あなたの主夫になりたくて!その3- 10 -
「義勇さん!義勇さーん!!」
飲み会の次の日。
いきなり家のドアを開け、どたどた音を鳴らして入ってきた炭治郎は、何かを焦っている様子だ。
ついこの間、何かあっては不便だろうと合鍵を渡したばかりだと言うのに、外から「...さ〜ん、ぎゆ〜さ〜ん」と声が近付いてきたかと思えば流れるように鍵を開け中へと侵入してきた。余談だが、室内でも外でも声が大きな炭治郎のおかげで、家の周辺を歩くと近所の子供達から「あ!ギユーサンだ!」と声を掛けられるようになってしまって少し困っている。
冨岡は軽めの二日酔い及びあの濃い面子と共にいた疲労によりなかなか布団から出られず、炭治郎が寝室に来るのを待つ。
「ぎゆ〜さん!おはようございます!あのっ、あの!昨晩の事ですが!」
「......声量を落してくれ、頼む」
「あっ、すみません!体調が悪いのですか?...やっぱり二日酔いですかね。シジミ、持ってきましたよ」
いつもの大きなリュックを掲げて見せ、そっと床に下ろすと布団にまで近付いてきた。ぺと、と額や頬に小さな掌があてられる。先程まで外にいたからか、子供体温だからかは分からないが少し温かい。
「...?熱は無い」
「んー、そうですね。...この間、義勇さんにこうして手をあててもらったでしょう。俺もしてみたくて。今日はゆっくり休みましょうね」
「......前と逆だな」
炭治郎の特製シジミの味噌汁は、冨岡の胃をじんわりと温めていく。机に置かれた小皿の漬物を摘んではボリボリと齧る、歯応えが良く味も冨岡の舌にとても合う。
「...美味い」
「そうでしょう!実家で漬けた物を送って貰ったんです。近所のおじいさん達のお墨付きで自慢の漬物なんですよ!あとで鱗滝さんの所にも持っていきます」
炭治郎の実家...つまり、たぬき族が作った漬物。そう思うと希少な物に見えて、ゆっくり噛み締めながら咀嚼する。きっと管理人の鱗滝も喜ぶことだろう。
食べ終わると食器を流しへと持っていく。隣で洗うと申し出た炭治郎に、テレビでも見て寛ぐよう指示を出した冨岡の顔色は随分とよくなったようだ。
「味噌汁も美味かった」
「それは良かったです、お味噌汁の火加減もお任せ下さい!今度は具沢山にしますね。...そうだ!お買い物はどうしますか?」
「行く、...着いて来るか?」
「もちろんです!...なんか、これって、で、でぇと...えへへ」
「...炭治郎?」
「んん、準備して行きましょう!」
「今日もいい天気ですね〜!来週は雨が降るみたいです、傘を忘れないようにしないと!」
てくてくと普段より小さな歩幅で歩く冨岡の耳に、下から大きな声が聞こえる。いつも冨岡はうん、と頷くだけで殆ど炭治郎が喋っている。天気の話、地元の話、夕飯の献立...散歩に丁度いいラジオだ。赤信号の横断歩道の前で足を止めると、炭治郎が手を掴んだ。少し前屈みになって顔を覗く。
「...どうした、」
「...あの、義勇さん。昨晩の事なんですけど」
少し自信なさげに眉を下げ、それでも何か希望を感じ取れる眼差しを冨岡にぶつけてくる。「昨晩の事」とは、宇髄達との飲み会のことだろうか。そう言えば炭治郎に写真を要求したのだった、と思い出す。
「...ああ、昨日は急にすまなかった。お前の話をしていて、どうしても見てみたいと...」
「えっ、お、俺の話をしていたんですか?」
「後輩が、買い物している所を見ていたらしい。それでお前の事を聞かれていた...種族までは話してないから安心しろ」
「そうだったんですね...たぬきって聞いたらびっくりしますよね、へへ。義勇さんが俺のこと話してくれたの、嬉しいです」
照れ笑いする炭治郎の丸い頬は、いつもより赤くなっている。何だか可愛く見えてきた、昨晩から可愛い可愛いと聞き続けたものだから連られてしまったのか、まだ酔いが醒めていないのか。胸を擽られた気がした。
信号が変わると、またてくてくと歩いていく。「それで、」と炭治郎は話を続けた。
「あの、俺が送った写真なんですけど...どうでしたか!?」
「え、どうだったか...?」
