忘羨ワンドロワンライ【落し物】 藍忘機は、雲深不知処の奥地に設置されている結界用の陣の状態を報告するため、藍啓仁の居室である松風水月へと足を進めていた。座学で外部の人の出入りが多くなる時期、常なら週に一度の確認は三日に一度へと増えている。特に今年は油断ならない。例年参加しないはずの温氏が参加し、加えて酒を持参して結界を破って入り込んだ軽佻浮薄な参加者もいる。その者は家訓をいくつも破った上に、反省の色もない。何より口惜しいのは、藍忘機が剣を抜いたというのに、相手が最後まで剣を抜かずに決着がつかなかったことだ。
滑るように無音で歩く藍忘機の耳に、慌ただしい小走りの足音が前方から聞こえ、無意識に眉を顰める。このままでは廊下の曲がり角でぶつかってしまうと、藍忘機は足を止めたが、相手には藍忘機の存在は分からなかったらしい、勢いよく曲がってきた相手は盛大に藍忘機にぶつかってよろけた。
「わっ! ごめんよ」
「走ってはならぬ」
ぶつかってきた相手が軽佻浮薄な魏無羨であることを認めて、藍忘機の眉間の皺は深くなった。
「ごめんごめん。ちょっと急いでたんだ。悪いな」
全く悪いと思っていない顔でにこりと笑うと、ドタドタと騒々しい音を立てて走り去っていく。藍忘機は眉を顰めたままため息を吐くと、足元に目を落とした。一枚の畳まれた紙片が落ちている。おそらくは魏無羨が落としたのだろう。拾い上げ裏から透けて見える紋様を目にして、藍忘機は顔色を変えて松風水月へと足を早めた。
「叔父上、魏無羨がこれを」
差し出した紙片を見て、藍啓仁は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「あの馬鹿は、本当に」
その時だ、ドタドタと再び騒がしい足音を立てて魏無羨が部屋へと飛び込んできた。
「藍先生! 俺、忘れ物……を」
室内に藍忘機の姿を認めて、足と口がピタリと止まる。
「馬鹿者! 走るでない! 大声も出すな! そして落とすな!」
拾ったのが忘機だったから良かったものの――そう言葉を繋いで藍啓仁は盛大にため息を吐く。
「拾ってくれたのか、そうか」
ほっとしたように笑って紙片に手を伸ばそうとしてくるのを、藍忘機はさっと避ける。
「藍湛!」
子供のようにぷっと膨れてみせて、魏無羨は取り戻そうと、さらに手を伸ばそうとした。
「これは結界陣だ」
裏から透けて見えた紋様は、藍家の結界陣に酷似している。それをどうして他家の魏無羨が持つのか――藍忘機は返すつもりはなかった。
「あー、うん、確かに結界陣だけど。だけどそれ、藍家をどうこうするような物じゃないぞ?」
「では何故似ている?」
「あー、似てるのは――うーん、だから」
魏無羨は分かりやすくしどろもどろになり、困ったように藍啓仁を見た。
「藍先生、黙ってないで助けてくれよ」
藍啓仁は仕方なさそうに顎で二人に座れと促し、ため息を吐いて冷めた茶を啜った。
藍忘機は紙片を藍啓仁の前に差し出す。藍啓仁はゆっくりとそれを開き、そして渋い顔をした。
「魏無羨、何をした」
魏無羨はそっと右手を紙片の上に翳すと、中空で指を素早く動かしパチンと指を鳴らす。するとウネウネと描かれた陣が蠢き、瞬く間に先ほどとは違う形になった。
「幻術か」
「うん。元々この紙には虞夫人の紫電の霊力を僅かにつけてもらってるんだ。その上に俺の法術で幻術を施してる。紫電は虞夫人にしか使いこなせないから、本当の中身は俺と虞夫人にしか開けない。普通に見たら、自分が『これだ』と思ったものに見えるようになってる」
