Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    うたこ

    @utako_st

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 24

    うたこ

    ☆quiet follow

    オメガバ進捗。
    モブ女子がめっちゃよく喋る。でしゃばる。

    ブレイキング・ダーンその11 佳境に入れば学生が研究室で寝泊まりすることもザラにある。最近は落ち着いているのは幸いだった。一人でこっそりと持ち込んだ検体の解析をする。共同研究に参加することもがあるが、大抵好奇心の赴くままに動いているので一人で研究室に残っていても「また石神がなんかやってる」としか思われないが。
     結果は予想通りだ。
     旧式のコンピュータが時間を掛けて計算した結果、大体、九十二~九十六パーセントの確率で検体のアルファ側の型は一致している。データを残しておくわけにもいかないので、外部装置に保存した。世間様のルール外でやっていることだ。万が一、研究室の人間が何かに気付いて変な正義感をおこして告発されても面倒くさい。同じ理由でクラウドに保存するのは辞めておく。この検体そのものが別の人間の正義感から保存されていたものなのに、おかしな話だ。人それぞれに正義があって矛盾することがある。
     データを消去する前に、ゲンの検査データを呼び出す。
     検体の型と一つ一つ、検査させる。
     九十四、九十六、九十三……。表示される数字は、加害者が同じ事を証明していく。
    「だろうな……」
     視線を上げると、暗いガラス窓に自分の姿が映っていた。唇が歪んでいる。どこかで見た形だと思ったら、二日前にゲンが浮かべて居たのと同じ笑みだ。
     影のように掴めなかった恐怖の対象が、科学の目を通して輪郭を持ち始める。真実が浮かび上がってくる。
     表示されている加害者の型を現す数字の羅列をざっと眺めて目を閉じる。
    「ククク……嫌な予感ばかり当たりやがる」
     ここからはどう転ぶかわからない。犯人を追い詰め、捕まえる。捉えなければ、被害者は増え続ける。だから是が非でも捕まえる。そこまではいい。
     その先を選ぶのは自分では無い。

     ABOD対策室に入ると、机の上には昨日ゲンの家で見た資料と同じ物、他にも様々な紙類がごちゃごちゃと積まれていた。やっほー、とゲンは手を振ってきたがすぐに書類の山に向き直る。パソコンを借りに来たとしか思って居ないからだろう。この部屋の住人たちは、千空の存在に慣れきってしまって部外者なのに気にもしない。
     この部屋の主の二人、龍水と羽京に加えコハクとゲンが頭を突き合わせていて、当然、フランソワが龍水の脇に控えている。
    「好きに使え」
     龍水がコンピュータを指さした。
     言われたとおり、パソコンを立ち上げて持ち込んだUSBメモリからデータを呼び出す。プリンタからデータを印刷していると三人の刑事と科捜研の人間のやり合っている声が聞こえてきた。生存者の貴重な証言が手に入ったのだ。当然、盛り上がっている。
    「問題はどこからデータを盗んでいるか、だな」
    「学校もバラバラだしねぇ~」
     出来上がった書面をまとめてクリップで留めてから、小ぎれいなティーカップと乱雑に書類が置かれた机の上に放り投げた。
     警察関係者諸君が、互いに顔を見合わせた。
    「千空ちゃん、何これ……」
     並んでいるのは、アルファベットと数値の羅列。
    「テメーに頼まれてたやつだ」
    「ジーマーで?」
     テーブルについていた四人が書面を覗き込む。
    「何が書いてあるのかさっぱりわからんのだが?」
    「えっとね、オメガを噛んだアルファの型を、被害者の検体から調べて貰ったんだけど……」
     んー、と呟きながらゲンが首を捻る。
    「千空ちゃん、これ見てもわかんない」
    「単純に、右と左の数値を比較してみろ。ほとんど一緒だろ。下に一致した率が書いてある」
    「あー、指紋の一致した時に出るアレみたいな?」
     羽京が息を飲んで、龍水がにたりと笑う。
    「ゲン、一般人巻き込んじゃだめでしょ。っていうか千空、どこまで知ってるの?」
     羽京が呆れた声を上げて、こちらを見るが
    「専門家の意見は聞いた方がいいと思いまーす」
     と、不真面目にゲンが片手を上げて応えると、はぁ、とため息をついた。
     いや、テメーだって今、学生の俺がこの部屋に居るのに当たり前みたいに会議してたろ。
    「生存者二人を含めた被害者全員総当たりで、番になってるアルファの型を調べた。で、その数値だ」
    「え? どうやって?」
    「蛇の道は蛇っていうやつ♪」
    「どういうこと」
     ゲンが羽京にこっそり保管していた検体のことを話している間、龍水とコハクは印字された数値に目を走らる。
    「全て九十パーセントを超えているな」
     コハクが書類をめくりながら低い声で呻いた。
    「あぁ。同一犯に間違いねえ」
    「となれば、一連の自殺に関連があることが科学的に証明されたということだ!」
     龍水が豪快に指をバシン!と鳴らした。
     ゲンが密かに追っていた犯人ではあるが、ABOD対策室としても情報を集めていたのだろう。捜査対象外の自殺として処理されているのに、全員に情報共有されているのがその証拠だ。犯行時期が特定できたのは聞き込み捜査があったからで、その聞き込み捜査を科捜研のゲンにはできない。聞き込みをやっていたのは刑事達だ。
    「千空、生存者二人って……?」