どうやら炭治郎は、自分を撮った写真の反応を聞きたかったらしい。反応なんて、そんなの一つしかなかった。
「ああ...皆、可愛いと言っていた。特に後輩は何度も...」
「か、...かわいい、」
炭治郎の表情からは、嬉しさより少しの悲しさを感じた。彼のような鋭い嗅覚が無くても複雑そうであるのが分かった。一体なぜだろう...。
「炭治郎?」
「......かっこいいじゃなくて、かわいい...」
「え、」
ぽつりと呟かれた「かっこいい」、数秒考えて冨岡はハッとした。
自身を大人だと言った炭治郎との出会いを思い出す。そして先日の愈史郎、特に彼は子供だと思われたことに憤り攻撃的であった。所謂コンプレックスであるかのように感じた。
小柄な体と同じように中身もどこか幼い彼らだが、種族的には「大人」なのだろう。それなら、いつまでも可愛いなどと言われるのは確かに苦である。歩道の端に寄って立ち止まり、軽く下の方を見る。
「炭治郎、」
「え...、な、なんでしょう?」
「...頼りにしている」
「かっこいい」、とは冨岡も正直には思えなかった。
しかし、頼もしいのはよく分かっているから、求めていた言葉の代わりに贈る。炭治郎には伝わるだろうか、匂いとかで都合よく。それも何だか恥ずかしい、とても照れ臭くなった。
「...義勇さん、」
「あつい、行こう」
ふわふわする。早く涼しい場所へと避難しなければと、小さい体を抱えた。
逆光であまり見えなかったけれど、とても綺麗な目だった。
あの写真の炭治郎は、冨岡の同僚達に向けた意思表示のような、ちょっぴり威嚇も入り交じった顔をしていた。彼の自慢になれるかな、なんて思ったりして...欲を出すなんて自分らしくないと後で反省した。
けれども、そんな顔ですら幼さが前面に出てしまい、結局「可愛い」で終わってしまったのだ。悔しかった。
そんな炭治郎に、冨岡は「頼りにしている」と声を掛けた。その時に見た彼の目の青色は、やっぱり綺麗だった。
急に炭治郎を抱えて目的地へと走り出す冨岡からは、照れを隠そうと必死な匂いがした。
- 11 -
残暑も乗り越えると、少しずつ温い風にも涼しさが交じる。そんな時期に炭治郎からある提案があった。
「義勇さん!どこか遊びに行きませんか!」
ばーん、と効果音が聴こえてきそうな登場の仕方にも慣れてきた冨岡は、氷を控えめに入れたコップにジュースを注ぎ炭治郎に渡してやる。今週はぶどうジュース、以前は味気無かった冷蔵庫の中身も今では適度に食材が置かれており、普段なら買わないような菓子類まで入っている。「炭治郎が好きそうな物だ」という理由でちょくちょく買って来てしまうのだ。
「これ美味しいですね!今度お菓子と一緒に実家に送ろうかな」
「...家族はこっちに来ないのか」
「うーん、来れない事もないですけど...。下の兄妹がまだ小さいからなあ...上手く化けられないかも知れないし、あとお隣のおじいさん達も心配だから」
「そうか...」
寂しくないのか、と聞くのは野暮だ。匂いが分からなくても想像出来てしまう。悲しい時は笑った時に眉毛が少し下がるし、何より嘘が下手だ。
炭治郎が嘘をつくのを初めて見た時、冨岡は思わず吹き出してしまった。明らかに見え見えの嘘だったのに、世間話にちょっと冗談を交ぜただけなのに。あんなに目をひん剥いて苦しそうな顔をするなんて、あんなに。暫く忘れられず眠る寸前までチラついて離れなかった。
きっと炭治郎の事だから、冨岡を気遣って「大丈夫です」なんて言うのだろう。別にあの顔を見たい訳でも無いのだが、真面目な話の最中であの顔で笑いを耐える自分が嫌だ。それに正直に寂しいと言われても冨岡は慰め方がよく分からない。
「......そうだ!今度、俺の故郷に行きませんか!」
「...え?」
目をきらきら輝かせた炭治郎が提案を出した。予想外のもので冨岡の目はまん丸。
「その...家族のこと、少しでも気になってくれたなら。会ってみませんか!」
「あ...ウン、」
