ハンルス01 ハン視点いたー
夕暮れのハードデックは本格的に混み合うにはまだ少し早い。探し人を見つけるのはそう難しくない状況だが、そもそも探す必要が無かった。オレのお目当ての人物ことブラッドリー・ルースター・ブラッドショウは丁度お得意のピアノでバーの中心になっていたからだ。いつものアロハシャツ姿でご機嫌に歌う男の視界に入らないようにしながら店に入る。今日はいつもの仲間がいないにも関わらず、店中の視線を集めて鍵盤を叩くルースターは間違いなく陽気な男だ。アビエイターとしての腕も良い。それなのに何かを分かったような顔をして全力を出し切らないところが腹の立つ男だった。盛り上がる客たちを横目にペニーからビール瓶を2本受け取ると、歌い終わったルースターがカウンターの端に腰を下ろすところだった。発散して気が抜けたのかぼんやりと遠くを見てるルースターにお気楽なもんだなと心中で悪態をつく。こっちは今からミッションに挑むところだっていうのに。
ルースターの様子をうかがいながら胸ポケットからセルフォンを取り出す。画面には趣のあるバーのWebページが表示されている。客も演奏可能なピアノがあるバーだ、どこかの雄鶏も気に入るに違いない。オレの今夜のミッションは、仲間の男を飲みに誘う、たかだかそれだけだ。確かに一対一は初めてだがそれがどうした、優秀なオレには造作もない。学園のマドンナをプロムに誘うハイスクールのガキでもあるまいし、緊張なんてするわけがない。ふとマドンナ然として高嶺の花よろしく微笑むルースターを想像してしまい、そのありえなさに肩の力が抜けたオレは、ようやくターゲットのもとに足を進めた。
カチン――
瓶同士がぶつかる音をさせながら、まだオレに気づかないマヌケな男の頬に冷えた瓶を触れさせる。先制攻撃は成功だ。気を良くしてヤツの反応をうかがっていると
「ありがと、マーヴ…」
聞いたことのない甘やかな声、少しの照れとそれを上回る嬉しさをまぜこぜにしたようなあどけない顔を向けられ、オレの思考回路は一旦停止した。奇跡のミッション達成からこっち、オレとルースターの距離は大分縮まったといっていい。オレに気軽に笑いかけるようになったし、元々仲の良いフェニックスなんかには気を許した柔らかい笑みを向けている。だが、今見たコイツの表情はルースターを見続けてきたオレのデータベースにも無いカオだった。つまり、伝説の男ことピート・マーヴェリック・ミッチェル大佐限定のカオってことだ。
気に入らないな、整理のつかない脳内でただ一つ浮かび上がってきた言葉はそれだけだった。
「大好きな親鳥と仲直りしたら、すっかりヒヨコになったってのか」
セルフォンを胸ポケットにしまいながら、スツールから腰を浮かせるルースターを制するように隣に座る。逃がすわけないだろうが。ビール瓶を片方受け取ったルースターが再び腰を落ちつけるのを確認してから顔をのぞきこむ。大佐限定の顔は早々に引っ込めたようで、いつも通りの顔がそこにはあった。そりゃそうだ。オマエの前にいるのは大佐じゃない、このオレだ。
「仲間の名前を間違えるようなヒヨコちゃんには、しっかり綴りから教えてやらないとな」
どうしてやろうか思案したのち浮かんだアイデアは、今の気分を少しは晴らしてくれそうで口角が上がる。そんなオレとは対照的に、はしばみ色の瞳に警戒の色を宿すルースターにますます気分が良くなってきた。オレはルースターの肉厚で丸まった背中に手を伸ばし、ゆっくりと上から下へ指を動かした。
「っ…」
突然の感触に身を竦めるルースターの寄った眉根に、先ほどとは別の種類のざわつきが浮かんできたが振り払って次に進む。瓶の水滴で濡れた指先が広い背中に跡を残した。縦に1回、横に1回、もう一度縦に1回。背中のキャンバスに描かれた「H」を正しく読み取ったルースターは呆れたような横顔を晒した。その後さっと周囲を見回すが、残念だな、お前の味方は今日はいない。コヨーテやフェニックス達にも根回し済みだ。フェニックスは不承不承という感じだったが。助けが期待できないことを悟ったルースターはオレの方に向き直る。
「OK。お前の名前は『H A N G M A N ーハングマン』。ちゃんと覚えてる。間違えたのは悪かった。だが、教えてもらう必要はない」
「どうだかな? また間違えられちゃ堪らないからな。さ、レッスン再開だ。次は『A』」
そうだ。二度と間違えるんじゃねぇよ。腹の奥に抑えこんだ苛つきが再び這い上がってくる前にウインクを投げつけ、申告通り広い背中に手を伸ばす。わざと腰骨のあたりから肩甲骨の間を勢い良く走らせると、瞬間、ルースターが身をよじって距離をとろうとする。逃がさねぇって言ってんだろうが。カウンターに置かれた無骨な手を捕らえ、しっかり握り込む。ヤツの耳が赤く染まっていく様をみとめ、自然と口角が上がっていた。
