ことほぎ 兵舎から正門へと向かう道は、よけられた雪の中にうっすらと新たな雪の白化粧をして延びている。月島は、軍靴で浅い雪を踏みしめながら門に向かって歩いていた。門の傍から塀に沿って両側に並んでいる木はキタコブシで、兵舎を新築した当初移植した桜の木が根付かなかった代わりに植えられたものと聞いたことがある。敷地内のキタコブシは、雪の嵩は減ってきたとはいえまだ寒さ厳しいこの時期に、大きく広く伸ばした枝に多くのつぼみをつけ始めている。つぼみは微かに紅色を帯びた白色で、暮れ始めた薄暗い空と白く重なる雪の中、ほのかに温かな色を灯す。幾つものつぼみを目に映しながら、これらが開く姿をもう自分は見ないのだと思うと、不可思議にも思える感慨が腹にまた一つ積もった。兵舎に置いてあった少ない私物を今担いでいる頭陀袋の中に詰めたときも、直属の部下に最後の申し送りをしたときも、毎日通った執務室を辞したときも、兵舎の玄関を出たときも。一つずつ、腹に感慨が積もっていって、それは今やじわじわと腹の内か胸の内かを温めるようだ。
月島は歩きながら外套の首元から口を出し、ほう、と息を吐いた。白くなった息は瞬間に溶けていく。それを数度繰り返していると、無心になれた気がした。だが、頭は勝手にあちこち思考を飛ばす。営外の家に着くころには、辺りはすっかり暗くなっているだろうと思ったすぐ後に、そうか、もう営外という呼び方は意味を為さない。自分は軍属ではないのだから、と思い至る。
凡そ一年前、満州から共に旭川に戻った頃「私は来年が停限年齢です」と鯉登少佐に言ったとき、彼は最大限に眉間に溝を刻み、不服そうに口を曲げた。口に出さずとも判っていたであろうに、改めて宣言されたことが気に入らなかったのだろう。「知っとるわ」と言って月島を睨む目には、口調に反して苛立ちではなく焦りのような色が見えた。
「抜かりなく引継ぎなどの手はずを整え始めておる癖に」
「よくご存じで」
「お前の考えなど聞かずとも手に取るように判るわ」
「そうですか」
「だが、私一人お前のことを手に取るように判っているつもりになっているだけかもしれんから、お前はちゃんと話せ。今のように」
「はい」
慢心しないというよりは、相も変わらず月島の言葉で伝えて欲しがっているのだろうその率直な物言いが、月島には好ましかった。それは新任尉官であった頃から変わらない、月島にとっての彼の好ましい性質の一つで。
それから、幾度も請われたように出来得る限りを言葉にして伝えながら、鯉登少佐直属の特務曹長として、除隊までの日々を駆け抜けた。終結したばかりの大戦を引きずりながら世界は激動の只中にあり、日本もその渦中にある。除隊によって鯉登少佐の傍で力を尽くせる立場を失うのが今このときであることに忸怩たる思いはあったが、今であろうといつであろうと結局のところそれは変わらないのだと思い直した。自分の居なくなった後でも鯉登少佐が滞りなく任務を行えるようにすることこそが大事と思えば、書き出したやるべき多くのことを確実に粛々と為していくのみ。鯉登少佐は、最初のあのときより後は眉を顰めることも苦言を言うこともなく、頗る協力的だった。それがある部分自分の気持ちを汲んでくれたからだろうと思えるほどには、長く深く共に戦ってきた。その自負は同時に、共に戦場に出られぬ日がくるのだという現実を突きつけてきて、何度も軋むほどに歯を食いしめることになった。
今日、軍属として最後の日。全ての引継ぎを終えてから執務室に挨拶に行った月島に、鯉登少佐は常と変わらぬ凛々しい眼差しを投げかけて言った。
「長い間ご苦労だった。お前のこの国への献身は忘れないだろう。私も、お前に関わった誰も。月島特務曹長。己を誇れ」
鯉登少佐の真っ直ぐな目に。力強い言葉に。覚悟はしていたというのにどうしようもなく胸が詰まった。
「ありがとうございました」
それだけを答えた。これまでの日々に、言うべきことは全て伝えてある筈だ。短くも長くも感じる間、月島は口を開かず鯉登少佐と目を合わせていた。複雑に絡み合った感情はあれど、それは負の色ばかりではない。大きな信頼と感謝が、確かにそこにあった。
今、終に兵営の正門を出る一歩手前で、月島は兵舎を振り返った。鯉登少佐の執務室は、この位置からは見えない。僅かながら安堵と寂しさのようなものを覚えた。月島はそれ以上兵舎を見ることはせず、門の横のキタコブシを見上げた。頭頂の枝先に一つだけ、六分ほど開いた花を見つけた。月島は口端をほんの少し引き上げると、門の外へと歩き出した。