謎の気迫に押されて、冨岡の口からは空返事のような言葉が出た。まあ、いいか。興味が無い訳ではなかったし、炭治郎の家族が迎えてくれるなら...。冨岡も随分と考えが柔軟になった気がする、眩しいくらい明るい存在が隣に居るからだろう。
「いつ行きましょうか、職場にお休みの相談してみますね。楽しみだなあ、へへ...母ちゃん達も喜ぶだろうなあ」
すっかり予定を立てている炭治郎、尻尾をぶんぶんと振って嬉しそうだ。炭治郎の実家は山奥だと聞いている為、冨岡も軽装では行けないと判断し、登山グッズを買うべきかとネットで検索していた。
「地図で言うと、この辺の......あ、ここですね」
「...山、だな」
「電車から降りたら、麓の近くまでタクシーを使いましょう。俺一人なら歩いて行けますけど、義勇さんくらい大きい人はちょっと危ないかな...歩道が有るような無いような所で、トラックとかがよく走ってるので」
「ここから歩いてるのか...、分かった」
本日の買い出しを終え帰宅した二人は旅行の計画を立てていた。ここから電車での距離は然程遠くなかったが、降りてからが問題だった。
炭治郎は山に入るとたぬきに戻って細道を登るらしいが、人間ではそれが不可能だ。周辺の道を探しては、インターネットで拡大した地図やその風景画像を見る。この作業を何度か繰り返すと道順が出来てきた。炭治郎も一緒に画面を見ては、この道は安全だとか、ここは蛇の通り道で危ないだとか注意してくれて大変頼もしかった。
「...できた」
「やったー!あとは行く日を決めて準備するだけですね!」
いつもの喜びの小躍りを見て冨岡も口元が緩んだ。資料は明日、コンビニでプリントでもしておこう。
「冨岡〜これ資料置いとくぞ、...なに、登山でもすんの?」
「...ああ、すまない。...登山、する」
「マジ?」
翌日の昼休憩。冨岡に声を掛けた宇髄は、彼が見詰める書類を覗き見した。地図らしきそれはどうやら山の形を描いており、登山でもするのかと聞くと肯定の言葉が返ってくる。アウトドアなイメージが無かった冨岡が登山をする、これは面白い。冨岡に仕事用の資料を渡すとそのままくるりと踵を返し、いつもの面子を探しにいくのであった。
「冨岡さん冨岡さん!今日は早く見つけられたわ...!登山に行くんですって、お話聞きたいわ〜!」
「意外とアウトドア派なんですね、例の可愛いお手伝い君と行くんですか?」
「え、なんで......」
今日は作業が捗り定時で上がれると内心喜んでいた冨岡、しかしそれは宇髄による策略であった。冨岡に気付かれないよう、胡蝶達と裏でサポートしていたのだ。理由は唯ひとつ、冨岡という最近面白い社員から話を聞き、またその話で彼を弄る為。楽しみ事の為なら彼等は団結するのであった。
「悪いなぁ冨岡!お前から『登山』ってワード出てくるなんて思わなくてよ、おもし...んん、珍しくてつい」
元凶はにっこり笑って悪びれる様子もない。冨岡は溜息を吐いた。そしてされるがまま何時もの居酒屋へ連行されるのだった。
- 12 -
「それでは、出発しましょう!」
「...おー」
午前5時。
冨岡は欠伸を耐えながら片手を挙げた。昨夜は仕事も定時で終わらせて、予め準備しておいた荷物の確認を済ませてさっさと眠りにつく筈だったのだが...眠れなかったのだ。何だかそわそわして、何度もごろごろと寝返りをうって体勢を変えるが寝られず、限界がきて気絶するように眠りに落ちた頃にはとっくに日付が変わっていた。
「とっても楽しみでなかなか眠れませんでした」
「......、」
「あら、義勇さんからも眠気の匂いが...。一緒ですねぇ、えへへ。電車の中でちょっと寝ちゃいましょう」
「...ん」
炭治郎も自分と同じで少し嬉しいやら恥ずかしいやら。感情を隠そうとしたのに匂いで気付かれてしまい、冨岡は俯いた。
電車に乗って数分後、冨岡の意識は飛んでしまっていた。目が覚めて、窓の外を見るとそこは見覚えの無い景色。直ぐに乗り過ごしていないか確認し、まだ数駅あることに安堵する。隣の席を見ると、すやすやと穏やかに眠る小さな体があった。どうやら炭治郎も寝ていたらしい。
「...ふ、」
