エメ光♀ / 爪紅のはなし 穏やかに晴れた日の、澄み渡るような空の色が好きだと彼は言った。
彼が珍しく自分のことを語ったので、その言葉が頭に残ってしまった影響だろうか──今日の私の爪には、空色の紅が塗られている。
クリスタリウムの美容店で爪紅を塗ってもらう時、普段と違う色を所望した私に、店員が驚いたのを思い出した。自分の機嫌を取るためにおしゃれをするのだと、常日頃から言っていた私が、誰かのために爪を塗りたいと言ったのだから、驚くのも無理はないだろう。
実際、私が他人を意識しておしゃれをしたのは初めてのことだった。どうしてそんなことをしたのかは、正直自分でもよく分からない。
ただ、彼が好きな色の話をした時、普段は飄々としている声が掠れていたとか、全てを見透かすような瞳が揺らいでいたとか、そういった彼のいつもと違う一面を垣間見て、酷く動揺したのは確かだった。
目の前に座っている彼の顔を、チラリと見上げる。彼は特に何をしている訳でもなく、テーブルの上に置いてある、葡萄や林檎が入った籠をぼうっと眺めていた。彫刻のように整った顔つきの彼は、何をしていても絵になるので、見惚れてしまうのが少し悔しい。
ペンダント居住館に用意された私室に、アシエン・エメトセルクが訪れるようになったのは、ここ最近のことだ。お互いのことをよく知ろうという名目で始まった逢瀬だった。時々憎まれ口を叩かれるけれど、彼との会話は不思議と心地良くて、戦いで冷え切った私の心を温めてくれる。知り合って間もないはずなのに、なぜか懐かしさすら感じる時もあった。いつ殺し合う間柄に戻るかも分からないのに、この穏やかな時間が長く続けばいいと願う自分がいた。
不意に、琥珀色の瞳と視線がかち合う。私を見つめながら、彼氏は口の端を少しだけ上げた。
その時、私は気づいてしまった。私はおそらく、彼に絆されてしまったのだ。だから、爪を空色に塗ってしまったのも、きっとそのせいだ。そうでなければ、私が誰かのために着飾るなんて、するはずないのだから。
彼はこの爪の色に気づいているだろうか。一緒に紅茶を飲み始めてから、既に1時間以上経過しているけれど、今のところ彼からの言及はない。しかし、それを不満には思わなかった。彼とは一緒にお茶を飲める程度には親睦を深めてはいるが、あくまで敵同士であって、友人とか恋人とか、そんな浮かれた関係じゃない。だから彼から言われない限り、自分からこの爪のことを言うつもりはないし、見せびらかすこともしない──はずだったのに。
彼の唇がうっすら開いた瞬間、何かを期待してしまった自分がいた。
「さて。お互いに話も尽きたようだし、今日のところはお暇させて貰うとしよう」
「あっ……うん、わかった。また明日ね」
思わず声を詰まらせてしまった。怪しまれただろうかと思い、おずおずと顔を上げると、彼が椅子から立ち上がる様子が見える。本当にもう行ってしまうのか──喉から出そうになった言葉をぐっと飲み込んだ瞬間、彼は私に揶揄うような笑みを向けた。
「さっきから、何か言いたげだな?」
心の中を覗かれたのかと思って、心臓の鼓動が跳ね上がる。
「言いたいことなんて、何も……」
「嘘をつくな。今にも言いたくて仕方ないと顔に書いてあるぞ?」
彼は完全に椅子から立ち上がると、テーブルの端を指先でなぞりながら、私の座る側へ向かって移動し始めた。やがて視彼の姿は視界の端から消えて、背後からわざとらしくため息をつく声が聞こえる。突然の彼の行動に戸惑ってしまい、私は背後へ振り向くことが出来なくなった。
「聞かれたことには律儀に答えてやっているというのに……お前の方はというと、私の質問には答える気はないときた。実に不公平だと思わないか? なぁ、英雄様」
彼の吐息が耳にかかり、思わず肩を振るわせてしまった。心なしか、彼の口調は普段よりも熱を孕んでいる気がする。どうして、あと一歩前に踏み出せば触れてしまいそうな距離で、私に語りかけるの? どうして貴方の声は艶めかしくて、それでいて温かいの? 浮かんできた疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡り、私の思考を掻き乱していく。彼の質問に答える余裕など、一つもなかった。
「ほほう、まだ答えるつもりはないか。強情な奴だな……。仕方ない、今日のところは勘弁してやるとするか」
彼の言葉にほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。私の頬に、柔らかい何かが触れた。それが彼の唇であると理解するには、私は少しばかり時間を要することになった。
「これは美しい青空を拝ませて貰った礼だ。ま、ありがたく受け取れ」
反射的に振り返ると、彼の姿は既に消えており──その代わりに、開かれた窓からざぁざぁと雨が降る様子が様子が目に映った。