22回の贈り物 昔、誰かがこんなことを言ったのを聞いた。「ごめんなさい」は言えば言うほど価値が下がり、「ありがとう」は何度言っても価値が下がらないどころか、上がっていくのだと。今となってそれを思い出し、月島が思うのは、言葉としての「ごめんなさい」も「ありがとう」も、価値の変動などしないということだ。1回の「ごめんなさい」も100回の「ありがとう」も、口に出した人間の誠心がなければ何の意味もない。
それでは、誠心を込めた22回の「好き」には、果たしてどんな意味が生まれ得るだろうか?
今年の12月23日は月曜日だ。だから月島が鯉登の誕生日の過ごし方をどうするかの最初の一歩として、前日や前々日の土日に出かける方がいいか尋ねた時、鯉登は「祝ってくれるのならいつでも嬉しい」と隠し切れない喜びを滲ませて言った。それを聞いた瞬間月島は逆に、いつでもよくはない、と思った。
鯉登は今年の12月23日で22歳になる。18歳から4年間、大学生として学びながら牙狩り特殊戦闘員として二足の草鞋を履き奮闘した生活は、もう間もなく終わりだ。あと三カ月もすれば大学を卒業し、新たな一歩を踏み出す。月島は年明けすぐ、鯉登の大学卒業を待たずに海外へ行くことが決まっている。技を習得して何年後に帰ってこられるのか、それ以前に習得ができるのかもわからない。だが、今考え得る選択肢の中で、月島が抱く強い望みに近付ける方法がそれであれば、踏み出すことに躊躇いはない。ただ、夏に様々な意味で変わった鯉登との繋がりと関係性を思う時、せめて、物理的な距離として離れる前の鯉登の誕生日は最大限に祝いの想いを伝えて過ごしたかった。
365日の内の1日。自分にとって特別な人の生まれた日は特別なものになるのだと、その気持ちを月島に教えたのも味合わせたのも鯉登だった。ならばやはり、仕事や学業の都合がどうあれ、23日にこだわりたい。月島がそう言うと、鯉登は上がり気味の目尻を柔らかく撓めた。
同居をここぞとばかりに活用することで、0時を迎えて日付が変わる瞬間には一緒にいられる。明ければ鯉登は朝から大学の研究室に行くし、月島も仕事へ行く。鯉登は大学での作業が終われば千葉拠点事務所に出勤してくるので、定時で仕事を切り上げて予約したケーキを受け取り、鯉登の希望に従って夕飯は家でゆっくりと祝いメシの算段だ。そこまでは考えることもなくすんなりと予定が決まる。だが、月島にとっての最難関は誕生日プレゼントだった。
同居を始めた初年の3年前は、保護者然とした心持ちで本人に欲しい物を尋ねればよかった。一昨年もそれでよかったが、去年は少し悩みながらそれでも本人に尋ねた。今年はどうしたものか。
鯉登は性格と境遇が相まって、歳若くも近しい者の顔色を読むことに長けている。この半年で、月島に関しては一層容赦なく表情から心中を読んでくるようになった。だが月島は、表情豊かな筈の鯉登の心中を察することに於いては全く鯉登に及ばない。プレゼントは気持ちだと言うが、鯉登に遠慮などさせたくない。鯉登が22歳でいるのは今だけなのだと思うと、しかももうすぐ傍を離れなければならないのだと思うと(考え方が重いと言われようと)一番とは言わなくともできるだけ喜んでくれるものを贈りたい。
10月下旬から延々考えた結果、結局今年も月島は鯉登に欲しい物を尋ねることにした。ただし今年は、保護者然とした顔をしたいのではなく、恋人という立場であることを強調して。
「鯉登さんが、できればですが、今一番喜んでくれるものを贈りたい」
そう言えば、鯉登は月島を見つめたまま何度もまばたきをして(もしかすると何かを我慢して……いや)数度口をむにゃりとさせてから訊いた。
「物じゃなくてもいいか?」
「勿論です。行きたいとことかですか?海外とかだと遠くは難しいかもしれませんが」
「んにゃ」
鯉登は、ずいっと上半身を月島に近付けてきた。至近距離に顔がくる。月島は反射的に上半身を引かないよう肩に力を入れて踏み止まった。鯉登が、頬の肌理が見えるような正に目の前でニンマリする。
「12月23日、1時間に1回か2回の頻度で直接『好き』と言ってほしい。合計で22回」
「……」
「駄目か?」
鯉登の目は笑っていて、けれど真剣だった。
この人に「あなたが好きです」と何度も伝えたつもりだった。つもりだっただけなのだろうか。思い込みかもしれないが、自分はもう、彼が「月島」と呼んでくれるだけで、そこに想いを聞き取った気になっていた。この半年、この人が「好きだ」と度々言葉にして伝えてくれていたからこそ、名前を呼ばれるだけでそう思えたのかもしれない。それでは己はどうだったか。
神妙な顔になったのを見て取ったのだろう鯉登が、月島の左頬に右手を添え、額をくっつけてくる。優しく落ち着いた声は、触れ合わされた額から直接響いてくるようだった。
「月島は何度も伝えてくれている。ただ、知っての通り私は我儘だ。我儘だから、月島が今、目の前にいてくれるうちに直接いっぱい聞きたい」
