この一口で、その身を「あ、童だ」
飴色の瞳がジッとこちらを見つめている。
真っ赤な髪の毛は、人間の血の色によく似ていた。
細い木の枝に難なく腰掛けて自身を見下ろす桃色の袴の女に興味があるのか、くりくりした瞳を輝かせている。
大きな桃の木の盛りは今。
あまりに甘い匂いを撒き散らしているから、この子も惹かれたに違いない。
「ほれほれ、おいで……桃食べる?」
「食う」
ちょいと手招きをしてみれば、童は足元に駆け寄ってきた。
木の枝をしならせて、その目の前まで降りても驚きも怖がりもしない。
随分と肝が据わっているようだ。
それとも、精霊に関わったことがあるのだろうか。
「どうぞ」
「あんがとよ」
木に実った桃の中でも、一等甘いそれを差し出す。
素直に果実を受け取ったその子を抱き上げ、自らの膝に座らせた。
そのまま枝を伸ばして、見晴らしがいい高さまで連れて行く。
まるで攫ったみたいだ。
私のことが見える人間に出会うのなんて久しぶりで、ついそうしたくなっても無理はないけれど。
かぷかぷと桃を齧る少年を見下ろし、頬を緩める。
「ふふ、可愛いね」
「可愛かねぇよ」
景色などには目もくれず、黙々と甘い実を咀嚼していた童は、不服そうに鼻を鳴らした。
やはり男の子だ。可愛いなどと言われるのは気に入らないのだろう。
それでも。
「可愛いよぉ。ちっちゃくて、もちもちすべすべで」
「すぐデカくなる」
「ふふっ、そうだね」
張り合うように返される言葉に笑みを零す。
澄んだ青空へと視線を移し、ため息混じりに呟いた。
「ほんと……すぐなんだろうな」
片や人間。片や桃の木の精。
寿命が違えば、時の流れへの感じ方も変わってくる。
私が瞬きをする間にも、この子は大きく育ってしまうのだろう。
他の誰かと同じ時を共有できないことが、寂しくないと言えば嘘になる。
「おかわり」
「……坊はよく食べるね」
大きな桃をぺろりと平らげ、期待に煌めいた飴色の瞳がこちらを見つめる。
その手に握られていた桃の種を木の根元に放り、代わりに今年実ったもので二番目に甘い果実を持たせた。
どうせ、小鳥くらいしかこの実をつつくものはいないのだから構わない。
「特別……たんとお食べ」
「あんがとよ! すげぇじゃねぇか、おめー」
「そうでしょ?」
人外という認識をしていないのだろうか。
ちょっと特技を披露したくらいの反応に、ゆるゆると頬が緩む。
尖った歯で桃を喰らう様子をジッと見つめていると、なんだか堪らない気持ちになった。
「可愛い、食べちゃいたいかも……」
「んあ?」
柔らかそうな丸い頬に、唇を押し当ててみたい。
どんな味がするのだろう。
人間を食べてみたいと思ったのは初めてだ。
訝しげにこちらを振り返ったその子へ、にこりと笑みを返す。
「んふふ、冗談だよ」
はぐらかすような私の仕草に、飴色の瞳がスッと眇められる。
童とは言え末恐ろしさの籠った眼だ。人間であれば大人でも縮み上がっていただろう。
とは言え私は桃の精。
この程度で怯みはしないと、平然とした面持ちで空に舞う花びらを眺めていた。
*******
「ほら、坊……桃食べる?」
「坊はやめろって、食うけどよ」
寝そべった長い枝を伸ばし、随分と身体が大きくなった彼と視線の高さを合わせる。
右手の上に落とした果実を差し出せば、多少不満げにしつつもしっかりと受け取ってくれた。
大きな口で柔らかい実を齧り、ムシャムシャと音を立てて咀嚼する。
「甘ぇ」
「でしょお? とびっきり甘いやつばかり、君にあげてるんだもん」
あの日迷い込んできた童は、飽きもせず毎日毎日この場所へ通った。
その度に甘い桃を食べさせ、果汁に塗れた頬を拭ってやったり、戦の話とやらを聞いてあげている。
いつか武勲を立てるという話は、今や立てた武勲の数の話に。
大きくなったら私を娶るという話は……そういえばどうなったのだろう。
もう忘れてしまったかな。
「もっと食べる?」
「おう」
桃にも私にも飽きたりしないらしい。奇特な人だ。
出会った時と変わらぬ食べっぷりだけれど、その一口は以前よりもずっと大きくなっている。
ギザギザの歯で砕かれていく果実を見ていると、なんだか不思議な心地がした。
いつかあの桃の果実のように、自分自身が丸齧りにされてしまう予感。
「坊は昔からよく食べるね」
「坊じゃねぇって、長可だ」
言い返す口調は変わらない。
単なる杞憂だろうと、ひっそり胸を撫で下ろした。
どうしたのだろう。人間に警戒心を抱くなんて。
それも、童の頃から可愛がっている長可に。
「……ところで、この木から離れらんねぇんだよな? おめーは」
「ん? そうだよ」
数秒で桃を平らげた彼は、指についた果汁舐めとりながら意味ありげに目を眇めた。
何かを企んでいる時の面持ちだ。
知ってはいるけれど、対策ができない。
一体何を考えているのだろう。年々わからなくなる。
「木の根の長さは?」
「六尺くらいだけど……」
「ほーん、わかったわ」
不安だ。
私が何を言っても、その企てを欠片ほども阻止できないような気がする。
せめて、何を考えているかだけでも探りたいものだけれど。
「今日はもう帰るわ」
「え、もう?」
そんなことを考えているうちに、彼はよいしょと立ち上がっていた。
退屈させてしまっただろうか。それとも、不振がる私に気分を害したとか?
