『キスで感じてみたいの? 自慢じゃないけど私、すっごく上手よ』
気の迷いではなかった。かといって誠実だったかと聞かれればそれも違う。
とにかくキクは彼女を受け入れ、その日会ったばかりの彼女とホテルに行った。それは出会ったバーを出てすぐの路地裏で可能性を感じたからだし──結局、そのキスを少しだけ特別にしたのは彼女の技術や愛ではなくて、その場所と状況だったのだと今は結論付けることができる──、実際、彼女は良い人だった。顔立ちほどには派手な性格ではなかったし、隣に座っていても、隣に寝ていても、どこか心地の良い相手に違いなかった。
それだけに、がっかりした。
打ちのめされたとまでは思っていなかったが、キクは明け方に戻った自宅のキッチンで、何やらどっと疲れたような気がして、五年も前にやめた煙草を一本吸った。五年前の煙草は湿気りきって、ほとんど味もしなかった。
『煙草を吸うのとキスは似てると思う?』
『どうだろう。使う場所は一緒だけれど』
『ねえ、煙草を吸うよりは、ずっと良かったでしょう?』
振り向くと、彼女はいたずらっぽく瞳を歪ませ、それでいて少し照れもあるような微笑みで、キクを見つめていた。
『はい。ありがとうございました』
愛情によるのだと誰もが口を揃えて言う。愛があれば気持ちいい。信頼関係があれば気持ちいい。
つまり気持ちいいと感じなければ、その相手を愛していることにならないのだ。
くだらない。努めてそう思うことは出来ても、キクにとってこれは重圧以外の何物でもなかった。自分は恋愛が出来ないのだ。
メッセージを未読のままにして、キクはスマートフォンをデスクの上で裏返した。スターバックスに寄ってきた同僚が、キクのオーダーしたショートサイズのドリップコーヒーを片手に微笑みながら歩いてくるのが見える。ハイキク、お疲れね。そう言う彼女のいささか彩度の高すぎるように見えるピンク色の唇に、無意識に目がいかないよう注意を払ってキクは口角を上げる。ありがとう。丁寧に礼を言ったつもりだったが、キクの受け答えはよほど頑張らなければ「アンフレンドリー」。今回も彼女の期待値には達さなかったようで、雑談を始めず、彼女はさっさと引き上げてしまう。
コーヒーを片手に席を立ち、オフィス一階中庭の喫煙所へと向かうとすぐに目当ての人物を見つける。だが、今日はいつもとは様子が違った。
「キク。そろそろ来ると思ったよ」
彼──フランシスはもともと同じ部署にいた同僚だ。付き合いは彼が転属して以降も続いていて、ほとんど毎日昼過ぎか夕刻にこの喫煙所で少し話す。そして今日、その隣りにいるのは。
「キク、こっちはギルだ。同じ部署のバイルシュミット」
「知ってる」
答えたのはキクでなくギルベルトの方だった。
彼は俺を知っている、と、ギルベルトが断言したことにキクは胸中で少しぎょっとした。忘れていたらどうするつもりだったんだろう。
「数年前の懇親会だか……交流会だかでお会いしましたよね」
「二年前の親睦会だ。フランシスはいなかった」
何年前でも、会の名前がなんでも、大した問題ではないとキクは思うのだが──フランシスもそうだろう──ギルベルトはいちいち正確な情報にこだわって強い口調で示してくる。自分より「アンフレンドリー」な人がいて、キクは勝手にほんの少し安心する。
「こういうヤツなんだよね。気を悪くしないでくれるといいんだけど」
「何がだよ」
と、ギルベルトが目を剥きフランシスに向かって大声を出した。悪気はないのだろう。確かに、二年前に話した時も、彼は空気が読めず何度かその場の時間を止めていた。……が、酒が入ってだいぶ経つと雰囲気が軟化して、最終的にはまあまあ良い会になったとキクは記憶しているが。
「気にしてませんよ。そうか、今二人は同じ部署でしたか」
「こいつが強面でマッチョで鉄面皮のクソ真面目でさぁ、転属してから半年は大ッ嫌いで口もきかなかったから、キクにも話しては……そうだお前、今夜暇? グリスウォールドのバーが二十二時までハッピーアワーだから、隣のタイ料理屋で飯食ってから浴びるようにビール飲もうってことになった。付き合わない?」
キクはギルベルトを一瞬だけ見た。一瞬のつもりだったがばっちりと目が合ってしまう。
「こいつ、ほんとよく喋るよな」
