①
今日は散々な朝だ。
息子の幼稚園が急に休みになって慌てて実家に連絡したり、やっと出られたと思ったら、今度はとんでもない大風。ジェットフライヤーは風に煽られるし、窓にどこかから飛んできた新聞紙が引っ掛かって事故を起こしかけた。
俺は何とか大学に到着してジェットフライヤーを駐車場に停めると、今日の打ち合わせのある演習室に向かった。
この大学のジェットフライヤー用の駐車場は幸い、理学部棟の三階に設置されている。おかげで建物を移動しなくて済む。演習室は一階だ。
実はもう打ち合わせ開始の時間は少し過ぎている。でもこんな風の強い日だ。教授をはじめ、ほとんどのメンバーは遅れて来るはずだ。
俺は申し訳程度の駆け足で階段に向かった。その時だった。
上階の踊り場から孫さんが慌てた表情で、俺のいる階までたった一歩で飛び降りてきたのだ。階段にいる学生たちも驚いた表情で見ている。周りの反応から見ても、きっとこの調子で上から降りてきたに違いない。
「ちょ、ちょっと孫さん、危ない!」
「うわ、ごめん!」
孫さんは勢いを殺して、俺の前に止まった。
そしてもう一度、俺の顔を見る。
「あれ、打ち合わせ、もう始まってるんじゃ?」
「そうですけど、この風じゃどうせみんな遅刻ですよ」
ぽかん、とした孫さんの顔。
俺は続ける。
「孫さんだってジェットフライヤーでしょ? 俺も今日風に煽られて大変でしたけど、遠くから来てる孫さんはもっと大変だったんじゃ。」
孫さんは二三度目をぱちくりとしばたかせると、「あ、うん」と間の抜けた返事をした。
「絶対教授もまだ来てませんから、一緒にゆっくり行きましょ。」
そう言って俺は孫さんの腕を引いた。
本当は孫さんがジェットフライヤーで通っていないことは知ってる。駐車場は三階。それより上階から降りてくるなんてことはないはずだから。
多分、屋上から来てるんだろうと思う。どんな手段を使ってるかは知らないけど。
「孫さん」
「え、なに?」
「階段はどんなに急いでても最大でも二段飛ばしまでにしましょうね」
「な、なんで。」
「その勢いで人にぶつかったら危ないでしょ? できたら一段飛ばしまで。」
「のぼりは?」
「のぼりもです。」
「…うん、わかった。気をつけます。」
今までこんな調子で何の問題にもならなかったのが不思議で仕方ない。
本当に世話が焼ける人だ。面白いからいいんだけど。
「あとそれから」
「え?」
「頭に木の枝と葉っぱ、ついてますよ」
もしかして空でも飛んできてるんじゃないだろうね。まさかな。
②
研究室内の小さな研究会で、俺と孫さんはこの前の夏期休暇中に行ってきた砂漠での調査の報告をした。
調査内容やその成果については良い議論ができた。今後の分析についても、教授から良いアドバイスがもらえた。
しかし最後に、事前の予定より日程がだいぶ延びていたことを突っ込まれた。
無理もない。砂漠での調査期間の延長は、すなわち生命の危険を意味する。
「幸い、オアシスを発見したので、そのすぐ近くに拠点を構えたんです。」
俺がそう言うと、孫さんが「えっ、オアシス?」と言ってこちらを見た。
俺は孫さんを睨んで小さく首を振った。こういうことは時々ある。「俺に任せて黙っていて」の合図だ。
「水辺に集まる動物を孫さんが仕留めてくれて、それを食料にしました。」
孫さんが見た目によらず人並み外れてパワフルでワイルドなことは、田舎育ちで子ども頃に格闘技をやっていたという理由で、そろそろみんな納得するようになっていた。だからちょっと無理はあるけど、食料調達はこれで説明がつく。
「それと幸い、回転草がたくさん流れてきたんで、それを燃料にしました。」
「だけど君たち、無理はいかんよ。今回はいろいろと幸運が重なったようだが、砂漠での調査は命の危険と隣り合わせだからね」
