明けの明星『おっ!禄剛崎じゃあねぇか!』
植物が照り返す薄黄緑色の日差しの中から声がした。目を向ければ、所々に土を纏ったでかい男がずんずんとこちらに向かって歩いて来る。俺は腰掛けに付いたまま応えるように手を上げて、添え木のされた艶々と輝く赤い実に目をやった。
『性が出るねぇ。いい出来じゃねぇか』
『そうだろう?ほれ、あんたも食ってみろ』
ばちんと鋏で切り落とされた重たい実が、奴の手を経由して俺の右手に収まる。ふーっと煙を吐ききり、赤い果実の表面を軽く腿で拭ってから、口をつけた。
ひとかじり。溢れ出す果汁は酸っぱく、その後を追うように甘みが増す。
うまい。俺がそう口にすると、室戸岬は高らかに笑った。
『そりゃあ良かった!もうすぐ盆時期だから収穫でもして食卓にも並ぶが……今年はあんたが一番乗りだ』
嬉しいだろう、と言わんばかりに胸を張り、無邪気な子供のように解れた笑顔に思わず吹き出した。あのまっさらな心根を表す態度に救われた人間は少なくなかっただろう。
あの日と同じ場所で、そんな事を思い出しながらふぅーっと息をつく。夏の夜明け前は、肌を焼くような日差しもなく、生暖かい風が心地よい。
「おや。珍しい先客ですね」
「…足摺岬」
お隣、よろしいですか?と問うのに応えて、身体をずらす。ぎしぎしと音を立てる腰掛けに時の長さを感じた。
俺の隣に腰掛けた足摺岬は身なりを整えると、一度真っ直ぐに庭を見つめる。まるで儀式の様な厳格なその空気をふっと息をついて払い、仕切り直すように俺に目を向けた。
「お会いできて良かった。臥所から目覚めたと聞いて、お変わりないかと心配しておりました」
「あぁ。見ての通りピンピンしてるよ。すぐにこき使われたりもしてな」
「こちらも相変わらず瀬戸際ですからね。でもお元気そうで何よりです」
穏やかに笑った足摺岬の目を見つめる。あいつが眠りについてから幾十年。こいつも思うところがあるだろうに、気丈にしているように見えた。
背後にそびえる椿に目をやる。
深緑色の厚い葉がまだ沈みきらない月の灯に照らされて艶々と輝いていた。
「アイツの為に育ててるんだってな」
「………そう、ですね。初めこそはそうだったかもしれません」
「初め?」
予想外の返しに足摺の横顔へ目を戻す。まだ椿に吸われているその視線は、遠く思い出を見つめているようだった。
「彼が眠りについてすぐ……あの頃は、彼はすぐに戻ると信じていました。ここも、すぐに元通りになると……」
足摺岬は、子供が幼かった頃を思い出す親のような、ほんの少しの呆れと愛おしさを含んだ声音で語る。俺は一杯煙草を呑んで、その続きに耳を貸した。
俺が口を出さないと分かったのか足摺岬はまた遠くを見つめながら話を続ける。
「少し躍起になっていたかもしれません。誰もが己の身すらも危うい中、畑の手入れなどしている場合ではないと叱られた時も、臥所についた者が目覚めることはないと諭された時も、そんなことはないと突っぱねて、この椿に縋っていたように思います」
その語りに、足摺岬は穏やかな佇まいとは裏腹に激情も持ち合わせていた事を思い出す。手負いの獣のように張り合い、ここを一歩も譲らなかったであろう事は想像に難くない。そうしてけして楽ではない時を経て、ここまでこの場所を守ってきたのだろう。
敬いと労りの思いで足摺岬へと目を向けたが、その視線が交わることはなく、奴の瞳はまだ過去に向いていた。
「そうして幾十年と過ぎて……もう最近では、彼が帰ってこなくても同じことだと思い始めていたんです。この場所に彼は居て、それを護っていければ。それが私の役目なんだと」
そこで一つ区切りをつけた足摺岬は、椿から俺へと目を向けた。深く重い藍色が揺れる。
「ですが最近、藤倉殿が現れ、貴方が目覚めた」
その瞳に光が一粒差し込んだ。
朝日よりも早く、小さいその光に足摺岬の瞳孔がきゅっと細く伸びる。
足摺岬は眩しそうに目を細め、喜びをこぼすようにふっと息をついた。
「これでは、また希望を持ち直さないといけませんね」
そう言ってから朗らかに笑う。
その笑みにつられて俺も、秋の終わりを告げるように赤い花弁が開く頃、あの男が帰って来るような気がした。