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    いかふらい

    @Ikafurai_SuduKe
    かきかけ置き場 基本男男 攻の可愛さと格好良さとしんどさと情けなさとか諸々を引き出す天才と書いて受と読む

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    いかふらい

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    🦈は自分がいてもいなくても変わらないけど急にいなくなったら多少なりとも傷つくだろうし、帰れたらあっちで永住しようと思ってるから自分のことを忘れた方が🦈は幸せだろうな、と一人で勝手に結論づけた🦐と、まともに抵抗もできずに後生大事に抱えてやろうと思っていたものを奪われる🦈のはなし。(23/02/12)

    七日後には忘れてるから立つ鳥跡を濁さず忘却の海に沈む立つ鳥跡を濁さず
     黒と赤、それと白で統一された部屋に、ハキハキとした壮年の男の声ともう一つ、若い男――ユウの声が響いている。落ち着いた雰囲気のこの部屋で男が二人、世間話を交わしていた。部屋へと案内してくれたスタッフが、この大柄な壮年の男が店主だと教えてくれた。
     天気の話から近況といった、恐らく店主の興味を唆らない話題ばかりであるが、ゆるりと弧を描く口元から察するに気分を害してはいないらしい。うーん。ユウが巧みな話術を身に着けていたのならより楽しませられただろうが、生憎と持ち合わせているものは隣に住むおばさんと同程度のもの。これ以上を求められてもどうにもできないのだ。なんでも久しぶりの客だそうで、人と会話するだけで満ち足りるのだと店主は言った。楽しんでくれているのなら良かったと思う。
     中々怖い見た目をした店主は、力を奮う事よりも口喧嘩が得意だとユウがその強さを尋ねた時に話した。厳つい風貌を誤魔化すためにサングラスをかけているらしいが、それがより一層物騒な雰囲気を醸し出している。昔は街に買い物に行くとすぐ絡まれたらしい。店主の風貌を見れば納得できる気がした。
     アズール先輩もそうなのだが、商売人は話題に事欠かないのか話題も興味を唆られるものが多い。ゆったりと紡がれる音を耳に入れ、相槌を打つ動作をユウは繰り返していた。一つの動きを反復する人形にでもなった気分だった。
    「少々分かりにくいでしょう、この店」
     店主が先程よりもいくらか小さな声でユウに問いかける。
    「あー……そうですね。紹介されないと分からないと思います」
     ユウもつられて声を潜めて返した。
     狭い道を進み、一時間ほど。壁に貼られた魔法陣のようなものに触れると、丘の麓にひっそりと建つこぢんまりとした家を見つけた。それがこの男性が経営する店である。なんとまあ凝った場所に設置したもんだな、と重く感じる足を撫でながら思った。
     この場には、魔法具の買い取りをするために来た。この店が主に取り扱っている商品は、オーダーメイドの魔法具である。ユウは今日という日までずっと、魔法具を購入するため節制してきたのだ。ユウは魔法具に関して多く注文をつけた、新規の客である。恐らく……いや、絶対に代金は高いだろう。とうに文無しになる覚悟はできていた。
     この店に来たのはアズールの紹介でだった。必死に頼み込むユウを見かねて、仕方ないと言わんばかりの態度で住所を教えてくれたのだ。フロイドと自分の将来のため、と言ってお願いしたのが良かったのか、お気に入りの店を紹介してくれた。「腕が良いので僕も贔屓にしていますよ」と笑ったアズール先輩は、ユウが探している魔法具のことは知らないのだろう。少し胸が痛んだ。
     意を決してやって来た場所は存外綺麗なところで、ユウの黄ばんで所々ほつれてしまったシャツが不似合いだった。今ややり手となったアズールが気に入っているだけあって、商品の質だけでなく、従業員まで良いものだった。
     予め買い求めるものを決めてあったため、ユウ達はすぐに詳細についての話し合いに移った。黒めの茶に白髪交じりの男が、その身にそぐわぬ慇懃な言葉遣いでユウに説明を始める。使用方法、効果範囲、対象、などなど。対象や範囲を絞ると効果が強くなるようだ。いつか読んだ呪術の本を思い出した。