     羽京の呟きに、ゲンの肩がぴくりと動く。
    「フゥン。ゲン、貴様を襲った犯人も同一犯か」
     ゲンの様子を見たのか、検討をつけていたのか。おそらく両方だろう、遠慮なく言い当てる龍水の言葉にがっくりとゲンが肩を落とす。嬉しくないねぇ、と小さく呟いた声は自嘲気味だ。
     犯人が同じということは、分かっていただろうに。
    「まー、俺の時よりだいぶ慎重になっているというか、巧妙になっているくらいしかわかんないよね。逮捕に繋がりそうなコト、何も覚えて無くてメンゴ」
    「君の事件の時に犯人を捕らえられなかった警察の手落ちだよ。刑事事件まで持ち込めているんだから」
    「記録が残ってるだけでも上々だろ」
     ゲンの隣の席を陣取って、机の上に広がる被害者達の資料を眺める。
    「俺を含めて、被害者がオメガであることを犯人がどこで知ったのか。発情期がくる前の高校生の第二の性別なんて誰でも分かるものじゃないから、それがわかれば範囲を絞り込めるんだけどね~」
    「同一犯なのがはっきりした、やり口はわかっている。生存者の証言の中に何かヒントがあるかもしれん」
    「発情前に情報持ってるヤツなんぞ、本人と学校と研究機関くらいだろ。一番緩いのは学校だな」
     学校の生徒に聞いて回れば即不審者として話題に上る。唯一の証言者も犯人の心当たりはないという。脅迫された時には意識がはっきりしていたのだから、顔見知りならわかったと思うと被害者は述べている。被害者達はそれぞれ別々の高校に通っているが、例えば犯人が教材関連の業者だとしたら複数の学校に出入りしていたとしても不思議はない。高校のセキュリティも研究機関に比べたらたいしたことは無いだろう。教師達はコンピューターのプロフェッショナルではないし、公立高校にそんな予算は割り当てられてはいない。
    「俺たちもそう思って、罠を仕掛けたことがある」
    「罠?」
     龍水が眉の間に皺を寄せる。
    「学校側に協力を仰いで、この管轄内の学校で、生徒の身体情報の管理データ全てにアクセスした時のログがわかる仕掛けをした」
    「……随分、大がかりなことしてんな」
    「生徒達を守るためって言って警察手帳見せればそんなに難しいことでもなかったよ」
    「はっ。この男の口八丁があれば容易だったな!」
     褒めてるとは思えないセリフだが、コハクに言われてゲンが照れた様な表情を浮かべた。
    「犯人がコンピューターに強けりゃ気付いて解除できんじゃねえのか?」
    「仕掛けたのはSAIの作ったプログラムだ。見破られるなどありえん」
    「SAI?」
    「龍水ちゃんのお兄さん。天才プログラマーよ」
     ゲンの言葉に龍水が鷹揚に頷く。
     そこまで自信があるのなら、そう思っておこう。
    「夜中に忍び込んでんならともかく、外部の人間が学校に侵入してコンピューターにいじくってたら相当目立つだろしな。ちんたらしてらんねえ」
    「ファイルへのアクセスログと防犯カメラの画像、合わせて見て見たけど、不審な人間は誰一人浮かばなくてね」
     ゲンが苦い笑みを浮かべて、被害者の一人を指さす。
    「アナログでデータ管理している学校の生徒からも被害者が出た」
     今時、アナログかよ。
    「その学校の生徒管理の書類から指紋とって防犯カメラの映像も提出してもらったけど……それらしい人物はいなかったね~。それに学校のデータに顔写真ついてるものって無かったのよ。名前さえわかれば、先生は生徒のこと知ってるわけだから必要ないし」
     ゲンが顔写真が一覧できるように書類を丁寧に並べる。
     机の上に置かれている被害者の写真。具体的にどこが、とは言えないが、全員どことなく雰囲気が似ている。はっきり、犯人は、襲う人間をえり好みしているのがわかる。
    「学校から生徒のデータが漏れてる線は考えにくいっつーことだな」
     ゲンが頷く。
     容姿の確認くらいなら、登下校の様子でも眺めていればでも可能だが、犯人が狙っているのは発情前のオメガ。発情前から自衛のための首輪を付けているわけでもないから、検査結果を見ない限り、ターゲットは決められない。
     ホワイトボードに学校、と書いて羽京がバツ印を付ける。ついでに検査機関と書いてそこにもバツを付ける。
    「研究所に保管されているデータはキュリティも強化しているし、ハッキングの跡はなかった。なにより、番号管理しているから、やっぱり顔写真なんてない。このデータから好みの被害者を割り出すのは不可能だろうね。いくら人口比で言えば少ないっていっても県全体のデータは膨大でオメガの数も相当なものになる」
     第二の性別の検査は専門の研究所で行われるが、県下の高校全てをそこで行うためにデータは膨大だ。犯人がそのデータを見ることができる立場にいるとして、いちいち照合してターゲットを決めるというのはよほどの暇人ではないと無理だ。
    「犯行自体は、緻密に計画たててやってるとは思うのよ。でも被害者選んでる時はもうちょい直感的なんじゃないかな。あ、この子いいな、みたいな」
     並んだ顔写真を見ながら、ゲンがぽつりと言う。
    「やっぱり対面で会って決めてると思う。データの文字で見ただけの相手、いきなり抱ける?」
     小さく唸って龍水が腕を組む。同意の意味だ。
     確かに、治験対象として書面で見ている時には、ゲンに特に感情を動かされることもなかったな、と思う。
    「しかし、どこで被害者達は犯人と遇っているというのだ。共通点がないぞ?」
    「病院は?」
    「全員抑制剤もらってた病院はバラバラ。そもそも被害にあったのはABOD科のある病院に行く前の子が大半よ?」
