14戦目★そのボトル一本分の価値がある「いい酒を手に入れた」
そう言ってピクは手馴染んだリュックサックから深色のガラスボトルを取り出す。
酸化を防ぐ遮光ボトルからして品のあるそのボトルを前に安原は目を見張った。
「ほぉ、中々いい酒じゃないか。どのツテで手に入れたんだ?」
「たまたま出会った老人が洋酒のコレクターでね、その老人のバーでギターを弾いたら持っていけって」
安原はボトルに張り付いたラベルの文字を追う。製造年がかなり古くその辺の立ち飲みの酒場ではお目にかかれないであろう、恐らく希少で上等なスコッチの様だ。
その洋酒コレクターのマスターはピクの弾き語りが余程気に入ったのだろう。そうでなければ行きずりの旅人に品質の良い年代物のスコッチをチップとして渡すなど粋な大盤振る舞いなどしない。
「それで、その良い酒を俺と飲もうってか?」
「君以外に飲める人がいないからね」
「お前酒癖悪いからな」
「誰が酒癖悪いだって?」
ピクの酒癖は角度を変えればそこまで悪いというものではない。ただ一定のラインを超えると誰彼構わず絡みに行く重度のキス魔になるのだ――安原を除いて。
当の本人はその酒癖の自覚が無い。厄介な事に酔っている間の記憶は綺麗さっぱり覚えていないのだ。
その癖唯一安原だけは頑なに拒否をするものだから、安原も気が気ではないし何より面白くない。
以前余りの酒癖の悪さと意固地な拒絶にそもそも持ち合わせていない堪忍袋の緒が切れた安原に身体で理解らされた訳だが、当然それすらピクの記憶にはない。だが以降ピクのキス魔の被害者が増えることはなかった。
「そもそも君が他の奴と飲ませないから仕方なく君と飲むしかないんじゃないか」
それもその筈、安原が自分以外の奴と酒を飲む事を阻止しているからだ。結果、ピクの酒飲み相手は安原だけとなり今に至る。
良い酒が入ったからと真っ先に安原の元へ来る様になったのは安原の教育の賜物であり、投げたものを取って戻ってくる可愛い犬の様だと口に出せば高価なスコッチの代わりに回し蹴りが飛んでくるだろう、スコッチの為だと安原はぐっと言葉を飲み込んだ。
小さなグラスをふたつ、スコッチのコルクが気味の良い音を立てて抜かれると、透明なグラスに小さな満月が生まれる。
月明かりに煌めくガラスの縁をかつんと触れさせ、上弦の月に乾杯を交わした。
スコッチの香りを味わって、ペロリと一雫舌で舐める。
「……うまいな」
「だろう?」
芳醇に膨らむ上品な味わいに舌鼓を打った安原を見て上機嫌な顔持ちのピク。
何故お前が得意げになるんだと思いつつ、美味い酒に免じて許してやろうと三分の一程注がれたスコッチをもう一口口に含んだ。
久々に口にした上等な酒が煽り、たわいも無い談笑と共に酒が進む。時折いつもの小競り合いに発展しかけるもなあなあに軌道修正するのは酒に煽られ上機嫌だからなのだろう。
二杯、三杯とグラスが空き、その都度間髪なくピクが度数の高いスコッチを注いでくる。ピクに促され、ちびちびと舐める様な飲み方はいつの間にか威勢の良い飲み方へと変わっていた。
「お前も飲んだらどうだ?まだ二、三杯位しか飲んでないじゃないか」
「飲んでるよ?もう酔ったのかい?」
「はっ、誰に向かって言ってるんだ?」
四杯、五杯、安原の顔に酔いの色は浮かばず、六杯目のスコッチを煽る。
六杯目のスコッチをなみなみと注いだピクは訝しげに安原の顔色を伺った。
「……中々酔わないね。普通の人ならもう酔い潰れて出来上がってるだろうに」
「俺はザルらしいからな。お前が一番知っているだろう?」
「まあね」
酒に強いのは事実だが酔わない訳では無い。人に酔った姿を見せたくない安原は酔わない飲み方を熟知している。
――酔わせようと企むその魂胆も。
「で、俺を酔わせてどうするんだ?」
そう言った安原はなみなみ注がれたスコッチを一気に仰ぎ、顔色ひとつ変えず空のグラスをピクに差し出した。
