close the distanceモヘア
「お前っ……、何だよ、これっ……!」
「はぁ⁉︎ ってお前何してんだ」
突然上がった声に驚くハングマンを完全に無視し、ルースターは一心不乱に彼の胸や背中を撫でさすった。正確には、ハングマンが身につけているニットのふわふわとした表面を。
「おい、もういいだろ」
あれから優に30分は撫で続けているルースターにハングマンが呆れた視線を向ける。「もうちょっと……」と抵抗するルースターは、すっかりハングマンが着ているふわふわとした触り心地のニット――モヘアニットと言うらしい――に魅了されていた。
「そんなにさすられちゃ、落ち着かないんだよ」止まらないルースターの腕を引き剥がしにかかったハングマンに「たまにはいいだろ、恋人なんだし」と言い募る。ぐっと言葉に詰まって捕らえたルースターの腕を解放するハングマンに、まぁ戸惑う気持ちも分かるけどな、と心の中で共感する。付き合い始めてからの時間はそんなに長くないとはいえ二人は実際に恋人同士ではあるし、今日のようにハングマンがルースターの家を訪れるのも片手の指では足りないくらいの数にはなる。しかし、それでもこういった触れ合いは殆ど無く、今のようにルースターがぴったりハングマンに寄り添って座ることも無い。いつもは互いのパーソナルスペースをしっかり守って座っていて、ボブやフェニックス、コヨーテ達との距離の方が明らかに近かった。それでいて体の関係が無いかといえばそうではない。親友未満の距離感のくせにやる事はやっていた。むしろ体の関係から始まった事が、恋人らしい触れ合いが出来ない現状を招いたと言ってもよかった。
「俺もこのニット買おうかな」
多少の遠慮を見せて撫でる場所を胸や背中から逞しい腕へと移したルースターがポツリとこぼす。ルースターを虜にしたこのニットは、ハングマンの家族が送ってきた荷物に食料品と共に入れられていたらしい。こうした家族とのやり取りの一端を聞くたびに、彼が家族に愛されている様子が垣間見えてルースターの胸にあたたかいものが広がっていく。そんな幸せの象徴とも言えるものを、自分がさすり続けて早々にダメにしてしまうのは申し訳ない。
「ネットで買えるかな。えぇと、ニット、ふわふわとかで検索すれば……?」忙しなく動かしていた片手をどうにか離し――もう片方の手は未練がましくハングマンの腕に絡ませたままだ――携帯端末を操作し始めるルースターに隣から大きな溜息がこぼれる。
「お前、自分で着て自分の体を撫でまくるつもりかよ。こんな図体の髭面の男がそんな事してる姿、地獄じゃねぇか」
言うやいなや、絡んでる腕をグッと引き寄せ、ルースターの手から端末を取り上げる。確かに自分で自分の体をわしゃわしゃ撫でまくる姿を想像すると滑稽ではある。
「……じゃあ、こんな触り心地のデッカいぬいぐるみとか」
「95㎏の髭面男がぬいぐるみを撫でさすってる姿、さぞや面白いだろうなぁ。是非見てみたいもんだな」片眉と口角をぎゅっと上げバカにした顔を向けてくるハングマンに「ぬいぐるみを撫でるのに見た目は関係ないだろ」と返すものの、そんな魅惑のぬいぐるみを手に入れてしまえば永遠に撫で続けてしまうのではないかという不安がよぎる。どうしたものか、と思案し出したルースターをしばらく眺め、ハングマンが口を開いた。
「別に悩むことはないだろ。今みたいにオレにくっついときゃいい」
「いや、落ち着かないってお前がさっき言ったんだろ。それに家族から貰った服なんだから大事にしないと」
「散々撫でまくってる奴が言っても説得力がねぇよ。勢いよすぎるのは勘弁して欲しいが、落ち着いて撫でるくらいなら問題ない」