     被害にあっているのは高校に入って間もなく、少なくても一年生のうちには襲われている。二人を除いて被害者は亡くなっているから推測でしかないようだが、刑事達の見立てだ。間違いは無いだろう。
     というより。
    「別にABOD科は関係なくねえか?」
    「え?」
     刑事達と科学捜査員が千空を一斉に見る。
    「薬の作用副作用関連でなんか出るかもしんねーから、医者ならどこでも聞くだろ。第二の性」
     市販薬ですら少し、ヒートを促進したり抑えたりといった副作用があるものもある。病院で処方されるものなら副作用だって強いから当然考慮する。花粉症の薬でも、鎮痛剤でもそういう副作用が発見されている。
     警察関係者達が顔を見合わせる。
    「お抱えの医師にしか診てもらうことはないからな」
    「御典医がいんのかよ」
    「さすが天下の七海家」
    「江戸時代からのお付き合いのあるお医者様の家系の方がおりますので、七海家の方は特殊な病気でも無い限り、その方に診てもらっております」
     わけがわからないことをフランソワが言っているが、町医者にかかることがないから医者が第二の性を考慮しているということも知らないらしい。
    「医者にかかった覚えがないな。幼い頃はあったとは思うが」
     首を傾げるコハクは超絶健康優良児すぎて、医者そのものに縁がない。
    「最初に書かされる問診票にあったかもしれないけど、ベータはその辺気にしないかもね。僕もあんまり病気にならないから、記憶が無いな」
     風邪程度の病気に処方される薬は最も人口の多いベータを基準に作られているから、確かにベータの人間は特に医者から言われることもないかもしれない、と千空は羽京の言葉に頷く。
    「俺も最初に担ぎ込まれた病院でいろいろ検査してもらってからずっとそこに行ってるから、他あんまり行かないねぇ。事情いちいち説明したくないし」
     本人も被害者だが事例が特殊すぎてゲンも知らなかったらしい。
     それでいいのかよ、ABOD対策室。
    「つまり、被害者がかかっていた医者や薬局を調べて共通点を見つければ犯人への糸口がみつかるかもしれない、ということだな」
     コハクがぱっと顔を明るくして部屋を飛び出そうとするのをゲンが慌てて服を掴んで止める。
    「闇雲に飛び出してってもしょうがないでしょ」
    「あぁ。被害にあってから自殺までに少なくても数年の時間が経ってる。事件にすらなってない事件の捜査じゃ警察がお得意の人海戦術は使えねえんじゃねえのか? そもそも本人が生きてて協力してくれるならともかく、死人は語っちゃくれねえ。相当な手間かかんだろ」
    「警察手帳を見せつけて話を聞けないことはないだろうけど、今はヘタに権力を使ったら問題になる。騒ぎになって、せっかく集めた情報の信憑性を問われたらもともこもないよ」
     真面目な羽京らしい発言にゲンを振りほどこうと暴れていたコハクがやっと大人しくなった。それでも不本意そうな表情は変わらない。ABOD対策室の人間では無いはずなのに。正義感が許さないのか。
    「では、どうするというのだ」
     噛みつくように吠えたコハクに、机の上の1枚をとって突きつける。
    「ククク……。ここにおありがてえ生存者様の値千金の情報があんじゃねえか」
     被害者が「車に押し込まれる前にガス状の何かを顔に吹き付けられた」という一文をとんとん、と指の先で叩く。
    「おかしいと思わねえか? ヒートを起こしていないのに番関係が成立してんだぞ」
     オメガは発情時にアルファのDNAを体内に取り込み、うなじに刺激を受けるとそのアルファを番とする。
     基本の基本だ。
    「そのカラクリもよくわかんなかった点なんだよね~」
     ゲンの言葉に刑事の面々も頷く。
    「だいたい、証言によりゃ、一時間程度ですべて終わらせてるんだ。被害者には男もいる。薬でほぼ寝てる相手に可能か? ヘタすりゃ内臓傷つけて大惨事、一件くらい立件されててもおかしくないだろ」
     内臓破損で病院に行けば当然犯罪はバレる。
    「脅迫用の写真が撮ってあっても、だ」
     本人が嫌がっても、医者は通報する。
    「下手な怪我させりゃどうしたって事件は露呈する」
     スマホの画面を開き、調べておいた論文を表示する。日本語訳は発表されていなかったから英文だが、日本でも使用されている麻酔に関わる論文だ。龍水が受け取って視線を走らせる。薬品類の管理が厳重にされている日本だから、今まで問題になっていなかったのだろうが、ここ数年海外では度々注意喚起がされていた。
    「この麻酔を吸ったオメガは、ヒートを引き起こす……?」
    「そもそもが麻酔薬だ。危険なブツだから、使用量を間違えればアウトだが、加害者に知識があんだろ。この調書を見る限り、絶妙な使用量だしな。オメガは種を残すための本能がクソ強え。麻酔がオメガ細胞を刺激して、脳の鍵を外す。本能を呼び起こす。ヒートが起きれば、何の下準備もいらねえ。高校生ぐらいならきちんとした発情が始まる前でも、身体の方はギリギリ受け入れられる状態が整えられているはずだ。まだアルファが狂うような量のフェロモンが出るわけじゃねえが、軽い症状のヒートが起きる。ただし、無理矢理おこしたヒートでも、ヒートはヒートだ。特に発達が男より早い女は妊娠する可能性が高い。おそらく殺精子剤でも突っ込んでるんだとは思うが……」
     子どもが出来たらどうしたって目立つ。堕ろすなら医者に行かねばならない。襲われているのは善良な市民で、善良な市民は秘密裏に腹の子を処理してくれるもぐりの医者なんて知らない。普通に医者に行けって事情を説明すれば、やっぱり警察に行くことを勧められるだろう。番関係が成立しているところを見ると、体内で精を吐き出しているのは確かだ。