そう、ピクが自分を酔い潰させようと企む魂胆など初めから見抜いていたのだ。
全てを見透かしニヒルに口角を上げる安原は愉快そうに目を細め、全て見抜かれていたと知ったピクの言葉を待つ。
「……なにもしないけど?」
「なにもしないならこうも急かして飲ませる理由はないだろう?」
「せかしてない。君のペースが早いだけだ」
のらりくらりとしらばっくれるピクをじわじわと緩やかに追い詰める安原。
ピクが何をしたいのか、何をして欲しいのか、そんな事安原にはお見通しだった。だが自分の言葉でじわじわと追い詰められ思考を巡らすも苦い顔をするピクがえらく面白くて、安原は余裕綽々にそれを見ている。
さて、次はどんな苦し紛れの言い訳を生み出すのか、安原は勝ち誇ったニヒルな笑みで空のグラスを揺らす。
「回りくどい事をしないで言いたい事があるなら言えばいいだろう」
「別に。僕達はただ美味しい酒を飲んでただけじゃないか」
「違うね。お前が俺に酒を勧める時は俺になにかを求める時だろう?」
ピクの眉が僅かに揺れる。――チェックメイトだ。自分のグラスに注ごうとボトルを持ったピクの手を掴み、安原は最後の一手を動かした。
「その口で言え。俺に何をして欲しい?」
酔い潰れてなあなあに済ます退路も断ち切った。ちまちまと策を練っている間に回り込まれて逃げ場を絶たれた、今のピクはさながら獣に追い詰められた小動物だ。
口実と作戦を経らなければお願いも言えないいじらしさが可愛くないと言えば大いな嘘になる。だが安原はピクの口からちゃんとお願いをさせたいのだ。
「……っ」
「ぉわっ」
折れるか、無駄に歯向かうか、どう転ぶかと思案していた矢先、ピクは右手で安原のネクタイを掴み引っ張り引き寄せる。
袋の鼠だってタダで捕まる様な腑抜けでは無い――答えは後者だ。
長い睫毛で縁取られた大きな瞳が数センチ先の安原を射止める。強気な光を宿らせた瞳が微かに潤んでいるのは酒のせいなのか、悔しそうに瞑られたつぶらな唇をわなわなと震わせながら小さな声で呟いた。
「抱きなよ」
高価な酒を口実に強い酒を飲ませて安原を酔わせようとしたピクの思惑と本音。
その態度はお願いをする人間のする事ではないし、抱いて欲しい人間の顔ではない。
最早脅迫めいたそれに、安原は昂りを感じずにいられなかった。
――勝った。これは完全勝利だ。
ピクの本音を引き出した安原はニヒルに、だが若干呆れた様な笑みを浮かべる。
覆ることの無い完璧な勝敗に調子をつける安原を悔しそうに睨みつけるピク。
強い酒で酔わせてその勢いで襲わせる魂胆だったのだろう。安原のザル加減と勘の良さが仇となりピクにしては稚拙で単純な作戦は呆気なく頓挫したのだ。
面倒臭い奴――たった四文字のお願いなんだ、こんな小細工しかけなくても素直にそう言えばいいものを。だがそれを素直に言えないのがピクなのであり、そんな意地っ張りな所がまた愛おしいのだ。
「……もっと誘い方ってもんがあるんじゃないのか?」
素直に答えた所は褒めてやる――そんな風に笑った安原はピクの手からボトルを奪い、ボトルから直接スコッチを口にする。
流れ込むスコッチで舌が焼ける感覚を覚えながら、安原は空いた手でピクの顎を掴み上向かせ、引き寄せた。
注ぎ込まれる熱に目が眩み、ピクはそっと目尻を緩ませる。
――甘い。それは咥内で焼けたスコッチなのか、唇に触れる熱なのか。
熱に浮かされたピクの喉仏が上下に揺れた頃、きっと熱の甘さを求めた舌が柔らかな唇を割って入ってくるだろう。
柵に嵌った鼠はいったいどっちだ?――熱を孕み求める、そんな酔狂にいつの間にか乗っていた安原は塞がった手元が惜しいと用済みのボトルを宙に投げる。
高価な酒は惜しいが、それすら安いと思える目の前の花を両手で愛でて味わいたいのだ。
上弦の月に照らされた琥珀色が、散りばめた星々の様にキラリと反射した。
本日の勝負、完全勝利につき安原の圧勝。