電車の振動で、まるい頬がぷるぷると揺れている。冨岡はそれが可笑しくて、耐えたつもりが口から小さく漏れてしまった。好奇心でそこに指を添えてみる、するとその振動が指に伝わってきた。
「...っ、ふふ...」
口元が緩んで笑いを堪え切れなくなり、暫く炭治郎の頬で遊ぶ事にした。軽くつついてみたり、摘んでみたり。顎下から片手で両の頬を掴んでみると、もっちりした感触に覆われたような気がした。
「ん...、むぐぅ、う?」
「っ、起き、た......すまな、ふ...」
声がして顔を覗くと、炭治郎は何をされているのか分からず、渋い顔をしてむぐむぐと口を動かしていた。思わず手を離して謝るも、声が震えて言葉にならない。
「ぅ、あ...、あら?義勇さん?」
「......っ、...、」
「ぎ、義勇さん?大丈夫ですか?...あ、そろそろ乗り換え...あの、義勇さん、ぎゆーさん...!」
「見てください義勇さん!山がきれいに見えますね!」
「ああ、よく見える」
笑いが落ち着いた冨岡は慌てて炭治郎や荷物を抱えて電車を乗り換えた。窓際に座って少し経つと建物はほとんど無くなって、山が近付いて来る。炭治郎を膝に乗せて一緒に窓の外を眺めた。
「あの一番大きな山の隣、...あ、あれです!あの山の奥に家があります」
「...あれを登るんだな」
冨岡は少し不安そうに、炭治郎が指す方向を見ている。果たして辿り着くことは出来るのだろうか。
半ば無意識に膝上のまん丸を両手で掴み引き寄せた。先の跳ねた赤毛が顔にあたって擽ったい。何となく心が休まるような気がする...言うなればあれだ、よく犬や猫を抱くとストレスが軽減されるというようなやつだ。会社でそんな話を聞いたことがある。炭治郎はたぬきだし、同じ効果があっても不思議では無いのか。
「...あ、あの。ぎゆーさん、」
「え、...すまない。嫌だったか」
腕の中のまん丸い体がもぞもぞと動く。ゆっくり手を離すと炭治郎の頭がふるふる震えて、ぴょこっと耳が飛び出した。
「た、たんじろっ、耳...!」
「あ、あら...!?」
冨岡は直ぐに両手で耳の部分を覆った。車内に人はほとんど居らず、それに炭治郎がたぬきだと絶対にバレてはいけないと言う訳では無いらしいのだが...しかし念の為、このまま隠しておく。以前、甘露寺に写真を見せた時の反応が頭をよぎった。人間の姿でさえ可愛い可愛いと叫んでいたのだ、こんなふわふわした耳や丸い尻尾を見たらどうなっていたのだろう。
うっかり人前に晒すと何が起こるか分からない、せっかくの旅行を台無しにはさせたくないと思いながら、リュックの中に入れていた帽子を被せてやる。
「義勇さん、そんなに隠そうとしなくても大丈夫ですよ。他のお客さんとも離れていますし...」
「......他人に見せたくない」
勿論、冨岡は「好奇の目に晒したくない」の意味で言った。しかし、このたぬきは違う意味で受け取ってしまった。
「えっっ。ぎ...義勇さん」
「何だ、」
「み、みみ見せたくないって、あの...その」
帽子の下で顔を真っ赤にした炭治郎がこちらを見ている。暑かっただろうか、ツバを掴んで少し浮かせてやろうとすると、小さな両手がそれを拒み更に深く被った。
「あの、ちょっと...気持ちの整理をさせてください!今のは刺激が強いと言うか、えぇと...」
「刺激が強い...?」
「あぁ、やっぱり。分かってはいるんです、けどそれって無意識だったりするんですか。うーん、うーーん」
「お、落ち着いてくれ。これ、飲むか?」
水が入ったペットボトルを差し出し、炭治郎は勢いよく半分ほど飲んだ。
「...ふうぅ。ありがとうございます」
「顔が真っ赤だ、熱は無いか?」
「んん、大丈夫です。とっても元気ですよ!」
両手でぐっと拳を作って問題ない事を伝える炭治郎。冨岡は心配になり帽子越しに頭を撫でた。
13
「...っ、...これで、あと少しか」
「はい!もうすぐ道が広がり
ます、そこを真っ直ぐ行くと着きますよ!」
とある山の中。
汗だくの男が一人と、小動物が一匹。