    「条件は何に致しましょうか」
    「僕の声を一週間聞かなかったら、でお願いします」
    「承知しました。では少々お時間をいただきますね」
     長いソファから立ち上がった店主はその足を背後へと向ける。見えていなかったけれど、向かいには扉があったらしい。照明が暗いのもあるだろうが、一番の理由はその扉の色だ。端から何まで全てが黒い。取手だってそう。おお、と目を見開くユウを尻目に、店主は壁と同じ色の扉を引いてこの部屋から出ていった。
     静かな部屋に一つの息遣いが残った。ユウは何をするでもなく、じっと机を見つめた。
     これでいいのだろうか。やはりフロイドに相談したほうが……でも、相談したら絶対に彼は止めるだろう。強く、逞しい彼は自身が他人のせいで損なわれるのを嫌う。きっと、力ずくで止めてくる。ああでも、これが終わった後なら伝えたって構わない。もうフロイドにはどうしようもないのだから。
     脳内に青い長身を描くと、不思議と笑みがこぼれた。彼を泣かせてしまうのは本意ではない。だから、その時間が少しでも短くなるといい。ユウのために貴重な時間を消費するなんてしてほしくない。こんな自分のために。この考えは変わらない。例えフロイド自身が拒否したとしても、だ。
     意思を再確認したユウが顔を上げると、店主がちょうど扉を閉めていた。台に円柱状の物を乗せ、ユウが腰掛けたソファの隣へとやってくる。ユウと目を合わせ、店主が口を開いた。
    「完成しましたよ。お客様のご要望の品はこちらです。条件である『お客様の声を一週間聞かないこと』を満たすと、そちらの魔法具の効果が発揮されます。後はもうスイッチを押すだけとなっていますので、お気をつけて」
     どうやら準備万端にしてくれているようだ。これから頼もうと思っていたので有り難いが、もしやそれを想定してのことだろうか。魔力がない事を知っているのかもしれない。話す手間が省けた嬉しさで口角が上がる感触がした。やはりアズールに頼んで正解だった。
    「……そうですか。もしかして僕に魔力がないことまで知ってたりします?」
    「ふふふ。どうでしょう。ある程度の情報はこちらでも集めている、とだけ言っておきましょうか」
    「いやあ、本当何から何までありがとうございます。料金は張るでしょうね」
    「ああ! それでしたらアーシェングロット様からすでに頂いております」
    「え。そうなんですか。こりゃでかい借りを作っちゃったなあ」
     ケラケラとおかしそうに笑いながらカチ、とボタンを押した。これで発動したのだろうか。男の方を窺うと、なにやら目を細めている。営業スマイルというやつだ。何も言わないため、恐らく発動しているのだろう。
     おいしょ、と節を付けて立ち上がり、先程机に運ばれたばかりのそれを床に叩きつける。ここで売られている魔法具は破壊された後もその効果を発揮できると聞いた。アズールのお墨付きである。魔道具自体が残っていたらいつ解除されてしまうか不安で仕方ないという、ユウと似た考えを持つ人達の要望で作られたのだとか。ルーツを聞いて自身の幸運さとともに注意力の無さを感じた。足元には数瞬ほど前に僕が壊した魔法具が落ちている。鋭い破片が散乱していて、下手に動けば足に刺さってしまいそうだ。そう、魔法具の破片。繊細で美しい細工が施されていたそれは、今では見るも無惨な姿になっていた。壊すのを躊躇わせるためにこの技巧を凝らしていたという店主の発言に、なんとも形容し難い気持ちになった。反省すべきか誇らしげにすべきか。そういえばいつだったかエース達に、お前の顔じゃそうとはとてもじゃないが見えないと言われた記憶がある。懐かしい。随分と前のことのように感じた。
    「はあ……」
    「本当によろしいのですか。条件を満たしてしまえば一片たりとも残りませんよ」
     説明後すぐに発動させ破壊したユウに驚いたのか、店主は眉を上げ口元に手を添えていた。今更ですが……と一拍置いて忠告をする店主の困った顔に既知感を抱く。心配でもしてくれたのだろうか。アズールの紹介というだけで、その類の情といったものがないように感じられた。実際、後から文句をつけられるのが面倒で口にしただけだろう。自分はきちんと言った、とするために。いくら先程まで世間話していたといっても初対面であるし、あちらは商売をしているのだから、そんなものだろう。それくらいが気楽で良い。