座学中は文でやり取りするしかないから、こういう仕組みを考えたんだ――魏無羨はほんの少し得意げにポリポリと鼻の頭を掻いた。
「いざという時のために術が施してあろうとも、落とすようなことがあってはならぬものだ。反省するように。そして忘機、この事は他言してはならぬ」
静かに頷き、それでも不審げに魏無羨を睨む藍忘機に、魏無羨は眉をハの字にする。
「藍湛、疑り深いぞ。ちゃんと藍家とは関係ない物だって見せてやったろう? 信じろよ。ねえ、藍先生、藍湛をなんとかしてくれよ」
藍啓仁はため息を吐き、藍忘機を窘める。
「これは江氏が新たに開発している防御陣の一部で、魏無羨はそれをこの雲深不知処の陣に応用できるかもしれないと提案しにきただけだ。藍家に仇なすものではなく、むしろ逆だ」
ほら見ろ――というように魏無羨はツンと顎を上げ、藍忘機にべーっと舌を出してみせる。
「舌を出すな、馬鹿者。忘機に説明してやれ」
藍啓仁に叱り飛ばされ、魏無羨は慌てて舌をしまって、ぴゃっと首を竦めると、藍忘機の方に向き直った。
「蓮花塢は雲深不知処と違って四方に開けているから、防御の要は陣なんだ。虞夫人はその防御を一手に引き受けていて、俺もそれを手伝ってる。俺は大師兄だし、陣術は得意な方だからな。それで、少しでも陣に割く霊力を少なくできないかと思って、複数の陣を連動させる仕組みを考えた。その仕組みが間違ってないか藍先生に見てもらうついでに、この仕組みを雲深不知処の防御陣に応用すれば、少しだけど藍先生の負担も減るかもと思って話に来たんだ。雲深不知処全体を網羅する防御陣の維持は藍先生が一人で引き受けてるだろ? そりゃ藍先生は修為は高いし霊力も豊富だけど、雲深不知処はでっかいしさ、霊力は温存できるに越したことないもんな。これはその連動させる部分の陣だから、これだけ分かったってなんの意味もないものなんだよ」
藍忘機は、拗ねたように頬を膨らませたままなんで信じてくれないんだと不満げに口を尖らせている魏無羨の顔をまじまじと見た。ぷっと膨らんだ頬が未だに何も言わない藍忘機を責めている。
「……疑って悪かった」
藍忘機のその言葉を聞くなり、拗ねて尖っていた口が大きな笑みを形作る。
「分かってくれたんなら良いんだ。拾ってくれてありがとうな」
藍忘機は詫びるように丁寧な仕草で茶を煎れる。差し出された小さな茶器を嬉しそうに受け取ると、魏無羨は一口で飲み干してへにゃりと笑った。
「しかし、魏無羨よ、お前のその奇想天外な発想は以前から変わらぬな。ここにもあるぞ『おねしょを乾かす符』が」
ブッと吹き出して、魏無羨は頭を掻く。
「ああそうか、雲深不知処は内弟子の童が居るからか。あれは俺が最初に作った呪符だな」
初めて知ったと言わんばかりにまじまじと魏無羨を見つめる藍忘機に、魏無羨は慌てて言葉を繋ぐ。
「違うぞ、俺が自分で使うために作ったんじゃないからな。虞夫人に怒られたくないと泣く師弟のために作ってやったんだ。俺はおねしょはしてない!」
藍啓仁は苦笑した。
「他には何を作った?」
「ええと、『桶に水を入れて使うと適温のお湯になる符』は、あかぎれが酷くて辛そうな婆婆が温かい水を使えるようにって作ったんだけど、それを応用して『風呂が沸かせる符』と『食事を温められる符』を作った。虫取り用の『虫を包んでおける符』からは『水鬼を閉じ込められる符』を作ったけど、一匹ずつじゃ埒があかないから、今は網みたいにして船でごっそり絡め取れないか考えてる。あとは、雉捕り用に目眩しの『光蝶が飛び出す符』も作ったけど、これは今はチビ助達を喜ばす符になっちゃったな。小さな袋に仕掛けておいて、チビ助がそれを開くと星蝶がぱあっと舞うんだ」
