【#03】スキなんて言ってやらない第3話「帰したくない」
キッチンの水回りを掃除し、トイレを消臭し、リビングの埃を拭き取る。
元々綺麗好きだったため汚れ自体は少ないが、仕事上使っている書籍や資料はテーブルや書斎のデスクに散乱している。
それらを整理し、消臭剤を振り撒く。
更に朝購入してきた真っ白なセリオスアネモネの花を玄関の花瓶に生ければ、それなりにお洒落で雰囲気のいい部屋が完成する。
コロニーラムダ、作戦立案課専有居住地区。
そこの一室が僕の住処だった。
僕の肩書は作戦立案課主任にあたるが、この年齢では比較的出世している方だろう。
おかげさまで、同年代の男たちに比べていい部屋に住めている。
だが、僕の目指すべきところはもっと上にある。
まずは作戦立案課課長に就任し、地形局長に昇り詰め、そしていずれはコロニー長に。
だがその希望を叶えるためには、やはり結婚が必須だ。
ふたつの世界が融合し、新世界が形成されたとはいえ未だアルストの価値観は色濃く残っている。
家庭を築き、子供を作り、後世に命を紡ぐことこそが大人としての役割。
そんな考え方が根本にあるため、出世するのは基本的に既婚者ばかり。
向上心溢れる僕だからこそ、結婚しなければならない。
僕の妻として相応しいのは、この世でただ一人。ユーニしかいない。
今こうして部屋を掃除しているのは、彼女と結婚するための先行投資のようなものである。
ユーニと交際を始めて約1カ月。
プロポーズは断られてしまったものの、僕たちの交際は非常に順調なものだった。
毎週末どちらかのコロニーに赴き、夕食を共にし、夜遅くまで一緒に語らい、時折手を繋いだり抱きしめ合う。
先日はとうとうキスまで交わしてしまった。
“キスしない?”と問いかけてきてくれたユーニはあまりにも可愛らしくて、思い出すだけで心臓が信じられない力で締め付けられる。
「ふっ、フフフっ……」
あの時のユーニとのひと時を思い出し、自然と笑みが零れてしまう。
そして、一瞬のうちに我に返る。
しまった。何を1人で思い出し笑いしてるんだ。流石に気持ち悪いだろ。
早く掃除を済ませておかなければ、ユーニが来てしまう。
作業を急がなければ。
先日、僕がユーニのいるコロニー9に会いに行った帰り、彼女は思わぬおねだりをしてきた。
“タイオンの家に行ってみたい”と。
今までユーニとは友人関係を続けてきたが、僕の家に招いたことは一度もなかった。
彼女の家に赴いたことはあったが、流石に男の家に女性を招いて2人きりになるのは紳士的とは言い難い。
はじめて招くからこそ、とにかく気を遣うことにした。
散らかっていたり変な匂いがしたりしたら、二度と来てくれなくなるかもしれない。
出来る限り良く見られたかった。
ローテーブルを布巾で拭いていると、不意に玄関扉からノック音が聞こえて来る。
しまった。もう来てしまったのか。
本当はもっとちゃんと綺麗にしたかったが、予想より早く来てしまった。
急いで身の回りを片付け、玄関へ駆け寄り扉を開け放つと、にこやかな笑みを浮かべているユーニの姿があった。
「よっ、遊びに来たぜ」
「あ、あぁ、いらっしゃい」
外は少し寒かったのか、ユーニは首元に白いマフラーを巻いていた。
アイオニオンにいた頃はいつもケヴェスの兵士服にメディックガンナーの上着を着用していた彼女だが、この世界で再会した彼女は会うたびいつも違う服を身に纏っている。
この世界は戦いが全てではないため当然と言えば当然だが、会うたび違う服で着飾って来る彼女の変化が楽しみだった。
「タイオンの家上がるの初めてだな。なんかいい匂いする。あっ、セリオスアネモネだ。いい匂いの正体はこれかぁ。中々洒落てんじゃん。コレ手土産な?」
ユーニは何故かいつも以上にテンションが高かった。
玄関先の靴箱の上に飾られたセリオスアネモネの花瓶を見つけるなり笑顔で覗き込んでいる。
更に手に持っていた紙袋を僕に手渡すと、いそいそと靴を脱ぎだす。
手土産なんて気を遣わなくていいのに。
