長編にしたい異ぐ「お父様、やっぱりあの屋敷に嫁ぐのは私じゃないと思うの。え、どの屋敷って? わかってるくせに、嫌な人! 化け物の屋敷に決まっているでしょう! ずっと顔を隠している、醜い男の住む屋敷よ! いくら血筋が良いからって、好き好んであんな小さな屋敷に住んでいる変人に、大事な娘を嫁がせるのは嫌でしょう? わかってるわ、だから良いことを思いついたの!」
すうぅ、と息を吸い込んだ彼女の長台詞に、いつも痛い頭がもっと痛くなる。
すごい力で二の腕を掴まれ、思わず小さな悲鳴を上げた。
優柔不断なこの家の主人の前に、無理やり立たされる。
「これを私の代わりに送るのよ! どうせ向こうは私の顔を知らないんだから、バレやしないわ! 万が一バレたって、折檻されるのはこれなんだし、悪いことなんて一つもないでしょう? あぁ、私ったらなんて賢いのかしら」
主人は気まずそうに目を逸らし、私は俯いた。よく喋る少女だけが楽しげに笑っている。
……確かにこの家の主人は、彼の娘と妻の言いなりだ。
しかし私だって、正真正銘彼の娘だ。
姉である彼女を、怪物だと囁かれる男の元へ送らないと言うのなら、私のことも同じように扱ってくれる。そのはず。
「……お前の好きにしなさい」
「やったぁ!」
ヒュッと喉が鳴る。全身の血が凍りつく、そんな感覚。
「お、お父さんっ! きゃあっ!」
思わず叫ぶと同時に、視界が揺れた。
足をかけられたのだと気がついたのは、地面に倒れてからだった。
「……妾の子の分際で、何勝手に発言しているの?」
「あっ」
前髪を鷲掴みにされ、綺麗なルビーの瞳とかち合う。
こんな瞳で見つめられたら、きっと男の人はドキドキしちゃうんだろうな、なんてぼんやりと考えていた。
にこりと美しい笑みを作った彼女が、私の耳元でそっと囁く。
「さようなら、お母様似の出来損ないさん。本当なら厳しい罰をくれてやりたいのだけれど……これでチャラにしてあげるわ」
彼女は子供のように無邪気に笑いながら、満足げに書斎を出ていった。父は、倒れたままの私から気まずそうに視線を逸らし、仕事仕事と誰にともなく呟く。
いつの間にか、目尻からは涙が溢れていた。それを拭うこともせず、ただ呆然と床を見つめることしかできない。
ゆらりと立ち上がり、何も言わずに書斎から出て行く。
荷物をまとめるのに、そう時間はかからない。自分の物なんて、使用人にもらった古着の二、三着くらいしかないからだ。
明日にはこの屋敷を出なければ、きっと怒った姉に体の傷を増やされる。
仮にもお嫁に行くのだから……なんて、馬鹿げた考えだろうか。
小さな馬車の一つでも、出してもらえたらいいのだけれど。
*******
ガタゴトと音を立てる、乗り心地の悪い馬車に揺られている。車輪が石ころを踏むたび、痩せた体が軋むようだった。
窓から見える景色は、どんどんと寂しいものになっていく。
緑豊かなお屋敷付近から、閑散とした山道。今は草の枯れ果てたような、荒れた道を進んでいる。
「……お嬢様、すみませんが馬が嫌がって……もう、ここまでで」
「え」
御者は、困ったような嘲笑うような声色でそう言った。こんな場所で、道もわからないのに置いて行かれたら……死んでしまう。
「申し訳ないんですがね……こちらにも生活があるもんで」
そういう命令なんだと悟る。
死んでしまうも何も、私の死を何よりも望んでいる人がいたではないか。
あなたの代わりに生贄になるというのに、どうしてここまで……。
カバン一つの全財産を抱えて馬車から降りる。
地面に足をつけた瞬間、馬車は逃げるように走り去った。
「どうしよう……」
荒野の中、ぽつりと立ち尽くす。
とりあえず、馬車が進んでいた方向に歩き出した。
早朝に発ったはずなのに、もう日が暮れかけている。じきに暗くなるだろう。凍える闇の中、この身一つで一体どうしたら……。
(辿り着いても、辿り着けなくても……結末は一緒なんだ)
ふらつく足取りで前に進む。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、絶望で心が重くなる。
早めに諦めた方が楽なのだろうか。顔を上げても、行く先には建物一つ見えない。
神に祈る気も起きなかった。今まで、一度だって助けてくれたことがない神様なのだから。
「……ん?」
