バルの昼下がり「テンゾーさん、こんちわ。いるかい?」
石川先生の馴染みのバルを訪ねると、カランカランとベルが鳴ったきり誰も居なかった。店内に小さくフラメンコギターの音楽が流れているから、やってないわけじゃないだろう。
テンゾー、と呼ばれる俺より10くらい上のおっさんがオーナーをやってるこの店、普段は一人で切り盛りされている。
しばらくすると奥から店主が顔を出した。
「おう、待たせたな竜三。どうした?」
日に焼けた、細身のおっさん。スキニーなジーンズに、Tシャツでもそれなりに見える奴だ。
元々船乗りで世界各地を巡っていたそうだが、スペインでバルの良さに目覚め、その後船乗りをやめたあとにこの街に店を構えたそうだ。
映画でしか見たことのないようなカウンター、上からぶら下がるグラスと、これまた珍しい食べ物。
どっちかというと、和風のものの多いこの街で、おしゃれな異国情緒を醸し出すこの店はあっという間に人気になった。珍しいものと酒に目のない先生は、開店間もなくからの常連だ。
俺は空のボトルをカウンターに置いて、言った。
「センセのお使い。いつものワインと生ハムをテイクアウト。あと、チーズとパン.コン.トマテひとつ」
「飲み物は?」
「白サングリア。炭酸でうっすーくな。これから晩飯作らなきゃいかんからよ」
パインとリンゴの入ったサングリアと、ピンチョスの皿がすぐ出てくる。お釣りでおやつ、といったところだ。それをカウンターにもたれながらつまみ、テイクアウトを支度してくれるテンゾーとたわいもないことを喋る。
「今日は仁はいないんだな」
「17時から来るよ。最近じゃカウンターも堂にいったものだ」
実は幼馴染みでピカピカの大学生の仁もここでこっそりとバイトをしているらしい。
いつぞや、政子さんに今時料理もできずに一人前の男などと言えるか、と言われてクソマジメに受け取ったらしい。
ちなみに伯父御は仁のバイトに気づきながら、気づかないふりをしていると先生が言っていた。相変わらず面倒くさいやつらだ。
「お前もうちでバイトしないか?調理でもいいし、何ならダンスとかさ。知り合いの演奏家呼ぶからフラメンコ踊ってくれよ」
「フラメンコよく知らんぞ。それに俺が仁と同じとこでバイトとか、伯父御がまた怒る」
くい、と一口サングリア。白ワイン+果物がほんのり薫る程度にまで割られてるのが惜しい。てきぱきと働くテンゾーを見ながら、パンを食う。トマトペースト、うめえ。バジルと合いすぎる。
またサングリアを飲んで口を開いた。
「こないだ、センセと初旅行したんだけどよ。初めて入ったが、温泉て最高だな」
「初めて?温泉が?」
「俺がっつりタトゥー入ってるからよ。プールも風呂も行かないんだ」
「あー、俺も入ってるが地味に不便だよな。俺のくらいなら隠せば何とかなるけど」
そういうテンゾーの腕にはイルカのトライバルタトゥーが入っている。
「つか、あの人と温泉お泊まりとかすごいな。怒らせないようにめちゃくちゃ気を使いそう」
「そうか?俺しょっちゅう怒られてるし、ホテルとか家とかいつも行くからそんなでもねぇけど」
「ラブホと一緒にすんなよ。お高いとこだろが」
「でもやることはほぼ同じだろ。温泉入って旨いもの食って存分にヤりまくる…んー、チーズうま」
「お目が高い。スペインから新しく仕入れたやつだ。旅行楽しかったか?」
「チーズもちょっと包んで。旅行また行きたいな。贅沢して、いっぱいヤって極楽だった」
ボトルをキュッ、と栓をしてスライスした生ハムとチーズの塊を包んでもらった。お代を払うと、ちっちゃいオリーブの瓶をおまけ、と付けてくれた。先生の好みをよく知っている。
「まいどあり。お使い気を付けて帰れよ」
「おーう、またな。今度はセンセと来るよ」
飴色の、少し高級船室を思わせるシックな店を出ると、外ははや、日を傾けつつあった。
海へと緩やかに下る坂道、道の果てに輝く海と青い空。行ったこともないスペインの香りを吸って、馴染みの風景が少し色めき立って見えた。