「イヤです、嫌ぁ!」
天空に向かって手を伸ばす彼女は小柄で、いわゆる「これといった特長のない」可愛らしい女性だった。この悲鳴が聞こえていれば後ろ髪を引かれてしまっただろう、些細な声を掻き消して、巨大化しながら高度を上げ、飛び去っていぬ空の支配者。
「私を連れて行って、フィル様!!!!」
ヘルツが抱き止めていればそれだけで簡単に動きを止められてしまうほどに無力なその搭乗者である。それでも彼女は力いっぱいもがくことをやめなかった。悲痛な言葉を聞きながら、ああこんなふうにこの人を抱きしめていたらフィルマメントくんに怒られてしまうな、などと考える。
空神機はとうに空の彼方で、この光景も彼女の声も届かないだろう。涙に濡れた丸い頬、ただ置いていかれたことを嘆いているわけではない。「空神機」が最大の性能を発揮するには彼女が必要なのだ。その自負と、矜持と、そして。
「ッ、ううっ、う〜〜〜ッ!!!!」
やがて諦めたように力が抜けたのを見計らって腕を緩めると、その場に膝をついた彼女は肩を震わせて泣いた。同じく風圧から彼女らを守っていた腕から解放されたデイジーがそのそばに寄り添う。ヘルツは二人の背中を見下ろしながら帽子の鍔を少し下げた。
こんなふうに愛することができるのに、愛されることもできたのに、なお我々は壊(ころ)し合う。
それは神機(我々)に課せられた命題なのだと三人ならば笑うだろう。支配せよ。空を海を陸を平らかにせよ。互いを食い合え。——ヘルツに組み込まれた命令を「三神(さんにん)を止めろ」と解釈するならば、もっと他に、やり方があったのではないか。
「向こうにその気がないんだからムリに決まってるじゃない。その気がないっていうか、そんな発想が出てくるわけがない」
脳の裏側に住まう記憶になってしまった旧友の声がした。空耳である。ヘルツのセンサーは地響きの波動を感じ取っていた。
「でも、僕たちには学び、変われる余地があったはずだ」
「……どうかしらね。でも、その"余地"も終わり。わかってるんでしょ、ヘルツ」
「……」
「この人と決めた搭乗者が死んだら、アタシたちもおしまい。介錯してあげるしかないのよ」
これは自分たちの戦いはまだ終わっていないのだ、と察した果てに現われる諦観、または鼓舞だ。
「馬ッ鹿ねぇ。アンタってほんと賢すぎておバカ。」
わかっている。諦観で、鼓舞で、自慰にすぎない。けれどもその内なる声は最も近しい兄弟の笑顔に他ならない。
「でも、アンタのそういう所、嫌いじゃないわよ」
「ミズ・ディプス」
気安く呼べばそれも天空帝の逆鱗だろうと思えば呼びかけは必要以上に仰々しいものになってしまった。
「申し訳ないんだけど、僕はもうひと仕事しなきゃいけない」
大地の振動を感じる。轟音が迫っている。彼は自分が倒さなければならない。
「デイジー。彼女と一緒にいてあげてくれる?」
「……」
チムニーの肩をさすっていたデイジーの眼差しに一瞬だけ不安と不満がよぎるのが見えた。
「あちらは一人だ。君がいたらフェアじゃない。それに、僕はミズ・ディプスを載せられないから。」
「……役割分担ってこと?」
「そう。君にこの人を守ってほしい」
「わかりました、先生」
目配せを交わすと、デイジーは意志的な眼差しで頷いた。
「きっと、帰ってきて」
「うん」
センサーが警戒音を鳴らす。足元を揺らす地響きが近づく。一人になり、ヘルツは搭乗者(あるじ)を亡くした獣の王と相対する。
これが最後だと、思った。