【尾月尾】つみとばつつみとばつ
居場所なんて何処にも無かったから、ふらふらと村の海岸を宛てもなく歩き、疲れた頃にそれと出会った。
初めて訪れる奥まった場所にある入江は、急な勾配で海面近くへ降りられる獣道が続いている。いつの間にか高台に辿り着いていた少年が振り返ると生い茂る木々に埋もれ、自身の村は見えることはなかった。
降りられるだろうかと不安を感じながら、行かなければならないと理由のない焦燥に駆られ、彼は恐る恐る周りの蔦や枝を頼りにその入江へ足を踏み入れた。
ぱしゃん。
波が岩を叩く音に視線を向けたところに、それはいた。
少年はそれに対して恐怖は感じなかった。
村の口伝でこの海岸沿いには化け物がいて、百年に一度人がいなくなるなんて話を彼は聞いたことがあった。それはその化け物なのだろうか。
布を纏ってはいるがそれは水に濡れ張り付き、裸に近い姿。シルエット自体は彼の知る人間に近いが、肌は青や緑に近く、差し込む太陽を反射しきらきらと光る鱗は体の末端に向かうにつれ密度を増している。指の間には水掻きのような膜があり、爪は長く鋭利だ。
じゃり。
一歩踏み出そうとした足は石を転がし音を立てた。
ぴく、と身体を震わせたその異形が、あ、と小さく呟いた少年を振り返る。
耳が魚の鰓のように複数の棘を持ち、顎の下に見える切れ込みは時折開閉していた。人であれば髪であろう場所は黒に近い緑で覆われ、坊主頭のように見えた。
顔の作りは人と変わらず、二つの目、低い鼻と口が一つずつ配置され、その口角は緩く上がっていた。悪巧みを考えたような笑みだなと彼は思いながらも、その肌の合間に浮かぶ緑の鱗の煌びやかさに気付けば目が奪われていた。
その異形は何かを言ったように口元が動くが、それは音にはならなかった。
相手に敵意を感じられない。
自分に恐怖はほとんど無かった。
そちらへ少年が距離を縮めていくのに時間はかからなかった。
少年の名前は尾形百之助、付近の村で母親、祖父母と共に暮らしている。
「ね、ねえ……にんぎょ、なの?」
それでも相手は人ではないことだけはわかる異形で、問いかける言葉は恐る恐るだった。
近付くと岩場に腰掛けていた異形の足元も見え、それは鱗には包まれているが人間と同様に二足で、けれど足先が鰭のような形になっていた。
尾形の問いに、目の前の異形は腕を組んで首を傾げる。人間と変わらない所作に尾形のほんのわずかに残っていた警戒心は消えていた。見た目の印象は人間の男だ。坊主頭に異形の耳、目元から頬骨にかけて左右に長い皺が一つずつ左右に真っ直ぐ刻まれている。
その異形が腰掛けている大きな岩へ近寄り、尾形は膝をついてその顔を見上げた。
目線が合えば、異形は手のひらを表に向け、もう片方の長く鋭利な爪でその表面をなぞり出した。
「え、なに?なになに。 うーん、と……何か書きたい、のかな?」
じっとそれを眺めていた尾形がふと思いついたように口にすると、その異形は目元を緩く細めて頷いた。言葉は通じるようだった。
「僕何も持ってきて……あ、これとかどうかな?」
身一つで訪れていたため荷物も何もなく、困った顔をしながら辺りを見回す。腰を上げて付近を探索すると、先ほど降りてきた獣道の出口付近に古く錆びた錐が落ちていた。海風に晒され茶色に変色はしているが、試しに近くの石に先端を押し付けて引くと、耳障りな音を立ててそれは白い跡を残した。
「ちょっと力はいるけど、こうやって書けるよ。はい」
岩場へ戻ると、尾形はそれを異形へ躊躇うことなく押し付けた。
けれどその動きに異形は驚いた表情を浮かべる。ややあってその表情を気遣わしげに歪めた。受け取らないことを訝しみ、柄の部分を尾形は相手へ押し付ける。
「使わないの?」
純粋な厚意。鋭利な武器になるものを異形へ向ける子供の怖いもの無しの行動に異形の眉間に皺が刻まれた。じっと見つめてくる子供の目線に肩を上げて下すと、それを受け取る。指先の長い爪や水掻きが邪魔で使いにくいかもしれないと思っていた尾形だったが、それに反して器用に錐を掴むと岩場の隙間に転がっていた平たい石を手にして、その先端を押し付けた。