     犯人は避妊だけはきちんと行っている。
    「だとしたら悪事が終わった後、被害者はすぐヒート状態じゃなくなるんなら、抑制剤も飲まされてるんだよ思うんだよね。一般的な薬なら経口だったら効き始めるまで二十分はかかるでしょ? 麻酔で半催眠状態にした後、薬を飲ませた後暴行して、覚醒する頃、抑制剤も効き始めて意識もはっきりするから口止めをするって流れじゃない?」
    「寝てる状態で飲ませられるもんか?」
    「抑制剤ならチュアブル錠もあるからいけると思うけど……」
    「フゥン。犯人像が見えてきたな」
    「殺精子剤は薬局でも手に入るけど、抑制剤は処方箋がないと手に入らないし、ましてや麻酔薬なんて……」
    「裏稼業用の病院で麻酔って手に入るかなぁ。厳しくない?」
    「ということは麻酔医か」
     勢いこむコハクに、羽京が小さく笑みを浮かべる。
    「断定はしない方が良いかな。足で情報を稼ぐのは刑事の基本だし、これ以上は歩いて情報を集めるよ。麻酔薬が悪用されるかもしれないから注意を促しているって言えば病院内に入りやすくなるしね。千空、その麻酔薬について詳しく教えてもらえるかな?」
    「あぁ。どこの病院でこの薬品を常備しているかなんて学生の俺じゃ知りようがねえからな。そこら辺は権力とやらを使っていただかなきゃなんねえ」
     麻酔薬の正式名称や、製造元などが記載されたサイトと副作用に関する実験結果が載っている論文をプリンターに飛ばして印刷する。全文英語だが、龍水も羽京も平然と受け取った。病院に持ち込むなら、デジタルよりアナログの方がいいだろう。
    「この男、一応好みの人間を狙って襲っているというのに、恨みだけ買うなどつまらんことをするな」
     英文に目を走らせながら龍水がそう言うと、羽京が少し笑った。
    「その考え、君らしいね」
    「これはという被害者を見繕って、身辺調査をして、麻酔薬を盗み出して一度だけ良い思いをして恨みを買うだけだぞ? これだけの労力を使うのに得られるものが少なすぎる。同じくらいの労力を使えば後ろめたいことなんぞ何一つ無く、もっとたくさんの物が手に入ると思うがな」
     龍水が泰然と微笑んだ。
    「アルファなら多くのオメガをモノにしたいという気持ちもわからんではないが……いや、オメガだけなんて物足りん。どうせなら全人類を俺のものにしたいがな。俺はこの世の美女達の、賞賛も愛情も友愛も嫉妬も全て欲しい。違うか?」
     アルファなら、という前置きがあったということは同意を求められているのだろう。龍水がこちらを見ていた。当然、貴様もそうだろう? とでもいうような顔で。
     ……んなわけあるか。
    「前半は同意しかねる」
     番は一人いりゃ充分だ。それ以上は無駄が多すぎる。
     賞賛も愛情も友情も……嫉妬さえも欲しいという後半はわからないでもないが。
     ちらりと自分の番を見れば、こちらは千空と龍水の会話に気を止めていなかったようでじっと印刷された英文と被害者達の書類を見比べている。表情は変わらないが、指先に力が入っているようで、くしゃくしゃと紙が小さな音を立てている。
    「犯人にとっては一度だけ良い思いをして……ってわけじゃないんじゃないかな。陵辱行為そのものは下準備でしかない気がする」
    「?」
    「だって、噛まれた後はみんな小さくてわかりにくくしてるでしょ? 調書でも発情した時に始めて自分を襲った相手と番になっていることに気付いたって言ってるわけだし。みんな、うなじに刺激を与える、番関係を結ぶための最低限の傷しかない」
     ゲンが自分のうなじに手を伸ばし傷跡に触れた。
     千空が付けた跡をそっと指先でなぞっている。
     あの傷を付けたとき、理性はきれいさっぱり消えていて、思い切り噛みついた。歪んで引き攣れた古い跡に無性に腹がたったことは覚えている。今も首にくっきりと残る自分の噛み跡は、平常時ですら見る度にこの男は自分の物だという所有欲を満たしてくれる。
     確かに本能に従えば、わからないような傷になるはずがない。できるだけしっかりと付けるはず。
    「犯人はわざと、噛み跡を付けたことを悟られないようにしているということか?」
    「そういうこと」
     ゲンが、被害者のうなじに着いている傷跡の写真を散らかった書類から引っ張り出して、テーブルの上に並べる。どれも傷口は小さなもので噛み跡には見えない。
    「フゥン。フェロモンもろくに出ていないオメガなら、確かに性交時に感じる快感はベータやアルファの女を抱いた時でもあまり変わらない気もするな」
    「だろうな。差があるとは思えねえ」
     アルファ二人の言葉に、ベータのコハクと羽京が眉を寄せる。ベータでもオメガのフェロモンを感じることはできるが、アルファのように陶酔したりはしない。
     オメガのフェロモンにあてられると、アルファは脳の理性リミッターが外れる。行為に没入して、他のことなど何も考えられなくなる。快楽に酔って、享受して、溺れる。ヒートを起こしているゲンとの行為中はいつだって、そんな小細工をする余裕はなかった。だからこそ、他の性と交わるより心地良い。
     それがないのに、わざわざオメガを選んで襲ったのは何故なのか。
    「番関係を相手にわからないように結んでおくのは、本当のお楽しみのため。暴行を受けてから何年かたって、やっと過去の事として立ち直った頃に思いっきり大きな落とし穴にはめるための罠なのよ。だって、その方が被害者が受けるショックは大きいでしょ? 犯人が見たいのは、発情した時の被害者の絶望なんじゃないかな? 襲うときに家も学校も全部調べてるんだもの。様子をこっそり観察して自分をのたうち回るくらい恨みながら欲してるオメガを見て喜んでるんじゃないのかな」
