まずい、非常にまずい。
ドクターは今世紀最大級のピンチに陥っていた。お尻が大きくなり、スラックスを履くと下着のラインが出てしまっている。
ウエスト部分はゆとりがあるのに、ヒップだけが成長してしまったようでキツいなと感じてはいた。
しかしながら窓に後ろ姿が映ったのを見て驚愕。屈んだ姿勢になるとボクサーパンツのラインが、くっきりとスラックスに浮き出ていたのだ。
オーバーサイズのパーカーで尻まで隠しているので普段の生活ではバレなさそうだが、下着のライン丸わかり状態は男とはいえ恥ずかしい。
それにもし座ったりした拍子に、人前でスラックスが裂けたら…なんて想像しただけで泣きたくなる。
サイズを変えて新調はするが、シルバーアッシュ家は貴族様なので、全てフルオーダーなため時間がかかるのだ。
もうこうなっては背に腹は代えられない。ラインが見えないよう、下着を変えるという対策でしのぐ事にした。
軽い気持ちで買っておいたレースのTバックに、お世話になる日がやってきたとは。
白レースにピンクリボンという、想像以上に派手な下着に心が折れそうになる。
(…でも、下着のラインが出るよりはマシ!)
一応エンシオディスとは新婚なのだし、可愛い下着を身につけていたら喜ぶだろうかと、こっそり通販で購入しておいた。
まさか夜の情事前に使用する日がくるとは思ってもいなかったが仕方ない。勇気を出して身に付けてみたら、案外とTバックは快適だと気がついた。
締め付けも弱くて蒸れないし、下着のラインがスラックスにひびかないのは有り難い。
あとは尻を痩せさせなくてはならないけど、どう対処して良いか分からず途方に暮れてしまう。
エンシオディスが留守のときに、こっそり鏡に尻を映しドクターは溜め息をついた。どうして全体を通して弱々しいのに、尻だけ成長してしまったのだろう。
(…エンシオディスにバレる前に、少しでもお尻を小さくさせないと)
尻肉は一日にして痩せず。
とりあえず食事を見直しするかと、ドクターは鏡に映る自分に向かって溜め息を吐いた。
◆
「何か、口にあわないのだろうか」
真剣な面持ちで夫に訊ねられ、ドクターはフードの奥で苦笑した。
気まずくなり、つい明後日の方を向いてしまう。
屋敷内にあるエンシオディスの執務室に呼び出され、何をされるのかと怯えていたら急に小食になった理由の尋問を受けていた。
「そんな事ないよ。ご飯はいつもと同じで、すっごく美味しい」
「…という話だが、ヤーカ」
エンシオディスが座るチェアの隣に立つヤーカは、普段とは真逆な渋い表情をしていた。
「お気使い有難うございます、奥様。ですが今後の為にもなりますので、お口にあわないようでしたらハッキリと申し上げて頂きたいです。料理が美味しくない、と」
「そんな事無いって!すっごく美味しいよ!だからつい食べ過ぎちゃうんだよね。最近太っちゃったから、少し控えているだけ…」
渋い顔をしていたヤーカが今度は切なげに溜め息を吐いて項垂れた。
「奥様、どうかお気遣いなく。こんなに華奢だというのに太っているからなど…お前の腕が悪いからだと正直に申し上げて頂ければ…」
「ちょっと、ヤーカ!違うんだって!本当に太っちゃったんだってば!」
「はじめてお会いした時と、奥様は寸部も変わっていないんですから…良いんです。お気遣いを頂かなくて」
ヤーカは「仕入れ先を変えようか」とブツブツ独り言をいいながら力なく歩いてゆく。そうして部屋のドア前まで来たところを、ドクターは小走りで追いかけ腕を掴んだ。
「待って!ヤーカ、本当に誤解だよ!話を聞いてって!」
ふと「ヤーカ」と、事の成り行きを黙って見守っていたエンシオディスが、厳かに呼びかけた。
「私の口にも変化があったとは思えない。普段と変わりないが」
夫の援護を受け、掴んでいた逞しい腕をドクターは力一杯ひく。
ここでヤーカを帰したら、いらぬ誤解を生んだままになってしまう。
「ね、そうだよ!君が悪い訳じゃない。私のお尻が太っちゃったから、食べ過ぎないようにしてただけなんだ」
牛の尾を左右に揺らし、ヤーカは再び溜め息を吐いた。そうしてドクターの手を優しく外し、深くお辞儀をする。
「奥様、有難うございます。これで失礼します」
覇気のない姿でヤーカは、執務室から静かに出て行ってしまった。丁寧に閉じられたドアの前で固まっていたドクターはエンシオディスに名前を呼ばれ我に返る。
「…どうしよう、エンシオディス。ヤーカ落ち込んじゃったよ」