遠慮しようかとも思ったが、せっかく用意してくれたものを無下にするのは忍びない。
リビングへと案内すると、彼女は目を輝かせながらあたりを見渡し始めた。
興味津々に観察してくれるのは良いが、そこまで珍しいものは置いていない。
食卓とソファ、それにローテーブルくらいだ。
キッチンに立ち、ユーニから貰った手土産を開けていると、ソファに腰掛けた彼女が笑顔で言い放つ。
「ビックリするくらい物が少ないな。ミニマリストってやつ?」
「そこまで大げさではないが、不要なものは置かない主義だ」
「ふぅん。タイオンらしいわ」
ユーニからの手土産はガレットだった。
以前コロニー9の名物だと彼女から教えてもらったことがある。
甘いものが好きな僕にとっては嬉しいお土産だった。
湯を沸かし、事前に用意していたセリオスティーの茶葉をキッチンの棚から取り出す。
このお茶はアイオニオンにいた頃からユーニが良く好んで飲んでいたものである。
甘いガレットはこのハーブティーに良く合うだろう。
蒸らし時間を経てハーブティーをカップに注ぎ、ガレットと一緒にトレイに乗せて運ぶと、大人しくソファに座って待っていたユーニは“ありがと”と礼を言ってくる。
彼女の隣に腰掛け、ガレットをつまみにハーブティーで乾杯した。
「んー、うまっ。やっぱタイオンが淹れたお茶が一番美味いな」
「それは嬉しいが、なんだかんだ自分で淹れたほうが舌に合うんじゃないか?僕が贈ったレシピを元に頻繁に淹れていると言っていただろ?」
「まぁな。でもなんだかんだタイオンのお茶が一番アタシの味覚に合ってる気がする。思い入れがあるからかな」
その白くしなやかな手で、ユーニは大事そうにお茶のカップを抱えている。
昇り立つ湯気の香りに目を細めるその表情は、初めてハーブティーを振舞ったあの夜の顔と何も変わらない。
「初めてお茶淹れてくれた時のこと、覚えてる?」
「あぁ。カーナの古戦場を抜けた直後のことだろ?」
「そ。あの夜さぁ、嫌な夢見たんだよ。悪夢ってやつ」
「……知っていたさ」
「あ、やっぱりバレてた?」
「バレバレだ。あんなに手を震わせていたのに、気付かないわけがない」
「ははっ、それもそっか」
あの夜のことは忘れるわけもない。
ユーニのことは、それまで敵国ケヴェスに所属する気性の合わない同行者程度にしか思っていなかった。
戦い方も考え方も違う彼女とは、どう頑張っても相容れない。
何故ノアでもランツでもなく、よりにもよって彼女がパートナーなんだと嘆いた瞬間もあった。
けれどあの夜、あの瞬間を境に、ユーニとの間に感じていた薄い壁のようなものが無くなった気がした。
素直すぎて特攻ばかりする彼女にも、震えるほどの恐怖心を抱くことがあるのか、と。
凝り固まった心がほんの少しでもほぐれればいいと思って、軽い気持ちでハーブティーを差し出した。
僕が淹れたハーブティーに、ユーニの表情が綻んだあの光景は忘れられそうにない。
このセリオスティーは、僕とユーニにとって深い思い入れがある一品だった。
「アイオニオンでの記憶を薄っすら思い出し始めて以来、時々見るようになったんだよな、あの時と同じ夢」
「えっ、それって……」
ユーニが見ていた悪夢の内容を詳しく聞き出したことはないが、おおよその予想はつく。
恐らく、彼女の記憶深くに刻まれた恐怖の対象、ディーとの夢だろう。
アイオニオンにいた頃の彼女は一度ディーに殺されている。
どんな殺され方をしたのかは分からないが、恐らく酷い手を使われたのだろう。
あのユーニがあんなにも怯えるほどだ。それこそ“弄ばれた”と表現するに相応しいやり方だったに違いない。
そんな夢を、新しい世界で新しい命を得た今でも見ているとは流石に予想していなかった。
「けどさ、タイオンから貰ったレシピで淹れたお茶を飲んだら、いつも心が落ち着くんだ。タイオンがすぐ近くにいてくれるような気がして」
心臓が跳ね上がる。
手に持っているカップよりも温かなユーニの言葉は、軽率に僕を喜ばせた。
なんだそれ。僕が近くにいると落ち着くということか?そう解釈してもいいのか?
