熱帯魚の見る夢運ばれてきた瞬間から、ただちにぬるくなるビールの小瓶を、大して急がずちびちびと減らしている。●△%は地面を這う不快害虫を、気まぐれを起こしたタイタンのように足を上げて通してやって、下卑た笑みを浮かべた。その表情は不思議とどこか可愛らしい。
「そりゃ、マッサージって言ったら、そういうことよ」
●△%は照れ隠しかのように瓶をあおり、次に言い訳のようにこちらに水を向けた。
「本田さんも男の子なんだから分かるでしょ?」
「まあ」
虚勢だった。異常に女性を好み、異常に性的欲求が強いよう振る舞うことが、男同士の仲間の証になるシーンはどの国でも多い。菊はそのたび無理をしている。それが苦痛だと誰かに告白したことは、まだない。
「奢るからさ、行こう」
「明日も早いので」
「だめだよ、だめだめ。手厚く接待するよう俺も上から言われてんだから」
お勘定。慣れた手付きで店員を呼び寄せ、手早く二人分の飲食代を支払うと、●△%は強引に菊の肩を抱き歩き出した。
むせ返るような熱気。雑踏。けばけばしいネオンの雑居ビルと夜の洗濯物、香辛料。匂いと湿気が髪に肌にへばりつき、ぬるい風がそれを撫でて、また誰かの服に肌に吸収されていくようなムード。釣りは良い、と、高額紙幣を数枚握らせて、オススメだというその店に菊を押し込むと、自分は別の贔屓の元へ、と去っていった●△%の顔をもうすでに思い出せない自分に気がつく。案内係がタバコを一本吸い終わる程度には世間話を長引かせてから、菊はその店を出た。星の一つも見えない街の夜を、そして、当て所なく彷徨うことにした。
餃子と葉物が入った透明なスープのようなものを売っている屋台を見つける。指さして、これをくれ、くらいのことが出来れば、言葉が分からなくても大抵問題はない。だが、店員は菊にすごい剣幕で──これは被害妄想だ。彼らにそんなつもりはない──何かを訴えかける。諦めようか。運が悪かった。愛想笑いを浮かべてその場を立ち去ろうとしたとき、助け舟が来た。
「アレルギーはないか? ってさ」
「え」
「出汁に甲殻類を使ってるから。鶏出汁のものも作れるけど、どうする? って」
なぜ、菊が甲殻類アレルギーだと知っているんだろう? 驚きと感動で目を見開き、菊は店員と彼とを見比べた。馴染みのある言語で通訳してくれたその彼は、すすけたような金髪と緑の目のいかにもな白人だったが、異様に安心感のある雰囲気をまとっている。
「大丈夫です、ありがとう。軽度なので」
「それは良かった。俺も海鮮出汁のほうがオススメなんだ」
「良かったら一ついかがですか。ご馳走します」
「■☆✕/二つ」
彼が店員にそう言うと、店員は無愛想ながら手際よく足元からビールの小瓶を2つ彼に手渡した。■☆✕/はビールの銘柄だった。
「じゃあ、これは俺がご馳走するよ。そこでいいか?」
すぐ側のテーブルを指差す彼に頷き、菊はちょうどスープをふたつよそい終えた店員に料金を支払うため、慌てて財布を取り出した。ポケットの高額紙幣を取り出すのが、バカバカしいを通り越して嫌味になりそうなほど安かった。
「それで、金握って逃げてきたってわけか? 悪い男だ」
「苦手で」
「アレルギーのある甲殻類のほうがまだ得意」
「はは。まあそうです」
「で、その金で通りすがりのイギリス男に飯を奢ってる。マニー・カムズ・アンド・ゴーズだ」
「天下の回りものですね」
「俺はさっき起きたんだ。朝まで仕事だった」
「お仕事は何を?」
「写真を撮ってる」
「そうですか」
「あんたは?」
「文章を書いたり、あとは、旅をしたり」
「俺とあんたで雑誌を発行できるな。インスタグラムのリゾート紹介アカウントでも作って、経費であちこち行って、2〜3時間働いたらあとは酒飲んで、映画見て、本読んで寝て、毎日ゆっくり朝飯食うのは?」
「具体的ですね。想像していた?」
「夢ってほどじゃないけど、毎日がそんなだったらなと思ったことはある」
「魅力的です」
「したたか酔って、同じベッドで寝るくらいのことはあるかも」
「したたか酔ってたら、あるかもですね」
簡素なテーブルについた頬杖に、乗せた顔が、気づけば妙に近い。
「左利きですか?」
菊が聞く。彼は違うよ、と、左手の上の顔をすこしも動かさず、しっかりと目を見てくる。頬杖をつくのは利き手だと、菊は思っていた。逆だろ、と彼は言っていた。利き手とは逆の手で頬杖をつくし、タバコを吸う。自由自在の右手でいつでもメモを取れるように。ムカつく野郎をぶん殴れるように。チャンスを逃さないように。
「目を逸らしたほうが負けだろ、違うか?」
「負けたくないな」
「それ、どういう意味?」
至近距離。肌の匂いすらしそうな距離。屋台から熱波が届いても、ギャングが通り過ぎても、隕石が迫っても逸らさない。そうあってほしい。
したたか酔っ払った。のだろう。見えたのは天井だった。知らない灯りのついた天井。