澄ました顔の間々、エンシオディスはドクターに向かって手招きをした。
とぼとぼと、夫の前まで行く。さも当然というように腰を抱かれ、胸へと寄せられる。
そうして遠慮なしに、尻を大きな手で触られ「ひゃあっ」とドクターは叫んだ。
「ななっ、何するの!いきなり、お尻掴まないでよっ!」
「太ってしまったと言うので、調べているだけだが」
やましい気持ちなんて全くありませんと、邪念を伺わせない口ぶりの癖に、尻を右往左往するエンシオディスの手は夜の情事を彷彿とさせる。
「さっ、触り方が、なんかっ…へんになるっ」
つうっと尻の狭間を指先で撫でられ、ドクターは飛び上がってしまった。
フードが落ちて視界が広がったら、夫が愉快そうに微笑んでいる。白昼堂々、人の尻を撫でて、何が楽しいのだろうか。
「変になる、という部分を詳しく聞きたいのだが」
「えっちな触り方を、しないでって言ってるの!」
強引なエンシオディスの腕から這い出ようと藻掻く。しかし残念ながら、体格差がありビクともしない。
「苦情は受け付けよう。どのようにすれば、良いだろうか」
わかりきってるだろうに、尻肉を両手で寄せるように揉まれ、ドクターは押し上がってくる興奮にブルブルと震えた。
「…っう、さ、触らないでよぉッ」
「嫌がる事はしていない」
ギュッと掴むように尻を揉む手を払いのける事が出来ない。夫の手腕に流されてしまいそうになる、情けないけど。
エンシオディスはスラックスの生地を指先で滑らせてきた。
自分でも臀部の形がハッキリと、分かるような丁寧な手つきで尻を撫でられる。逃げたくなるのにドクターは実行出来ずにいた。
「…いつもと触り心地が違うな。どうしたんだ」
淡泊な声音に訊ねられ、ドクターは即座に下着のことだと分かった。浮ついていた身が一瞬にして凍る。
この真っ昼間にTバック履いてるのがバレて美味しく頂かれるなんて絶対に嫌だ。しかも白レースのピンクリボン付き。
どうぞ美味しく頂いてください…な下着で挑んだら初戦で終了なんて絶対にない。
断言できる。
エンシオディスのスイッチは顔の割に緩いようで、しつこいからだ。
「…やっぱお尻が大きくなったからだよ、きっと」
「いいや、いつもと同じ柔らかい触り心地だが」
ドクターの苦しい言い訳に、エンシオディスは即座に否定してきた。自信満々な物言いに、どれだけ人の尻を触っているのだろうか…とツッコミたくなる。
「気のせいじゃない?もう行くね、じゃがいもの様子を見てくる。ヤーカの誤解も解きたいし」
フードを目深に被ると、エンシオディスが椅子から立ち上がる。
おおきな体躯(たいく)を曲げ、ドクターをのぞき込みフードの隙間から手袋に包まれた指先が差し込まれた。
「ヤーカには私から話しておく。お前も無理に食事を減らすな」
「う、でも…お尻が…」
頬を撫でていた指先が耳たぶに触れる。恥ずかしかったり、泣いたりするとドクターは耳先まで赤くなってしまう。
その度に耳たぶを摘ままれたり、唇で食まれたりする。エンシオディスの指先は迷うことなく、ドクターの耳を包んできた。
もう赤いぞ、と言いたげに。
「この私が良いと言っている。問題ないはずだ」
超絶俺様な物言いな割に、耳を触るエンシオディスの指先は優しかった。
コートの袖を指先で引きつつ、ドクターは項垂れる。
「だって…だって、お尻が…」
スラックスに下着のラインが出てしまう。そう正直に白状しようとしたら、夫の手は喉を通過し顎を取る。
そうして当然のように顎を取り、顔を上向かされると、整った顔に微笑まれた。
「見せてほしい、私に」
言葉の意味をそのままにしたら、もう下着が違うとエンシオディスは気がついている。分かっていて見せろというのは非常に性格が悪い。
良く分かっていたけども。
顎を取る手を引きはがし、ドクターは夫に向かってべーっと舌を突き出した。
「やだっ!」
ドクターに向かって差し出した手を宙に浮かせエンシオディスがビシリと固まった。
「嫌だ…?」
「やだっ!こんな昼間に嫌だねっ!」
フードを深く被り直して、ドクターは夫から走って逃げた。急いでドアを開けて廊下に飛び出す。
戸を閉めるとき、楽しげな表情を浮かべてるエンシオディス。
せいぜい逃げれば良い、そんな余裕が覗えた。肉食系な夫はこれだから困る。
エンシオディスからの夜にお誘いを受けるまでに、パンツを取り替えておかなくてはいけない。
つづく