ユーニからの言葉を都合よく咀嚼して嬉しくなっている自分自身が急に哀れに思えて、緩みそうになった口元を咄嗟に引き締めた。
「……そうか。セリオスティーには精神を安定させる効能がある。科学的に見れば、単にその結果が出ただけだと思うが」
すると、隣のユーニがお茶のカップを片手にクスっと笑みを零す。
ふと視線を向けると、彼女はほんの少しだけ呆れた様子で肩をすくませ、乾いた笑みを向けてきた。
「ハァ……。ったく、“ロマン”的なものがねぇよなタイオンは」
「悪かったな。現実主義なんだ僕は」
視線を外し、誤魔化すようにカップを口に運ぶ僕だったが、すぐに後悔の念に襲われた。
今の態度は少し冷たかったかもしれない。
折角ユーニが嬉しいことを言ってくれたのに、つまらないことを言ってしまった。
素直に喜んで、手でも握ってやればよかったか。
それとも肩でも抱いて、“今は僕が傍にいる”と気休め程度な甘い言葉を贈ってやればよかったのか。
どれが正解だったのだろう。ユーニを前にすると、途端に最適解が分からなくなる。
ユーニに“結婚したい”と思われるほど惚れさせるには、どんな振る舞いをすればいいのか。
いつも迷いに迷った挙句、結局選択を間違えている気がする。
「まぁ、この世界にディーはもういない。君を脅かす存在はどこにもいない。君の心に恐怖を植え付けた記憶も、いつかはきっと薄れゆくはずだ。あまり気にしない方がいい」
「あっ、もしかして慰めてくれてる?」
「慰めというより助言だ。せっかく新しい世界で新しい生き方を選べるようになったんだ。いつまでもアイオニオンでの辛い記憶を引きずっているのは勿体ないだろ?」
「確かにな。それに、折角タイオンとも再会できたんだから、お前との今を大切にしなくちゃな」
あぁ、まただ。
またユーニは僕が喜ぶ一言を惜しみなく贈ってくれる。
惚れさせるつもりが、どんどん惚れ込んでいくのはこっち方だ。
ユーニのペースに引き込まれて、翻弄されて、惚れさせるどころではなくなってしまう。
どうしようもなく嬉しくて、ユーニの顔がまっすぐ見られなくなる。
今、君にキスをしたらどう思われるだろう。
嫌がられないかな。困らせるかもしれない。
そもそも僕は彼女を惚れさせるつもりで、こっちから下手な行動はとらないと決めていた。
こっちからがっつけば、精神的に上を取られて追う側に回ってしまう。
だから、追われる側になるには自分からは手を出さずに待っているのがベスト。
でも、したい。したくてたまらない。
せめて、“キスがしたい”と提案してみるか?
いやいや、“そういうのは宣言してするものじゃない”と先日僕自身が言い切ったじゃないか。
自らが口にしてしまった主張が邪魔をして、行動に移せない。
そんな小さなこと関係ないと言い放てるほど、僕はいい加減な性格じゃなかった。
***
2人きりの時間は、時が経つのが妙に早く感じた。
あっという間に日は暮れ、夜がやって来る。
“そろそろ帰ろうかな”と立ち上がるユーニを引き留める理由を必死で探してみたけれど、こういう時ばかりは頭が上手く働かない。
無様に頷くしかなかった僕は、コロニー9に繋がる転移装置まで彼女を送ることにした。
コロニーラムダには1つだけ転移装置が設置されている。
これは世界が統合したのち設置されたもので、各地の主要コロニーの装置と繋がっている。
この装置の技術は巨神界に住まうハイエンターからのものらしいが、これがあるお陰でコロニー間の移動が格段に楽になった。
どんなに遠く離れたコロニーにも一瞬で移動できるこの転移装置は、今や僕たちの生活には欠かせない発明品と言えるだろう。
暫く話しながら歩いていると、転移装置がある場所に人だかりが出来ていた。
何かあったのだろうか。
人混みをかき分けてみると、転移装置の前に集まっている複数のノポン技師たちの姿があった。
いつもは光を放っている装置が、今日は何故か不定期に明滅している。
様子がおかしい理由を聞くと、ノポンの技師たちはその大きな目をぱちくりさせながら打ち明けてくれた。