振り返る。ネオンのピンクに染まったシーツに横たわる、彼のまつ毛が落とす影に、菊はしばらく釘付けになった。
コーヒー一杯15ドルするようなカフェで菊がその話をし終えると、ちょうど店内が満席になった。誰も彼も痩せていて姿勢が良い。歯列矯正とホワイトニングを終えた見事な白い歯をちらりと見せる、好感度の高い汎用的な笑顔。
「出ましょうか」
「待て待て待て」
早とちりな菊を呆れ顔で制止し、アーサーはへらりと笑った。これは彼が疲れ切っているときか、機嫌の良いときにたまに見る顔だ。今はきっと後者だろう。
「面白いじゃねえか。お前も、そんな欲求があったんだな」
「欲求?」
「夢ってのは深層心理だろ。フロイトによれば願望の上映だ」
「情報の整理かと」
「情報だな? 願望も情報だ。記憶や知識と結びついて荒唐無稽な場面を生成する」
「はあ」
「てっきり性欲も冒険願望も我慢の限界もないマシンだと思ってたが、現実逃避して行きずりの相手とワンナイトしたいと、そういう願望がお前にもあったわけだ。違うか?」
「そうなんですかね」
自分ではピンときていない。
菊のその様子に、アーサーはじれったそうに眉を寄せる。
「続きはないのか?」
「あるにはあります」
「早く言えよ。ああどうしようかな、酒のつまみになりそうではある。続きは夜に……、いや、今日は夜は客のところに行って朝までかかる。飲めるとしたら木曜の2時からだが、それはお前が無理だろう。となると勿体ないが今聞く。聞かせろ、このあとの仕事に手がつかない」
「そこまで?」
「お前の色恋沙汰なんて大学二年目以来だろう。フー・ファイターズのTシャツ着て、映画研究会に入りながら、コミュニケーション能力が終わってる、顔だけ妙に良い理学部のラテン女と謎にうまくいってた、あの頃」
「よく覚えてますね」
「たかが十年か十五年前だろ」
「アーサーさんの浮いた話の方が、私の酒のつまみにはなります」
「んなもんねえよ、お前が一番知ってるはずだぞ。一人でフットボール見ながら酒飲むのが人生で唯一の癒やしなんだ。ほっといてくれ」
さもありなん。全て理解できる。法学部を出て、法律関係の仕事をする彼は激務でストレス過多、常に睡眠不足だ。バカンスに行ったって電話を手放せない。あるときは到着したリゾートの空港から、一歩も出ずに国に戻る羽目になった。大学では写真研究部に入っていた腕前で、「着きました」「帰ります」を同じアングル、同じ構図で撮影しつつ、前者は高揚、後者は哀愁を感じさせる見事な投稿を菊は見た。
菊とて変わらない。金融関係の小難しい文書を作成したり、読み解いたり、と地味極まりないのに花形扱いされる業務のせいで、「先生」などと呼ばれて実力以上の扱いとプレッシャーを受ける。休みはないし、頭の何処かに常に業務のことがある。
ああそうか、と、菊は漸く気がついた。
「それで?」 「それで」
「それから」
「それから?」
「それから」
それから私は。
私は、仕事に戻らなくてはと、言って。
彼も、ああ、本当だと、言って。
私たちはまるで明日も明後日も当たり前に会って話をして、良きタイミングで問題なく旅に出られるような、そんな確信をしていて。
それが幸せだと思う朝を過ごしていて。
このままでいいとも思うような気もしてきて。
そこで目が覚めて、覚める直前に夢だと気づいていて、幸せに段階があることを感じていて、その段階に届いていないと目覚めて軽く絶望して。
顔を洗って歯を磨いて、コーヒーを淹れながら、そうしてあなたに連絡をして。
「……残念、タイムリミットだ。戻らなきゃ」
「はい」
電子マネーで支払って、連れ立って店を出る。
「で、どんな女だったんだ?」
何気なくアーサーが訊いてくる。菊は首を振った。
「覚えてないです。夢なので」
「とか言って、元カノだったんじゃねえの」
「だったらそう言ってますよ」
「ワンナイトだもんな。元カノとは違うタイプの女だろうよ」
「そういうもの?」
「そういうもの。じゃな」
「はい」
店の前で解散し、彼の背を見送らず反対方向へと菊も歩き出した。
女だと嘘をついた。それどころか、相手が紛れもなくアーサーであったことを、彼に隠した。当たり前だ。言うわけがない。言えるわけが。
夢は願望の上映か?
記憶と情報の集合体か。
あれは香港だろう。一度しか行ったことのないアジア。屋台にはタイと日本でしか行ったことがない。ネオンなど映画でしか見たことがない。モーテルにもアメリカでしか。彼とはキスすら。夢の話すら。夢。夢。夢。願望か、目標か。展望か。あるはずのない荒唐無稽な場面。
「お前、香港には行ったことが?」
後ろから手首を掴まれる。振り返ったそにはまっすぐにこちらを見る緑の目がある。これは夢だろうか? これは誰だろう? 今は西暦何年の何月何日で時刻は、季節は? 私は今素面だっただろうか?
匂いがする。熱気の。湿った。
20230723