ハロウィンの惨劇 ギラギラした歓楽街の路地裏。ゴミやらハエやらの汚濁の溜まり場に、一人の男が投げ捨てられた。
ぼこぼこに殴られて、服は汚れ破れている。ぐったりと生ゴミの袋の上に引っ掛かった男…竜三は、うう、と呻いて眼を閉じた。
数日食っていなかったところに、多勢に無勢。あえなくボコられて、スマホと有り金全部とられた。相手の顔は見ていない。今夜はハロウィンで、安っぽい仮装をしていたからだ。
「ちくしょう、ついてねぇ…」
口の中は血の味でいっぱいだ。それを吐き捨てると、ああ、勿体ない、と何処からか声が聞こえた。
「は…?」
空耳、にしてははっきりと。霞む眼を瞬いて見開くと、突然目の前に見知らぬ男がしゃがんでこちらを覗き込んでいた。
「おや、生きておったか」
ぎょろり、と黄色く光る二つの眼だけが闇に浮かんでいる。まるで剥製で見た鷲の目のようだ。
「な、何…」
「良い香りがすると来てみれば、ゴミまみれのひげ男であったとは」
男が竜三の腕を掴み、ゴミ山から引きずり上げる。ありえないバカ力に頭を振られておえっ、となった。
男は片手一本で、竜三の両手首をまとめて持ち上げた。足先すら地面から離れて吊られた竜三は、サアッと頭から血が引くのを感じた。
「お前、儂の飯になる気はないか」
「は、はぁっ…?!」
「衣食住を満たして生かしてやる代わりに、血を寄越せ。いい加減、冷たいパックには飽いてなぁ」
竜三は促すようにぷらぷらと自分を揺らす男を見下ろして、吐き気をこらえて声を振り絞った。
「何だよ、おまえっ…」
「吸血鬼」
「は?い、いい年の爺が、ハロウィンではしゃぐんじゃ」
言葉をいい終えぬうちに、竜三は壁に叩きつけられていた。げほっ、と口に溜まっていた血が垂れる。
それを口を寄せて美味そうに舐めとる男。その感触に、竜三はヒッと鳥肌をたてた。
「万聖節の夜は、あの世から怖いモノが彷徨いでるのだぞ?知らんでばか騒ぎをしておるのか?ん?」
口の端から首筋に移動した顔。血管を確かめるように唇を這わせ、男が続ける。
「たまらんな、空きっ腹に堪えるわ。おい。今すぐ美味しく飼われるか、この場で食い散らかされるか。選べ」
そんなの、選びようもない選択だった。
竜三が次に目を覚ましたのは、吹きっさらしの風の冷たい所だった。
「さっむ…!」
「少し吸いすぎたな」
ぽいっ、と温かい物が投げ渡される。缶コーヒーだ。そうして、からだには見慣れぬ高そうなコートが掛けられていた。
「え、と…あ!」
混乱した竜三が、ようやくコーヒーを投げた相手に気づいて声を上げる。さっき、路地裏で噛みついてきた奴。
そいつがフェンスの根本のコンクリートに脚を組んで座り、竜三を眺めていた。
「お前、そのとろさは生まれつきか?」
男が呆れた様子で言う。黒いパンツに、赤の何かの柄シャツ。白髪混じりの黒髪をオールバックでひとつに束ねた、初老の男。黒手袋で煙草をふかし、細く煙を吐くさまが映画の悪役のようだ。
男が煙草を弾き捨てて、踏みにじる。そして竜三に近づくと、首筋を指でぐりぐりと押した。ズキッ、と重い痛みが走る。
「お前の味を気に入ったぞ。やはり一度で食い殺さなくて良かった」
「いっ…た!……」
男は面白そうに傷を摘まんでから手を離すと、竜三に手を差し出した。
「保険証や免許証。お前の名前や住所を証明するものを全部出せ」
「…っ、ねぇよ。財布ごと、全部取られた」
「は?」
男が怪訝そうな顔で竜三を睨む。
「ねぇもんはねぇよ!俺をごみ溜めにぶちこんだ奴らが持ってった。今頃どっかで楽しくやってんじゃねぇか?」
「…詰まらぬ手間を掛けさせおる」
男が立ち上がる。
「大人しく待っておれ。半刻で戻る。逃げたら頭から食うからな」
「え、は…?!」
そう言った瞬間、男がフェンスの向こうに飛んだ。竜三がフェンスに飛び付く。しかしそこにはもう、男の姿はなかった。
竜三は身震いし、座り込んだ。
「な、何なんだよ、あいつ……」
先ほどぐりぐりといたぶられたところを恐る恐る触る。二つの、穴。ぐり、と肉がひめいをあげて手を離す。
「嘘だろ…うそ…」
体をかきいだいて踞る。立とうとしても、力が入らずはいずるのがやっとだ。貧血のように、手足も冷えている。
フェンスの足元からハロウィンの人混みを見下ろしていると、突然、女の悲鳴が響き渡った。
それを合図にしたかのように人波ががっとうねった。悲鳴と怒声と、集団の意味をなさない声がアリを散らすように街に伝播する。