     ああ、そうか。小首を傾げ毒を吐く男を見て気づいた。ジェイド先輩に似ているのだ。何でもない顔をして物騒なことを言うジェイド先輩と、一見荒くれ者に見える店主がかぶって面白い。口の端を持ち上げて分かっていることと感謝の旨を告げると、手を胸に当て軽く頭を下げて男が返した。あとは生活用品に気をつけるだけだ。
    「いえいえ。私共は勤めを果たしただけですので」
    「じゃあ、これで。……多分もう二度と来ませんけど」
    ――またのご来店をお待ちしております。


      ◇


     ユウはいつか、この世界から弾き出されるだろう。来た時が急だったのだから、きっと何もしなくてたって帰りもそうなる。そう思って、学園長に聞いても芳しくない帰還方法の調査に望みを賭けるのをやめ、じいっと来るその時を待つことにしたのだ。ユウはこの世界にとっては異物だ。魔力がないことが問題なのではなく、異世界から、しかも無断でやって来た、というのがいけないのだと思う。
     誰かが召喚なりしていたならば移植された臓器のような立場に立っていたかもしれないので、どうしてここに来てしまったのかが分かっていなくて本当に良かったと思った。ユウが異物のままで、この捻れた世界の免疫のような作用がちゃんと機能してくれたなら、近いうちに帰れる。そう考えていた。
     だから、フロイドに告白された時もはっきり「無理です」と言ったし、長いこと迫られてもいい反応を返さなかった。返せなかったと言ったほうが適切かもしれない。ユウは一丁前に、浅葱色の髪をした眩しい彼を傷つけることを恐れていた。今も怖がっているがそれは置いておこう。
     そんな迷いを些事と捉え、関係なしに誑かしてくるのがフロイドだった。彼は言ったのだ。
    「小エビちゃんを傷つけねぇから。嫌がることなんてしねーし。だからオレの傍にいてくんない?」
    「オレに新しい感情を教えてくれた小エビちゃんみたいに、オレも何かあげたい」
    「一緒にいて楽しい、って思ってほしーのは小エビちゃん…………と、アズールとジェイドだけだよ」
     怖がっていることを察してそう言ってくれたのだろう。少し勘違いをしていて噛み合わない所があったが、それが言葉にできないくらい嬉しく感じた。
     結局の所ユウは、フロイドが傷ついてしまう可能性よりも自分の幸せを取ったのだ。フロイドはそれを笑い飛ばしたけれど、彼が知らないだけで、実際は傷ついている可能性だってあるし、黙視できないほど細かな傷を負ってしまう懸念だってある。生き物の心というものは、得てして誰も管理できないのだから。自己嫌悪に多々陥ったが、それでもあの選択を後悔したことはない。これからユウがフロイドの傷つく時間を減らしていけばいいのだから。