少々教授からお小言をもらったが、幸いなんとか切り抜けることができた。
「オアシスってどういうこと?」
研究会の後に孫さんがそう俺に声をかけた。
「そう言ってなきゃ、ほかにどう説明したんです? 水も食料も砂漠の外から持ってきたなんて言ったら大騒ぎですよ」
水や食料の調達はいつの間にか孫さんがしてくれていたから、実際にどこから持ってきたのか俺は知らない。
それでもオアシスに反論しようとしてたということは、人に言えない方法であることに変わりはないだろう。
「だいたいあの肉、どうやって焼いてたんです?」
孫さんの目が泳いだ。まずい。追及するつもりはなかったんだけど。
「ま、孫さんが嘘つくの下手なのはわかってるんで、そういう役は俺に任せて」
「うん? あ、ありがとう、かな?」
「いえ、次の調査もよろしくお願いしますね、孫さん。」
ヒヤヒヤすることも多いけど、この人との調査は単純にスムーズに進むし、何より面白いことがたくさんあるのだ。
③
「なんだこれ?」
俺の目の前で、酔った孫さんがムニャムニャ言いながら横たわっている。
その下には金色のふわふわの物体?がある。
そしてそれは、宙に浮いていた。
ここは人気のない公園。
飲み会で酔った孫さんを退出させて、ここまで引きずってきた。
俺も、誰にもケガはないけど、ここに来るまでに孫さんは地面にたくさん穴をあけた。下が土だろうがアスファルトだろうが関係ない。孫さんが楽しそうにステップを踏むたびにそこがひび割れ、穴が開くのだ。
俺は孫さんの顔に自分の上着をかけて、無理やりここまで引っ張ってきた。
街を離れるまでは異様な目で見られたし、警察を呼ばれてもおかしくなかった。
しばらく孫さんは千鳥足で公園の土のあちこちをひっくり返すと、突然、何か叫んだ。「キントン」とかなんとか言ったと思う。
空の彼方から金色の綿菓子のようなものが飛んできて、孫さんはそこに飛び乗った。そしてそこに腹這いになると、そのまま眠ってしまった。
この金色の雲のようなこれはなんだろう。触ってみようとその端に手を伸ばすが、すり抜けてしまう。なぜ浮いていて孫さんの体を支えられるのかわからない。
ひとまず、こんな奇怪な様子を誰かに見られてはまずいと思った。
俺は孫さんの体をそっと押して(見た目よりはるかに筋肉質でいつもびっくりする)、ベンチのあるところまで動かした。
こうすればかろうじて、ベンチの上の金色の綿か何かの上に寝そべる人、に、見えなくも……ない。多分。
さて、ようやくおとなしくなった。それにしてもどうしたものか。孫さん自身の連絡先は知っていても、自宅や家族のは知らない。
教授に電話すればもしかして、いや、宴会が盛り上がっていて、きっと教授も気づくまい。だいたい気づいたとしても、宴会の邪魔をしたら機嫌を損ねてしまうかも。
気は引けるけど、孫さんのポケットからスマホを拝借するしかないか、そう思っていると。
公園の奥のほうから、やたらと背の高い人影が近づいてきた。
暗くてよく見えないけれど、マントとターバンをつけた不思議な服装をしているし、近づくにつれてその人の肌が、緑色をしていることがわかった。
その人間とは思えない姿に、俺は慌てて孫さんを揺り動かした。
「孫さん、孫さん! 起きて!!」
しかし孫さんはむにゃむにゃ言うだけで起きやしない。俺は足がすくんで動けなかった。
「おい悟飯、何してやがる」
見た目に違わず、ちょっと渋い声だ。
孫さんのほうを見て苦々しげに言ったかと思えば、今度は俺を見た。
「ひぇっ」
「迷惑かけたな。これもコイツがやったんだろ? ケガはないか?」
辺りの穴だらけの地面を見ながら、その人はため息をついた。
「はい、孫さん、一人で楽しそうにこの辺ウロウロしてただけなので、ケガとかは何も……」