鯉登少佐は数日前に「除隊の日は兵舎を出たら真っ直ぐには帰宅するな」と月島に言った。駄目押しのつもりだろう、昨日も同じことを言った。「では銭湯にでも行って帰りましょう」と言えば「それはよい。お前は長風呂だからな」と笑っていた。月島は鯉登少佐が真っ直ぐ帰ってくるなと言う理由は尋ねなかった。『考えなど聞かずとも手に取るように判る』のは鯉登少佐だけではない。自分とて同じことだ。しかも素の鯉登少佐の分かり易さは並大抵のことではない。故に遠い昔には、この人に深謀遠慮や謀略は向いていないのではないかと思ったこともあったが、全くの杞憂だった。無数の思惑と謀略渦巻く軍の上層部に食い込み、見事に泳ぎ回ることができるのもこの人なのだ。
月島は荷物を抱えたまま銭湯へと向かった。そしていつもに増してゆっくりと湯に浸かった。全身芯から温まって外に出ると、日は完全に落ちていた。暦は新月、空に月はなく、星は雲の合間にぽつぽつと弱弱しく瞬いている。暗い道を、家に向かう。
満州から戻って借りた家は、鯉登少佐の家のほぼ隣といっていい場所にある。満州に行く以前に借りていた家は、所帯はなくともいつまでも営内にいるわけにもいかぬと営外に家を借りることを決めてすぐ、伝手で安く借りることができた家だったが、当時の鯉登大尉には頗る不評だった。曰く「私の家から遠い」とのことで。鯉登少佐と共に満州行きが決まったとき「家財道具は私の家で預かってやる」という言葉に押し切られる形で家を借り止めた。二年後旭川に戻ると「家を見繕っておいた」と言われ紹介されたのが、鯉登少佐の家のすぐそこなのに多少呆気にとられながら諾と言えば、あっという間に預けていた家財道具が運び込まれた。「無駄に電光石火ですね」と言えば、平然と「無駄ではない」と返された。とっくの昔に全力で自分を獲りにくる男に陥落してはいたが、一向に手を緩める気のないらしい彼が愛しく微笑ましかった。
「除隊の日、帰宅前に時間を潰したらまず私の家に寄れ」
「荷物を置いてからでもよろしいですか」
「いかん。荷物を持ったまま私の家に帰れ」
昨日結局、鯉登少佐は自分の家に「寄れ」ではなく「帰れ」と言い出した。月島はそれに応じた。すぐ隣であるし荷物くらいと思いはするが、我儘を聞いてやるのも楽しいものだ。だから、月島は視界に先に見えてきた自分の家を通り過ぎ、鯉登の家の門をくぐると呼び紐を引いた。すぐに玄関に近づいてくる足音が聞こえ、玄関の扉が開いた。
「おけり」
「ただいま帰りました」
鯉登少佐は藍の着物で月島を出迎え、玄関に招き入れた。そして扉を閉めると間口から上がり、靴を脱いで同じく間口から上がった月島にその場で向かい合った。鯉登は真っ直ぐに月島の目を見つめ、微笑んだ。
「ほんのこておやっとさぁじゃった。――基」
腹に、ぎゅ、と力が籠り背中が熱くなるのが分かった。
基。
そう呼んだ。
月島軍曹。月島。この人にそう呼ばれた回数など、最早見当もつかない。月島基。そう呼ばれたことも、少ないがあった。だが、名前だけを呼ばれたことがあったか。いいや。あの一度以外にはなかった。
だからこそ、軍を辞した今日この日に。
月島は持っていた荷を足元に下ろすと、鯉登に半歩近づいた。
「覚えていますか。小樽から谷垣を追って行ったコタンで。あなたは私に言った。『名はことほぎ』だと。お前の名はよい名だと」
鯉登は僅かに目を見開き、端正な顔を柔らかにたわめて頷いた。
「ああ。覚えている」
「それで充分だった」
「ああ」
なのに。名を呼ばれただけで身体中に満ちるものがあるのだ。
月島はゆっくりと、鯉登に向かって踏み出した。両手を差し伸べると、鯉登は眉を下げて両手を差し出し返してくれた。触れ合い、互いを抱きしめる。鯉登の身体の温かさを感じ、ほんのりと立ち上る香りをかげば、目の奥が熱くなった。
あなたが呼ぶ私の名は、ことほぎだ。
そしてあなた自身が、私にとってのことほぎだ。
月島は腕の中の存在で自分を埋め尽くそうと目を閉じた。鯉登の肩口に鼻先をつけたまま、口を開く。
「音之進殿」
触れ合ったままの鯉登の身体が震えたのが分かった。背に回された鯉登の手に力が籠ったのが嬉しかった。
軍人であることは自分を作る大きな要素で、除隊しても塗り変わりはしないだろう。だが、軍属の部下でなく、ただの一人の男として鯉登の傍にあることを許され請われたのだと知れば、胸が痛むほどの喜びが沸きあがる。
「基」
鯉登が呼ぶ声が、身体に染み込んでいく。
月島は鯉登を抱く腕に力を籠めた。鯉登を想う愛しさも何もかもが、この手から、触れ合った身体から、伝わっていってくれないかと思いながら。