精瓶の蒼砂-ミハイル1――ジジジジ……。
聞き馴染みのない虫の音が耳を煩わす。目を閉じているにもかかわらず、瞼の先の明るさがわかるほどの暑い日差しに眉を顰めた。
「……ん……っ……」
びっしょりと全身が汗を滲ませ、服も髪も張り付いて気持ちが悪い。
土臭く、古びた風が鼻を掠めて、エルフの男――ミハイルは目を覚ます。
美しいほどの雲ひとつもない青空。
太陽が燦々と降り注ぎ、その眩しさに目を小刻みに瞬かせる。それを数回繰り返せば、目は次第にその強い光にも慣れていった。
ミハイルが体を起こして、辺りを見渡すとそこは見たことのない廃鉱山だった。
土と金属の匂い、耳障りな虫の音――どれも馴染みがなく、胸の奥に妙なざわつきが残る。
カラン、カランと石と金がぶつかる音が響く。
だが、舗装されていない獣道が続くこの山中に人の気配は感じられない。
――ふふふ……。
どこか遠くで幼子の笑い声が聞こえた。
「ここは……?」
ミハイルは風に乗ってきたその笑い声を頼りに歩みを進める。
そして、たどり着いたのはアステル・カリエイスとは別の坑内採掘場。
洞窟と呼ぶには舗装されすぎている。木が壁を沿うように支え、天井からは古めかしいランタンが吊り下がっていた。ランタンに火魔法であかりを灯しながら奥へと進んでいく。
その時、自身が歩いてきた入口の方から砂利を踏みしめるような音が聞こえる。
「誰かいるのか?」
そう声をかける。
だが、返答は聞こえない。
ミハイルは淡い光にのせて杖を空間へと取り出すと、握りしめる。魔法による障壁のオーラがミハイルを包み込んだところで、ミハイルはまた歩き出した。
しばらく道なりに歩いていくと、ミハイルは息を呑んだ。
何故なら、目の前には水の壁があったからだ。
水の中には小さな光が幾つも浮遊していた。その光の背には透明色な羽。間違いなく、それは精霊だった。
――カリカリ……
岩を爪で引っ掻くような音がして、そちらを見れば岩肌は少しずつ崩れていき、やがて綺麗なラズライト鉱石が姿を覗かせた。
「ラズライト…。あの洞窟にあったものと同じだ……」
ミハイルがそう呟いた時、そのラズライト鉱石は震え始める。そして、次第にどろりと溶けて形を変えていく。岩の隙間から這い出るようにとても小さな白い手が伸びていく。ラズライト鉱石は、精霊へと姿を変えた。
瞳のない青一色の目は、ニィ――とミハイルを見つめていた。
ミハイルは、息を呑んだ。あれは、生きた精霊の姿ではなかった。
精霊の残渣が生み出した、全く別のナニカ。
――だめだっ、此処にいては……!
ミハイルが踵を返そうとした瞬間、水の壁がぶくぶくと泡を立てていく。そして、轟音と共に壁を失ったように流れ始めた。
ミハイルは走り出した。
足がもつれるも構わずに、地面を蹴って駆ける。
その時、誰かがミハイルの手を掴んだ。
目を見開いたミハイルは、何かを言う間もなく引き寄せられる。
目線を上げれば黒髪を三つ編みした眼鏡をかけた少女がそこにいた。
少女はミハイルを勢いのまま引っ張ると地面に転がし、そして、ゆっくりと手に持っていた刀を前に掲げる。
柄と鞘を持ち、引き抜くと黒い刀身が姿を現した。
少女は何かを喋る。だが、ミハイルにはその言葉は聞き取れなかった。聞いたことのない言語で何かを喋ると、水に向けて刀を振るう。
その瞬間、水の中を漂っていた精霊もろとも水を真っ二つに切り裂いた。
少女は楽しそうに微笑むと、起き上がりかけていたミハイルの手を引き出口まで走り始めりはじめる。
「ま、待ってくれ!何をしてるんだ?!」
ミハイルが息を切らしながらそう問うも、少女は振り返らない。
状況が見えない。理解も追いつかない。ただ……置いていかれる不安だけが募っていく。
だが、その代わりのように後ろの精霊達は悲鳴に近い咆哮を上げる。
甲高い金切り声が洞窟中を木霊する。振り返れば精霊達は怒り狂ったように追いかけてきていた。
水があと少しまで迫った時、二人は洞窟から飛び出た。洞窟の外には黒髪の女性がいた。
大人しそうな人だと思った。
だが、その女性は水色の瞳を煌めかせる。
その瞬間、洞窟内の水が沸騰しているかのように泡立っていく。
そして、その泡は次第に飛沫へと変わり、弾け出す。
そう、まさにこれは水蒸気爆発だった。
――弾け飛ぶ波。
――轟音。そして崩壊。
洞窟は瞬く間に、音を立てて崩れ落ちていった。