ギルベルトはキクの目をしっかりと見て、いや見下ろして、呆れたような顔をしてみせる。キクは苦笑いを浮かべ、それには答えず「構わないなら」と手でギルベルトを指した。
このままではまずいと思って、二日酔い防止の薬を飲んだのが確か二十三時だった。
その後、気がつけば時刻は深夜一時過ぎになっていて、きっと追い返される、という忠告を全く聞かないほど泥酔したフランシスが女性の家に行くと言って去り、ギルベルトの目は据わり、店が閉店した。
日本の繁華街と違って、朝まで営業しているような店はこの街には少ない。もしも都合の良い店があり、また、ギルベルトが嫌な男だったのなら、まだ飲むぞと言って聞かない彼を適当な飲み屋に放り込んで帰っただろうが、キクはそこまで面倒見の悪い人間ではなかったし、ギルベルトは良い男だった。
「一本向こうの通りに出て、タクシーを拾いましょう。そこまで送りますよ」
「いいや、まだ飲むぞ。まだ飲める。俺様を誰だと思ってんだ」
「このあたりにお店はないですよ。帰って、ご自宅でいくらでも飲んでください」
「一緒に来るか?」
「いえ帰ります」
「何だよ!」
俺の酒が飲めないってのか、と、日本語吹き替えなら言っていただろう。ドイツ訛りの厳しい英語でギルベルトは何やら喚き、キクの首に太い腕を回す。これ以上ないような、見事な『酔っぱらい』だ。だが、面倒くさいとまでは、不思議とキクは思わなかった。本人に言えば怒るだろうが、勝手に「アンフレンドリー」仲間に認定して、親近感を覚えてしまっているからかもしれない。
諦めて、キクはギルベルトの腕を引き歩き出した。キクの自宅は徒歩圏内だ。ここからなら七、八分で着く。家には、誰かに何かでもらった未開封のウイスキーとワイン、冷蔵庫には安物だが缶ビールがそれなりに備蓄してある。そもそもこの調子なら、少し飲んだら彼は寝るだろう。寝てくれないと、化け物で怖い。
「お酒、強いですね。さすがドイツ人」
おべっかのつもりはなかったが、キクは自分で今の口調はわざとらしかったかもなと思う。
「まあな。でもお前も強い。フランシスは弱いな。あいつはビールを飲んで、ワインを飲んで、そのあとシャンパンを飲んでた。意味わからん」
「フランシスさんも強いと思いますよ」
「あいつのことは嫌いじゃない。でも、全てを気に入ってるわけじゃない。酒の飲み方と、こんな時間に女を起こして平気な神経、それに、デリカシーのないところは、好きじゃねえ」
交際相手なのだろうし、相手の女性はそもそも寝ていなかったかもしれないじゃないか。と、フランシスのフォローをしようと一瞬したが、やめた。無駄な気がしたのだ。曰く『クソ真面目』なギルベルトの、自分の発想や経験にないものに対しては意地になって認めず、批判するところは、フランシスからすれば「気に入っていない」ところだろうなとも思う。
それに、ギルベルトの言うように、フランシスにはデリカシーが欠けているとキクも思う。今日の会の半分の時間は、フランシスが、ギルベルトの恋愛経験の乏しさを揶揄していた。
「一緒になって笑って、すみませんでした」
「あ? なにが」
「いえ、ギルベルトさんの……初心さというか、ピュアさというか」
「待て、おい、俺マジでどっ、童貞じゃねえからな!?」
まあそれは、はい、さすがに信じてないですけど、とキクは早口でぼそっと言って耳元の爆音から逃れようと顔を遠ざけた。齢三十を過ぎて童貞を貫いていたのなら逆に信念があって尊敬に値するが、ギルベルトはどこからどう見てもモテそうだ。機会なら黙っていても向こうからやってきたはず。受け入れるかどうかは別として。
「あいつの得意分野なんだろうな! だからマウント取ってきやがる! でも誰にだって苦手なもんはあるだろ別に苦手じゃねえが! 誰にだってコンプレックスはある別にコンプレックスじゃねえが! なあ!」
「ね」
雑な相槌を打っても、ギルベルトはその雑さに気が付かなかった。それどころかまだまだ続いた。適当に聞き流しながらふと、キクは「コンプレックス」という言葉を脳内で復唱する。
住宅街エリアに入ってきたので、声のボリュームを抑えるようキクが頼むと、ギルベルトは聞き分けよく頷いて、一度しゃっくりをした。本当に、典型的な酔っぱらいだ。足取りだけはしっかりしている。