電車が目的の駅に着くと、時刻は正午を迎える頃であった。タクシーを呼び、冨岡と炭治郎は山の麓へと移動した。山への入り口には、ごく普通で人間が二人程並んで通れる道が見える。木々の隙間から射し込む陽の光により、その道は想像より明るかった。
思っていたより開けた道で、これなら自分でも登れそうだと安堵したのも束の間。登り始めて三十分もしない内に道はどんどん細く狭くなり、炭治郎のような小さな体で余裕があるくらいの険しい道となっていく。冨岡は何度も木やその枝にぶつかり、厚手な長袖のジャージを着ていて良かったと心の底から思うのだった。
「義勇さん!大丈夫ですか!?やっぱり少し狭いですね、いつもの道よりは広い方なんですけど...」
「だ、大丈夫...。それより、熊の匂いとかしないか?」
「あ、はい!それは大丈夫ですよ。今日は晴れていて良かったです、雨の匂いと混ざっていたら分かりませんから」
この山ではあまり出没はしないようだが、念には念を入れて、炭治郎には動物が近くに居ないか嗅覚で確認して貰っている。熊や猪が出たら、この二人では到底敵わない。しかし、もっと恐ろしいのは炭治郎の発言であった。
「母ちゃんなら一撃で倒せるんですけどね、俺もまだまだ頑張らないと!」
「えっっ」
そして、更に細くなった道を歩くという予想外の事が起きたが、本来のたぬきの姿になった炭治郎が先回りして冨岡を誘導するなど、時間を掛けて登って行き冒頭に戻る。
「......しかし、たぬきになっても小柄だな」
「えっ!?これでも大人ですよ!」
「分かってる。...その姿で会話が出来るとは思わなかったが...」
休憩しようと水を飲んでいた冨岡が、たぬきの背中を撫でた。ふわふわの毛に指が埋まり、人間とは違う感触に何とも言えない。犬は苦手だった筈の冨岡も、いつも炭治郎の耳や尻尾を見慣れていたからかごく自然に触れることが出来た。指先が皮膚に近付くと温かな体温と、人間より速い鼓動が伝わる。すると炭治郎が身動ぎ、手が離れてしまった。
「義勇さん、あの...そこはちょっと...!」
「あ、すまない。つい...」
「あ!いえ、ちょっとムズムズしただけなんです。...頭や手は大丈夫なので、そこを触って頂けると嬉しいです!」
撫で方が嫌だったか、軽く落ち込む冨岡を励ますように、炭治郎が大きな手に顔を擦り付けそのまま腕にきゅっと抱き着く。冨岡はその言葉を聞き、反対の手で先程よりぎこちなく頭を撫でる。
「んふふ、そこ好きです」
「そうか...、」
ふわふわ、すりすり。
鼻の上や額が気持ち良いらしい。きゅ、きゅと声が聞こえた。
しばらく触れていると、なんだか気が休まった。アニマルセラピーの効果は大きいらしい。
「...よし、行くか」
「......ハッ!はい!...寝そうになっちゃった」
太陽が沈むより前に、冨岡達は目的の場所へ着いた。辺りはすっかり夕陽の赤色に染められている。頂上から見下ろせば、さぞかし絶景なのだろう。冨岡は小さな期待と共に、目の前の扉を叩いた。
「は〜い!」
元気そうな子供の声がする。斜め下を見ると、人間に化けた炭治郎は照れたようにもじもじし始めた。
「ちょっと、緊張します」
「...それは俺の方だろう」
炭治郎の実家だと言うのに、なぜ彼が緊張しているのだろう。
「今開けまーす!......わぁ!!大きい!」
「...こんにちは、」
ガラガラと勢いよく扉を開けたのは、炭治郎と同じような小さな子供であった。自分より大きな人間を見て興奮しているのか、たぬきの耳と尻尾がよく動いている。
「禰豆子、ただいま!」
「おかえり、お兄ちゃん!この大きな人が冨岡さんね!」
こんにちは〜、と上を見上げて挨拶する子供は禰豆子と言い、炭治郎の妹である。彼と同じく活発そうな禰豆子は、冨岡を物珍しそうな目でまじまじと見詰めている。
「ああ、冨岡義勇だ」
「妹の禰豆子です!いつも兄がお世話になってます」
「こ、こちらこそ...」
行儀良くぺこりとお辞儀をする禰豆子に、冨岡も応えるようにその場にしゃがんだ。
「あら、禰豆子〜!早くお通しして、みんな待ってるわよ」
禰豆子の後ろで顔を覗かせたのは、これまた小さな子供......子供?