フッと表情を緩めた長可の瞳には、不安げに揺れる自分の瞳が映り込んでいた。
「ちょいとやる事ができた……またすぐに来るからよ」
「うん……」
大きな手が、わしゃわしゃと私の頭の撫でる。
髪の毛が変になってしまうからと普段は頬を膨らますのだけれど、彼が帰ってしまう寂しさからそんな気にもなれなかった。
不貞腐れたように俯く私を見下ろし、飴色は愉快そうに細められる。
全く、どちらが歳上なのか。
「長可、またね」
「おう、また……すぐにな」
念を押すように囁かれた言葉に安堵する。
木の枝に腰掛けたまま、去りゆく背中を見つめ続けた。
長可は約束してくれたのだ。また、すぐに会いに来てくれると信じている。
*******
「ん、ぅ……?」
木の根に包まれてくうくうと眠っていた。温かくて心地のいい場所が、なんだか普段と違う様子。
不思議に思って表に出ると、平原の向こう側にたくさんの人間たちの姿が見えた。
「え……何っ、何?」
白々明けの空を背負って、何十人もの屈強な男たちが欠伸をしながら歩いてくる。この辺りで合戦でも始める気だろうか。
その先頭、血のように赤い髪を靡かせて歩いてくるのは。
「長可……?」
見間違えようがない。可愛がってきた童の姿だ。
ひらりと枝から飛び降り、太い幹の前に立った。私の目の前で立ち止まった彼と視線を交わす。
「起こしちまったか、わりぃな」
「こんな時間にどうしたの? 坊……それもたくさんのお客さんを連れて」
なんだか不穏だ。袖で口元を隠し、最大限の警戒を持って枝を伸ばした。
そんな私の様子を、彼はフッと笑う。
「怖がんなって、約束を守りに来ただけだ」
「え……」
また会いにくるとの約束を、こんなにも大袈裟に捉えていたのだろうか。特に悪意のある様子はないが、腑に落ちない。
そんな私の疑問をよそに、長可はくるりと振り返る。
「よっしゃあ! 傷一つつけんじゃねぇぞ、オメェらぁ!!」
響き渡る野太い号令を合図に、男たちが一斉に桃の木へと駆け寄る。慌てて彼らを振り払おうとすると、目の前に迫った長可に抱き上げられた。
抵抗しようと必死に藻掻く私を、彼はひゃひゃひゃと可笑しそうに笑う。
「長可っ、やめて! なんでこんなことするのっ」
「あぁ? だから、約束しただろって」
背を叩いて抵抗するも、びくともしない。こちらの焦燥などないように、口笛などを吹き始める始末。
「時間かかるな……おう、ちょっと寝てろや」
「っ……」
暴れる私をひょいと抱え直した長可が、ぽつりと囁く。首筋に走った衝撃に驚く隙もなく、意識は闇に引きずられた。
*******
不意に意識が浮上する。見慣れた景色はない。薄暗い部屋に敷かれた布団の上に寝かされていたようだ。
パチパチと瞬きを繰り返し、明瞭な視界を取り戻す。
「なんだ、もう起きたのか」
ハッとして顔を上げると、こちらを見下ろす飴色の瞳があった。笑い声と同時に、枕にしていた彼の腕が揺れる。
「……坊、これはなんのつもり?」
「だから、約束しただろ? おめーを娶るって」
悪びれる様子すら見せず、長可はニカッと快活に笑った。白の寝間着の隙間から、ちらちらと逞しい胸板が覗く。
見下ろせば、私も同じ着物を見に纏っていた。
「私はあの木の側にしかいられないの、一体どんな手を使って……」
「あ? んなもんあれ見りゃわかるだろ」
私の髪を撫でて遊んでいた男が、顎でしゃくった先へ視線を向ける。
開け放たれた大きな窓から、ひらりと桃の花びらが舞い降りた。ガバッと身を起こし、駆け寄る。そこにあったのは、確かに自らの半身であった。
「な、なんで……」
元からここにいたかのように、さわさわと風に揺られている。唖然として立ち竦む私の背後に、ゆっくりと長可が歩み寄った。
びくりとして身を離そうとすると、足首が何かに引っ張られる。見れば、鎖で部屋の中央の柱に繋がれていた。
愕然とする私の首筋に鼻先を埋めた長可が、甘えるように囁く。
「ぁ、坊……」
「坊はやめろって、お前の旦那になる男だ」
太い腕がお腹へと巻きつき、きゅっと力が籠る。背後に感じる熱に顔が熱くなった。
もう、男の……いや、一人の雄なんだ。
別に嫌ではない。可愛い長可の望みなら。
「長可……」
自分でも驚くほど艶を秘めた声色に、彼が口元を緩めるのを感じた。