4戦目★水も滴るなんとやら雨降る夜が明け、白い朝焼けがいつにも増して眩しい。
青々しい森の小道で朝から小枝に止まる小鳥達が雨が止んだと囀る横を通りすぎた二人の旅人の間で、本日一回目の小競り合いを告げるゴングが鳴った。
「君が朝に弱くて起きれないから、仕方なく僕がわざわざ起こしに来ているんじゃないか!逆に感謝して欲しいね!」
「俺が言ってるのはやり方だ!なにも耳元でフライパンを叩き鳴らす事は無いだろう?!」
「あれなら君がいかに寝起きが悪くても一瞬で目が覚めて飛び上がる。ナイスアイデアだろう?」
アプから教えてもらったんだ、と得意げに両手で拳を作りフライパンとおたまの取っ手を握りフライパンを叩き鳴らすジェスチャーを取ったピクとは対照的に安原は忘れかけた耳鳴りを思い出し苦い表情を浮かべる。
「アプの奴、今度一言言ってやる……」
「アプは悪くありませーん寝こけて起きない寝坊助が悪いんですー」
「ああああその言い方すら腹が立つ!!」
ああ言えばこう言う、本日第一ラウンドから火炎弾の如き言葉のキャッチボールを繰り広げる安原とピク。
よく喋る口ばかりに気を取られているが二人、昨晩降り続けた雨の存在を忘れてはなかろうか。
森の小道は柔くぬかるみ所々水溜まりが浮かんでいる。川辺の土なんかは特に酷く、足を滑らせれば最後水浸しを免れない。
「大体僕が起こしに来ない時はどうしてるんだい?まさか一日寝こけてるんじゃないだろうね?」
「そこは旅人らしく好きな時に寝て好きな時に起きるさ。やかましい誰かさんがこなけりゃ穏やかな」
――瞬間、ピクの視界から安原が消えた。
忽然と姿を消した目の前の安原という状況に二、三度目を瞬いた後、叩きつける様な水面の音と共に盛大な水飛沫が舞い散った。
一体何が起きたのか、濡れた服の裾からざわざわと揺れる水面に目を移したピクは目の前の滑稽な光景を前に大きな瞳をパチクリと瞬かせた。
「……っ冷た」
「あっははははははは!何やってるんだい朝っぱらからあはははははは!!」
安原インザ池――ピクの目線をずっと下に下げるとそこには全身びしょ濡れな安原が池の中に落ちているではないか。
落ちてきた安原の反動でゆらゆらと揺れている水面に羽付きの帽子が呑気に浮かんでいる。頭からバケツの水を被ったのかと思われかねない見事な濡れっぷりにピクは腹が捩れるとは正にこの事と言わんばかりに高笑いじみた笑い声で安原を笑い飛ばした。
「馬鹿みたいに笑いやがって!そんなに俺が池に落ちたのが面白いかぁ?!!」
「やだぁ勝手に自分が落ちたのに逆ギレしないでくれないかい?」
ピクの言い分は至極真っ当である。この怒りをピクにぶつけるのは中々に道理がなっていない。
いい年になって背中から川に落ちた情けなさと目の前の高笑いに底知れぬ腹立だしさを覚えわなわなと震える安原。
「クソっ……全身びしょ濡れじゃないか……」
首元だけでも体に張り付いたシャツを剥がす為にネクタイを緩める安原が俯くと安原の顔にはらりと黒い髪が落ちてくる。
頭から爪先までびしょ濡れとなった安原。当然ヘアセットも見事に崩れ、後ろに流した前髪もすっかり元の場所へ降りてきていた。
頭の形に合わせ後ろに流し、若葉色の帽子を目深く被った姿と風来坊的雰囲気により渋い大人の風貌に思われる安原だがよく見ると案外可愛い顔をしている。
年若く見えるその顔を本人なりに気にしているのか前髪を降ろした素顔を滅多に見せたがらない。
ギャップ萌え、というものなのだろうか。予期せぬハプニングによりお目にかかれたいつもより幼げな安原をピクはまじまじと見下ろしていた。
「……何見てるんだ。俺が池に落ちたのがそんなに面白いか?」
「へ?ああ、そりゃあ」
「ったく……おい」
けしていつもと違う安原に見とれていた訳では無い、だが気が逸れていた事を誤魔化すように振る舞うピクに口角を苛立ちで揺らしつつ、安原は水浸しの手をピクに伸ばす。
引っ張り上げろという事なのだろう。こんなに素直に頼るなんて珍しいじゃないかとピクは感心する。
「何?引き上げろって?仕方ないなぁ」
ピクは安原の手を取った。―――それは釣り餌をくわえた魚の如く、あまりにも軽率に。
「ありがと…よっ!!」
「ぅわぁ?!!」
掴んだ手に引きずり込まれ、ピクの身体が宙に浮いた。
宙に浮いて数秒、盛大な水飛沫が二人を中心に舞い上がる。
来るであろう衝撃に強く目を瞑ったピクだが、思っていた衝撃は訪れず。代わりに縋り心地のいいクッションにそろそろと目を開けてみる。
湿気を含んだ嗅ぎ慣れた煙草の匂い、触れた先から感じる心地の良い心音。安原の手により引き摺り落とされたピクは安原の胸に飛び込む様な形で抱き留められていた。
水面の波紋がもう一人分増えている。服の裾どころか頭から爪先まで濡れてしまったピクは文句を言ってやろうと眉を吊り上げ安原を見上げた。
「俺を笑った罰さ。お前も道ずれだ」
してやったりと得意気に、まるでイタズラに成功したやんちゃな少年の様に笑う安原を前にしたピクは納得出来ないと言わんばかりにむにむにと口をつぐみ押し黙る。
水も滴る良い男、とはまさにこの事である。……本人には死んでも言ってやらないつもりだが。
――そんな顔で笑わないでくれ、うっかり許してしまいそうになるじゃないか……
「それはとんだとばっちりじゃないか?」
「そうともいう」
「ひどくないかい?!」
安原の理不尽な言い様に納得がいかないとムッと内頬を噛みながら、ピクは顔に張り付いた前髪を指先で払う。
「もう、せっかく前髪が良い感じだったのに君のせいで台無しじゃないか……」
「安心しろ。お前の前髪事情なんて誰も興味なんか無いさ」
「ちょっと!それはかなり失礼じゃ……ふぇっ……」
ふぇっくしょんっ!!!
良い歳をした大人達の盛大なくしゃみが雨上がりの森にこだましたのだった。
本日の勝負、アウト手前のセーフで安原の勝ち。