星屑荘:導入『星躔の干渉』――――――
「気持ちの悪い空だな…」
バルコニーで煙草をふかす荒城はそう呟いた。
雲ひとつない夜の空。そこには雲だけではなく、月も星も見当たらない。夜が更けるに連れてビルの光が一つ一つ消えていく。その度、漆黒に塗りつぶされていくキャンパスのように風景は闇に染まりつつあった。
何となしだった。何となしに自室からラウンジルームに足を運び、そこのバルコニーで煙草を吹かしただけのはずだった。だというのに、まるで今日の夜は“これから不吉なことが起きるぞ。”と警告しているかのようだ。
「はぁ……面倒ごとは御免こうむるぜ」
携帯灰皿に煙草を押し付け、室内に入ろうと踵を返す。
「ん……?」
その時に初めて荒城は空を見上げる少女の存在に気がついた。この神奈川分家の吉備当主を任されている吉備回子である。
室内から空を見上げる回子のそばには、いつものいけ好かない悪魔は見当たらない。これもいつもとは違うことであり、荒城はさらに気持ち悪さに眉を顰めた。
「気味が悪い夜だ、今日は外に出るなよ」
室内に入る際にそう声をかけると、回子はこくりと頷いた。
彼女はいまだに空を眺め続けている。
一服も終えたので自身の部屋に戻ることも考えたが、何となく、荒城はラウンジから離れる気にはなれなかった。
シェアハウス共有の冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出して、近くの椅子に腰掛ける。
ふと回子を見れば、まだ飽きもせずに夜空を眺めていた。
「あいつはどうした?」
回子の悪魔、カイコのことである。
誰とは言わなかったものの回子にはそれが伝わったようで、「僕の部屋にいる」とこちらを見向きもしないで簡素にそう答えた。
「そうか」と答えると回子からは返事がなかった。
沈黙が続く中で、荒城はまた一口とお茶を飲み進める。
お茶が半分以上無くなったところで沈黙を破ったのは回子だった。
彼女は徐に「カイコが…」と話を始める。
「カイコが、怒っているんだ」
「……喧嘩でもしたのか?」
想像はできないが。と心の中で付け加える。
回子は首を横に振って、荒城を振り返る。
「いや、僕が原因じゃないらしい」
そりゃ、そうだろう。と荒城は思わず真顔になった。
カイコは言葉にはしないものの、この少女のことを溺愛しているのは側から見ても明らかだ。そうでなければ、あの傲慢で他人の事など一切意に介さない悪魔が、この少女の為だけに従順に身の回りの世話等をする訳がないのだ。
回子の言葉以外は聞こえないと俺たちの声を徹底的に無視する姿には未だに腹が立つし、思い出しただけで腹が立つ。回子以外を虫呼ばわりする姿も腹が立つ。
だが、それだけ回子を溺愛しているという事であり、現にあの悪魔は回子に向けて怒りを露わにした事は一度もない。
「キシュクって神が原因らしい。カイコに悪さをしにくるんだって」
ガラス壁を背にして、回子は寄りかかりそう言った。
いつものように無表情の顔からは感情が読み取る事が出来ない。カイコに厄介ごとが起こるならば自身にも何かあるのではと不安がっているのかと思ってみたが、そういうわけでは無いのだろうか。いや、何だって?神?今こいつ神って言ったか?
「まて、なんで神がここに来るんだ。悪さって何だ?」
「理由は分からないけど、カイコの物を盗みに来るらしい」
「……あのジャイアニズムの塊の物を奪いにくるってのか。そりゃ、機嫌も悪くなるな」
また、くそ面倒な。と思いつつも一呼吸置いて話を続ける。
「それで、あいつは今不貞腐れてんのか」
回子は再度こくりと頷いた。
ガキか、あいつは。
「そのキシュクって神のこと、あいつは何て言ってた?」
「光降らす事しか能がない低脳で低級の神って」
は…?と思わず声が漏れる。
だが何となく荒城は想像ができる気もした。
あの悪魔がいつも人を見下すときにする片眉を上げた薄笑いの表情。低い声色での罵倒する言葉。
確かに、言いそうな言葉だ。
だがそうじゃない。
「俺が聞きたかったのはどんな神かということなんだが……」
「たぶん、カイコがいいたいのは全知全能の神よりもキシュクは位が低いってことだと思う。光降らすってのはよく分からないけれど、多分、……星のことかな」
「……よくわかるな……」
いや、本当に。俺からすれば、カイコの言葉はただ悪態を吐いているようにしか聞こえない。
「契約で繋がってるから」
「契約だからって相手の考えもわかるもんなのか?」
「カイコが僕の感情全て読み取れる事は話したっけ?」
荒城は「あぁ」と頷く。
回子とカイコは契約で繋がっている。故にカイコは回子の感情や記憶等、ほとんどの事を理解できるという。
「あいつはお前の感情を全て読み取り、それを主食にしてるんだろ?」
そして、もう一つ。悪魔カイコは人間のような食事はしない。全く食事をしないわけではなく、口から食べ物を摂取しないと言う事だ。
監視課に配属され回子の担当になった時、回子から教えられた事だがカイコの主食は生物の感情だそうだ。特に苛立ちや怒り、苦痛は好物だという。
他人の感情を読み取れるあいつは、日々他者の感情を吸収しており、回子の感情も吸収して食事している。
回子が怒りを見せるたびに喜ぶのはその所為である。
