「阿絮、愛してるよ」
話があると言って連れて行かれた先での第一声がそれだった。
訳が分からぬまま手を引かれ、温客行の部屋の中へ入ったかと思うと壁を背にして長い腕が自分を囲う。
「…なんだ?急に」
にこりと笑って告げた男へ眉を顰めれば端正な顔が不思議そうに瞳を瞬いた。
「それだけ?」
「………は?」
「阿絮は私に愛してると言われても何とも思わない…?」
「いや、そもそも唐突すぎて意味が分からん…どうしたんだ?」
「だって…」
「ん?」
「…今日は愛を伝える日だって言うから」
「愛を伝える日…?そんな日があったのか」
「阿絮は知らなかった?」
「聞いたこともなかったな」
「そっか…じゃあ、阿絮」
「うん?」
「愛してる」
さらりと言葉にして笑った温客行に周子舒は目を丸くした。またもや唐突だ。しかも何やら期待に満ちた瞳で自分を見つめている。
そんな男に少々気圧されつつも、周子舒はゆっくりと考えるような仕草で首を傾げながら口を開く。
「……ありがとう?」
「……………」
「老温?」
「…ちょっとまって阿絮…なんで疑問形…いや、そうじゃない…何でそんな平然としてるの?おかしくない?」
「あのなぁ…お前は俺に何を求めてるんだ」
「そこは言葉に詰まって照れくさそうに頬を染めるところでしょ?」
「妙に具体的だな…」
「まさか阿絮……」
「どうした」
「…私のことが好きじゃなくなったなんて、言わないよね?」
「どうしてそうなる」
「だって…全然嬉しそうじゃないし、少しも照れてくれない…」
「それはお前の言い方が悪い」
「言い方…?」
「あんな挨拶みたいに言われてもな…それに胡散臭い笑顔も誠意が感じられなかったぞ」
「う、胡散臭いって…」
「俺には演技してるように見えたが?あんな余所行きの笑みで言われても心に響くはずがないだろ」
「……(自分から言い出したのに恥ずかしくなったなんて言えない)」
「老温」
「えっ…」
突然、何の前触れもなく温客行の視界がまわった。
ぐっと肩を押された身体はくるりと反転し、周子舒と入れ替わるよう壁へと押し付けられて両脇を腕で囲われてしまう。
「あ、あしゅ…?」
「老温」
優しい声が愛おしそうに名を呼び、微笑みを浮かべた柔らかな瞳がじっと温客行を見つめてくる。それだけでも呼吸が止まりそうになったのに、ゆるりと顔を近づけた周子舒は形の良い耳朶へ、ふっと息を吹きかけた。
「……っ!!(ふぁぁぁぁぁぁぁ!!?)」
途端、一気に鮮やかな朱色へと変化した白い肌を愉しげに見つめながら。周子舒は温客行の耳に唇を近づけると、ふわり囁いた。
――――愛してる。
吐息は熱く、声音はどうしようもなく甘やかで。どくりと身体の芯から広がった熱と共に脳の奥が痺れるような酩酊感に襲われる。
「あしゅっ…」
ふわふわとした心地のままそれでも無意識に伸びた手は、けれど虚しく空を切り、あっという間に離れていった周子舒へ触れることは叶わない。
「…あしゅう?」
顔を真っ赤に染めたまま、ぽかんと呆けた表情を見せた温客行を見つめながら周子舒は悪戯が成功した子どものように唇の端を吊り上げた。そうして、それはもう綺麗に笑ったのだ。
「これぐらいはしないとな?」
なぁ、老温――――と、名を呼ぶ声は晴れやかで。温客行は敗北を認めざる得なかった。
けれど言い訳ぐらいはさせてほしいと、そう思った時は既に遅く。素早い動作で部屋を後にした男の後姿を見送ることしか出来なかった温客行は、へなへなとその場に座り込むと両手で顔を覆いながら、はぁぁぁと熱い息を吐き出した。
(なにあれ……ずるいっ、かわいいっ、もう大好きっ阿絮…!でも、絶対に阿絮の照れた顔も見てやるんだから!)
そんな風にして、じたばたと悶えながらも誓いを立てたのだが。
早足に自室へと戻った周子舒が自分と同じように床へと座り込み、抱えた膝へ顔を突っ伏していたことも。そして流れる髪の隙間から覗いた耳朶が、自分と負けず劣らず真っ赤に染まっていたことも――――温客行は知らなかった。