強すぎない炭酸が口の中で弾けるようで、何故メロンソーダというものは緑色なのにこうも美味しく感じるのか…大人になっても子供心を擽ぐる様な飲み物を堪能すると炭酸というのもあってお腹が膨れ、大満足の食事を終えた。
「ご馳走様でした!」
「はい、お粗末様でした」
お皿を下げて洗い場へ行こうとした椿に武道は、「あ、俺洗いますよ」と言って一緒に厨房へと駆けて行く。厨房は広くはないが狭くもない、コンロも蛇口も全てが錆一つなくキラキラとしていた。
「綺麗な流しですね」
「趣味が料理と音楽と掃除しかなくてね、ちゃんと綺麗にしないと帰れないのよ」
「あ、花垣くんにそれを強要することはないから大丈夫よ」と少し照れながら武道にスポンジと洗剤を渡す。油ものにはお湯が一番落ちやすいと思っているので、武道はお湯を蛇口を捻り出してお皿を濡らし、余計な油を落としてからスポンジに洗剤をつけて洗い出した。
「花垣くん、慣れてるのね」
「ここ数年ずっと一人で自炊してたので自分流なんですけど…」
「いえ、大したものよ、頑張ってるのね」
料理も掃除も洗濯も一人で本格的にやり始めてから褒められたことはなく、寧ろ大人になってからは褒められるどころか怒られえることの方が多く「出来で当たり前」が普通だった。褒められ慣れていない武道は椿のその言葉に目を潤ませる。するとそれに気付いたのか「あらあら、どうしたの?」と蛇口のお湯を止め、武道にハンカチをそっと差し出す。
「す、すいません!」
「良いのよ」
武道は、ハンカチを受け取り涙を軽く拭くと、自分が今まで溜めてきた水を少しずつ放出するようにポツリポツリと洗い物をしながら話し始めた。「友達から逃げていることとその理由」「見付かったら此処も出ないと行けないこと」「そう転々としてきたこと」
それらを話し終わる頃には食器も洗い終え、武道はキュッと蛇口を閉める。武道は「ハンカチ、洗って返します」と椿のハンカチをポケットに入れた。
「ここを出て行くまではお世話になっても良いですか?」
「えぇ、もちろんよ」
「長く一緒に働けたらそれが一番なのだけどね」と椿は武道の頭を少し背伸びをして撫でた。
「ご馳走様でした、明日からよろしくお願いします」
「こちらこそ宜しくね」
時間は十九時、残暑が続くと言えど日が暮れるのは早くなった気がする。店を出て空を見上げると都会では見れない夜空の星がキラキラと輝いていて、武道は「星がすごく綺麗」と呟いた。
「星、綺麗よね」
そろそろ冬になるから空気が澄んで更に綺麗なの、と喫茶店の戸締りを済ませた椿は「暗いから気をつけて帰るのよ」と武道に手を振って喫茶店の二階の居住スペースへと 行ってしまった。
「少し肌寒いな」
昼は暑く、夜は少し肌寒い。武道は「そろそろ薄手でも上着が必要かな」と九井から貰ったものではなく、自分の通帳を見て「またお金飛ぶなぁ…」と呟いた。
住んでいるアパートの前に着き顔を上げると、自分の部屋の明かりがついていて武道は「え!?」と驚き本当に自分の部屋なのか何度も見返すが、二階には自分しか住んでいないことを思い出し、恐る恐る二階へと続く階段を登ると玄関の隙間から光が漏れ出していて、武道は少しドキドキしながら自分の家のドアをそうっと開けた。
「よォ、たけみっち」
「半間君かぁ…!」
そこには勝手に冷蔵庫から冷えた麦茶が入ったボトルを出して直飲みしながら座っている半間がいた。
武道は少し安心した様な、しかしがっかりした様に肩を落とした。「なんだァ?」と半間は首を傾げて武道をキョトンと見つめた。
「いや、泥棒かと…って半間君どこから入ってきたの!?」
「窓」
「窓!?」
やっていることは泥棒と変わりなかった…と武道は溜め息をつく。半間はそんな武道を見てケラケラと笑いながら「窓の戸締りも忘れんなよォ」と上から目線なのか煽るように言う。
「もー…半間君がいつきても良いようにどこかしら開けないとじゃん」
「鍵くれれば良くね?」
「あ、そっか」
はい、と武道は半間にカバンの中にあったキーケースから合鍵を出して半間へと渡す。半間は驚いたような表情をした後、「お前、マジか…」と若干呆れ顔になり自分のバイクの鍵と一緒にくっ付けた。
「文句言うなら返してくださいよ」
「自分から渡したものを返せだなんて随分偉くなったじゃん」
ばはっと半間は笑い、武道の頭をガシガシと撫でる。
「というか何で半間君、ここに来たの?」
「お前、鳥頭か?」
「見守りだよ、見守り」そう言いながら半間は武道の頭から手をどかして「つーか腹減った」と武道に何か作るよう強請るが武道は既に食べてきたので「今日は作ってないんすよ」と答えた。
「外で食べに行ってたんで」
「へー」
「冷蔵庫の中に今日の朝食で食べたスイカが半分残ってますから食べても良いですよー」
「スイカかよ」
「甘くて美味しいのでおススメです」
俺、風呂行ってきます、とシャワーを浴びに行く武道の背中を見送りながら半間は「フーン」と呟き、冷蔵庫の中を漁り始めた。
「ふー、スッキリした」
「おー、たけみっち、スイカのおかわりねぇの?」
「何だかんだ言って食ってるじゃないっすか」
「うめーわコレ」
「良かったですね」
半分と言ってもそれなりに量があったのもあって食べ切った半間に少し驚きを隠せない武道は冷蔵庫の中から牛乳を取り出し、コップに入れて飲み出した。
「たけみっち、俺にもくれ」
「半間君、麦茶めっちゃ飲んだんじゃないですか!」
お腹壊しますよ、と武道が笑いながら言うと、その笑顔を見た半間は少しふっと笑い、「修二」と呟いた。
「へ?」
「修二って呼べ」
「え…何…修二、君?って呼べばいいの?」
「おう」
突然どうした?と武道は思いつつも逆らっても良いことは無い。武道は修二、修二、と何度か呟きながら半間に牛乳が入ったコップを渡した。
「はい、牛乳」
「おー」
「泊まってくの?」
「いや、もう行く。でも布団用意しておけよ」
「えー、やだな」
「拒否権ねぇっての」
じゃあな、と言いながら半間は武道の頭を再びガシガシと撫でながら玄関から出ていってしまった。
「もー、勝手だなぁ」
武道は九井から貰った通帳から半間の布団代を出すことにして、その通帳を「半間貯金」と呼ぶことにした。