ありがたい申し出である。だが、ゆっくり撫でたとして、このニットはどのくらいルースターの力に耐えられるのだろうか。耐久度を探るべくふわふわした長い毛足を観察し始めたルースターの頭上から、「恋人なんだし」という声が降ってきた。いつもより幾分か硬い声にルースターが顔を上げると、ハングマンは膝の上の雑誌を見ながらコーヒーを啜っていた。一見何でもないようなハングマンの態度だが、ルースターの奇行が始まってから、開かれた雑誌のページは一向に変わってないし、マグカップの中のコーヒーはすっかり冷めきっている。冷めたコーヒーを口に運び、変わらぬページを眺めるハングマンの心情と、先程こぼされた言葉の意味を考えると、ルースターの首の後ろにじわじわと熱が集まってくる。むずがゆいような気持ちに胸を掻き毟りたくなった。
「ココア入れるけど、お前も飲む?」
何だかこれまでの行動が猛烈に恥ずかしくなり、仕切り直しのため、あれだけ離れ難く感じていた体を離し立ち上がる。「ん」とハングマンから差し出されたカップを受け取りルースターはキッチンへ向かった。ココアを戸棚から取り出しながら、数ヶ月前の出来事を振り返る。ひょんなことから体の繋がりを持ってしまった上に最高に相性が良いことを肌で感じたものの、二人の関係性は変わることはなかった。このまま体の繋がりだけで終わるんだろうな、とぼんやり考えていたルースターに『恋人』という新しい関係性を提示したのはハングマンだった。まるで初めて聞いた言葉のように「こいびと……」とオウム返しするルースターに、「異議がなけりゃ、今からオレ達は恋人だ。いいな」と凄んでくるハングマンに思わず頷いてしまったのは朝日が眩しいモーテルのパーキングでのことだった。それ以降、釘をさすかのように「恋人」と時折口に出してきたのは決まってハングマンの方で、ルースターが自分から言葉にしたのは思い返せば今日が初めてかもしれない。ミルクパンの中でペースト状にしたココアにひとつまみの塩を加えて練りながら、ハングマンの横顔をそっと覗き見る。無表情に雑誌をめくるその顔は整っていると言っていい。元から真面目に任務につく姿を遠くから眺める分には良い男だなと思っていたが、最近では傍で見るあの嫌味な笑顔にさえ愛着が湧いてきている。ハングマンの圧に押し切られるように始まった二人の関係だが、頷いたのも続けているのもルースターの意思だ。ただ、顔を合わせれば衝突するような間柄だったのに手順を踏まずに恋人になってしまったので、恋人としてどう振る舞えばいいか分からないのだ。加えたミルクを温めて完成したココアを二人分のマグカップに注ぐ。ハングマンの味覚に合わせたココアはルースターには少し苦い。自分用にはもうひと匙砂糖を加えた。
「ほら」ココアを手渡し、今度はハングマンから少し離れた位置に腰掛けた。物言いたげなハングマンの視線には気づかないふりをする。さっきまでが異常だっただけでこれが二人の定位置だ。甘いココアに口づけながら心の中でいつも通りと唱えて、先程までの乱心なんて無かったかのように振るまう。しかし、リモコンを取ろうと手を伸ばした時にあのふわふわに触れたが最後。天使のニットの吸引力には抗い難く、結局その日は一日ハングマンにくっついて過ごしてしまった。
あの日以降、二人で会うときは毎回ハングマンはモヘアニットを着ていた。と言っても、家族に貰ったニットではなく自分で買い足したもののようだった。何だか申し訳ないなと思うルースターに「オレの気遣いを無駄にすんな。触りたいだけ触れ」とハングマンは堂々と胸を張り、どうぞとばかりに腕を広げた。流石に抱きつくまではしないと首を振るルースターに、これ見よがしなため息をついたハングマンは大人しく客人を自宅に招き入れた。
「そういえば、今まで気づかなかったけどこれ着てる人って結構見かけるもんだな」
「……お前、まさか他でも触ってるんじゃないだろうな?」
「俺のこと、どんだけ見境ないと思ってんだ。大体着てるのは女の子だし、触るわけにはいかないだろ。まぁ男女関係なく許可なく触ったらアウトだけど」
