四季山荘の屋根の上で酒壺を片手に月を眺める周子舒は、隣で共に夜空を見上げる温客行をちらりと見ながら深く長い溜め息を吐いた。
「どうした、阿絮。こんないい夜に辛気臭いぞ」
「…俺はいい加減、呆れてるんだ」
「呆れる?なんの話だ?」
「老温」
「うん?」
「お前にとって俺はなんだ」
「急にどうした阿絮…お前は私の知己だ、そうだろう?」
「それだけか」
「…唯一無二の大切な知己だ」
「他には?」
「他?」
「そうだ」
「……なるほど。分かったぞ」
「何がだ」
「阿絮は私にお前を師兄だと言わせたいんだな?」
「俺がお前の師兄なのは事実だ」
「それは…まぁ否定しないが…」
「で、他には?」
「えっ……」
「もうないのか」
「………阿絮」
「ん?」
「…距離が近い」
「そうか?」
「なんで私に近づいてくる…?」
「お前が後ずさるからだな」
「それは阿絮が近づいてくるからだ…!」
「なぁ、老温…どうしてお前は気づかない?」
「は…?」
「俺が近づくだけで何故狼狽える?」
「別に狼狽えてなんか……」
「鼓動はどうだ?」
「えっ…」
「心臓がバクバクしてないか」
「…………」
「それに夜目だから分からないとでも思ったか…顔が真っ赤だぞ、老温」
「っ……!」
「俺にはとてもじゃないが知己だという男に対する反応には見えないんだが」
「…なにが言いたいの、阿絮」
「なぁ老温…お前、俺のことが好きだろ?」
近づいた温客行の瞳を覗き込みながら周子舒は唇の端を吊り上げる。
まるで冗談めかしの軽い口調だったが、その瞳が一瞬揺れたのを温客行は見逃さなかった。けれど突然の話には理解が追いつかず困惑したまま口を開く。
「もちろん私は阿絮が好きだぞ…?」
「まだそんなことを言うのか…」
「あ、あしゅ…?」
「老温」
「うん…?」
「試しに口づけしてみるか…」
「え………えっ!?」
「口づけさせろ、老温」
「ちょっ…ああああしゅっ!!何を言ってるか分かってる!?」
「分かってる」
「ほ、本気っ!?」
「冗談でこんなことが言えるか」
「えっ…だ、だって…それって……」
「…駄目か?」
目の前の美しい瞳が今度は分かりやすく揺れる。いつの間にか口元に浮かんでいた笑みは消え、酷く真剣な表情で周子舒は温客行を見つめていた。
そこで漸く温客行は理解する。唯一無二にして、とてもとても大切な知己である周子舒の苦悩と――――己の中にある気持ちの意味を。
気づいてみれば驚くほどに呆気ない。どうして今まで分からなかったのだと悔いると共に自分の馬鹿さ加減を罵倒したくなる。けれど今、優先すべきことは他にあった。
「……だめだ」
「っ…………」
「試しになんて、それじゃ私が嫌だ」
「老温…?」
「私は阿絮と…ちゃんと口づけがしたい」
「……………」
「阿絮に近づくと信じられないぐらい鼓動が速くなるし、顔も身体も熱くなってどうしたらいいか分からなかった…でも阿絮は私の大切な知己だからと思って……いや、それは言い訳だな。私は阿絮との関係が変わるのが怖かっただけだ…」
「…………」
「ごめん、阿絮」
「…謝ってほしいわけじゃない」
「うん…あのね、私は阿絮が好きで…阿絮と恋人の口づけがしたい。阿絮も同じ気持ちだと思っていい…?」
「…老温」
「うん」
「もし違うと言ったらどうする?」
くすりと茶目っけたっぷりに笑った周子舒の右手が伸びて、その指先が温客行の頬に触れた。じんわりと伝わる柔らかな指の感触にうっとりと瞳を細めながら、温客行もまた持ち上げた右手を周子舒の頬に添える。
「阿絮が私の気持ちと同じだと音を上げるまで口説く」
「ははっ…口説くのか」
「口説かれてくれる?」
「それはかなり魅力的な話だが…」
残念だ、もう口説かれた。
そう言って笑った唇は温客行の口を柔らかく塞ぎ、月夜の下で二人の影は重なった。