「あっ、お母さん!今行くね。冨岡さん、上がって上がって!」
「行きましょう義勇さん!」
「あ、でも汚れが...」
「だいじょーぶ!お風呂沸かしてるから後で入ってください」
「いらっしゃい冨岡さん。炭治郎から聞いていたけれど大きいわね〜」
「お、お招きありがとうございます。お邪魔します」
「生憎、主人は出張で明日帰ってくるみたいなの。炭治郎と冨岡さんが帰るまでには会えると思うわ」
大きな卓袱台を挟んで正面にはにっこり微笑む炭治郎の母。両隣は炭治郎と禰豆子、そしてその周りを兄弟達が囲み、皆同じようにたぬきの耳と尻尾を出してぱたぱたと揺らしている。実際に炭治郎より幼いだろう子供達は冨岡の方をじっと見詰め、「どこから来たの?」と目をきらきらさせる。冨岡は、仕事とはまた違う緊張とプレッシャーを感じており、差し出された茶もなかなか飲めずにいた。
「冨岡さんの頭、ぶつけなくて良かったねえ。部屋に入るとき当たるんじゃないかってヒヤヒヤしちゃった」
「向こうで見た人達は、だいたい義勇さんくらいの背丈だった!中には大きくて逞しい人も居たけど...」
冨岡も来るまでは心配していたが、竈門家は想像より大きな民家であった。珠世の診療所のような木造で、元々人間が住んでいたかのような広さを感じさせる。この客間らしき部屋も、小柄ばかりとは言え人数の多い竈門一家と大きな人間と呼ばれる冨岡が一緒に居てもあまり窮屈しない。
「義勇さん?大丈夫ですか...?」
「!ああ...広い家だと思って」
「ここはね、元は人間が住んでいたの。もう住む人が居ないからと言う事で私たちが譲り受けて、古い所を少しずつリフォームしたのよ」
「なるほど...」
やはり人間が住んでいたか。「いい家でしょ!」と得意気に笑う禰豆子たちに、その顔が炭治郎とそっくりだと小さく笑う。場が和んだ気がして、冨岡はやっと茶に手を伸ばした。
「湯加減いかがですか!」
「...い、良い感じだ」
客人であり山で汚れていたのもあって、冨岡は一番風呂を貰ってしまった。いくら家が人間サイズだったとしても、風呂のサイズが分からず入れるのだろうかと心配したが、案内されたのはごく普通の風呂場であった。
冨岡の想像では、釜の風呂が出てくるかも知れないなどと考えていた。しかし、これなら勝手を知っているため炭治郎たちに聞く必要も無く入れる......と思っていたのだが。
「気持ちいいですね〜お風呂は癒されます」
「......ウン」
「お風呂が冷めないうちに、どんどん入っちゃいましょ!冨岡さんとお兄ちゃんは先に行ってきて、着替えはこのバッグに入ってるかしら?持っていくわ!」と、指示を送る禰豆子に押されて炭治郎と一緒に風呂に入る事になってしまった。サイズは違えど大人が二名、すっぽり入った浴槽の中で冨岡は若干の気まずさを覚えた。家を行き来する仲とは言え、風呂は貸すことはあっても各自で入っていたのだ。
「...初めてですね、一緒にお風呂って」
「...そう、だな」
「その...結構、近いといいますか。いつもとは違う格好だから...え、えへへへ...」
徐々に茹で蛸のように赤くなり、両手で顔を覆って湯に沈んでいく炭治郎を、冨岡は慌てて抱き上げた。元剣道部の名残がある筋肉に、子供のような柔らかな肌が密着する。
「おい!...逆上せたか?」
「...わあぁ!ぎゆーさん...!?だ、だめです!今すっぽんぽんです俺たち!」
「?風呂だから、そうだろう」
犬かきのように手足をジタバタさせるが、冨岡の腕からは抜け出せない。
「あの、あのあの...えっと、は、肌が」
「肌...?」
「〜〜...!!」
ポンッ
軽く音がしたかと思えば、抱きかかえていたものが狸になっていた。
