更地となった市街地に穴を掘る。かつて広大な魔呪伝道網を敷かれ驚くほどの利便性を有する「街」であっただけに、更地とはいえ稀にその名残を感じさせる機構に行き当たるので、それは森であった場所で行う作業よりも少しばかり陰鬱な気分をもたらした。照らず降らずの明るい灰色の曇天は、より一層。
今やオーラレンの街と呼べるのは海上に刺さった「方舟」ひとつとなってしまった。楽園を求めて運ばれてくる市民たちは船から舟へと移送される。
あの中が「楽園」であることは確かである。方舟の中枢脳と化した彼女は膨張・拡張を続けており、訪れた者に間違いなく永遠の幸福な日々を提供することができるのだから。
穴を掘る。シャル・ヌーヴォあるいはシャルノディア・オーラレンは同盟者である不死族の少年とともに完結した存在と成り、その余波はかつてのオーラレンの土地をほぼ真っ新に均した。半島だった場所は方舟を残して殆どが沈み、抉られた本土に関しても中心市街地の周囲と隣領につながっていた森の一部を残すのみだ。
その森もそれ以前より埋蔵恒星片の誘爆により隣領と断裂されていて、今のイビスはどことも繋がっていない蚊帳の外の住人である。彼女の行うことに意義を唱えることも、苦言を呈することも、まして止めることなど。
墓穴を掘る。記憶と感情を保存され、用済みとなった肉体から血肉を剥がしたあとの残り。すなわち一組の骨格。全体の大きさと骨の形による男女の区別がつくかどうか、という以上の情報は無く、イビスもそれを求めてはいない。ただ擦り潰されて捏ね上げられ、歪ながらも恒星片として体をなした大陸に帰された「市民」。楽園に辿り着いた人々の成れの果て——を葬るのが今の彼の日常である。たとえそれが形ばかりの所作ではあっても。
「隊長さん」
背後から声をかけられ、いつの間にか穴が十分な深さに達していたことに気がついた。今となってはイビスにそのように呼びかける人物はごく限られている。耳を心地よく撫でる、柔和な、優美な、青年の声。顔を上げれば案の定、その灰紫色の目の中に映るだけで歓びを催すほどの美貌がそこにあった。もっとも、イビスの喉をついて出た溜め息は感嘆とはほど遠い倦怠感を含んでいたが。
「……お帰りでしたか」
「うん。またお仕事を増やしてしまうね」
ゆるく編まれた白金色の髪が曇り空から落ちる鈍い光を跳ね返している。しとやかに話す声は無意味に申し訳ないそぶりを含んでいる。イビスは足元に目を落とした。この人がここにいるということはまた船が到着したということだ。希望と幸福に満ち満ちた人々の、その瞬間を永遠にするべくに。
「これは俺の趣味のようなもんですから」
仕事と言えるようなものでもない。そういう意味であればファイスレイの行いのほうがよほどその言い回しに相応しい。終わりの魔女が求めるままに、幸福な終わりを求める人々をこの地へと導く彼こそが、だ。
立ち尽くすイビスのとなりまでやってきた彼は、置かれていた一組の人骨を無造作に持ち上げ、穴の中に入れた。小さな祈りの言葉は定形が唱えられるのを聞く。
「あの子が寂しがっているよ、隊長さんが帰ってこないって」
「帰っていますよ、時々は」
「骨を回収しに行くだけでしょう」
「……」
白くしなやかな手がそのまま土に触れ、素早く穴を埋めはじめるのが見えた。墓穴を荒らす野犬も野党もいない、そもそもそれらに狙われようもない乾いた骨を埋ずめるには深く掘りすぎた穴が、元通り埋められていく。
「君はあの子が間違っていると思っている?」
「……」
見上げてくる眼差しは柔らかな疑問だけを帯びている。責めるでなく蔑むでなく、ただこちらの考えを探る意図だけがある声音は覚えがある、幼いイビスを救った女性のそれとよく似ているのだ。
「わかりません」
血縁としてはシャルノディアの祖父、ネムの父にあたるという彼である。類似点があるのも当然だろう。そもそも彼女らは外見からして呪いのようによく似通った一族である。
オーラレンの最先端、血統の果て、誰よりも強大な魔呪の素質を与えられて生まれ、この世の神さえ取りこんだ少女は私はこれを終わらせるために生まれたのだと屈託なく笑った。そして、一族の長となり唯一の生き残りとなった孫娘のその野心を聞いたとき、ファイスレイは「ネムが生まれた甲斐はあったんだね」と心から安堵したように言った。心からの、見るものの理性を蕩かすような、やさしい、満ち足りた、笑顔だった。
「ただ、俺は死にたくないというだけ、……」
幸福な終わりの成れの果てとして残った骨が語るのは、少なくともこの持ち主は円匙を掴む手や大地を踏む足、土と風の匂いを嗅ぐ器官やこの麗しい人と向き合う双眸、生きる躰をまったく失ってしまったという事実である。イビスはそれが、
「俺はそれが恐ろしい。それだけです」
「…………そうだね」
一度死を迎えたことがあるという人は意外にもイビスの意見に共感めいた受容を示した。
「私はあれを解放だと思ったけれど。うん。そうだね、解放されたかっただけで死にたいと思ったわけではなかったのかもしれない」
イビスには未だ「幸福な終わり」がわからない。そう願うに至ったひとが経験した困難も。理解が及ばないそれを肯定することはできないが、安易に否定することもできない。
ファイスレイがさっぱりと笑う。慰めるようでもあり、安堵しているようでもある。立ち上がった彼の足下の穴は埋まっていた。
「そうだね、無理に理解する必要はないさ。否定していないだけでも上出来」
「……」
それはシャルノディアがしばしばイビスに見せる笑顔によくよく似ている。共に過ごした時間はそう長くないはずなのだ、やはり血縁のせいか。
「オーラレンは世界を変えるだけの力を持つ者を生み出すためにあった。私たちはそのために生きた。——だからあの子はそのように生まれた。だから私は喜んであの子が目指すものに従うけれど。」
自身の一度目の生を振り返るように、血族の在り方を振り返るように俯いた小さな頭、伏せた目を見下ろす。白くけぶる睫毛が長い。
「……いつかは君も、あの子のそばに行ってあげてほしいな」
かつては平凡な市民たちが豊かに暮らしていたという荒涼の跡地には無臭の風が吹いている。そのいつかを受け入れる日がくるのだろうか、未だイビスにはわからない。