ハンルス01ハンルス01
カチン――
瓶同士がぶつかる音が聞こえたと思ったらすぐに、頬にひんやりとしたものが当てられた。水滴のついた冷たい瓶の感触に遠い昔の記憶がよみがえる。青空をバックに今よりずっと若い彼が差し出したのは、もちろんビールじゃなかったけれど。
「ありがと、マーヴ…」
なんだか面映い心持ちで振り返る。しかし、そこに立っていたのは長年の隔絶を終えたばかりの伝説の男ではなく我らが救世主様だった。
やっちまった――
淡い過去の記憶に引きずられ、我ながら顔も声もゆるんでいた自覚がある。よりにもよってハングマンと間違えるなんてしばらくはこのネタでからかわれる覚悟をして、ヤツの方をそっとうかがう。片手にセルフォン、片手にビール瓶を2本持ったハングマンは、常のニヤニヤ顔を引っ込めて何故か神妙な面持ちで立っている。てっきりフルスロットルで煽ってくるかと思ったので拍子抜けだが、チャンスは今だ。年中無休で働かされているヤツの口が休暇願いを出してるうちに戦略的撤退をするべきだ。そう思いカウンターのスツールからそっと腰を浮かせたところで
「大好きな親鳥と仲直りしたら、すっかりヒヨコになったってのか」
いつもどおりのニヤつきを取り戻したハングマンにロ撃を当てられる。クソッ俺はチャンスを逃すノロマ野郎だ
ハングマンはセルフォンを胸ポケットにしまいながら隣のスツールに腰かけてきた。ビ一ル瓶を片方渡してくる、こういうところは気がきく男だと思う。だが、それによって浮かせた腰を再びスツールに落ちつけざるを得なくなったので、やはり抜け目のない男だとも思う。俺が座り直したのを満足気に見てから、こちらを覗きこむ。
「仲間の名前を間違えるようなヒヨコちゃんには、しっかり綴りから教えてやらないとな」
やけに楽しそうな顔に嫌な予感を募らせていると、ハングマンはおもむろに俺の背中を指でなぞり始めた。「っ…」突然の感触に身を竦ませる俺にはお構いなしに無骨な指を滑らせる。水滴で濡れた指がシャツ越しに妙にゆっくり大きく動き、縦に1回、横に1回、もう一度縦に1回。…『H』だ。ヤツの意図が分かってゲンナリする。救援を求めて周囲に視線を巡らせるも、今日に限ってフェニックスもコヨーテもいなかった。
「OK。お前の名前は『H A N G M A N ーハングマン』。ちゃんと覚えてる。間違えたのは悪かった。だが、教えてもらう必要はない」
どうにか止めさせようと試みるも、ヤツの方にはそんな気は更々無いようで
「どうだかなまた間違えられちゃ堪らないからな。さ、レッスン再開だ。次は『A』」
バチンッと音がしそうなウィンクを至近距離で投げつけて、再び俺の背中に手を伸ばした。
今度は腰のあたりから肩甲骨の間をめがけて勢い良く走る指に、ゾワッとした感覚がせり上がる。思わず身をよじると、空いた手が俺の手を捕らえ逃さないとばかりに重ねられた。ヤツの笑みが一層深くなるのを間近で感じ、耳が熱くなる。俺は先ほど助けを求めたことも忘れ、知り合いがいないことに感謝しながら声をかけた。
「不毛な時間の使い方だと思わないか」
「全然」あまりの即答に彼の方に目を向けると、珍しく真剣な顔をしていた。場面にそぐわない表情に首をかしげる俺を鼻で笑い、「次は『N』」と続けた。
さっきとは打って変わり、押しつけるような強さで殊更ゆっくり進む指。シャツの布地に水分を吸われ、すっかり乾いた指の熱を分け与えられるようで落ち着かない。力強く進む指が背骨の上で不意に撫でるような動きに変わり、堪らず身を離す。離した分だけ、距離を詰められ、重ねられた手はカウンターに抻さえつけられた。密着した指にどちらのものか分からない汗が伝うのを感じ、ようやくハングマンがしたたかに酔っている可能性に思い至る。
「Hey, 今日はそろそろお開きにしよう。お前熱いぞ」
「冗談。まだまだこれからだろ熱くなってるのは、お前だ」
言うことを聞きそうにない男から視線をはずし、現実逃避ぎみにバーの中を見渡す。幸い俺達の攻防に注目している客はほとんどおらず、胸を撫で下ろした。ひとつため息をついてから再びハングマンに向き直ると、その胸に手を添える。
「やっぱり熱いのはお前だよ。それに…」
ヤツの胸元を掴んで思いきり引き寄せた。何をしているんだ、俺は、という冷静な思考を頭の隅に追いやり、ハングマンの顔に耳を寄せる。
「教えこむのは『ハングマン』でいいのか…『ジェイク』じゃなくて」
俺の言葉に一瞬見開いたヤツの目がすぐにギラつき始めるのをみとめ、早速後悔したが反省は後だ。身を乗り出してほぼ覆いかぶさるようになったハングマンの胸ポケットを軽く押し上げ、心の中で謝った。
ガランガラン――
鳴り響く鐘の音に客達の動きが一瞬止まった後、ドッと歓声が沸き上がる。その隙にハングマンの下から抜けだして、カウンターに目を向けた。俺達が攻防を繰り広げた場所にはハングマンのセルフォンが静かに横たわっていた。
「… おまえっ…」
フリーズから回復したハングマンが手を伸ばしてくるが、奢りに浮かれた客に阻まれる。
「悪いな。次は俺が奢るから」
果たしてこれくらいで許してくれるか心配になりながら、ウインクをひとつして足早に離れる。もちろん絶妙なタイミングで鐘を鳴らしてくれたペニーにアイコンタクトで礼をするのも忘れずに。先ほどバー内を見渡した時確かにこちらを見てる客はほとんどいなかった。店主のペニーを除いては。見られていたのは恥ずかしいけれど、おかげで助かった。ゴキゲンな客の対応に忙しそうで、今夜のことはマーヴェリックには秘密でと伝えられなかったのが気掛かりだが、まぁ大丈夫だろう。
ハードデックを出て振り返る。ハングマンはもう切り換えて自分が奢った客の肩を叩いていた。ああいうところがイイ男だなと思う。そして本人が言うように優秀だ。
まだ熱い気がする耳を擦りながら、次はアイツの好きな曲でも弾いてやろうかなと考えて俺は浜辺を後にした。