鰯雲 すぐ背後に聞こえていた軍靴が階段を叩く音が止まった。月島は左足を次の一段にかけた姿勢ですぐさま振り返った。
鯉登大尉は踊り場で足を止めていた。常と同じくまっすぐに背の伸びた美しい立ち姿で、心持ち顎を上げ、硝子窓の向こうを見ている。月島が振り返ったのを分かっているだろうに、こちらを見ようとする素振りはない。軍帽のつばの下から窓に切り取られた空を見上げる目は、どこか柔らかな色を滲ませていた。
「大尉殿」
諫めるつもりなど毛頭ない。大尉の執務室へと続く今は誰が通りかかる気配もない階段であれば、急かす必要もない。彼のひたすらに静かな表情と柔らかな眼差しに、何を見ているのかを知りたいと思う個人的な感情は、兵舎では控えるべきものであると思えばこそ、平静を保ち声をかけるしかない。
左足を戻し右足に揃えて身体ごと振り返った月島を、鯉登大尉はやはり見ないまま、口を開いた。
「月島」
「はい」
「鰯雲が見える」
「……はい」
「呆れるな」
「はい」
「今の〝はい〟はどっちの〝はい〟だ」
鯉登大尉は窓の外に目を向けたまま、面白そうに言った。どっちも何もあるか。そう思いながら月島は、鯉登大尉の視線の先に自分の目を向けた。日暮れの気配を感じさせる仄かに色の変わり始めた青い空一面に、魚の群れか鱗のような、薄く白い雲が刷かれていた。
鰯雲。確かに。
北海道の短い夏が今年も終わるのだなと思った瞬間、鯉登大尉が言った。
「樺太で見たか」
「鰯雲をですか。記憶にありません」
「そんな余裕はなかったものな。だが、樺太の空にも鰯雲はあるに違いない」
「……ええ」
鯉登大尉は、ゆっくりと月島に顔を向けた。軍帽の下、左頬の古い傷跡が、夕方の日差しに仄かに滲んでいる。彼の真っ直ぐな目が、月島の全身を縫い留める。
「月島。シベリアでも共に鰯雲を見てほしい」
ああ――。
表情を動かさないようにするのは、思った以上に困難だった。
あなたの力になれるなら。あなたが俺を必要としてくれるなら。どんな戦場でも、どんな地獄でも。この身をどこへやることも厭わない。
「私を遠ざける方が難しいのだと、あなたはそろそろ理解した方がよろしい」
平然とそう言えば、鯉登大尉は軍服に似つかわしくないほど柔らかに微笑んだ。軍帽のつばで影が落ちているのがひどく口惜しく思えるほどに、美しい笑みだった。
それは、二人がシベリア出兵に発つ4日前のことだった。