     私物は少ないほうが良いだろう。いつ帰ってしまうか分からないのだから。生活必需品だって必要最低限で良い。残っていたってどうしようもない。ユウの痕跡がそこらにあればあるほど、フロイドは傍に僕がいないことを感じてしまう。きっとフロイドなら乗り越えられるだろうけど、それまでの間は苦しむことになる。そうなってほしくないのなら、痕跡を全てなくしてしまえば良いのだ。そうしたらフロイドが悲しむ期間が短くて済む。我ながら良い案だ、と自画自賛して断捨離のようなものを続けた。
     その一貫としてユウはアズール先輩に懇願し、ある魔法具を手に入れた。とはいえ自分のものにした瞬間に壊してしまったので、手に入れたとは言い難い。
     傲慢な考えだと自分でも思う。ユウの存在がフロイドの中で大きいと自惚れているわけだし、これでフロイドが楽になると思っているわけであるから。彼が知れば侮られたと憤慨することだろう。そんな意図はないが、フロイドもその能力相応にプライドが高い。そういったものに敏感だ。だが正直、申し訳無さは感じていない。自己満足に付き合ってほしい。

     ガチャン、と大きな音を立ててカップが落ちた。床に茶色の液体が広がっていく。
     シミができてしまったら修繕費とか払わなきゃいけないんだっけ。
     知らない男の後始末をフロイドがしてくれるとは思えないけれど、指先のないユウにはもうどうしようもなかった。
     最後の最後で迷惑をかけてしまうなんて、全く嫌な恋人だ。ちゃんと忘れてくれたら良いなぁ、僕のこと。
     などと考えている間にもどんどん体が消えていく。遂にもとの世界へと帰る日がやって来たみたいだった。ポゥ、と体が末端から光っていき、瞬きの後にはもう跡形もなくなる。分子レベルで解体されている気分だ。そのせいで先程カップを落とし、中身を溢してしまった。もうちょっと遅くに始まるか、一瞬で終わってくれた方がよかった。なんとも都合が悪いときに始まったもんだ。

    忘却の海に沈む
     なにもないいつもどおりの朝。いつもどーり出勤して準備してたオレを、部下が呼んだ。もう少しで開店するというこの時間に、電話がかかってきたらしい。仕事中かもしれないと誰だって遠慮する時間だ。と言ってもオレ個人の携帯にかけてくる奴はそんなことは気にしないが。
     まあだから、恐らくその携帯にかかってきたんだろうと思ってオレは、鋭い舌打ちを裏へと繋がる通路で響かせたのだ。指示していないからか未だに目の前に立っている部下の顔色が段々と悪くなっていく。あーあ、かわいそ。鼻で笑い、もういいと下がらせた。自分のせいだと分かっているが勝手に怯えるコイツが悪いだろう。当たり前だ。