『ありがとう』
刻まれた文字は丁寧なものだった。少し尾形が知っている文字の形と違うような気もしたが読めないものでもなかった。
「どういたしまして。僕は尾形百之助、人魚のおじさん、えーっと名前は?ある?」
問いかけに少しだけ動きを止めた異形は小さく頷き、石へ耳障りな音と共に文字を刻んだ。
『つきしま』
「つきしま、どんな字書くの?」
『そらのつきに うみにうかぶしま おがたはこのちかくのこか』
漢字がわからないわけではなさそうだが、なぜ全部ひらがななのだろう。尾形は疑問に思いながらも月島の問いに首を縦に振る。
「うん、近くの村に住んでる。母さんと。月島は?」
『ひとり』
「じゃあ僕が友だちになってもいい?」
『こわくないのか』
月島は埋まった石をその辺に転がし、新しい石を手にして刻む。尾形はその石を一瞬目で追ったが、続いた問いに首を横に振った。
「ううん、怖くないよ」
『いつでもここにいるわけじゃない』
「じゃあ、また会ったらお話ししてよ」
『めんどうくさい』
「けち」
頬を膨らませる尾形に月島は少し困ったように眉を寄せて笑顔を浮かべる。声は無かった。時折顎の下からひゅ、と小さな音が漏れている。
それからひと月に数回、学校が休みの日に合わせて尾形はその奥まった入江へ向かうことになる。
同級生にもその存在は伝えず、自分と月島の秘密の場所と認識したその入江は釣り場からも離れており、獣道はなぜ見つけられたのかというくらいに木々が生い茂っているために自分以外の姿を見たことが無かった。
湿気の多い洞穴を通り抜け、高台に向かい、急勾配の獣道を通り抜けた先の入江は陸の孤島のようだった。
『まいかいきて あきないな』
「月島だっていつもずっといるじゃん」
『ぐうぜんだ』
いつもいるわけではないと言っていた異形である月島は、けれど尾形がここを訪れる度にほぼ毎回姿を現していた。この付近を棲家にしているのだろうかと尾形は思っている。
『はやく かえらないと おやが おこるだろう』
「……母さんは家で仕事。僕の居場所なんてないもん」
尾形が視線を落としてぽつりと呟くと、月島は僅かに目を見開く。そっと手を伸ばして爪の表面で尾形の頭を撫でてきた。
驚いて尾形が顔を上げれば、月島は泣き笑いのようななんとも言えない顔をしていた。
「そうだ。月島は人魚なの? 俺の村で化け物がこの辺りにいるっていう話があるんだ」
『にんぎょ ではないな』
「じゃあなに?」
『ぎょじん だろ ばけものと いうなら まちがってない』
「でも月島はいい化け物だよ。僕の友だちだもん」
月島の隣に腰を下ろして岩場から海へ足を投げ出してぶらぶら揺らしながら尾形は言う。
ここへ尾形が来るようになって一年が経っていた。
あちこちに月島が刻んだ言葉の石が転がっている。尾形はそれを一つ手にして、そこに刻まれた文字に目と落とす。
これはいつ書かれたものだっただろうか。
「人魚は食べたら不老不死になるんだって。でも月島は魚人だもんね。違うか」
人魚は空想上の生き物だ。尾形だってわかる。けれど村に子供の寝物語として伝わっていた化け物がここにいるのだから、もしかしたらいるのかもしれないと思うようにはなっていた。
『くうもんじゃない』
「たべないよ」
『それでいいさ』
かり、と月島の長い爪が岩場の石を軽く引っ掻いた。
隣に腰掛ける尾形はそっとそちらへ手を伸ばす。軽く触れる月島の手はひんやりとしていた。びく、と月島が震えると同時に焼けるような匂いが鼻をつく。
驚いて尾形が手を離すと、月島の手のひらの鱗が赤くなっていた。匂いはそこから漂っている。僅かに煙が上がっていた。
「え、え?」
『ひとの たいおいんは おれにはあつすぎる やけただけだ』
「焼けたって、痛い? ごめんなさい……!」
