JakeJake
「ジェイクも意外と頑張ってたよな」
小首を傾げながら愉快そうに笑いかけられ、ハングマンは思わず買ったばかりのコーヒーを落としかけた。流石の反射神経で落ちかけたカップをキャッチしたものの、強く握った拍子に飛び出した中身が手にかかる。熱い。「大丈夫か」とティッシュを渡してくるルースターに礼を言いながら、いや、そうじゃねぇと思い直す。
「何の話だ?」
「いや、だから映画のダンスシーンに出てきたイギリス男。嫌味なやつだけど意外と頑張ってたよなって」
ルースターが話しているのはさっき映画館で観てきた映画の話だ。映画に誘われたのは昨日の夜だった。長距離移動の疲れでソファで休んでいるハングマンを気遣ってか、はたまた贔屓の野球チームのニュースに夢中になってか、一応客人であるはずのハングマンを放ってテレビを見ていたルースターが突然振り返って誘いをかけてきた。
なんでもファンボーイのおススメだという3時間越えの超大作らしいがハングマンは初め難色を示した。ファンボーイのおススメを疑っている訳ではない。たまにとんでもないコアな作品を勧めてくることもあるが、大抵はハズレがない。難色を示したのは、頻繁に会える訳でも無いのに映画館で3時間も過ごすのは勿体無いと思ったからだった。あまり乗り気でないハングマンを「全編クライマックスって噂だぜ?」と覗き込んでくるルースターはTシャツにハーフパンツというラフな格好だ。床に座っているルースターが上目遣いで様子を窺ってくるのを見ながらしばし考える。映画館デートは王道だ。ハングマンもティーンの時は暗闇に紛れて当時の彼女の手を握ったり膝頭を合わせたりとイチャつきながら楽しんだ。なので映画をダシにイチャつこうなんてクリエイターに失礼だ、などと堅いことを考えているわけではない。問題はハングマンとルースター、二人の関係がイチャつくような関係ではないということだった。
ハングマンが座るソファに肘をつき、見上げてくるルースターの様子は大分気を許していると言っていいだろう。シャワーの後きちんと拭き切らなかった髪の先から雫が落ちるのを見て、肩にかけられたままのタオルに手を伸ばす。髪を痛めないような力加減で拭いてやると、タオルの下で笑う気配がした。何笑ってんだ、と問えば「いや、お前ってわりかし面倒見がいいよなって思って」と返ってくる。「今更だろ。存分に感謝しろ」「Thanks」役目を終えたタオルを肩に戻すと柔らかい表情で笑うルースターがいた。
これで何で付き合ってないんだ? これまで何十回もよぎった問いが再びハングマンの脳内に浮かび上がる。あの奇跡のミッションを経て互いを見直したハングマンとルースターの関係が気の置けない仲間となるのは早かった。程なく自分の気持ちを自覚したハングマンは自身の信条のもと一気呵成に攻め込もうとしたが意外と強情なルースターがなかなかあと一歩を踏み込ませない。攻めれば攻めるほどルースターの心がするりと逃げていくようでハングマンは戦法を変えることにした。自分のやり方には自信を持っていたが、常にそれでうまくいくわけでない事もあのミッションで学んでいたからだ。いっときの関係で終わらせたい訳じゃない。ルースターのスタイルに合わせたうえでオレの事を認めさせてやる。そう腹を括って2年半。勿論この間、長期休暇の度に何とか時間を合わせアメリカ大陸の雄大さを感じずにはいられない距離を移動して互いの家に泊まったり、互いの家族に会ったりと着実に段階を踏んできた。ただ正直焦りは感じている。コヨーテには「スピード自慢のお前が珍しいな」と笑われるし、ハングマンとルースターの関係が近づくのに目を光らせていたフェニックスも最近は「アンタそれでいいの?」と呆れ気味だ。ルースターの家族で伝説の男ことピート•マーヴェリック•ミッチェル大佐はルースターと共に遊びに行く度に歓迎してくれたが「ブラッドリーに切磋琢磨し合える仲間がいて嬉しいよ」とか「二人はほんとに良い友達だな!」など眩い笑顔で釘を刺しハングマンを腹立たしい気持ちにさせていた。しかし、これ以上は進展しないと察したのか近頃は何も言わなくなり、それはそれでまた腹立たしい気持ちにさせられた。何より自分自身が今の心地良さに甘んじてしまうのでは無いかという懸念があった。
「お前が乗り気じゃないならどうしてもってわけじゃないよ」
なかなか答えを出さないハングマンの膝を叩いてソファから体を離すルースターに思わず「いや、行こう」と答えていた。今までの思考は何だったんだと自分の肩を揺さぶりたい程反射で答えてしまったが「いいのか?」と確認してくるルースターに今更嫌だと言うのもとまどわれ、ひとつ頷き返したのが昨日の夜の話だ。
観るのを渋っていた映画だが、観終わった後はあれこれ感想が口をついて出るくらい満足だった。現に今もあのシーンが、などと言いながら広い公園を横切っている最中だったのに、突如何の話か分からなくなったのはルースターの口から「ジェイク」という名前が飛び出したからだ。ルースターが踏み込ませない最後の砦の象徴が互いの呼び名だった。いつまで経ってもハングマンとルースター、外でコールサインは止めろと名前で呼ぶよう誘導したら「じゃあ、セレシンか」と返ってきた。更に「セレシンってカッコイイ響きだよな〜」と続けてくるものだからセレシン呼びも許容しないわけにはいかないし、ハングマンとしても「ブラッドショー」と呼ぶことになる。最近ではふざけて「ハンギー」「ルー」なんて呼び合うこともあり、「ジェイク」の出番はますます遠いものとなっていた。だから、滅多にないルースターからの「ジェイク」にハングマンが多少の動揺を見せてしまうのも無理はないというわけだ。もっとも、この「ジェイク」はハングマンのことでは無いのだが。