     無視しても良かったが、一言文句でも言ってやろうとスタッフルームへ向かうことにした。オレの荷物もあそこに置いてあるのだ。一通りの指示を出してその場を離れ、足早に去る。昨日小エビちゃんに電話をかけても出てくれなかったので、オレの気分は損なわれていた。一昨日は出てくれたからまだマシだけど。これで今日も出てくんなかったら直接部屋に突撃してやろう。一週間に一回は声を聞かないとダメって言ったのは小エビちゃんの方なのに。明日会うからってサボって許されると思うなよ。
     今はそんなこと置いといて。電話の相手への対応を考えよう。オレ個人のもしくだらない用事だったらすぐ切ることに決めた。
    「先輩ですか!!?」
     出た途端に大声でそう声をかけられた。聞き覚えのある声だった。
    「めずらしーね、サバちゃんが電話してくんの。てか教えてたっけ?」
    「エースは他の用事をしてるので、僕がエースのスマホを借りてるんです。……その、先輩。ユウのいる場所って知ってますか」
    「電話かけてみりゃいーじゃん。なんでオレに聞くんだよ」
     わざわざオレに聞いているところから何かあったのだと察する。そうじゃなきゃオレを介す意味がない。小エビちゃんと連絡が取れなかったのだろう。昨日のオレみたいに。思い出したら腹の底に押し込んでいた怒りが沸き起こってくる。ちょっとだけ八つ当たりしても
    「お願いです。知ってるのかどうか教えて下さい」
    「小エビちゃんになんかあったの」
    「その、」
    「言えよ。何、言えねーの?」
    「っ、――昨日、約束してた時間にユウが来なかったんです。アパートに行ったらコップが落ちてて、それでユウと連絡が取れなくて。一日中探したんですけど、ダメでした。先輩なら何か知ってると思って、ッ!」
    「は、っ。言って良いことと悪いことがあるでしょ。ふざけてんじゃねーよサバごときが そんだけ? 一人になりたくなっただけじゃないの?」
    「ふざけてるのは先輩の方だ!! 。っふー……すいません。全部本当なんです。エースも僕も手当り次第連絡取ってみてるんですけど、全部ダメで。だから、もう一度聞きます。先輩はユウがどこにいるか知りませんか 誤魔化さないでください。コップが落ちていたし、それに……嫌な予感がするんです」
     切羽詰まった、いかにも焦った声でサバちゃんが言い募る。あまりにも突然で、揶揄ってるんじゃないかと疑うオレを彼は怒鳴り付けた。真摯に、心の底から心配なんだって声色で。
     え、何だよ。騙そうとかそーいうのじゃないの。ほら、たまにするじゃん小エビちゃん達って。ちょっと前もさ、あんなことしてきたじゃん。ぐるぐるとそんな考えが頭を巡る。だってやなんでみたいな言い訳じみた言葉ばかりが脳を支配していた。そんなこと信じたくなかった。嘘だと言ってほしいと思ったのだ。懇願にも似た言葉を以ってオレはサバちゃんへと声を発した。ね、そう言ってよ。今なら怒んないから。早く。
     だってオレ、約束したもん。明日って、小エビちゃんの誕生日祝うって。でもいつ帰るか分かんないって小エビちゃんも言ってたし、でも。嘘、じゃないの。まだオレなんにも準備してないのに。