「転移装置がぶっ壊れたも。今日一杯は使えないから気を付けるも」
あっさりと言い放たれたその言葉に、僕とユーニは顔を見合わせた。
困った表情を浮かべた人々が転移装置を囲んでいたのはそのせいだったのか。
このノポンの技師は修理のために呼ばれたらしいが、彼曰く完全に治るまで一晩要するらしい。
困ったことになった。このコロニーラムダからユーニの住まいがあるコロニー9までは、レウニスを飛ばしても4時間以上かかってしまう。
転移装置なしでは帰宅もままならないのだ。
とはいえ、朝まで治らない装置の前で難儀していても仕方がない。
一旦引き返し、僕たちは部屋へと戻ることにした。
先ほど後にしたばかりの玄関をくぐり、中へと入ると、暗くなった部屋のエーテル灯を再び点灯させる。
懐に忍ばせた懐中時計は、既に22時を回っていた。
「まさか転移装置が故障していたとは……」
「予想外だったな。どうしよ、これじゃ帰れないな」
今からレウニスを手配することは可能だが、流石にこの時間から転移装置を使わずコロニー9に向かうのは無謀だろう。
2人とも明日は何も予定が入っていなかったことだけが幸いだった。
だがこうなっては、もはやこちらから提案することはただ一つしかない。
「……じゃあ、今夜はうちに泊まるか?」
「いいの?」
「仕方ないんじゃないか?帰れないわけだし」
そう言うと、ユーニは嬉しそうに笑って礼を言ってきた。
“やった、実は期待してた”と。
期待していたのは僕も同じだった。
渋々を装ってはいたが、本当は僕もこうなることをどこかで望んでいた。
何でもいい。ユーニが帰らなくて済む理由が急に空から降ってくればいいのに。
こちらから“帰るな”と言うのは簡単だ。でも、それを僕の口から言うわけにはいかない。
断じて“言えない”わけじゃない。追われる側になるためあえて言わないだけであって、別に意地を張っているとかそう言うわけじゃない。
だから、転移装置が壊れていたアクシデントは僕にとって非常に喜ばしかった。
「あ、じゃあさ、夕食はアタシが作ってやろうか?泊めてくれるお礼代わりに」
「いいのか?」
「冷蔵庫の食材勝手に使っていいならの話だけど」
「もちろん構わない。と言っても、残ってる食材なんてほとんどないだろうが」
どうやらユーニが夕食を作ってくれるらしい。
以前アイオニオンを旅していた頃は、食事はほとんどマナナが作ってくれていた。
ユーニが料理を手伝うこともあったが、彼女一人で一品仕上げているところを一度も見たことがない。
ユーニの手料理を食べるのはこれが初めての機会と言えるだろう。
ユーニに促され、僕は先に風呂に入らせてもらうことにした。
いつも以上に入念に身体を洗い、部屋着に着替えてバスタオルで髪を拭きながら脱衣所の外に出ると、キッチンから香ばしいいい香りが漂ってくる。
覗き込むと、そこにはフライパンで肉や野菜を炒めているユーニの姿があった。
「あ、風呂終わった?もうすぐ出来るから」
「ありがとう。野菜炒めか?」
「そっ。余ってる食材的にそれくらいしか思いつかなくてさ。てかお前、ホントに自炊しないんだな。冷蔵庫に全然食材無くてビビったわ」
「ラムダには美味い食事処が多いからな。自炊の必要性が感じられないんだ」
「“必要ない”じゃなくて、“出来ない”の間違いじゃねぇの?」
「……煩い」
「あははっ、図星だ」
肩まである明るい髪を一つにまとめ上げ、腕まくりをしてフライパンの上の食材を炒めているその姿は、やけに様になっている。
観察していると、食材を炒めるスピードも調味料を入れる手つきも随分とてきぱき手慣れている。
これは普段キッチンに立って自炊している人間の手さばきだろう。
アイオニオンではほとんど料理をすることなど無かったが、新世界に生まれ変わって以降はちょくちょく手を奮っているらしい。
手慣れたその様子を見ていると、ユーニとの未来が瞼の裏に自然と浮かんでくる。