片手を海水へ浸しながら月島は気にするなと首を横に振った。触れられないことがわかった日だった。
ほんの少し、寂しいと思った。
それでも尾形は足繁く入江へ向かった。
家は母親が仕事で使い、自分の居場所はない。迷惑をかけないために、けれど寂しくならないために。
小さなお菓子や見終わった本など、たまに手土産を持ち、急勾配を慎重に下る。夜遅くに戻っても母親は気にもしない。小さな村では目立つが、遠巻きに有る事無い事噂されるだけだ。
同年代の人間は尾形の母親の仕事を良くは思っていない。詳しくは知らなくても、親から近付くなと釘を刺される。
狭い村社会では村八分にならないまでも、付き合う人間が減っていくのは自明だった。いじめにはならなかったが、遠巻きに距離を置かれているのははっきりと感じ取れた。
家にも学校にも居場所がないまま、尾形はその入江だけを自分の場所として成長していく。
懐いてくる尾形に愛着を覚えているのか月島も時間が進むにつれ邪険な態度は軟化していった。
お互いがこの場を心地よいと思った頃だ、尾形の母親が亡くなったのは。
尾形は十五歳になっていた。
まだ一人で生きていくには幼い彼は祖父母に引き取られ一度村を出ることになった。月島に会うために抜け出そうと画策する尾形を祖父母が見咎め、結局別れすら告げられないまま村を出て遠くへ移り住むことになってしまった。
こんな時にどこへ行くんだ。
そう言われ、会いたい人がいると口にしかけて止めた。
月島が異形の生き物であることはわかっている。
あの入江が自分以外の誰かに知られたら、どうなるかわからない。
言うわけにはいかなかった。
訝る祖父母の目を掻い潜ることが出来ぬまま後ろ髪を引かれながらも、尾形に選択肢は与えられなかった。
そんな祖父母も成人を迎える頃には居なくなった。友人も知り合いも出来ない遠くの地に帰る場所なんてないまま、尾形はまた元の村に戻ってきた。
十五で村を出て五年。元々住んでいた家は荒れ放題になっていた。当然だろう、これを手入れしてくれるような村人なんていない。
戻ってきた姿に村人はあることないこと噂したが、尾形にとってはどうでも良かった。
まだ辛うじて家の形を保っていた部屋に荷物を置いてそのまま村の外へ向かう。
背中に刺さる視線を意に介さず、愛想もないと陰口すらどうでも良かった。
記憶を頼りに海岸線を歩く。
ちらりと背後を振り返る。後を追うような物好きは居なさそうだと胸を撫で下ろす。
母親が亡くなり、祖父母に引き取られた数年来られなかった入江は、変わらずそこにあった。
子供の体では降りやすかったそこは成人を迎えた自分には少し窮屈で、あちこちを枝葉に引っ掛けながらもなんとか入江へ降り立った。
子供でなければ降りにくいそこは、記憶のままだ。
そこにいた姿も、記憶と寸分違わない。
「とうとう、あんたを追い越したよ」
変わらぬ場所に腰掛けている姿へ声をかけると、それは尾形を振り返り徐に視線を上げた。
『でかくなったな』
「あんたが小せえんです」
見上げていた姿は見下ろす形へと五年で変わっていた。
「まだここに居てよかった」
『もう こないと おもってた』
「会いたかったから」
尾形は小さく呟く。言ってから、本当に会いたかったんだと自覚する。僅かに頬に熱が上がった気がして、尾形は自分の顔を軽く手で仰いだ。そっと隣の様子を伺えば、月島は困った顔で笑っていた。片手の甲は尾形が幼い頃触れた痕が痣になって残っている。
『ものずきだな』
「今更でしょ。人魚を喰ったら不老不死になるんだって昔言ったよな。あんたを少しでも喰ったら、俺も不老不死になんのか」
『くうもんじゃない』
「本格的に何処にも居場所が無くなった。俺にはあんただけだ」
『おまえは ひとの せかいに もど』
書きかけた石を取り上げて尾形はまっすぐ月島を見やる。
じゅ、と焼ける音がして尾形はその手を離すが、目はまっすぐ射抜いたままだ。
「あんたの見た目が変わんねえのは、化け物だからか? それとも不老不死なのか。俺が初めて会った時のままだ。俺には本当にあんたしか残ってねえんだ」