     暗い色の瞳には胸の内は浮かび上がっておらず、声音は穏やかなままだが、ゲンの指先はほんの少し震えてる。
    「犯人が病院にどういう関わり方をしているのかまだ分からないけど、被害者が死ぬほど苦しんでいるのを、見ているんじゃないかって気がするんだよね」
     その予想が当たっているなら、犯した相手が数人、自ら命を絶ったことも知っている可能性もある。それでも凶行は続いている。
     死ぬほどの苦しみを生み続けている。
    「全部、俺の想像だけどね。性的倒錯者って時々とんでもないこだわりがあったりするから外れてるかもしんないし?」
     軽い調子でそう締めくくって、紙の端が皺だらけになった英語の論文を机の上に置く。幼さの残る高校生を奈落に落とすために、無抵抗な裸体を舌なめずりをしながら犯している男が頭に浮かんでぞっとした。動かず眠っているその首にかすかに笑いながら、ほんの少し歯を立てる時、何を想像していたのか。
     この犯人にとって、その行為が「オメガを手に入れる」ということなのか。
    「その通りだとしたら、この男はは獲物を横からかっ攫ったことになるな」
     龍水が大きな口を開けて、豪快な笑みを浮かべた。
     指さす先は千空だ。
    「え?」
     心底愉快そうな声に、ゲンが目を見開く。
    「俺には理解できんが、番が苦しんでいるのを見るのがそいつの趣味なのだろう? わざわざ綿密に調査し、計画をたてて麻酔を盗むという危ない橋を渡っても見たいというのだから相当な執念だ」
    「まさに悪趣味だね」
     龍水の言いたいことをくみ取った羽京が小さな笑いを漏らす。
    「そこまでして捕まえたオメガが別のアルファに盗ったわけだろう。苦しみどころか、ゲンはこのところ始終上機嫌ときている。完全に流れはこちらに来ている。ここまでくればもう逮捕は目前だ!」
     周囲を鼓舞するように、大きな声で力強く言い切る。
    「俺に嗜虐趣味はないからわからんが、同意もなく番を結ぶなど言語道断だ。その鎖を断ち切って、犯人を笑ってやる、それが最大の復讐になる。違うか?」
     まだ犯人の顔も名前もわからないのに、とゲンが相好を崩す。それから、千空の顔を見て少しだけ頬を赤らめた。


     問題の麻酔薬を使用している病院は県下に十六。捜査対象としてそれが多いのか少ないのか部外者の千空にはわからないがいずれも大病院ばかりで出入りする人間を全て調べるのは骨が折れるだろう。しかも警察手帳を振りかざしてできる捜査ではないし、動ける人員は少ない。立件されているわけではないから調書もとれない。任意で話をしてもらうしかない。麻酔薬が盗み出されているなどと明るみになれば大問題だから病院側が素直に言ってくれる可能性は低い。
     ゲン曰く「羽京ちゃんの人柄頼み」だそうだ。人畜無害そうな容姿と話し方で心のガードを解いて、いろいろ聞き出すのが得意なのだそうだ。龍水は威圧的なところがあるから、警戒されがちになるが、看護師は女性が多いから顔面偏差値の高さを利用すれば意外といけるかも、などとも言っていた。その辺りは警察組織のお手並み拝見だ。
     千空は、その日、大学病院の特別室で同じ研究室仲間とチェックリストを元に第二の被験者の治験の準備を進めているところだった。研究対象に集中する必要も無いため、脳の半分以上を数日前に聞いた話が占めている。
     学生なのだから、気になるからとあまり首を突っ込んでばかりもいられず、あの部屋には数日行っていない。ゲンからの連絡はあるが、込み入った事柄は送られてこなかった。一応、部外者ではあるが進捗は気になる。
    「石神博士はいらっしゃいますか?」
     ベッドの脇に点滴スタンドを準備している時に聞き慣れない声がして、入り口付近を見ると自分より四、五歳ほど年上らしいスーツ姿の女性が立っていた。学生達が彼女を見て困惑したように顔を見合わせる。
     話を聞いていたから、それが誰なのか、千空にはすぐにわかったが。
     堂々とした立ち姿ではあったが手にも包帯を巻いていたし、顔には大きな絆創膏が貼られている。暗い色のタイツの上からでもわかるくらい足にも傷を手当てした様子がうかがえた。ガラス窓をぶち破って恋人の自殺を止めた女に違いない。年の頃も話と一致する。ギラギラと光を放つ勝ち気そうな瞳が印象的だし、この女なら窓も気にせず飛び込むだろうという雰囲気があった。
    「悪りぃ。ちーっと出てくる」
     何の用事があるのかはわからないが、事件の関係者がわざわざ尋ねて来たのだ。他の学生に聞かせる話でもないだろうと場所を移す。
     とりあえず話が出来る場所といえば、入院患者が気晴らしの散歩できるようにと作られた中庭くらいだろうか。
    「明日の治験のことで少し挨拶をしておこうと思っただけなのに、わざわざ出ていていただいてすみません」
     廊下を歩きながら、女性にそう言われて事件関連じゃなくてそっちか、だったら出てきたのは無駄だったなと少し後悔する。
     治験の対象があの事件の被害者というのは聞いていた。わざわざ緊急搬送された病院から転院してきたとも。万が一また自殺されては困るからと準備が急ピッチで進んだことも。
    「あの子の捜査をしてくれている刑事さんから、治験のお話を聞きいて私があの子を説得したので。随分お若い方で驚きました。先生が第一人者と聞いていたので」
     明らかに年下の千空に敬語を使ってくるあたり、見た目に似合わず礼儀正しい女性だ。どうして自分を訪ねてきたのかと思ったら裏でゲンが絡んでいたか。