僕がコロニーでの仕事を終えて帰って来ると、キッチンで料理を作っているユーニが笑顔で出迎えてくれる。
彼女が作った手料理に舌鼓を打ちながら、“おいしいよ”と感想を言うと彼女は得意げに笑う。
そんな平和で甘やかな光景が、この心をくすぐるのだ。
やっぱり君と結婚したい。
君が待つ家に帰って、君の料理を毎日食べたい。
食後のハーブティーは僕が作る。食器洗いも僕がする。
君が作ったものは毎日残さず食べるから、妻として、僕の隣で生きてほしい。
とはいえ、今また求婚してもユーニは容赦なく断って来るのだろうが。
ユーニの宣言通り、彼女の料理はすぐに完成した。
キラボシダイコンとミートパプリカ、アイスキャベツにアルドンのばら肉を炒めた簡単な野菜炒めである。
見た目は実に普通だが、味付けは僕好みだった。
塩味が効いていて癖になる。
素直に“美味い”と褒めると、“タイオン好みに作ったから”という驚きの言葉が返って来た。
どうやら彼女は、アイオニオンにいた頃の僕の食の好みを覚えてくれていたらしい。
その味を再現してくれるなんて嬉しいにもほどがある。
けれど、この喜びを素直に爆発させることが出来ないのは、この天邪鬼な性格のせいだろう。
食器洗いは僕が申し出た。作ってくれた相手に対して最低限の返礼をするとすれば、後片付けを請け負うのが妥当だろう。
その間に、ユーニは風呂に入ることになった。
夜、ユーニが作ってくれた料理で空腹を満たし、後片付けをしている脇で風呂場から彼女が入浴している気配がする。
この状況に幸せを感じている自分がいる。きっとユーニと結婚したら、こんな毎日が待っているのだろう。
「ふひー、いい湯だった」
食器洗いが終わった頃合いで、ユーニは風呂から帰って来た。
湿り気を帯びた髪をタオルで拭きながらリビングに現れた彼女は、筆舌に尽くしがたい色香を放っている。
風呂上がりの姿など何度も見てきたはずなのに、今更照れが先行してしまうのは彼女への恋愛感情を自覚してしまったからなのだろうか。
そして厄介なことを意識し始めてしまう。
予定外だったとはいえ、交際したばかりの男女がひとつ屋根の下で一夜を過ごすのだ。
“そういうこと”になってもおかしくはない。
察した僕はすぐさま寝室へ向かい、クローゼットに仕舞い込んだ予備の敷布団をベッドの横に敷いた。
そんな僕の慌ただしい作業を、ユーニは自分の髪を拭きながら不思議そうに観察している。
「何してんの?」
「君はベッドで寝てくれ。僕はこっちの布団で寝るから」
「えっ、別に一緒に寝ればよくね?一応付き合ってるわけだし」
「いや……。うん。僕は隣に人の気配があると寝れないタイプだから」
「そうなの?まぁどっちでもいいけど」
狭いと寝れないなんて嘘だ。
そもそも狭い場所で寝れない人間が、シュラフで眠るのが普通だったアイオニオンという戦場で生きていけるわけもない。
据え膳食わぬは男の恥という言葉があるように、僕もユーニという据え膳を前にすれば手を出さざるを得ない。
だが、今はその時ではない。
理由は簡単。駆け引きの為だ。
そういう行為は、向こうが“是非したい”と思わない限りはこちらからは絶対に誘わない。そう決めている。
追われる側に回るための基本的戦略である。
自らがっつくことはせず、向こうから求めて来るのをひたすら待つ。
焦らしに焦らせば、きっとユーニの僕への“好き”も増大するに違いない。
だから、今は据え膳となる状況を避けるために別々で寝るべきなのだ。
一緒に寝てしまえば、この理性が保てる自信が正直ない。
それに、今僕が彼女を襲えば、彼女の身体を傷つけかねない。
なにせ、巨神界の人間と僕たちアルストの人間は体力に大きな差があるのだから。
照明を落とした部屋で、僕たちはそれぞれの寝床に入った。
僕は長らくクローゼットで収納されていたせいで少々埃臭くなった敷布団に、ユーニは普段僕が眠っているベッドに横になり、それぞれ掛布団を被る。
肌寒さに布団の中で丸くなっていると、すぐ隣のベットから声をかけられた。