「目立たない場所に連れて来てくれたんだな。感謝する。」
その言葉で俺は理解した。
この人、「向こう側」の人だ。孫さんの仲間だ。
孫さんとは大学生からの付き合いで、前からちょっと浮いている人ではあった。
うちの研究室はいわゆる専門バカが多いせいか、あまり孫さんの奇行が問題になることはなかったんだけど。
孫さんのプライベートは、家族構成以外ほとんど謎だった。同じ子どもを持つもの同士、子育ての話なんかもしたいと思っていたけど、具体的なことを聞かれるのを好まないようだった。
孫さんの向こう側には、まるで別の世界があるように感じていた。
だから俺はとっさに、「こちら側」の役柄を完璧にこなそうとした。下手に疑問を持ってる風を出してはダメだ。
「まったく、孫さんてば本当に怪力なんだから、困っちゃいますよね」
「怪力?、あ、ああ。」
「ところで、あなたは? 孫さんのお知り合いで?」
「知り合い、まあ、そんなところだ。ええと、コイツの妻のビーデルに頼まれてここに来たんだ。」
事態が少し見えてくると、俺はちょっと意地悪な気持ちにもなっていた。
「こちら側」の人間には、相応の身元確認が必要なのでね。
「証拠はあります? 俺も孫さんを預かってきた以上、誰にでも簡単に引き渡すわけにはいかないんでね」
「わかった、ビーデルに電話してみよう」
そう言うとその緑色の人は、腰帯からスマホを取り出した。
そのスマホには、最近人気が出てきたペネンコというキャラクターのケースがかけられている。
ちょっと強面の持ち主と、ゆる系のキャラクターが不釣り合いすぎて、俺は思わず吹き出しそうになった。というか、スマホを持っていること自体驚いた。
その人は恐々といった感じで左手でスマホの縁をつまみ、右手の一本指で操作をしていた。あまりに不慣れな手つきだ。
「俺、やりましょうか?」
「いや、いい。自分で使わんといつまで経っても慣れないんでな。」
それこそ三分ほど要しただろうか。ようやく電話が繋がったようで、画面の向こうに女性の姿が映った。教授の還暦記念パーティーで一度会ったことがある。孫さんの奥さんだ。
「あっ、ピッコロさん、こんばんは! どうしました?」
「悟飯のやつ、飲み会で酔いつぶれたようなんだ。今は親切な仲間が介抱してくれてるんだが、今から俺がそっちに連れ帰ってもいいか?」
「あらやだ、またなの? ピッコロさん、すみません。」
緑の人、ぴっころさんと呼ばれた人は電話を切ると、俺に言った。
「どうだ。これで問題ないか。」
「そうですね。確かにあなたが、孫さんの知り合いだってことはよくわかりました。」
ていうかさっき、「ビーデルに頼まれてここに来た」って言いましたよね。言ってることが違うし、そもそも孫さんをどうして見つけることができたんでしょうか。
まあ、俺のことを「親切な仲間」って言ってくれたことに免じてここは見逃すことにしましょう。…なんて、もともと追及するつもりなんてないけど。
「じゃあ、暗いので、お気をつけて。」
「ん?」
「ジェットフライヤーで来たんでしょ? 夜は事故も多いのでね。」
「あ、ああ。気を付ける。」
俺は早々にそこを立ち去ることにした。
「じゃ、俺帰るんで。孫さんが起きたら言ってあげてください。あんまり気を許しちゃダメだって。」
ぴっころさんと呼ばれたその人は一瞬怪訝な顔をしたが、「いいや、問題ない」と、さっきより少し明るい声で返した。
「お前は多分、いいやつだ。」
しまったな。最後に余計なことを言った。
でもいいやつと言われて、嫌な気はしない。
今までみたいに孫さんに構っていたら、このぴっころさんにもまた会う機会があるかも知れない。
そんな風に思うなんて、俺もずいぶん単純らしい。