あなたの、未だ自制の内にあるささやかな我儘なんて、どれだけでも聞いてあげたい。
「……22回が上限ですか?」
鯉登は額を離して破顔し、「うんにゃ。何回でも言って」と答えた。
12月22日、23時過ぎ。いつもは、そして翌日が平日であれば尚更それぞれ自分の部屋で眠るが、鯉登の「今日は一緒に寝たい」との願いに応えて、月島は鯉登の部屋に入った。同じマンションの一室だというのに、鯉登の部屋は月島の部屋ともリビングダイニングなどの共用部分とも違う、鯉登らしい匂いがする。月島は毎回、新鮮にそれに驚きを覚える。
鯉登の部屋も月島の部屋もベッドはシングルサイズなので、大の男二人、しかも魅せるものではなく実戦的なものだとはいえ、筋肉まみれの二人が並んで眠るのには狭い。それでもシングルベッドでぎゅうぎゅうに詰めて眠ってもいいが、季節は冬だ。床に客用布団を二組敷いて、もう少し広く眠る手もある。どっちにしますかと言えば、もうすぐ22歳を迎える男は「抱き合ってシングルベッド」と安眠できそうにない要望を述べた。なので、「抱き合いませんけど」との注意書き付きで、パジャマの鯉登を壁寄り、ペラペラジャージの月島を転がったら床に落ちる方として、二人はベッドに並んで入った。ふかふかの羽根布団と毛布を被り、身体の片側が触れ合うようにしながら片手を重ねて、0時になるのを待っている。
「電気消すか?」
「時刻はスマホでも見えますけど、22歳になりたてのあなたの顔も見たいので、まだ消さないで下さい」
「お、おお」
「なんです」
「ふふ、なんでもない」
月島は目を閉じないまま、光量の抑えられたシーリングライトが照らす白い天井を見る。布団の中で鯉登と触れ合っている身体の右側と右手は熱いほどだ。壁にかけられたシンプルな電波時計の針は、23時52分を指している。
あと、もう少し。
「鯉登さん」
「うん」
鯉登が目を開いているのかは分からないが、顔は上向いたままだ。動かした身体が布団に擦れる音はしない。掛布団も引っ張られない。
触れ合っているだけの手を握り締めたい、肩を掴んで引き寄せたい、噛みついてやりたいと思う欲望が腹の内側を炙る。互いの想いを確かめ合ってからは性的欲望を抑えている訳でもない。挿入を伴う行為はまだないが、互いの身体を貪るように抱き合うことはどれだけもある。鯉登が艶やかに揺らめき、俯き、喉を晒し、身体を折り曲げ、しなやかな筋肉を浮かび上がらせて喘ぐ姿なら、幾らも目に焼き付いている。数時間前に鯉登が上げた吐息と嗚咽と悲鳴の間のような声も、耳の中に取り出すことができる。
優しくしたい欲求と激しく欲望を確かめ合いたいという思いは両立する。何も矛盾しないのだ。鯉登に触れるようになって思い出したそれを、月島は時に持て余すような気持ちで検分する。鯉登の香りに全身包まれている今のような状況では尚更だ。
あと、もう少し。
「好きです」
「まだ早い」
鯉登が笑い声を上げる。月島も笑う。
「今のはノーカウントだぞ」
「いいですよ、ノーカンで。ねえ、鯉登さん。俺、向こう行っても言いますよ。電話でもなんでも、何回も言います」
「こういうの苦手じゃないか?」
「全く」
「そうかもな。月島、腹が決まってればそーゆーとこあるもんな」
「そーゆーとこがどこかは分かりませんが、まあそうです」
「うふふ」
「なんで笑うんです」
「ふふふふ……月島」
「はい」
「好きだ」
「ノーカンです」
「私のはノーカンにするなっ」
抑えた笑い声。
あと、もう少し。
月島は緩慢に動く時計の秒針を睨みつける。
明日、最低22回の「あなたが好きです」を告げれば、その言葉は、この想いは。この人の中に留まってくれるのだろうか。
留まってほしい。この人の中にある貯蔵の器の中から零れだしてしまいそうなほどに告げ続けて、ブラックホールのようにとんでもない重量と密度になって、いつか当たり前のように、当然のように思ってくれればいい。
――いいや、言葉だけで済ませてやるつもりはない。
月島は、柔らかなだけでも温かなだけでもない感情の混沌を腹の中でかき混ぜる。
あと30秒。
「カウントダウンしていいですか」
「するな」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
あと10秒。
秒針を睨み、胸の内でカウントダウンする。鯉登も秒針を見ているだろうか。
5、4、3、2、1――
月島は顔を右側に向ける。こちらを向いた鯉登と目が合う。鯉登の目はゆらゆらと潤んでいる。
「22歳のお誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう」
「鯉登さん」
「うん」
「好きです」
鯉登の潤んだ目が酷く嬉しそうに細められる。苦しいほどの愛しさに苛まれながら、月島は、この顔を忘れることはないだろうと思った。
翌日の朝までに月島は寝言で3回「好きです」と言ったと鯉登は証言した。24日になるまでに月島が鯉登に「好きです」と言った回数は、鯉登が笑うあまり涙目になったほどだった。