「しっ、しし刺激が強いんで!!失礼します!!」
冨岡が驚いて力が緩み、その隙にスルッと抜け出した狸はそのまま風呂場から出て行ってしまった。
一体何だったのだろう。
考えても分からない、心配になった冨岡も急いで風呂場を後にした。
- 14 -
「もー!お兄ちゃんの意気地無し!」
「だって禰豆子、俺にはまだ早いよ...!」
「耐性無さすぎるのよ。一緒に入ったこともないの?」
「ない!」
冨岡が風呂場を出て着替えていると、すぐ近くで何やら揉めているような声が聞こえる。あの声は炭治郎と、禰豆子だろうか?二人の元へ近付いて行き、廊下の角からチラリと覗いてみる。
「あんな姿見たら俺...」
「まあ、とっても綺麗な人だもんね。それにしてもお兄ちゃんがねぇ〜」
「か、からかわないでくれないか...」
急いで服を着たのか、袖や裾の高さが中途半端な姿の炭治郎が禰豆子に揶揄われている。顔を真っ赤にして言い返しているが、声は弱くなっていく一方だ。一体何の話だろう、冨岡の脳内にはクエスチョンマークが幾つも散りばめられた。
先程まで炭治郎は冨岡と風呂に入っていた。炭治郎は何故か急に風呂を出てしまい、禰豆子と話をしている。いま出てきた言葉は「あんな姿」、「綺麗な人」......分からない。疲労で眠気も出てきた冨岡は考える事を諦めて炭治郎たちに姿を見せた。
「あ、冨岡さん!お風呂どうでした?」
「ぎゆっ、義勇さん」
「いい湯だった、...ありがとう」
こちらを見上げる小さな二人。礼を言われた禰豆子は満足そうににっこり笑って、炭治郎は相変わらず赤いままの顔でこちらを見詰めている。
「炭治郎、逆上せたのか?」
「あっ、いえ...すみません、急に出ちゃって」
もじもじしながら眉を下げる様子に、冨岡は不思議そうにしながらしゃがんで顔を覗き込む。
「あー...。あのね、お兄ちゃんは、」
「ねっ、ねず、もがっ」
「冨岡さんと一緒にお風呂入って、ちょっと照れちゃっただけなの!裸の付き合いってものかしら、二人とも初めてなんでしょ?」
禰豆子は何か言おうとした炭治郎の口を素早く手で塞いだ。あまりの速さに冨岡は二、三度瞬きして、「あぁ...」と空返事するのだった。
炭治郎の作る料理は美味しい。それは彼の母が作っても同じであり、振る舞われた和食はどれも優しい味がした。
「...これ、俺が取ったやつ」
「これは私!」
「これ、とった!」
ピッとちいさな指で料理をさす兄妹たち。おそらく料理の中の野菜を指しているのだろう。そう言えば殆ど自給自足の生活をしていると聞いていた、と冨岡は思い出した。「美味い」と応えると彼らの頬が上がって嬉しそうに笑い、隣の炭治郎が自慢気に頷く。
「家族が作ったご飯はとっても美味いです!」
「沢山食べてね〜」
食べ盛りの為か、人間サイズの茶碗山盛りによそった米をかけ込む小さな兄弟たち。同じように盛られた飯を見て食べ切れるだろうかと若干の不安を滲ませる冨岡であった。
「...う、」
腹を抑えながらよろよろと廊下を歩く冨岡。「今日は特別だから」と山のような白飯を二杯も盛られ、残すのは失礼だと全て収めた腹は膨れて水も入らないくらいだ。あの量をぺろりと平らげた兄弟たちは「そう言えばお芋が残ってたね、あとで焼き芋でもする?」と提案してきたがぶんぶんと首を振って断った。洗い物を手伝うと申し出たものの客人だから寛ぐようにと言われ、こうして腹が落ち着くまで家の中を歩いていた。
がた、
静かな廊下の奥の方で、僅かに物音が響く。視線を向けるとまだ入った事の無い部屋だ、寝室だろうか。炭治郎たちはこの方向とは反対側の部屋で遊んでいるし、母親は台所に居るはずだ。風でも吹いて窓が揺れたのか......もしや動物でも入って来たのではないか、冨岡は焦りながらも音を立てないようにその部屋に近付いた。