    「俺は博士じゃねえ。ただの学生だ」
     女性が驚いたような声をあげて、そうなんですか? とこちらの顔を覗き込んできた。
     病院の中には小さいながら、いくつか花壇があって、入院服を着た車椅子の女性や子ども達が思い思いに過ごしていた。今日は天気も良く、花壇には様々な花が咲いている。
    「誰だよ、デマ言ったやつは」
    「白黒の不思議な頭の刑事さんです」
    「そいつも、刑事じゃねえよ」
    「えっ」
     なんか胡散臭い人だと思った、と呟くのを聞いて笑いそうになる。
    「警察関係者に間違いはねえがな。胡散臭いのには同意だ」
     言えばまたドイヒーとかなんとか言うだろうし、元々の性格もあるだろうが軽いノリは狙ってやっている節もある。てきとうな事を言うのは日常茶飯事だ。
    「警察の後方支援だ。科学捜査研究所、聞いたことあんだろ? そこの人間だよ、アイツは」
     ほっとしたように女性が頷く。
    「ついでに言うと、俺の番だ」
     悪戯心を出してそれを言ったら、女性は「しまった」という表情を浮かべてからバツが悪そうにする。表裏のない素直な性格らしい。取り繕うこともしない実直さを見ていると、だからこの女の恋人の自殺が未遂で済んだのだとよく分かる。要因はいろいろあれど、最後に別れの挨拶をしたこと、切り傷が浅かったことも助かった理由だ。
     絶望しきれなかったからだ。恋人の光が強すぎて。
    「すみません。胡散臭いとか言って……」
     気にするな、と軽く手を振る。どうせ、今ここに居たって本人は気にも留めない。
    「一度結ばれた番関係をとりあえず無かったことにできる方法を見つけたのがあなただと聞きました。刑事さん……じゃなくて科捜研の人、あの子と同じように自分も発情が始まる前に同意なく噛まれていたって教えてくれました。だけど今は大好きな人と一緒にいるって、二重になってる噛み跡見せてくれたので、あの子も決意することができたみたいです」
     ゲンのことだ、よかれと思えばてきとうな言葉をペラペラと紡いでいくだろう。噛み跡を見せて、それを付けたのが好きな人のものだと言うくらい……。
    「彼、とても嬉しそうに笑ってたので。あの子、すごく臆病な子なのに。最初は治験ってなんだか怖いって渋ってたんですけど」
     アイツは、その言葉を言った時、どんな風に笑ったのだろう。
    「自分がアルファで、あの子がオメガだって知った時に、私これは運命だと思ったんです。一目惚れでした。私は成人していたし、あの子は高校生だから言えませんでしたけど。大人になったら告白しようって決めてました。気持ちが通じた時、私たちはやっぱり結ばれる運命なんだって思えました。女同士でも、アルファとオメガならごく普通に、何の憂いもなく周りに祝福されて一緒になれますから」
     案外、ロマンチストらしい。それにしても、この女、図々しいほどの前向きさだ。
    「だから、あの子が酷い目にあっていたって知って、別のオメガと番になってるってわかっても何か方法があるはずだって、諦められなかったんです。おかしいじゃないですか。両思いなのに。この病院が属している大学で番を外す研究がされているって知ったのはつい最近ですけど、知った時、やっぱり私たちは運命の相手だったんだと思いました」
     軽く言っているが、研究者でもない人間がそこにたどり着くのは大変なはずだ。論文はネットにあがっているが、嘘か本当かわからないような有象無象と一緒くたになって検索画面に出てくる。ほとんどがガセネタだから、相当の時間を調査に費やしたに違いない。
     この女の言う「運命」は都市伝説的に語られる、偶然の一致から来る運命の番のことではない。何の実態もない、ただの妄信的な思い込み。力業で運を引き寄せている。
    「どんだけポジティブだよ」
    「よく言われます」
    「まぁ、死なせなかったっつーだけでも百億点の仕事だったとは思うがな」
     自然と笑みが浮かんできた。この女の恋心と思い込みと執念が事件解決の糸口を見つけ出した。それが可能だったのは、何年も積み上げたゲンの調査という土台があるからで、それがあるのは同じ科捜研の仲間や刑事がそれぞれの分野で協力してきたから。
     恋愛脳は非合理敵と常々思ってきたことではあるが、時折とんでもないパワーを出してくる。論理的でも合理性もないが。
    「一つ聞いても良いか?」
     よれよれの白衣のポケットに手をつっこんで、聞くと、満身創痍の女が何ですか? とにこりと微笑んだ。
    「運命の番ってヤツが現れたらどうする?」
     女が首を傾げる。
     頭の回転は速いのだろう。すぐに意図をくみ取って、笑った。自分の口から出た「運命」ととは違う意味の「運命」
    「決まってるじゃないですか。あの子が私の方が良いって言ってくれる限り、そんなのに負けないです。私に運命の番とやらが現れても、その運命の相手よりあの子が好きです。絶対に。あのこの前にそういう人が来ても私の方があの子のことが好きです」
     絆創膏の目立つ顔で、周囲の花にも負けない笑顔を咲かせる。
    「調べたんですよ。運命の番ってなんなのか。第二の性のDNAだかなんだか、私にはその辺わからないですけど。ただの偶然でその構成が似ていただけの相手なんですよね? そんなのに盗られるなんて理不尽じゃないですか。私たち、人間ですよ? 野生動物じゃないんだからそんなのに負けたりしません。心が勝ちます」
     そして強く言い切った。
     自信満々、といった顔で。
    「あの子の運命の番は私です」
     明日の治験、よろしくお願いします、と頭を下げて去って行く女を見送る。