『おまえに かかわらなきゃ よかった』
「あんたに会わなきゃ、俺は多分とっくの昔に死んでるよ」
世を儚んで自暴自棄になった時に、楔になったのが月島の存在だった。
それを素直に言葉に乗せる尾形の横で、月島は深く息を吐いた。
呼吸をするような音に尾形は驚いて顔を月島へ向ける。初めて聞いた。呼吸は鰓でしていたから人のように肺呼吸が出来るなんて知らなかったからだ。
びしゃ。
何かが落ちる音。
「なあ、ひゃくのすけ。お前を救えたとしても、俺はお前と会うべきじゃなかったんだよ」
「つき……あんた、喋れるのか」
「食うもんじゃない。人の世界に戻れなくなる」
ぐちゃり。
崩れる音。
「ひゃくのすけ」
「なんの、音だよ」
「声を出すのは、終わりの合図だ。俺のことは忘れろ」
月島の体がぐらりと揺れ、尾形の腕の中に凭れ掛かる。
焼ける匂いが月島のあちこちからして慌てるが、月島が離れる様子はない。
「会わなければ良かったのに、……会えて良かったとも、思うのも」
ずるり。
何かが尾形の足元に落ちて広がる。
「つきし、ま……どう、いう」
尾形の声が上擦る。腕に掴まる月島の手から皮膚が剥け落ちて、中の肉が覗く。それもすぐにどろどろと溶け落ち骨が顔を出した。
「世の中、ままならんな」
ごぼり。
月島の口からどす黒い泡が溢れる。皮膚は剥がれ落ち、顔から頬の肉が崩れ落ち生臭いに血臭が辺りに濃く立ち込める。身体の先端からぼろぼろと月島だったものが地面に落ちて跳ねる。
月島が数多刻んだ尾形への言葉の石が、身体を構成していたものの残骸に覆い隠されていく。
尾形へ向けていた目が片方、ずるりと眼窩から溢れてその足元へ落ちた。
「ひゃく、の」
最後に小さく何かを尾形へ耳へと囁きかけるがそれは上手く音にならず、気付けば足元はどす黒い液体と油が凝り固まった塊が残り、どちゃりと重い音を立てて落ちた骨格すらその中へ溶けて消える。
纏っていた布だけが尾形の手に残り、足元に白い球体が二つ転がっていた。
呆然としながら尾形はそれを手に取る。じゅ、と焼ける匂いが手のひらから発せられ、血臭に混ざっていく。
月島だったもの。
眼球の虹彩が少し緑かかっているのをそこで初めて認識した。
じわじわと手の中で焼け焦げていく残り滓をじっと見つめる。
『くうな わすれろ』
彼はそう言っていた。
このまま海に投げ捨ててしまえば忘れられる。
その方がいい。
忘れろと、彼も言っていた。
初めてしっかり触れた彼の形。
それを自分は手放せるのだろうか。
惨状にも近い足元に膝をつき、尾形はじっとそれを見つめる。
気付けば視界は鈍く歪み始めていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
その地方には、子供の寝入り端に話される言い伝えがあった。
二百年ほど前に村の人間が一人、忽然と姿を消した。海の何処かに棲む化け物に殺されたという。
その人間は罪を犯し、その罰として命を落とした。だから悪いことをすると化け物に殺されるから気をつけなさいと。
昔聞いた御伽話が脳裏をよぎった。場所なんかわからないけれど。
もう、自分もそこで姿を消してしまえば楽になれるだろうか。
死んだ目でよろよろと荒れた海岸沿いの道を歩き、洞窟を通り抜けた険しい道の先に知らない入江があった。
あちこちに暴力の痕を拵えて、自分で適当に手当てをしたせいで解けかけた包帯を適当に引き結んで、片方の腫れた目を開けにくそうにしながら少年が海の方へ近づくとばしゃん、と一際大きな波音がした。
反射的に足を止め視線をそちらへ向ければ、そこには海から顔を覗かせる人影があった。
先客が居たのかと顔を顰めるが視線はある一点で止まる。
こちらと目が合った男は勢いをつけて岩場へ乗り上げた。その腰から下から目が離せなかった。
