ちょっと進んだニーキンズ事務所 小話ゆるやかな午後の日差しを浴びながら、全く動く気配のないメールの受信ボックスを見る。先ほど淹れたばかりの珈琲はすっかり空になってしまっていた。
こんなに静かな事務所は3人目が加入してから初めてのことで、今日はたまたまパワー担当とハッキング担当のみで事足りる依頼だった。一応通信機は付けていたが、つい先ほど依頼完了との連絡が入り、それも乱雑にデスクに放り投げ、部屋着のままソファに足を投げ出して横になっている。
時間が流れるのが恐ろしく遅い
「財布…。」
ドライブがてらコンビニでも行くか
あまり静かなのは良くない。考えるのを辞められなくなる、思考が止まらない
「赤いセダン」
低音の男の声が頭に響く。
咄嗟に目だけをキョロキョロと動かせば"それ"は静かな水面のように窓ガラスの前に立っていた。
靄がかって見え辛いが、黒髪を丁寧に撫でつけたオールバックに、蒼白く煌る眼球がこちらを捉えて離さない。
"それ"はいつも突然現れる。
突然現れて単語だけを吐いて消えていく
此方が問うても答えない一方的な存在
"いつも"そうだ。
そうだった筈だ
「……セダン?」
「お前の弟と同じ色 真っ赤な髪に真っ赤な瞳。」
それは初めて言葉を続けた。
それの言う言葉は酷く抽象的だが、毎度的確なヒントとなって繋がる。ヴットはそれを『俯瞰的思考』と呼んでいた。
自分が思考に呑み込まれた際に現れたり、突発的であったり、気まぐれだが、それが姿を表すときは決まって良くないことが起きる
ヴットは通信機を雑に装着し、応答を待った。
数回のノイズを経て、高い声が沈黙を破る
「もしもし〜?どしたんさ」
「お前ら今どこにいる」
「ニャットくんが報告行ってるから僕は車の中で待機中だよ」
「……そのエンジン音、セダンか」
「よくわかったな。依頼人の私用車だね」
「赤いセダン」
「何?!!?ちょっと気持ち悪いんだけど?!音で色解んの?!怖ッ!!」
悲鳴を上げる最年長を無視し、最悪の事態を想定する。
俯瞰的思考が言った"赤のセダン"
もう一つ"お前の弟と同じ色 真っ赤な髪に真っ赤な瞳"
──ニャットに何かあったのか?
それともこれから遭うのか?
頭の血管がぎゅうぎゅうと締め付けられ、頭痛がする。
掛けてあるジャケットを掴み、バイクのキーをポケットに突っ込んで事務所を飛び出した。
依頼人は健康食品開発CA社の社長。業績は順調で、新たな企画を発表するはずだったが、私怨を抱く社員が企画書を持ち出し、ライバル社であるNE社に売却。その企画書を取り戻す─。といった依頼であった。
大手企業というだけあってセキュリティは万全。イーライのハッキングによってそれらが紐解かれていく
「監視カメラ、ダミー映像に変えるよ。さっき見せた死角の待機ポイント、その都度合図よこして」
「了解」
普段3人が依頼を受けるのは表には言えないような企業が多い。そのため、セキュリティは変にアナログなものであったりする。このような一般企業ほど彼らにとって好都合なのだ。
最後のポイントを通過し、資料室までほぼ一直線で企画書を手に入れた。
「しかしまあ木の葉を隠すならなんとやらだけど…資料室に他社から盗んだ企画書置くかね?」
「ね、監視カメラのログもバッチリ残ってて探す手間省けたから助かるけど」
すんなりと脱出し、車に乗り込んでハンドルを握る。
エンジンをかけると後部座席の神妙な面持ちがミラーに反射した
「どうかした?」
「いや、社名の記載が無い企画書って珍しいなと思って…せっかく買い取ったのにデータにも残してないみたいだし…ずいぶんアナログだな」
「上の人がご年配とかじゃないのパソコンに疎いとか」
そうか、とやや納得いかない様子で座り直すイーライを確認し、アクセルを踏む。
兄のように緩やかな発進とはいかず
後部座席のぐえ、と言う声は聞かなかったことにした。
人里離れた林の中に聳える依頼人の邸宅。インターホンを探せばどこからともなく自動音声が響き、広すぎる駐車場に案内される。
「これ東京ドーム何個分かな」
「東京ドームは行きすぎだろうが大きめのショッピングモールくらいはデカいよねぇ」
なんてあながち冗談ではない冗談を言いながら車を降りようとすると
「あ、イーライさんここで休んでて 報告だけだし俺が行くよ」
「え?」
返事をする間もなくイーライの手から企画書を奪って走り去るニャット。
恐らく今回は兄がいないため、やけに張り切っているとみた。それを見送った後、お言葉に甘えて座席をリクライニングする。
ふと、視界の端に一台の車が見えた。赤いセダンだ
荷を下ろしているのかトランクがこれでもかと口を開けており、ベルボーイのような男が急ぎ足で大きな荷台を運んでいる
荷を下ろしているのではなくこれから大きな荷物を積むのか、とぼんやり考えていたら通信機が鳴った