     型が一致した時のアルファとオメガの惹かれ方がどれほどなのか、文章で書かれたものだけは知っている。式典をぶち壊すほど強く、その後ずっと引きずって番だ作れないほど強烈なもの。
     それでも、あの女なら正面切って勝負を挑むだろう。
     勝負はしてみないとわからない。運命に心は勝てるのだろうか。
     一つため息をつくと、聞き慣れた軽い声で「千空ちゃん」と声をかけられた。
    「テメー、見てたろ」
     そう言うと、スーツをピシっと着こなしたゲンは、わざと千空から目を反らしてらしく斜め上に視線を送る。
     当たり前だ。タイミングが良すぎる。偶然とは思えない。
    「例の被害者がここに入院しているからね。お話聞きにきたのよ。で、中庭を覗いたら美女とデート中だから気を利かせて待ってただけ。ついでに千空ちゃんの研究室のみんなにお土産よ。シュークリーム」
     手に持っている大きな袋をさっと顔の位置まで上げてにこりと笑う。今日は特別室に、ゼミの人間がほとんど揃っている。
     そういえば、こいつは教授とも懇意だった。
    「ま、うちの教授にも院生にもコネ持っときゃ使えるだろうしな」
    「人聞き悪~い。下心無いとは言わないけど?」
    「褒めてんだろ」
    「どこが?」
     それなりに周囲からの視線を遮ることが出来る木陰にゲンを導いて細い腰に手を回して抱き寄せる。
    「どうかした?」
     ゲンの片側だけ伸ばした、まっすぐな髪にそっと手を触れる。
    「誰かから聞いた?」
     口元から笑みを消して、囁くようにゲンが聞く。傍から見たら仲良しこよしに見えるだろうが、ゲンの口から出てきたのはなかなかに剣呑は気配のある声だった。
    「何だ?」
    「カルテの話。いきなり抱き寄せるから内緒話でもしたいのかと思っちゃった。まぁ、聞いてないならお話しておこうかな。中途半端にされても気になっちゃうでしょ」
     ちらり、と視線を周囲に走らせて、ゲンが唇に指を充てる。口外無用、ということだ。周囲に人が居ないのを確かめて、ゲンが声を潜める。
    「ここ、一帯で一番大きな病院だし、今って、電子カルテが普及してあちこちの病院で情報共有してるってのもあるでしょ。町医者だとまだアナログのとこもあるけど。被害者全員のカルテ、この病院だと見られることがわかった。どの科からでもカルテ自体は見られるから、何科を受診していたとしても、この病院のシステムにアクセスできれば見ることができたの」
    「カルテが共有しているなら、他の病院でも見られるところ、あるんじゃねえか?」
    「一人、歯科にしか通ってない子がいたのよ。歯医者さんまで網羅してるのはここだけよ。それから時期の問題もあって、最初の三件の強姦事件のあった時に、電子カルテを導入していたのはここだけだったし、その三件の被害者は全員この病院を受診してたよ」
     十六件、既に全て情報を集め終わっているようだ。
    「羽京ちゃん、ゴイスーよね~。あっという間に聞き出しちゃって」
     こちらの胸の内を読んでか、軽い口調でそんなことを言う。声音と正反対にゲンの暗い色の瞳が凄みを増す。
    「例の麻酔薬は?」
    「使ってる」
     この国立大学の附属病院は、地方都市医療の中枢と言っても良い。病床数は六百を超える大病院だ。病院は絞り込めた。それでも、出入りしている人間の数はかなりの数だろう。ここから今度は犯人を見つけ出さなくてはいけない。
    「被害者全員のカルテを見せてもらったよ。千空ちゃんの言う通り、第二の性の記載もばっちりあった。歯医者さんでも書くのね」
    「場所によるだろうけどな。大学病院だと他との共用もするからだろ」
     肩にこつんと頭を乗せて、ゲンが千空の腰に手を回す。
    「無いのは俺のカルテだけだった」
     ゲンが暴行にあったのは中学生の時。その時、本人も自分の第二の性を知らなかった。当然データそのものがこの世に存在はしない。
    「俺を襲ったのって……」
     ゲンの時は、調書にあったのとは違う杜撰な犯行だった。行きずりの犯行だろう。うなじの噛み跡も、衝動的に噛んだせいで歪んではいるがはっきりしたもので、証拠もそれなりに残っている。犯行そのものにも失敗している。計画性はない。
    「十中八九、テメーの運命の番ってやつだろうな」
     待ちの中で見つけて、すぐにでも自分の物にしたくて路地裏にナイフで脅して連れ込んだ。
    「でも、俺の方は何も感じてないけど……」
    「オメガの方は身体の準備が整うまで運命とやらに遭っても発情はしねえよ。子どもの身体に突っ込まれりゃ内臓が壊れんだろ。アルファは運命に遭えば、発情はしねえが噛むほうの本能だけは幼稚園児でも出るらしい。何が何でもモノにしてえっつー本能が勝つんだろうな」
    「そっかぁ……」
    「っつても、オメガの方もヒートを起こしていない状態で噛まれても番として認識しちまうけどな」
     ゲンが、耳元で細く長い息を吐く。
     被害者の中でこの男の場合だけ、他と違う。
     他に考えようがない。
    「千空ちゃん。ここに入院しているときには感じなかったんだけどさ」
     ぎゅっと抱きしめられる。
    「居るよ。今」
     どきり、と心臓が跳ねた。
    「わかんのかよ」
    「うん。わかる」
     きっぱりと告げられる。
     じわじわと指の先が冷えていくような感じがあった。
     明るい日の光、色とりどりの花の中にいるのに。
     きっと今、この院内には数千の人間がいるというのに。
     番は千空のはずなのに。
     それなのに、運命の番が近くにいると、わかるのか。