「...誰か、居るのか」
扉は開いていた。暗がりにそっと顔を覗かせると、ぬるい風が冨岡を通り過ぎていった。
少し開かれた窓を月明かりが照らしており全く見えないという訳では無いが、電気を付けなければ部屋の状態が掴めない。何も無ければそれで良い、冨岡は敷居を跨ぎ壁に手を這わせて電気のスイッチを探す。
しかし、冨岡の住む部屋とは違いそれらしき物には触れられなかった。...よく目を凝らすと部屋の中心に、風でゆらゆらと何か小さい物が揺れている。蛍光灯の紐だろうか、足元に注意し一歩、二歩と進み手を伸ばす。
その時だった。
「っ、な...っ!」
手首を掴まれ、凄まじい速さで畳に転がされる。この感触は動物ではない、これは人間だ。派手に倒されると思い体が縮こまるが、途中で相手の力が弱まったのか尻餅はついたものの強い衝撃や痛みは感じなかった。
「...ああ、客人か!悪い事をした、大丈夫ですか?」
「...っ、」
混乱して声が出ない。掴まれたままの手はじっとりと汗をかいているのに、喉はカラカラに乾いている。恐る恐る見上げると、そこには人間のシルエット。声や手の感触からして男だ。妙に落ち着いた彼が言う「客人」とは、見慣れない冨岡を指している。それはつまり、この家に誰が住んでいるのかを知っているかのようだった。
冨岡のぐちゃぐちゃした思考に突如浮かぶのは「危険」の二文字。炭治郎たちに知らせなければ、張り付く喉に無理やり力を入れて叫ばなければ。
「た...たん、じっ...!?」
「待ってくれ、もしかして君が冨岡くんかい?」
言葉を発した冨岡の顔にぐっと近付いて、目の前の男が問う。暗さに慣れた目はぼんやりと顔の輪郭を捉え、その両耳には大きな何かがぶら下がっている。自分の名を知っているこの男は一体誰なんだ。
「いやあ、すみません!驚かせてしまって。炭治郎がいつもお世話になってます!」
そんな事を言いながら男は冨岡からパッと離れ、何やら探し物をしている。数秒後、二人の間が急に明るくなった。男の手には懐中電灯、同じくらいの背丈の彼はこちらを見て微笑む。
「どうも、竈門家の父です」
懐中電灯の明かりを囲む男が二人。竈門家の父と名乗る男は穏やかな笑みで冨岡を見ている。
「......それで、なぜこんな暗い所に...」
「実は出張に行っていて明日帰る予定だったんだが...早く終わって先程帰ってきたんです。折角だから驚かせようと思ってこの部屋に隠れてたら誰かが入ってきて、泥棒かと勘違いしてしまった。君が来ることをすっかり忘れていました」
申し訳ないと言いながら叱られた子供のように眉を下げて、何となく雰囲気が炭治郎に似ている。よく見ると額の痣まで同じ様に出ていた。先程見た耳にぶら下がっていた物は、太陽を模したような大きなピアスであった。
そして何よりも冨岡が驚いたのは、その体格である。竈門家とサイズが違う。寧ろ冨岡と同じ人間の大きさをした普通の男だ。人間に化けている可能性もあったが、炭治郎たちを見ている分には一番の出来であり完璧であると言える。
「...あの、人間...ですか」
冨岡は直球で聞いてみた。妙に緊張を感じさせる真っ直ぐな目が細められ、男が口を開けたその時だった。
「ぎゆーさーん!」
ドタドタと走る足音と共に冨岡を呼ぶ大きな声。なかなか戻ってこない冨岡を心配して探していたのだろう。
「ぎゆーさんぎゆーさっ、父ちゃん!?」
「はは、バレてしまった」
部屋に入って来た炭治郎は、冨岡と一緒に座っている父親を見て目を丸くした。