「まぁ、ホームから一気にアウェイに変わったのに結構根性見せてたよな」
「だよな〜。ダンス自慢も伊達じゃなかったんだな」
W主人公のうちの一人を煽ったら、見事なまでに返り討ちにされた英国紳士の登場シーンを脳内に思い描くと、率直な疑問が口をついた。
「でもアイツの名前なんてよく覚えてたな」
件のキャラクターは、ダンスシーンにしか登場しない、いわば脇役だ。次から次へと見せ場が押し寄せてくる映画で、そんな脇役ーしかも本人が名乗ってないーの名前を覚えてるなんて意外だった。
「お前だって覚えてただろ?」
「そりゃ、オレは自分と同じ名前なんだからな」
即答するハングマンに、ルースターは何か言いたげな表情を向けてきた。木々の合間から差し込む光がルースターの輪郭を優しく縁取り、いつもは丸い瞳が笑みの形に細められる様に落ち着かない気持ちになる。
「俺もお前の名前と同じだなと思って覚えてたんだ。嫌味なところもちょっと似てるし、それがジェイクって名前の特徴なのかなって」
「お前、全世界のジェイクに謝れよ。それにオレの嫌味の方がもっとスマートだろうが」
「そこ、胸を張るところかよ」
ククッっと大きな身体を揺らして楽しそうに笑うルースターを横目に、一瞬膨らみかけた期待をコーヒーと一緒に流し込む。からかいたかっただけか、存外こいつも人が悪い。二人の距離が近づく過程で度々釘を刺してきたフェニックス辺りには声を大にして言いたい。弄ばれてるのはこちらの方だと。そうこうしているうちにいつの間にか公園の端まで歩いてきていた。映画館に入ったのは午前中だったがもう昼過ぎだ。
「でも、俺ジェイクって名前好きだな」
昼飯、何食いたい? と口を開きかけた矢先のルースターの発言に、今度こそハングマンの手からするりとコーヒーのカップが抜け落ちた。幸いほぼ飲み終わっていたカップが足元に転がる音を聞きながら「は?」と返す。
「だから、ジェイクって名前が好きだって話。セレシンも格好良いし、ジェイク・セレシンって良い名前だよな」
落としたコップを拾って近くのゴミ箱に捨てながら、こともなげに言うルースターにハングマンは「あぁ、ありがとう」と言うのが精一杯だった。
未だ呆然としてるハングマンに困ったように笑いかけながらルースターが続ける。
「つまり……、俺もジェイクって呼んでいいかなってことなんだけど……」
急に歯切れの悪くなったルースターを観察していると先ほどまで飄々としてるように見えていた顔が赤みを帯びている。春の陽気に当てられたのかと思っていたが、どうやら違ったらしい。相手の方が戸惑いだせば急に冷静さが戻ってくるのが世の常で、いつもの癖のある笑顔を取り戻したハングマンが口を開く。
「ハングマンじゃなくて?」
「プライベートでもコールサインを使うのはちょっとな」
「ハンギーならコールサイン感ないだろ?」
「その呼び方はフェニックスが凄い顔するから……」
「お前のお気に入りのセレシンもあるぞ」
「セレシンも良いけど、ジェイクって呼びたいんだよっ」
最後は拗ねたように言うものだから、とうとう堪えきれずにハングマンは笑い声を上げる。近くで陽光を楽しんでいたご年配がチラチラこちらを見るが、気にするものか。
「しょうがねぇな。特別に許可してやる。何ならhoneyでもいいぞ」
「じゃあ、honeyにするかな」
「待て待て!やっぱオレが満足するまでジェイクって呼べ!honeyはそれからだ」
「秒で前言撤回するな。そんなとこまで速いのかよ。ま、じゃあ腹も減ったし何か食いに行こうぜ、ジェイク」
はにかんだような笑顔で名前を呼ぶルースターに、あと何年かで40だろ、もっと締まった顔しろよ、と笑ってやるつもりだったのに何かがつかえたように言葉が出ずハングマンはただ頷いた。
ピザか、バーガーか、お前は何食べたい? なんて暢気に呟きながら先に歩き出したルースターに大股で追いつき肩を叩く。
「今日はもっと良いもん食うんだよ。オレの祝勝会だ。奢れよ、ブラッドリー!」
「俺の祝勝会でもあるから、俺の分はお前が奢れよ、ジェイク」
ルースターも負けじと肩を叩き返す。バシバシと良い音をさせながら競うように歩く大男たちにすれ違う人間が怪訝な顔をする。しかし、そんな視線も目に入らない二人は心地の良い暖かさが広がる公園を後にした。
おまけ
「ところで、ブラッドリー君はいつからオレの名前を呼びたかったんだよ?」
前菜を口に運びながらニヤニヤとハングマンが訊ねる。
「そうだなぁ、大体一年前かな」
「はっ⁉︎ 」驚愕の声と共にカランッと音がするのに目を向けると、信じられないものを見るような顔をしたハングマンがフォークを取り落としていた。
「今日は珍しく色々落とすな」
「お前のせいだよ! いやいや、トロいのにも程があんだろ‼︎ じゃあオレが悶々としてたこの一年は何だったんだよ」
「これまでの関係もそれはそれで楽しくなかったか?」
「それは否定しないけどよ……。じゃあ、幻の一年の分もこれから上乗せしてイチャついてやるから覚悟しとけよ」
完全にロックオンした表情のハングマンに、早まったかなと思いつつ、ルースターはひとまず目の前の食事に集中することにした。