パトカーと救急車のサイレン。赤い光が大通りの端に瞬いている。
「よし、いいこで待っておったか」
半刻どころか十数分。悲鳴とサイレンが鳴り響く中、フェンスを飛び越えて戻ってきた男は、竜三にずしりと重い財布と割れたスマホを投げ渡した。
そのスマホの端についた赤いものに、竜三はびくり、と手を止める。鉄臭い、赤い、それは。
「これ……」
「迷惑料と賠償金をついでに巻き上げてやった。まあ、奴らにはもう使えぬものだし良かろ」
にたりと笑った男の口元が赤い。ぱんぱんにふくれた財布を手に、竜三は再び気を失った。
「おい、いい加減に起きんか」
ぐい、と頬を摘ままれて竜三は痛みで目を覚ました。温かくて、ふわふわの中にくるまれている。見慣れない、きれいな天井。それをぬっと遮り、大きく節くれだった手が今度は鼻を摘まんだ。
「やめ、いたいって!」
「儂にここまで介護させるとは良い度胸だ」
昨日の、男がいた。布団のなかで竜三は、もう一度意識を飛ばし掛けて、さっと背中を抱えられた。
「頼む、夢だと言ってくれ…」
「生憎現実だ。11月1日月曜日朝六時半」
イライラした男に軽々と起こされて、半ば持ち上げられて食卓に着かされる。
木目調のテーブルの上には、蓋付きの小鍋とレンゲ、小鉢。香のものがちんまりと添えられている。
「何これ…まさか、あんたが作ったのか?」
「違うわ。昨夜買っておいたやつだ」
男が蓋を上げる。すると、中からはほかほかと湯気をたてる玉子雑炊が出てきた。魚の出汁の香りに、思わず竜三の腹が鳴る。
「ゆっくり食え」
「えっ、えっ…なんで…」
「そういう契約であろうが。血を貰う代わりに養うと。正当な対価である」
「たいか…」
キョトン、とする竜三。男が呆れた顔をした。
「物わかりが悪いな。献血したら何か貰えるだろう。あれだ、あれ」
「あぁ、そういうことか…って、食ったらまた吸うの…?」
ぺし、と肩を押さえて不安そうな顔をする竜三に男が首を振る。
「今日は吸わん。また血が増えたら吸う。だから食って栄養をつけろ」
食べないと怒りそうなので、竜三はれんげに二匙すくい、ふぅ、と冷ました。熱いのを冷えたからだに放り込みたいが、猫舌なのだ。
それでも我慢できずに口にいれると、旨味がじわっと広がった。
「ふ、ふまひ…あち…」
「がきかお前は」
竜三の向かいに座った男がれんげを動かし始めたのを見て新聞を広げた。
朝の光の射し込む部屋、きれいに整えられた中庭。テレビからは、昨日のハロウィンのニュースがやっている。
身元不明の男性3人が血を流して倒れており、病院に搬送されるも亡くなりました。
現場に放り出されたマスクのひとつには見覚えがある。自分から財布を取ったクソカボチャ野郎だ。目の前で、メガネを掛けて新聞を読む男は微動だにしない。
竜三は言うか言わないか迷いに迷って…ついに聞いた。
「これ………その……あんた、なのか?」
「だったらどうした?」
ばさり、と新聞をめくる男。
「悪事を働く輩は、悪霊に目をつけられても仕方がない。見所のあるのがスカウトされるのは、どこも同じよ。それより」
男が新聞を畳み、テーブルに音をたてて置いた。そして、真正面から竜三を見据えて言う。
「儂の名は石川定信だ。これからお前は良いものを食い、適度な運動で体を鍛え、健やかな生活を送るよう命じる。そして常に極上の血を提供しろ」
竜三は面食らって腰を浮かせた。
「…ご、極上の血って、人の血を牛乳とかみたいに言うなよ!」
「牛乳か、あながち間違いではないな。血か乳かの違いよ」
「育てて飲むとか、俺は牛じゃねーぞ?!」
「今時、無作為に噛んで、飲み捨てるのはリスクが高いのだ。たかが三人でこの騒ぎだぞ?
それならば契約を結び、正当な報酬で持続的な食料確保と質の改善に取り組む方がよほどマシよ。SDGsというやつだ、わかるか?」
「持続的に血ぃ取られんのかよ…」
男、石川がわし、と竜三の胸をつかむ。
「胸はそこそこ育ってるが、他の肉が足らんな。抱き心地が悪いし、味の深みも欠ける」
「だ、抱き心地!?お、男だぞ俺は!それに血ぃ吸うだけじゃねぇのかよ!」
「昨今男だ女だと贅沢言っておったら生き残れんわ。それに食う、と言えば全部に決まっとるだろ」
石川はばかにするように、目を細める。
「快楽は言わばスパイスよ、じっくり練り込んでやるわ。その血もからだも、儂好みにみっちり仕上げてやるからな」
「いやだーー!」
朝のさわやかな光のなかに、絶叫が響く。竜三の長い長い受難の日々は、今始まったばかりであった。