「カイコが読み取れるように僕もカイコのことを読み取れるんだ。もちろん、カイコのように全てではなくて、ほんの少しだけれど」
「そりゃ、すごいな。羨ましいとは思わんが」
回子は苦笑する。
その瞬間、回子の部屋がある方から大きな音がする。恐らく、いや考えなくてもここには俺と天海、回子、そしてあの悪魔しかいないのだ。どう考えてもあの悪魔の仕業でしかない。
「今のは俺も分かった」
「うん、とても苛立ってる。キシュクが近づいて来ているみたいだ」
「それにしても、以外だな。物に執着しなそうな奴なのに、案外大事にしてる物もあるんだな」
「そう?カイコは元から物を大事に扱う奴だ。僕があげた飾りもずっと付けてくれてるし」
「ハ、それ本気で言ってんのか?」
回子の言葉に荒城は思わず鼻で笑ってそう返した。
「監視課に配属されてからお前らをみて来たが、俺が見てきた中であの悪魔が物を大事にしてた所なんて見たことないぞ。お前が言うその飾りも、お前が大事にしてる物だからじゃないのか?」
確か、カイコの付けているあの飾りは回子の思入れ深いものだったはずだ。ここの元住人である雨雀によって殺された友達の物だったか。
「そうじゃなければ、あいつはとっくに捨ててると思うぜ。お前はカイコが大事にしてる“もの”、だか、……」
そういうことか。と荒城は呟いた。
……忘れていた。この二人の一風変わった主従関係を。
そうだ、この主従関係の主人は回子ではない。回子をどろどろに甘やかしているのも、回子に危険な任務を良しとさせているのも、全てあの悪魔の判断だ。カイコと契約してから回子の魂、血肉、全てはカイコの物となっているのだから。
つまり……回子は、あの悪魔の“物”なのだ。
その瞬間、荒城は回子の背後に映る景色に一筋の光を見た。それは流星だった。
「……お前だ……」
「え?」
「盗まれるのは、お前だ。回子」
荒木がそう呟いた時、漆黒に染まりつつあった夜景が輝き始める。
思わず息を呑み、椅子から勢いよく立ち上がる。
星の神がやってくると回子はそう言っていた。しかも、その神の狙いは回子であるのだ。
一筋。また一筋と幾つもの光が空から降り注ぎ、夜空に光の雨が降るかのように流星群が煌々と瞬く。
「回子!!窓から離れろ!!」
荒城がそう声を張り上げると同時に、回子の身体は後ろへ倒れていく。まるでそれはスローモーションのように感じられた。
“ミつけたよね、見つけちゃったね”
今まで其処にあったはずのガラスの壁は無くなり、バルコニーであるはずの場所は星の海と化していた。
後ろへと傾くにつれて、瞠目する回子は腕をまっすぐ伸ばした。その身体は星屑のように消えていく。
荒城は咄嗟に回子に手を伸ばす。指先が触れ合ったその時だった。
“בַעַל זְבוּלが居たよ、これがバアルゼブルの物だね”
“持って行っちゃおうね、タのしくなるね”
幼い声が楽しそうに笑った瞬間、先程までの光景が嘘のように一瞬にして全てが見慣れた景色に戻る。荒城が伸ばした腕は空をきるだけに終わったのだった。
流星も星の海も全てが消え、バルコニーもガラスも元通りの姿となっていた。何もなかったはずの夜空には月と幾つかの雲が見えいつもの夜空と言える景色となっていた。
ただ一つ、回子の存在だけが此処から消えていたのだった。
うるさく鳴る心臓と冷や汗。荒城は顔を歪ませ「……は……?」と息を吐いた。
脳内に直接響いたあの幼い声。あの声色の持ち主がキシュクという神なのだろう。
だがそれ以外は何も分からない。回子がどこに連れ去られ、これから何が起こるのかも。
カイコに問いただそうと扉へ身体を向けると、ドア枠に寄りかかるように立っているカイコがいた。
そうか、と荒城は一人納得したのだった。回子が手を伸ばした先にあったのは、荒木ではなくカイコであったのだと。
「お前、何してたんだ」
怒り混じの震えた声でそう問いかけるも、カイコは何も聞こえなかったかのように踵を返す。
「おい、聞いてんだろ!何で助けなかったんだよ!!」
こいつが人の言葉に返事をしないのはいつもの事だ。だが、今はそんな事を言ってる場合ではないのだ。己が大事にしていたものが助けを求めたのに、こいつは見て見ぬふりをしたのだ。
荒城はカイコの腕を掴み、振り向かせる。それに対して、カイコは眉間に皺を寄せて鋭く冷めた目で見下ろした。
「……危宿はこの世の理の神だ。だが、連れ去る力にはこの世とは違う理が幾つも存在した。……この世の理が産み落とした俺には、如何にも出来ない事だ」
「だからって、何もしなかったのかよ」
カイコは片眉をあげ「なら聞くが。お前が伸ばしたその手で掴めた物はあったのか」と嘲笑する。
「羸弱なお前が奮起したところで何の役にもならない。星躔が干渉しない限り、俺達に出来ることは何も無い。時を待つ、それだけだ」
「これが返答だ。満足しただろう」と荒城の手を振り払うと、カイコは闇に姿を消した。
ーー
次の日、二皇の一人である式鬼アヤメから吉備家、そして政府全体に緘口令が命じられた。
これにより式鬼アヤメが今回の騒動に関与している事は、明らかであることが証明された。そして、監視課は勿論の事、荒城も天海も同様に吉備回子の捜索、一連の詮索を中断する事を余儀なくされた。
あれからカイコは回子の部屋から出て来ていない。
回子の部屋にまだ居るのか、それとも地獄へ戻ったのか。それを知る者は誰も居ないのだった。