幻聴だろうか、馬の蹄の音が聞こえる。まさか、こんな場所に通りかかる人なんて……と、期待半分諦め半分で振り返る。
「っ、馬車……!」
自らの心に希望が宿るのを感じた。
期待してはいけないのに、こちらに向かって走ってくる黒い馬をじっと見つめてしまう。
みすぼらしい格好で、行く末に立ち塞がる女など……向こうからしたら厄介事でしかないだろうけれど。
馬車は速度を落とし、やがて私の目の前で止まった。
どうしたらいいかわからなくて、呆けたように、ただぼーっと突っ立って綺麗な毛並みの黒馬を見つめている。
そんな私に痺れを切らしたみたいに、馬車の扉が開く。
現れた人物を見て息を飲んだ。
まるで、高名な彫刻家の作品のように美しい男性だった。
さらりと揺れる豊かな髪。濃いエメラルドみたいに光を転がす瞳。
こんなに綺麗な人が世の中にはいるんだと、野暮ったい自分が恥ずかしくなる。
美しいその人は、自らの顎に手を当てて考え込むような仕草をした。
「……おかしいですね、伯爵は小間使いを送って来たのですか?」
「え、あ」
「まあいい、来なさい」
何かを言う前に、彼は私の手を引いて馬車に乗せた。
柔らかなクッションに尻もちをつくのと同時に、馬車が動き始める。
向かい合って座り、向けられた冷たい視線に縮こまった。
彼は私の足元から頭のてっぺんまでを素早く眺めて、不愉快そうに視線を逸らす。
私が嫁ぐ予定である、侯爵様に仕えている人なのだろう。主人には相応しくないと判断されたか。
「あの、私」
「……」
声をかけても、こちらを向きもしない。ただ黙って窓の外を見つめている。
姉様ではなく、小間使いのような見た目の娘が来たから……と見て間違いはなさそうだ。
「私、えっと」
「……降りなさい」
「は、はい……ごめんなさい……」
難しい面持ちの彼が、馬車を止めて扉の方を顎でしゃくる。
やっぱり、姉の代わりに私のような醜い娘が来たから怒っているんだ。
泣きそうになりながら扉を開けて、二人きりの空間から逃げるように地面に足をつけた。
いよいよ、八方塞がりになってしまった。
あの屋敷には帰れない。なのに、お嫁に行く先にも拒まれた。
もう、打つ手がない……。
「……いつまで突っ立っているつもりです? 退きなさい」
「え?」
不機嫌そうな声に慌てて振り返れば、真後ろに彼が立っていた。
思わず傍に避けると、何故だか馬車を降りる青年を見つめる。
「何か言いたいことでも?」
「い、いいえ!」
慌てて首を振り、そして気づく。ここは既に、私の婚約者の屋敷の前だった。
黒い屋根に、黒い外壁。見上げるほどに大きな建物は、満月が浮かぶ夜空と同じ色。
どうやらお払い箱になったのではなく、一応主人にお目通しをさせてもらえるようだ。
失礼のないようにしなくては。殺されなければ、何だってするから。
震える足で、青年の後ろをついて歩いた。
薄暗い屋敷の廊下は肌寒くて、言いようのない不安を増幅させる。
「ここが貴女の部屋です。特に構いはしませんので、どうぞお好きに」
「あ、ありがとう、ございます……あの、旦那さま、は……?」
「はい」
このまま一人にされてしまいそうな気配を察して、まだ名も知らぬ青年を呼び止める。なんだと首を傾げた彼は、私の言葉を待つようにじっと見下ろした。
「旦那様に、あいさつ……とか、しなきゃ」
「……? 私ですが」
「え?」
ぽかりと口を開けて、目の前の彼をじっと見つめる。
不愉快だったのか、すぐに顔を背けられた。
暗く黒い屋敷に住む、醜い化け物侯爵だと聞いていたのに。
驚いて呆けたままの私に、彼はこれ以上話すことはないとばかりに背を向けた。
戸惑いつつも、伝え聞いていた噂に尾ひれが付いていたのだと瞳を輝かせる。
これなら、殺されはしないかも。自室まで案内されたということは、追い出されもしなそうだ。
これから自分がどうなるのかはわからないけれど……ひとまず部屋に入ってみる。
「う、わぁ……!」
白い天蓋付きの、大きなベッドが真っ先に目に入った。部屋の中央の大きなテーブルには、女神をモチーフにした美しい花瓶に、淡い色の薔薇の花。
全体的に、白を基調とした家具でまとめられている……可愛らしい部屋だ。
黒い屋敷から、ここだけ切り取られたみたい。
「っ、すごい……」
大きなクローゼットに近寄り、扉を開けてみる。
するとそこには、色とりどりのドレスが飾られていた。
古いものではない。今シーズンの流行りのものが大半だ。