     身体を離して、ゲンがスマホをポケットから取り出す。
    「龍水ちゃん、間違いないよ。今、ターゲットはこの病院内にいる。援軍呼べないかな? チャンスだと思う」
     少し、言葉を交わして電話を切ったあと、シュークリームの入った袋を差し出してきた。
    「メンゴ。俺、龍水ちゃん達に合流するから、これみんなに渡しておいて」
     シュークリームの袋を受け取ってついでにゲンの腕も掴む。
    「俺も行くわ」
    「え?」
     今現在、千空ではフェロモンを感じないがゲンが犯人の痕跡を感じるのは、まだ数日前に始まったヒートが完全に終わっていないせいだ。自分との交わりで、収まったように感じているだけで、至近距離で出会ってしまえば、ぶり返す可能性がある。龍水達と合流する前、一人でいる時にそんなことになれば、何が起こるかわからない。
     仮止めの番の状態で運命の番に出会うなんて、人類初で前例がない。
     実体験はないが、運命とやらに関する実験結果はいろいろ出ている。未知の領域だからこぞって学者達は実験をくりかえしている。
     でも、結局今のところはっきりわかっているのは、ただの偶然の巡り合わせのくせに、運命は強い。とんでもなく、強い。それだけだ。
    「テメーの番は、俺だ」
     そのままゲンを引っ張って特別室に自分が抜ける代わりだ、とシュークリームの箱を渡す。準備といっても、病院側と必用な薬品類の確認と手順のチェック、留意点の確認といったことをするくらいでさほど手がかかることもない。学生に見学させるために大勢で押しかけているだけ。千空はいかにも訳ありな傷だらけの女性と出てきたこともあり、用事ができたからここで離脱することを告げる。探しに来られても面倒くさい。
     明日の準備は終わっていたようで、シュークリームを渡すと、帰ってお茶にするとむしろ歓迎された。聞けば有名店のシュークリームだそうだ。
     その後、特別室と同じ階にる刑事達のほとんど、走るように向かう。
     例え自分が側にいても、取っ組み合いになったらまず勝てない。
     本能に逆らって、ゲンが自分を選んでくれるかどうかだって分からない。
     今まで読んだ文献が頭の中に蘇る。国も、財産も、家族も捨てて求める相手、抗うのが難しいほど強い本能。
    「俺、表に出る仕事じゃないしさ、危ないのも怖いのも嫌だんだけど。千空ちゃんが隣に居てくれるなら安全かもね~」
     あの女の恋愛脳にあてられたのかもしれない。運命の番とやらの引力がどれほどのものかわかっているくせに、こいつが望む限り勝てる、そんな気がした。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭👏❤💕💕💕✨✨✨
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    うたこ

    DONEにーちぇさん(@chocogl_n)主催の合同誌に載せていただいた、ディアエンのダンシャロです。
    エンブレムの最後は悲劇的な結末になることが確定しているので、互いを思う二人に幸せな時間がありますようにと思い書きました。書いたのが8月でGAの発表もまだだったので、今開催中のイベントとは雰囲気が異なるかもしれないです。
    インターリフレクション 白く清潔なテーブルの上に置かれたマグカップから、フルーツの香りが漂う湯気がふわっと湧いた。ほのかに異国のスパイスの匂いも後から追いかけてくる。
    「先生、ヴァンショーです。あったまりますよ?」
     この香りは昔、嗅いだことがある。
     何百年も前の風景、ガス灯や石畳の町並みが一瞬だけ脳裏に浮かんだ。へにゃっとした緊張感の無い少年の笑い顔と一緒に。
     懐古趣味なんてらしくねぇなぁ。
     頭に浮かんだ人物と風景を追い払ってマグカップに口を付ける。
     甘い。
     ヴァンショーは葡萄酒に柑橘系の果物とスパイスを加えて煮るのが一般的だが、出されたものには甘いベリーがたっぷりと入っていた。この医療都市にそびえ立つパンデモニウム総合病院には、もちろんしっかり空調が完備されている。真冬の今も建物内に居る限り、さほど寒さは感じない。大昔、隙間風の入り込む部屋で飲んだヴァンショーとはありがたみが随分違う。
    9331

    うたこ

    DONE黒猫男子きょう何食べたい?企画のお話。
    さじゅさんとう゛ぃれさんが出ます。
    たいやき。 飽きませんか? と聞かれて何のことを聞かれているのか分からなかったのは昔の職業のせいだろう。昔はそこそこ真面目にお仕事をしていたから、当たり前だと思っていたのだ。
     そういうもの、だと思って居なければ飽きるかもしれない。張り込みなんて。
     言われてみれば、ほとんどの時間は、動きの無い現場をただ見張っているだけだ。退屈でつまらない仕事だ。
     厄介な資産を回収してこいとルダンに命じられて、面倒そうだけど、仕事だからしょうがない。サボりながらやるかと出向いた先には先客がいた。資産を持っているのは没落貴族の娘だそうで、その資産というのは値の張る宝飾品だそうだ。よくある話だが、家宝の古式ゆかしく豪華なアクセサリーには多くの人の恨み辛みが宿っていた。よって幻想銀行に相応しい資産というわけだ。持ち主を不幸にするとか、取り殺すとかそういうアレ。まだ彼女の家が栄華を誇っていた頃にはその家宝の宝石を巡ってどろどろした争い事がたくさん起こったのだそうだ。そうして沢山の怨念を取り込んだ宝石は意思を持つようになったのか、更なる不幸を呼び始めた。彼女の両親も、突如気の触れた侍女に刺し殺された。
    4691

    recommended works