魏無羨は両手をパッと天井に向かって広げた。思わず藍忘機は天井を見上げたが、流石に蝶は飛んではいない。
「お前の符は、実用的というかなんというか、楽をするためのものが多いな。だが、水鬼のものはなかなか良い。ここでも麓の湖では時に水鬼の被害がある。水鬼はたいして強くはないが、数が増えると厄介だ」
藍啓仁は髭を撫で付けると、小さく頷く。
「皆の為になると思えるものが増えたら、書にまとめておくように」
魏無羨はキョトンと目を見開き藍啓仁を見る。
「え、まさかと思うけど、蔵書堂に納めるとか言うんじゃないよな?」
「それ以外に書にまとめさせる意味があるか?」
真面目な顔をしたままの藍啓仁を見て目を白黒させた後、魏無羨は恥ずかしそうに、だが嬉しそうに頷く。
「うん、これはいいと思える術が貯まったら、まとめて藍先生宛に送るよ」
「そうしなさい」
藍啓仁は広げられたままだった紙片をそっと魏無羨の手元に押しやる。
「今度は落とさぬように」
首をすくめて頷くと、魏無羨はそれを大事そうに懐に入れる。そしてチラリと藍忘機へと目配せして席を立つと、二人に向かって綺麗な礼をした。
「お騒がせしました」
去っていく後ろ姿を見送り、藍忘機は今まで魏無羨が座っていたところに転がされている小さな袋をさっと袂に隠した。そして自らも藍啓仁に山奥の陣の報告した後、部屋を辞した。
「藍湛! どうだ、綺麗だったろう?」
翌朝、蘭室に滑り込んできた魏無羨は、既にきちんと卓に向かっている藍忘機の横に座り込み、楽しげに話しかける。藍忘機は僅かに頷くと、小さく呟いた。
「……罰を受けなければ」
魏無羨は唐突な言葉に首を傾げる。
「昨日、蝶が消えるまで起きていてしまった」
昨夜、一日の仕事を終え、藍忘機は静室で衣を改めたのち、綺麗に衣桁に掛けた外衣の袂から小さな袋を出した。魏無羨が転がしていった袋だ。僅かな期待と予感を感じながら、藍忘機はそっと袋を開けてみた。
途端に部屋に溢れたのは、小さな星のような無数の蝶だ。ヒラヒラと部屋を飛び、半数ほどは僅かな窓の隙間から外に迷い出てしまったが、残りは壁や天井で思い思いに翅を休める。
藍忘機はしばらく声もなくそれを眺め、就寝の時間だと、そっと部屋の片隅の灯りを吹き消した。途端に輝きを増した蝶は、翅をゆったりと開け閉めしながら星のよう瞬く。
――開くと星蝶がぱあっと舞うんだ。
両手をパッと天井に向かって広げた魏無羨の、無邪気な満面の笑み。
広げた両手の先に一瞬見えた幻の星空が、いま藍忘機の目の前に広がっていた。藍忘機は目を閉じるのを忘れた。キラキラと星が瞬く。
一つ二つと星が消え、最後の一匹が音もなく消えるのを見届けて藍忘機は目を閉じた。眠りに落ちるまで、瞼の裏に何かを刻み込むように、小さな蝶の残像が瞬いていた。
なんだそういう事か――と藍忘機の言葉を聞いて魏無羨は笑った。
「藍湛、あの蝶は眠りに落ちるまで輝いてるんだ。蝶が消えてから眠ったんじゃなくて、お前が眠ったから蝶が消えたんだよ。お前が寝たってことは、それが亥の刻だったってことさ」
毎日の習慣はそんなに簡単には変わらないもんだぞ――クスクスと喉の奥で笑いながら、魏無羨は衣の袂を翻して立ち上がる。
「ふふ、そっか。綺麗だったか」
魏無羨が歩き去る踊るような足音を聞きながら、藍忘機は瞼の裏に刻み込まれた星蝶の瞬きを思い出す。
部屋中を飛び回る星の煌めきに高鳴った胸と、キラキラとした笑みの余韻のような瞬き、一つ二つと消えていく、忘れようのないその寂しさを。