身体には布切れを巻きつけているが、腰から下は魚のそれだった。黄色がかった鱗が規則正しく並び、その先には大きな尾鰭が付いている。
上半身は人間の男だが、下半身は魚のそれは。
「もしかして、お前……にんぎょ、おとこの」
恐る恐る口にした声に、その異形は少年に視線を止める。
鰭に似た耳や顎の下に鰓らしき切れ込みもあるが、ほぼ人間に近いその異形は大きな黒い目を彼へ向ける。ぎろりと睨まれたと思って一歩退くが逃げるための足は動かず、男の姿を模した異形はその少年の姿を認めて僅かに目を見張ってから、にぃ、と口元を緩めた。
不思議と余り怖くはなかった。
両手を軽く握りそちらの方へ岩場に目線を落としながら近付く。その姿を見ながら異形は大きく尾をうごかし鰭で海水を叩く。飛び上がる海水は近付く少年へとかかる。
「うぎゃっ! 何すんだよ!」
驚きと傷に沁みたことで悲鳴を上げながらもその異形、の側に辿り着く。
楽しげに表情は笑みを形どるが、音はない。
それに違和感を覚えながら、少年は口を開く。
「なんだよ、喋れねえのか」
異形は小さく頷いた。言葉は通じるようだった。途端警戒心が薄れる。
「ふーん」
改めて異形を上から下まで視線で撫でる。
性別が男に見える以外は絵本で見る人魚そのものだ。
髪の毛を片手で撫で付ける異形の耳が魚の鰭のようになっており、爪が長く伸び鋭利で、指先の間に膜が張っている。上半身だけ見れば人に見えるが。
下ろした視線の先に、何かが刻まれた石がその異形の周りにたくさん転がっていることに少年は気付く。時折異形はそれを指先で撫でているようにも見えた。波で摩耗し薄れてはいるが、石の表面にひらがなが刻まれており、若干読みにくいが少年でも理解できた。
「……つきしま。月島って俺の名前じゃん」
その異形は少年、月島の言葉に肩を竦める。まっさらな石を一つ取り出し、ひどく錆びた何かの棒で表面を引っ掻いた。
『たいせつなひとの なまえ』
「へえ、俺と同じかあ。あ、お前の名前は?」
『おがた』
「おがた? 字は?」
『しっぽの お に かたち』
ひらがなを少し読みにくそうにしながら、 月島少年が指を舐め、乾いた石に描いた『尾形』の文字に、異形は小さく頷いた。
生まれ変わりなんて信じちゃいない。
けれど目の前に現れた少年は、在りし日の彼の面影があった。
もう文字を使わなくなって久しい。漢字なんて殆ど忘れてしまった。
永劫を生きるには、人の文明なんて無いに等しい。
きっと尾形の知る月島も、だからこそひらがなしか刻まなかったのではないかと、年月を経て思いを馳せる。
月島は尾形が来る度に陸に上がっていたが、彼と違う形になった尾形にとって陸は酷く息苦しくひりついている。
少年を一瞥し、一度海の中へ戻り、頭を水面にあげた。
彼は尾形を追うように岩場に両手を付き海へ身を乗り出している。
「なあ、尾形」
強張った声と心細い表情で、紡がれる言葉を尾形は待つ。
「俺、大人になれっかな」
『さあな』
「親父からさ、お前が居なければって言われて、殴られてここに来たけど……やっぱり居ない方がいいのかな」
それには尾形は答えない。
あの時、確かに魚人の月島は躊躇っていた。何より食うなと最期まで言っていた。それに逆らい、彼の意に反した結果が数百年の孤独だ。
月島の最後に残った欠片を手放すことなんて出来ないまま、このまま朽ちるならと身体に取り込み永遠にと考えた結果がこれだ。
あの男と同じ名前をし、似た容姿の少年が目の前に現れたなら、今度はその手を取ってもいいのではないか。
眼球が必要なら一つぐらい抉り出して与えてもいい。
ぼちゃん。
身を乗り出しすぎたのかけたたましい音を立てて水に沈み、四肢をばたつかせてもがく少年へ手を伸ばす。
「なあ、俺と一緒に来ないかい」
酸素を求めて暴れる子供は本来聞こえないはずの音に一瞬驚いて視線を尾形へ向けてきた。
水中なら話せる。子供にしっかり届いたかなんて気にもしない。
抱き締めるとじゅ、と焼ける音と痛みに顔を顰める尾形の顔は、けれど薄く笑っていた。