ふわりとしたシルエットに目を奪われて、いけないと思いつつ一着だけ、手に取ってしまう。
「綺麗……」
純白の生地に、金糸で刺繍が施されたそれは、まるで花嫁衣装のようだった。ふわふわしていて、可愛らしい。
こんな素敵なお洋服、今までで一度も袖を通したことはない。
いそいそと姿見の前に立ち、ドレスを体に当ててみる。
似合ってはいないのだろうけれど、それでも乙女心は満たされていた。
こんな素敵な思いをさせてくれるなんて、何かの手違いではないのか。本当に、この部屋で合っているのだろうか。
(あ……そっか、姉様が来ると思ってたから……)
ほんのちょっぴり、浮かれてしまった気持ちに釘を刺されたような心境。
綺麗な髪の毛をカールさせて、いつも社交界で笑っていた姉様。長いまつ毛を伏せて、数々の殿方を虜にしてきた。
きっとあの人も、そんな殿方のうちの一人だったんだ。
だからこうして、お父様と契約を結んでまで婚約したのに……私なんかが来てしまった。
(ごめんなさい……)
人のものに勝手に触れて、もし自分が着たら……なんて夢想してしまった。ドレスをクローゼットに戻し、胸元を押さえて息を吐き出す。
自分が姉様の代わりだということを忘れてはならない。
きっと今頃、侯爵様はお父様に「娘を取り替えろ」と連絡をしていることだろう。
娘は確かに送ったのだからとお父様に私を押し付けられて……彼は私をどうするのか。姉様が手に入らないと知った途端、噂のような化け物になるのかな。
(眠るくらい、許してくれるよね……?)
ふかふかのベッドに手を伸ばし、そして躊躇する。
姉様の存在を思い出した瞬間、私が触れて許されるものとは思えなくなってしまったのだ。
きゅるると悲しげにお腹が鳴く。そういえば、最後に食事をしたのはいつだったろう。今日はバタバタしていたから……おそらく、何も口にしていない。
空は少しずつ暗くなっていく。
(もう、眠りたい……)
空腹と明日への不安。かりそめの婚約者への罪悪感。全部が頭の中でぐちゃぐちゃになって、私の心を締め付ける。
体と心が疲弊したそのままに、横になって目を閉じてしまいたい。
それでも、シワ一つないこのベッドを汚せない……。
諦念と共にため息を吐き、ベッドの隣に横たわる。
新品の絨毯は柔らかくて、昨日までの自分の部屋の床よりもよく眠れる気がした。
……結局、私に相応しいのはこういう場所なのだろう。そう考えると納得できる。
この世で一人ぼっちの冷たい夜は、まだしばらく続くみたいだ。
*******
強く握りしめた手で、扉を二度叩く。
返事がないことに落胆しつつ、それを押し隠して扉を開けた。
人影がないことに驚き、まさか逃げ出したのかと一瞬だけ頭に血が昇る。
しかし愛らしい彼女は、ただ眠っていただけなのだと気がついた。
……床で、だが。
「全く、つくづく私を驚かせて……」
召使いのような格好をして現れたのは、反抗心か何かなのか。最小限の荷物しか持っていないのも、すぐに帰る意志を暗示しているに違いない。
帰す気など毛頭ないが、どうしたら諦めさせることができるだろう。
あれこれと思案しつつ、少女の体を抱き上げる。
驚くほど軽いその肢体を、恭しくベッドに横たえた。
静かに寝息を立てる彼女を見下ろす。
頬に張り付いた髪を耳にかけてやれば、くすぐったそうに身を捩った。
柔らかそうな唇から目が離せなくなる。気づけば指先で触れていた。
「んぅ……」
唇の隙間から漏れ聞こえた悩ましげに慌てて手を引く。
少女が目を覚ます様子はない。
「……」
もう一度、手を伸ばして赤色に触れた。
ふにふにと柔らかく形を変える。自らの唇で食むことができたら、どんなに心地よいだろう。
ふっと笑みを浮かべ、何をしているのかと頭を振った。
すやすやと眠る彼女が、その蜂蜜色の瞳を開いているときにも、こうして触れることができたなら。
「……リツカ」
そっとその名を囁いてみる。
欲しくて仕方がなかった、愛しい少女。その瞳がこちらを見つめるたびに、胸が苦しくなって目を逸らしてしまう。
これからしばらくは、挙式の準備で忙しくなる。だから、距離を縮めるのはその後になるだろう。
その時が待ち遠しい。形式上の繋がりを、真のものにしていく日々が。小さな笑みを口元に浮かべ、最後に少女を一撫でする。
そして踵を返し、部屋を後にする。リツカを起こさぬよう、ゆっくりと扉を閉めた。