「タイオンって普段このベッドで寝てるんだよな?」
「あぁ。それがどうかしたか?」
「タイオンの匂いがするなーって」
「くさいと言いたいのか?」
「違う違う。この匂い安心する。タイオンに包まれてるみたいで安眠できそう」
君はいつもそういうことを言う。
その言葉で僕がどれほど心を乱されているのか分かっているのか。
戸惑うばかりの僕は、ユーニの嬉しい言葉にマトモな返事すら出来ずに反対側へ寝返りを打った。
なにが“包まれてるみたい”だ。そんなこと言われたら悔しくなるじゃないか。
やっぱり一緒のベッドで眠ればよかった。
アイオニオンにいた頃はシュラフを並べて隣で眠ることはあったが、同じ布団で同衾することは一切なかった。
君を抱きしめながら朝を迎えられたら、どんなに幸せなことか。
今からでも布団に潜り込んでやろうか。
いやいや流石にそれは気持ち悪いし下心満載だ。
自分から言い出したことだしここは大人しく別々の布団で眠るしかない。
あぁでも、やっぱり隣で寝たい。でもでも——。
こんな葛藤を延々繰り返しているうちに、いつの間にか朝を迎えていた。
はじめてユーニと一緒に向かえる朝だというのに、全くもって満喫できなかったのは痛恨の極みである。
***
朝起きるとユーニは既にベッドから抜け出していて、身支度を終えていた。
何もかも整った状態で“おはよう”と笑う彼女に何度目かのときめきがやって来る。
ユーニが用意してくれた朝食の生ハムサンドのバスケットをつまみ、コーヒーを一杯飲みながら一息つく。
暫くソファに腰掛け談笑していると、ユーニはとうとう帰るために立ち上がった。
空腹は既に満たしてしまったし、時間を埋めるためのティータイムももう終わった。
故障していた転移装置は既に治っているだろうし、外は恨めしいほど快晴だ。
もはやユーニを引き留める理由はどこにも見つからない。
あと少し。いや、本音を言うと、ずっとここにいて欲しい。
いっそここで一緒に暮らせたら、なんて夢のようなことを考えてしまった矢先、玄関で靴に履き替えながら小さく呟いた。
「帰りたくねぇなァー」
「ん?」
「こんだけ一緒に居たらさ、離れがたくなるよなって。ずっと一緒に居られればいいのにな」
ユーニが口にした可愛らしい願望は、今まさに僕が思い浮かべていた願望とそっくりそのまま同じ内容だった。
ユーニも同じ気持ちだった。その事実が嬉しくて背中を押されたような気分に陥った。
玄関扉に手をかけようとしたユーニの腕を掴む。
勢い余ったせいで少し痛かったかもしれない。
驚き目を見張るユーニに、僕は勢いに身を任せ、心に隠した願望を吐き出した。
「じゃあ、一緒に住まないか?」
「え?」
「ほら、一緒に住めば今日みたいなトラブルに遭って帰れなくなることもないだろ?それにいちいち離れがたくなることもない。一緒に住めばわざわざデートプランを練る必要もないし会う場所に困ることもない。君が好きなハーブティーだっていつでも淹れてやれる。転移装置もあるからコロニー9にもすぐ行ける。向こうでの仕事や任務にも支障はきたさないだろうしデメリットは何もないだろ?」
同棲に対するメリットをまくしたてた直後、僕は硬直した。
しまった。あまりにも安直なミスをしてしまった。
自分から行動しないと決めていたにもかかわらず、衝動に駆られて同棲の提案をするなんて。
流石に交際1カ月で同棲の提案は重すぎたか?
もう少し時間を置くべきだったか?
あれこれ後悔し始める僕を前に、ユーニはふっと笑みを見せた。
「するっ。したい」
即答だった。
考える間もない肯定に、もはや僕の迷いは吹っ切れた。
この日、僕が犯した間違いは2つ。
1つは後先考えずに同棲の提案をしてしまったこと。
もう1つは、同棲を受け入れてくれた喜びに身を任せ、ユーニの頬に両手で手を添え衝動的に口付けてしまったことである。
ガラにもない情熱的なキスだった。
口付けた後、ユーニはやけに嬉しそうにしていたけれど、僕は羞恥心で死にそうになっていた。
続く