     6/12 9:28

    「約束って?」
    「飲みに行く約束です。久しぶりに会おうって話になって、ちょっと早めに集まって飯でも食べようって」
     最後に声を聞いたのはいつだったか。昨日は朝から忙しかったから、仕事が終わってから電話をかけようと思っていた。その前の日、十日はそうして声を聞いた。だけど昨日は出てくれなくて。だから厳密に言えば十日の午後……何時だったか忘れたけどそれくらいから話していない。なんにせよタイムリミットは近づいている。
     はやく、早くしないと。怒るのなんて後でいいから、すぐに見つけて声を聞かないと。――オレから小エビちゃんがいなくなっちゃう。


      ◇


     小エビちゃんのバイト先に行った。「知り合いならちゃんとシフト通りに出てくれって言っといてください」と言われた。なんの連絡もないが一向ににやってくる気配がないため困っていたらしい。サバ達と同じだ。小エビちゃんがいないということがどんどんと現実味を帯びていく。
     全部口先だけだった。オレの覚悟も、小エビちゃんのあの言葉も。残してくれるって言ったのに。忘れさせないって約束してくれたのに。

     6/17 18:42

     ぱちん。どこかで何かが弾ける音がした。音が消えて目の前が真っ暗になる。考えることすら億劫なオレは、ただ座って見えもしない床を眺めていた。どうしてないんだろう。そんなことを思った。滲んだ視界が闇で染まって、ぐわんぐわんと頭が揺れる。実際は揺れてないのだろうけど、そんな表現がぴったりだった。ぐるぐると何かに頭をかき回されているような気分で不快だ。気持ち悪さが胸に溜まって、尚の事嫌だった。それでもオレの体は動かない。今のオレにはその理由は分からないんだろうな。なんとなく、そう思った。
     闇に慣れてきた頃、目に古びた壁が映った。時計もインテリアも何もない壁。オレの隣には誰もいない。それはそう。だってオレは一人で……んん? 何。なんだっけ。オレは何を考えてたんだろう。
    「……っ、ゔ。オレ――ってここどこ!?」
     叫んだ勢いで視界がぐにゃりと歪む。どうやらオレは泣いていたらしい。頬を冷たい液体が伝う。そういえば、頭がぼんやりしていて鈍い気がする。いつから泣いていたんだろう。だるい体を引きずって窓へと向かう。外を覗くと、茜色の空が見えた。湿った臭いがするので雨が降っていたのだろう。錆びついたちゃちな手すりから水滴が落ちていた。随分と長く泣いていたみたいだ。頭が重い。オレはこんなにも泣けたのか。少し感慨深く思った。
     オレはここを知らないし、来た記憶もない。昨日はジェイド達に早く寝ろって言われて寝たんだよね。そういや、なんで寝ようとしなかったんだろ。なんでだっけ。ゲームしてたから……? 多分そうだと思う。
     誰かが意識のないオレを連れて来たんだろうか。それにしては痕跡がなさすぎる。靴を履いていないことしか手がかりがない。その靴だって玄関で見つかったし、ついでに言えば泥がついていた。オレの最近のお気に入りの靴だ。最近って言っても一年前ぐらいから使ってる。結構長い。オレにしては珍しいんじゃないだろうか。んー、どこで買ったんだっけ。縁が傷んでるから直さないと。店で聞いた方が確実だし今度探そう。壊れる前に見つかったら良いな。手入れはちゃんとしてた気がするけど、雑だったのかも。それも聞かなきゃ。
     なんとなくここで靴を履くのは憚られて、そっと玄関に靴を戻した。そー。オレは自由に動ける。何故か拘束されていないのだ。それにポケットの中にはスマホがある。多分、この部屋に連れてきた奴はオレが逃げても構わないんだろう。目的を果たした後なのかもしれない。でもオレの体に泣きすぎた以外の不調は見当たらないし、奪われたものもない。それ以外の目的ってなんかあるっけ? 情報を整理しても何も分からない。部屋を漁っても何も出てこなかったし。折角痛む頭を働かせたのにさあ。
     何とはなしに叫んで、腕を伸ばす。なんか疲れた……。ここに留まる理由はないし、取り敢えず家に帰るか。疲れた時は、ご飯でも食べて気分を晴らすのが一番だ。ジェイドも言ってたし、アズールは大体それで元気になる。うん。そうしよう。一応所持品を確認すると、ポケットの中に身に覚えのない鍵が入っていたことに気づいた。オレは鍵なんて家のしか持ってない。……もしかしてこれ、この部屋の鍵? え~~……オレ、自分からこの部屋に来といてそれを忘れて泣いてたの? 意味分かんねえ。
     カアカアというカラスの鳴き声だけが薄ぼんやりした橙の空に響いていた。ここはオレの家から遠そうだ。交通機関の音が一切しないし、人の声もしない。この時間なら店が賑わっているはずなのに。辺鄙な場所まで来たもんだ。帰るの、面倒くさいな……。ジェイド呼ぶか。スマホをポケットから取り出して電源を入れる。ロックを解除してすぐに画面に表示されたのは知らない男。うわ、と画面を操作すると他のものになったから、これはあの、何だっけ。その、写真が見れるアプリだと思う。目が覚める前のオレは、スマホでこの画像を見ていたんだろう。何のためだか知らないが。記憶に残ってないくらいだから、オシゴトにも関係ないだろうし。ホント今日のオレ気味わりぃな。


