ふわふわに触れてやっと静かになった。
今朝の食堂は騒がしい気配がして、ファウストは巻き込まれまいと手短に食事を済ませた後早々に部屋に引き上げていた。
任務に行く者、私用で出掛けると言っていた者が出発し、今の魔法舎にはほとんど人がいない。
ファウストも今日は午後からネロと買い物に行くことにしていたが、朝食のときはたいそう忙しそうで、ほぼ会話なく過ごすしかなかったのが少々心残りだった。
予定していた時間にはまだ余裕あるが、様子を伺いにキッチンを覗いてみた。
しかしそこに人の気配はなく、開けたままになっている窓から流れてくる乾いた空気には焦げ臭さが混じっていた。
食堂も、片付けた形跡はあるがなんとなくいつものすっきりとした感じはなく少し乱雑に食器や椅子が置かれていた。
やはり今朝はひと騒動あった気配がある。
ネロの自室にも寄ってみたがいなかった。
このあたりには気配があるので外出したわけではなさそうだがもしかしたら…と庭に足を向けることにした。
この頃は冬もだいぶ顔を隠し、少し霞みがかった春の日差しが立ち込めている。
暖かいし誰もいなかったものだからファウストは帽子も外套も置いて昼間の割には身軽だ。
心当たりのある場所へ向かってみると、森の手前の大木の陰に白いシャツと靴の端が見えた。
「ネロ、ここにいたのか……」
喋りかけようと近付いた足を止める。
幹に背を預け目を閉じ、静かに寝息を立てていた。
横には虎柄の猫が伏せて小さく丸まってじっとしてこちらの様子を伺っている。
ネロは小さく口が開いているし、猫は舌がしまいきれてちらりと見えているのが似ているようで可愛い。
ネロは朝食当番の後で寝直すことは珍しくないが、この時間まで、しかも外で休んでいるのはあまりない。
起こすつもりもないしこのまま戻っても良かったが、ファウストは無防備に眠る彼の姿をもう少し見ていたくなって、ゆっくりと近づいて横に座った。起きる気配はなかった。猫には逃げられた。
なんとなくもうしばらくは起きそうにないものだから、木漏れ日の似合う色の髪の毛をさわさわ撫でたり毛束を摘んでみる。
柔い光が揺れて髪とまつ毛がきらりと光っている。
綺麗な直毛で当たり前だが自分とはまるで違うなと思ったりした。
彼の故郷や血縁に思いを巡らせそうになったが、深くを踏み込まないお互いの距離感の心地よさに波風を立ててしまいそうで、考えるのをやめた。
思い返してみれば、二人でよく過ごすのは晩酌とか暗がりが多かったから、明るいところで彼をまじまじと見る機会というのは案外新鮮なことだ。
改めてよく見ると綺麗な顔をしている。いつも笑うときに少し下がる眉は今日は少し眉間に皺が寄っている。無防備な首筋や料理人らしい太さの手首の凹凸を眺めては歳上らしさを感じた。身体年齢など大して変わりのないはずなのに。
彼の髪の毛を梳いていたら春の空気に混ざってうっすらと焦げた匂いがする。
詳しいことは分からないが、この場所で一人休んでいるだけの心労を慮って緩く髪を撫で続けた。
そうこうしていると、急に腕が伸びてきて雑に抱き寄せられた。
「うわっ……おい」
体勢を崩してそのまま二人して草の上に転がった。
視界が変わって木漏れ日の隙間から見える青空の深さと、視界の端に空色の髪の毛が映る。
横では寝ているのか起きてるのか分からない男がもそもそもにゃもにゃと動いて、落ち着く位置が見つかったのか、また大人しくなった。
(寝ぼけてる…?)
胸元に頭を抱えられた状態のまま動けなくなって、そのまま穏やか寝息と、ゆったりとした心音と、緩い風でなびく木の葉の音を聞いていた。
視界の端にまた近づいてくる猫も見た。なんでか2匹に増えている。
よく分からない状況だけれど、心地よく癒される空間だった。
このまま眠れてしまえたらどれだけいいだろうとファウストは少し呼吸を深くした。
ネロの顔を見ると、まどろみの中のぼんやりとした麦穂の瞳が長い睫毛の間からこちらを見ている。
「起きてたの。びっくりした」
「ん…はは…なんか遊んでたから。」
「よく寝てたようだったから」
「ん〜…すっかり静かだ。もうみんな出かけたんだよな」
「ああ。もう誰もいないと思う」
「そっか…」
ネロは横になったまま抱き抱えたファウストを離すこともせず、髪を掬うようにふわふわ撫でている。
でも目はまだ瞼が重たそうにゆらゆら瞬きをしていた。
「ふふ、くすぐったいよ、ネロ」
「さっきのお返し…」
「やっぱり起きてたんじゃないか」
「どうかな…先生が来たなって思って…撫でてくれる手が気持ちいいなあって思ってた」
「そう」
「先生細っこいのにふわふわしてる。春だからかなあ」
「何言ってるんだ」
「先生も寝ようぜ…」
「それはできないって知ってるだろう」
「だよなあ…ごめん…でももうちょっと…」
ゆったりとしたリズムで頭を撫でながら髪に顔を埋めてくる。
やはりまだ少し寝ぼけているらしい。
甘えてるのか甘やかしてるのかわからないちぐはぐな仕草がかわいいと思った。
「…今朝さ……あんたが戻った後追加の仕込みしてたら北の奴らが喧嘩おっ始めて絡まれて……最後はオズが止めてくれたけど。パンは焦げるわまた食堂もキッチンもめちゃくちゃだわお子ちゃまたちの前で怒鳴っちまうわでもう最悪って感じ……」
「なるほど…それは君のせいではないだろう。ああでも、だから少し焦げ臭いわけだ」
「うおまじか…匂い消したつもりだったんだけどな……」
「少しね。あとはいつものパンの美味しい匂い。ちょっと焼きすぎたなかりかりのトーストみたいな」
「やっぱ焦げてんのな……」
「まあね、好きなんだからいいじゃない」
ネロがふわふわと笑った気配がした。
横になったまま頭上から聞こえてくる声はもうだいぶ穏やかだったけれど、まだ少し疲れが滲んでいる。
「なあ…もうちょっとしたらちゃんと起きるから、もうちょっとだけ寝かして…」
「いいよ。買い物だって別にまた今度でもいいんだし」
「いや、今日楽しみだったから行きたい……し、もうちょっと先生をこうしてたい……」
だんだんとファウストを撫でていた手が止まって、また小さな寝息が聞こえてきた。
やってきた猫たちもすぐそばで眠っている。丸い身体が呼吸で膨らむ。ゆっくり動く毛先は春の陽にきらめいてたんぽぽの綿毛のようだった。
眠ることはできないけれど、もうしばらくの間、この穏やかな時間を堪能しつつネロの心の小さなささくれが癒えますようにと願いながらファウストは目を閉じた。
「僕も楽しみにしてるから、今はおやすみ」