「コンプレックスって、何のためにあるんでしょうね」
何も話さないで歩くのもそれはそれで気まずく、キクは抑えた声でそう口にした。まあ、独り言に近かった。
「克服するためだろ」
「即答ですか」
「そりゃそうだろ。克服したいと感じるからコンプレックスなんだ。気にならないならはなから問題じゃない」
確かにそうだ。納得するキクに、ギルベルトは少し迷うような呻きを漏らしてから、言った。
「二年前にもコンプレックスの話をしてる」
「え? そうでしたっけ?」
「ああ。ロイ・ブラウンが、子供の頃にいじめられていて、それがコンプレックスで未だに日常生活に水をさされるようなフラッシュバックが、心の濁りがあるって話したときだ。俺はくだらない、忘れろ、そんなもんにはとっとと勝てと言ったんだが、あんたは……、大変でしたね、って」
思い出してきた。確かに、キクがそう話をしている間、向かいの席にいたギルベルトは何やらじっとこちらを凝視していたような覚えがある。
「存在しなければ良かった体験に違いない、大変な苦労をしましたねって、ロイ・ブラウンの話を聞いてただ労ってた。生産的じゃないと思った。けど救われた気がした。勝つばっかが克服じゃないのかもしれないとはじめて思った。誰かが容易く下ろしたハシゴで、今まではなんだったんだよってくらいあっさり、難なく上れちまうような……」
おそらく褒められていて、そして大いなる買いかぶりだと、話の中盤で薄々気がついていたキクがストップをかけるタイミングに迷っている間に、ギルベルトは自らその話を止めた。
「俺も話なげえな! 酔ってる」
ギルベルトがかぶりを振って笑うと、アルコールと、控えめなムスクのラストノートが仄かに香った。
キクの備蓄のビールを何本か飲んだあと、ギルベルトはようやくソファに寝転がり、呂律と意識を手放しはじめた。
さすがに、体格の良いギルベルトをベッドに運ぶには苦心しそうだ。そう言い訳して彼をそのままにし、せめてとコップの水を用意した。
「これだけでも飲んでから寝てください。明日、だいぶ違うはずですから」
おー、と、間延びした返事を寄越した後、ギルベルトは空中に手を彷徨わせる。まさかその手にコップを渡すわけにも行かず、キクはギルベルトのそばに膝を付き、肩の下に手を差し入れる。
「少しだけ起きれますか。こぼれちゃうんで」
「ん」
散漫な動きながら、ギルベルトは聞き分けよく体を起こす。口元にコップを近づけると、水を飲ませたいこちらの気持ちとは裏腹にギルベルトはなぜか喋りだした。
「俺、こんな、酔わねえ」
「そうなんですね」
おそらく”普段は”が抜け落ちている。キクは適当にうなずく。
「今日は飲みすぎたんですね」
「ずっと思ってた」
「はい」
無理そうだ。キクは後手でそばのローデスクにコップを置いて、ギルベルトのそばに座り直した。
近い。
振り向いた時、ギルベルトの顔が触れそうに近くにあった。
「あんた、ツラが綺麗すぎる」
驚いた。こちらの台詞だ。ギルベルトのほうがよほど美しい。男女の性差を超えて、ヒトを超えて。
喋らなければ恐ろしかっただろう。でももはやちっとも怖くはなかった。それどころかキクにはギルベルトは異様に好ましい男だった。こんなに急激に誰かを気に入ることは久しぶりだった。
キクとて酔っていた。そりゃあ、大男二人が潰れてキクが無事な訳はない。
「女は好きじゃない」
「そうなんですね」
「男も別に好きじゃない。でも、あんたはツラが綺麗すぎる」
帰る。と、ギルベルトは呟きながらじっとキクの目を見ている。見たこともない色だった。心臓が止まりそうになるほど禍々しい気もする、壮絶に美しい気も同時にする。落ち着きたい。逃げられない。
帰らないと。ギルベルトがその台詞を二度小さく繰り返したあと、キクは顔を掴まれ、引き寄せられた。間近で見た銀の眉毛、まつ毛、頬に突き刺さる鋭い高い鼻の感触と唇の弾力。アルコールの匂い。見慣れた部屋。
どうして皆、キスをするときに目を閉じるのだろうと思っていた。
そうしなければ溢れてしまう感情を、なるべく互いの間に封じ込めるためだったのか。甘く、痺れるような、例えば情欲のような感情を。
/ 20230618