「たとえ許可貰っても触るなよ。女の子よりオレの方がさわれる面積デカいだろ」
「論点そこか? まぁ現役軍人の背中は広くてありがたいよ」
くだらない会話を交わす二人は膝頭がぶつかるほど近くに座っている。一応抵抗を試みたルースターだったが、毎回天使のニット――もう一周回って悪魔のニットかもしれない――の誘惑に屈するので、途中から諦め初めから隣に腰掛けるようになっていた。おかげで最近の定位置は互いの親友たちより距離が近い。ハングマンの家で最近流行っているという人気のドラマシリーズを流しながら、ふと気付いたようにルースターが口を開いた。
「お前って結構体温高いよな」
「そりゃ筋肉量が多いからな」と返すハングマンに「そうなんだけど、なんか低いイメージだったんだよな」と続ける。
「どういう意味だよ」首を傾げるルースターにハングマンが不満そうな顔を向ける。「どうって言われても、そういうイメージってだけで……」続けるルースターの肩に自分の肩を軽くぶつけたハングマンは、下から掬い上げるようにすぐ傍にあるルースターの手を握った。「……っ」指の合間にハングマンの硬くて長い指が入り込んでくる感覚に思わず声を上げそうになる。そわそわし始めたルースターとは対照的にハングマンは「ほら、結構あったかいだろ」と何でもないように言い放った。「だから、今はもう知ってるって……」呟きながらルースターが手を離そうとするのを許さず、ハングマンは一層強く握りしめる。「鳥頭のお前が忘れないように、しばらく握っておいてやるよ」不敵な笑みでそう言うと、もう話は終わりとばかりにTV画面に顔を向けた。繋がれた手と彼の顔を交互に見つめるルースターの視線もまるで感じていないかのように、ドラマに意識を向けるハングマンに、ルースターも抵抗を諦める。繋がれた手のことは忘れて自分もドラマに集中しようとしたルースターだったが、ハングマンの親指が手の甲をさすったり爪の縁ををなぞったりする度に集中力を乱され、後日ひとりでドラマを見直す羽目となった。
「あれ……」玄関のドアを開けるなり思わず口をついて出てしまった言葉に、ルースターは内心で後悔する。最近ずっとモヘアニットを着てきてくれていたハングマンが今日はカジュアルなジャケットとシャツの出立ちだったため、つい言葉が漏れてしまったのだ。ハングマンには好きな服を着る権利が当然あるし、そもそも前回会った時でさえニットを着るのに適した温度とは言えなかったのだ。気まずい気持ちになったルースターだがハングマンは気にした様子もなく、手土産を渡して家に入れるよう促した。
どうしよう……。二人分のコーヒーを手にし、リビングに向かう途中である事に思い当たりルースターは足を止めた。どこに座ればいいんだ……? 自分の家なのだからどこに座っても構わないのは当然心得ている。これまではあのふわふわした触り心地に釣られてハングマンの隣に座っていたが、これからの季節あのニットが登場することはもうないだろう。ならば、以前のように少し離れて座るのが正解だろうか。いや、でもそれはあからさま過ぎないだろうか。それではまるでハングマンの体――が身につけている天使の触り心地のニット――目当てで近づいたみたいじゃないか。いや、それはその通りなんだけど。ぐるぐる思考を巡らせたルースターは、結局、すぐ隣でもなく、以前ほど離れてもいない中間地点辺りに腰を下ろした。腰を下ろしてすぐ、ハングマンからの強い視線を感じたがタブレットを操作するふりをして何とか誤魔化す。
「ここの店、同僚が美味いって言ってたんだけど行ってみないか」