「不毛な時間の使い方だと思わないか」
「全然」
非難めいた視線をよこすルースターの問いに即答すると、ヤツは丸い瞳をますます丸くし首を傾げた。
ノロマで重量級の身体のくせにふとどこかに消えそうな感じもするお前に、オレの名前を教え込む。その時間が不毛だなんて、本当にお前はわかってない。何も通じていない滑稽さを鼻で笑い飛ばし、「次は『N』」と続けた。
今度は感触を覚えさせるように弾力のある背中に指を押し込みながらゆっくりと進める。とうに乾いた指先にルースターの熱が伝わってくる。一度は失ったと思った熱だ。確かめるようになぞりながら、背骨の上にさしかかった時、つ、と背骨に沿って優しく撫でるとルースターは大きく身じろぎした。オレの下から逃げ出そうとする手をカウンターに押さえつけ、離れた分だけ距離を詰める。指の間を伝う汗はどちらのものか、重なった手はまるで一つの熱の固まりのようだった。ルースターは赤みを帯びた顔にはっきりと不満の表情を浮かべていたが、ふいに何かに気づいたように眉間の皺をゆるませた。
「Hey, 今日はそろそろお開きにしよう。お前熱いぞ」
「冗談。まだまだこれからだろ 熱くなってるのは、お前だ」
何かと思えばオレが酔っ払っていると思ったらしい。見当違いもいいとこだ。止める気配のないオレに肩を落としたルースターは、うんざりしたように体ごと顔を背けた。丸まっていた体が開いて布地が胸の形に引っ張られる。胸元に浮かぶ汗がくっついて玉になり、谷間の下に流れていく様子に思わず目を奪われているとため息がひとつ聞こえてきた。いや、これは不可抗力だ。
弁明しようとしたオレに向き直ったルースターは、熱い手のひらをオレの胸に添えて掠れた声で囁く。
「やっぱり熱いのはお前だよ」
思わぬ行動にオレが目を見開くと、伏し目がちに「それに…」と続けたルースターは次の瞬間、ぐんっとオレの胸元を掴んで引き寄せた。
オレの下に、ルースターがいる。
自分も倒れこむように引き寄せたため、半分オレに覆い被さられるような体勢になったルースターはこちらを見上げ、ゆっくりと瞬きをした。これは何か仕掛けられてる、そう分かっているのに、とろりとした瞳がまぶたに覆われ再び現れるさまから目が離せない。続けて熱い吐息が耳に吹き込まれた。
「教えこむのは『ハングマン』でいいのか…『ジェイク』じゃなくて」
一瞬で腹の底がカッと熱くなる感覚に襲われる。自分で煽っておきながら少し困惑したような色を浮かべるルースターに更に煽られ、その胸に手を伸ばそうした時、ヤツの方が先に動いた。
ガランガラン一一
オレの下で何かが落ちたと感じた時には店中に鐘の音が鳴り響いていた。客達の動きが一瞬止まった後、ドッと歓声が沸き上がる。喧騒の中オレが見たのは、ルースターのアシストによって胸ポケットからカウンターに転がり落ちた自身のセルフォンの姿だった。
「… おまえっ…」
騒ぎに乗じてちゃっかりオレの下から抜け出したルースターをひっ捕まえようと手を伸ばすが、タダ飲みに浮かれた客に阻まれる。
「悪いな。次は俺が奢るから」
オレの手の届かないところまで移動したルースターはウインクをひとつ寄越して、足早に去っていく。
アイツ、とんでもねぇな
呆然としたオレの肩や背中を浮かれた客が「ごちそうさま」と叩いていく。さっきまで触れていたのはアイツの体だったのに、なんだこの落差は。しれっとした顔で店を出るルースターを恨みがましく見ていると、ある一点に目が留まった。耳が赤い。先程までの攻防を反芻しルースターの反応を思い出す。
「…ま、収穫がないわけじゃないってことか」
オレがひとりごちていると、奢りでゴキゲンになったオッサンが話しかけてきた。
「兄ちゃん、何だか楽しそうじゃないか。こんな大勢に奢るのに余裕だな」
「まさか 手痛い出費だ。ただオレの懐がさみしくなった分、お返ししてもらう楽しみがあるんでね」
「 皆に返してもらおうってか しょうがねぇな。1杯ぐらいは俺からのサービスだ」
何か勘違いしたオッサンが奢ってくれるというので肩を叩いてペニ一に一杯貰いに行く。申し訳なさそうな顔をするペニーにニッコリ笑い返してビールを呷った。当初の予定どおりにはいかなかったが、こんな手をとったんだ、流石のルースターも去り際の約束を反故にはしないだろう。
今のうちにせいぜい逃げてろ。次の算段を立てながら、オレは酔っぱらい達の輪に加わった。