     ◇ ◆ ◇


    「ねえ、フロイド」
    「何」
    「……、好きだったんですよ」
     ぽつり。小さな声で呟いた。きっと聞き流されるだろうと思ってのことだった。だから頭に思い浮かんだ言葉をそのまま形にして口から出した。なぜだかフロイドが可哀想に見えたから。これは口にしたらキレるやつだ。心の奥に忍ばせておこう。
     興味がないんだな、と誰が聞いても分かる相槌をしたフロイドを横目で窺う。いつものフロイドが、スイスイと指を画面上で泳がせていた。
    「あなた達が面白おかしく過ごしているのを見ていることが」
    「……うん?」
    「二人とも僕の想定外のことを引き起こして、楽しませてくれました。フロイドが溺れた時なんて喉が壊れるかと思いましたね」
    「おい」
    「予想の範囲内にあったことでも、あなた達が楽しそうで僕もどこか楽しくなったものです」
     訝しげな声を上げたフロイドに面白エピソードを話せば、そちらに意識を向けて僕に文句ありげに一言告げる。はっきり言ったとしても直しませんよ。思い出すだけで愉快な気持ちになる思い出を共有しようと思ったのだが、フロイドは全く覚えがありませんと書かれた顔でこちらを見やるから、自分がおかしかったのかと考えてしまう。
     昨日まで……いや、あの部屋に行くまでの彼がおかしかっただけなのだが、隣にいる彼の何事もなかったかの様子に違和感を覚えた。恋人が、結婚まで考えた相手が失踪したのだ。今までの取り乱し方だって異常だったけれど、こんなにもあっさりしているのもおかしい。脳内でガンガンと警報が鳴っていた。これは踏み入っていいものなのか。多少デリケートな問題ではあるが僕とフロイドの仲だ。込み入った話をしたって構わないだろう。そんな思いで次の言葉をフロイドに投げかけた。
    「去年の誕生日にいただいたプレゼントで、一番嬉しかったものはなんですか」
    「え、なんオレが喜ぶようなもん贈られたっけ? あんま覚えてねーや」
    「そうですか」
    「んー……あ、そういえば。金魚ちゃんがくれたプレゼントがさぁ、ちょうどよく靴磨きでウケた気がする。――あれ? でも何がちょうど良かったんだろ」
    「っ……」
    「どしたの」
    「いえ、その……なんでもないです」
    「そ」
    「ねぇフロイド、靴は誰からもいただかなかったんですか? あなたが靴を好きなことは大体の人が知っていますし」
    「そんな記憶ねーけど。ジェイドなんか知ってんの?」
    「……残念ながら」
    「ふぅん? オレ、どんな靴貰ったんだろーね」
    「気になりますか」
    「いや、……なんだろ。忘れたくなかった気がしてさ」
     車の窓から後ろへと流れていく景色を眺める。車内には沈黙が鎮座していた。
     フロイドはどうやら、監督生さんの記憶を失ってしまったらしい。何故なのかは僕達には分からない。あの部屋へ向かったフロイドは何かを知っているみたいだったけれど、異常に取り乱す彼に聞いても要領の得ない言葉ばかりで、僕達は何も聞き出せていないも同然だった。今のフロイドはそれを気にした風もないから今更聞いたところで何も得られないだろう。分かっていることは『フロイドが監督生さんをもうすぐ忘れること』と『それが嫌なら監督生さんを見つけなければいけないこと』ぐらいだ。これでは記憶を取り戻す手がかりを得ることなんてできやしない。何か思い出してくれたら良いのに。
     フロイドがいた何にもない部屋の鍵は、アズール預りになった。鍵がまたフロイドの物になるとしたらそれは、少し前にいなくなった監督生さんがフロイドの元に戻ってきたときだけ。あの鍵がまた、フロイドの手に渡ればいいと思った。
     悲しい訳でもないのに、目が湿っていく感触がする。こんなにも感情的になるとは、全く僕らしくない。フロイドにつられてしまったんだろうか。今のフロイドは、監督生さんを想って泣くことすらできないのであり得ないのだけれど。ああ、なんて可哀想なんでしょう。僕が代わりをしてあげますからね。フロイドは不本意でしょうが、我慢してください。あなたの愛した男のせいです。
     隣に座ったフロイドの頬は、既に乾いていた。

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