思い返してみれば、ここのところ家で過ごすことが多かった。あの触り心地に取り憑かれたルースターにハングマンを付き合わせてしまっていたかもしれない。最近、そう考え始めたルースターは二人で行けそうな店をあらかじめリサーチしておいたのだ。「結構良さげだろ?」店自慢の料理画像が表示されたタブレットを渡そうと顔を上げると、じっとルースターを見つめていたハングマンと目が合う。思わず身を引きそうになるルースターの手をタブレットごと掴み、「いいんじゃねぇか、美味そうだ」と言うハングマンだが、視線はルースターに定めたままだ。しばらく見つめてからふっと目を細め「ふぅん」と笑うハングマンに、嫌な予感がしてルースターは背中を粟立たせた。
受け取ったタブレットで料理写真を眺めるハングマンにルースターがホッとしたのも束の間、「でも、まだ昼まで時間はあるし俺も移動してきて疲れた。休憩がてらこの前のドラマの続きでも見ようぜ」と言われてしまえば、ルースターも曖昧に笑って頷くしかなかった。
ハングマンと微妙に空いた距離のまま、前回見たドラマの続きを流し始めた。初めは落ち着かない気持ちのルースターだったが、次第に佳境に差し掛かった内容に身を乗り出して集中する。思いも寄らぬところで車が炎上する展開に思わずビクッと体が動く。隣にぶつかる予感に反して空を切る体に違和感を覚え、思わずチラリと横を向いた。多少の身じろぎではぶつかることのないハングマンとの距離に、一つ頷きドラマに意識を戻すルースターだったが、集中力は戻ってこなかった。驚いた拍子に腕や膝をぶつけたり、笑った振動が直接響いてくることがないと分かった途端、急に虚しさが襲ってくる。この前より季節は春に近づいて着実に暖かくなっているというのになぜか寒々しさも感じていた。
「ルースター」
困惑するルースターにかけられた声音は思いのほか優しい響きをしていた。
「そろそろ観念しろよ。お前が今求めてるのはあの触り心地のいいニットじゃない」
「中身の方なんだよ」そう言って自信に溢れすぎた笑顔で腕を広げるハングマンに、ルースターは天井を見上げ特大のため息をこぼす。そうして息を吐き出したルースターは『今求めてるもの』に向かって素直に体を動かした。
少し空いた距離を一気に詰めて抱きつくルースターに「お前、大型犬じゃないんだぞ! もっと自分の図体のデカさを自覚しろよ」と文句を言うハングマンの顔は言葉とは裏腹に満面の笑みを浮かべていた。
「お前、やっぱりあったかいな」
「心地いいだろ。クセになってお前はもうオレから離れられないぜ」
「あのニットみたいに?」
「春になればお役御免のアイツと違って、オレは一年中活躍する。優秀だからな」
無機物に対しても己の優秀さを誇ろうとするハングマンに思わず吹き出す。ニット相手にもあの得意げな顔付きをしてるんだろうか。確かめたくなって「筋肉が多くて、夏は暑そうだな」と言いながら体を離すと「何してようと夏は暑いんだから、汗かきながらくっついてりゃいいだろ」とハングマンの腕が追ってくる。これ以上離れるのを封じるように、ルースターの二の腕をしっかり掴むハングマンは珍しく拗ねたような表情をしていて、ルースターは目をみはった。
「……意外とくっついてたいタイプだったりする?」
「当たり前だろ、恋人なんだし。……お前は違うかもしれないが」眉根を寄せるハングマンに、ルースターは付き合い始めてからの二人の距離感を思い浮かべる。スピードが信条の男が、ルースターに付き合って文句も言わずに慎重に進めてきたかと思うと自然と胸の奥が熱くなった。
「俺も違わないよ。好きな奴の隣は心地いいよ」
ハグの勢いで乱れた髪を撫でつけてやりながら言うと、言葉にならない吐息を漏らしハングマンは目を見開いた。あ、これも言ってなかったか、固まるハングマンにルースターが胸の内で反省する。
「……はぁ。お前って本当に筋金入りのノロマだな。オレじゃなきゃお前の相手なんて無理なんだから感謝しろよ」高慢な物言いで口角を上げるハングマンに「流石は救世主さまだ」と応えて再び抱きつく。一見いつも通りのハングマンの鼓動が早鐘のように打つのを感じられるこの距離感を愛しく思いながら、ルースターは心地よい体温に身を委ねた。