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    落ちない

    まだ山本にならない3話

     明け方、つんとした鼻につく匂いを感じて目を覚ますと、案の定というか、やはり雨が降っていた。どうやら今日は、一日雨らしい。欠伸をしながらつけた早朝のニュースで、薄手のコートを羽織るようにキャスターが言っている。ハロウィンも終わり、長引いていた夏はようやく吹っ飛んで某百円ショップでは気が早いサンタが顔を出した頃、東京NHIは酷い繁忙期だった。
    クァ、と大きな欠伸をしながら、ビジネスバッグに化粧ポーチを詰める。惰性で焼いた五枚切りの食パンをぱきっと半分にして、口に突っ込む。咥えながら何とかアイブロウを済ませて、やっぱりイチゴジャムでも塗ればよかったかな、と後悔しながらパンを噛み切って咀嚼した後、もう一度頬張った。
    前開きのパジャマのボタンを剥がすようにして外し、カップ付きキャミソールの上にワイシャツを羽織る。今日も、ブラすらつける気力が無い。揺れるほど大層なものは持ち合わせてないし、いいだろう。どうせ今日は、山廃とも会う予定は無いし。
     ワイシャツのボタンをちみちみ止めて、ジャケットを羽織る。NHI職員向けにジャンパーの支給はされているが、ウチの課では皆あまり着ていないように思う。折角ジャケットで皆きっちり揃えてるのだから、自分もそれに、と倣うようにしてジャケットを着るようになったが、そろそろ寒いのでジャンパーにしたい。特に今日は冷え込んでいる気がする。
     スラックスに脚を通して、ボサボサの髪を何とか櫛で梳き、パンを食べきって、手を叩いてパンカスを落とす。ここ数週間続けている生活は妙に手馴れてきた。いつもならちゃんとセットするはずの髪も、適当にひとつに括っただけで終わっている。シャワーを浴びる時間が取れるかすら怪しいので、なるべくワックスは使いたくない。
     ピピピ、と朝5時を知らせるアラームが鳴り、それを止める。歯磨きだけ間に合わなかった、と凹みながらブラシを口に突っ込むと、パンの仄かな甘みがミントとぶつかり、思わず眉をしかめる。マズイ。早く吐き出してしまおうとサクッと口内を磨き、吐き出した。ちょっと短い気がするが、まあいいだろう。
     パンプスに足を収めて、人差し指でかかとを引っ掛ける。チャリ、と音を立てて鍵をフックから取り上げてカバンを肩にしっかり掛けた。扉を開けて、チャリチャリ煩いそれで上下2箇所を施錠し、腕時計を横目で確認する。最近よく乗る電車まで十二分。駅までは徒歩十分。走れば間に合うだろうか。フゥ、と細く息を吐いて、気合を入れる。今日も仕事で沢山走る予定なのに、朝から走らされるなんて。
     ツイてない。……なんて思っても、現実が変わる訳では無い。グッ、とつま先に力を込めてアスファルトを蹴る。日が昇るギリギリで、他に通行人が居ないのが救いだ。こんな姿、人に見られたら死ぬ。舌を噛み切ってでも死んでやる。
    そんな恨み言を脳内で反復させながら、駅までの十分を、気合いで五分まで短縮させた。

    ◾︎◾︎◾︎

     寝不足の身体にムチを打って何とか出勤し、デスクに着くなり行きがけに買ったエナジードリンクを浴びるようにして飲んで、半分ほど残ったそれをドン!と机の上に置いた。
    すると隣のデスクで寝ていた桐生がビクゥ!と肩を揺らして目覚め、キョロキョロと辺りを見回した後、本多と目が合ってそっと立ち上がった。

    「おはようございます」
    「おはよう。また泊まり?」
    「うん。…顔洗ってきます…」

     桐生は時計を見て、少し慌ててオフィスから抜けた。それと入れ違いのように酒井が来て、本多の前に書類の束をドンと置いた。

    「研究所から来た資料だ。ゼファーライトの解剖結果だ。104枚ある」
    「ゔぇっ」
    「メビウスの解剖結果はこっちだ。ここからゼファーライトと重複する記述を全部書き出して因果関係を洗え」
    「ヤダ、ヤダ……」
    「そうしなきゃ分からないだろう……。ゼファーライトとメビウスが交配したと思われる記述があるんだ。マズイぞ、Aクラスが永久的に産まれてしまう」
    「それを探し出して止めろって言うんですか」
    「そう言ってる。既にNHDにも連絡は行ってるからな、すぐに割り出してくれ。今日中な」

     本多は半泣きでその書類の束をペラペラとめくって、圧倒的な文字数に「ヒィン…」と小さく鳴いた。
    こういう計算は本当に地道なのだ。まず重複する記述を抜き出して交配したかどうか、またその個体は交配後の個体か種となる個体なのか判断して、その後討伐しきれていない個体がどこに行ったのか、習性を確認した後に適合されるポイントを割り出す。
    それを、今日一日でやれと申すのか。

    「死んでしまいます……」
    「ハハ、今日帰って寝れただろ、死なねえよ」
    「何徹目ですか…」
    「もう四日は帰ってない」

     酒井は死んだ魚の目をして、ハハ、ともう一度空笑いをすると自分のデスクへ向かい、惰性のように手を動かしてPCのスリープを解除した。もうほとんど自分が何をしているのかは分かっていなかった。
     NHIの繁忙期はこうなのだ。昇進すれば帰して貰えなくなる。古株は特に、帰して貰えない。本多が昇進試験を受け続けずに居る理由の一つがこれだ。本多は無宗教無信仰だが、心の中でアーメンと唱えて酒井を労った。アーメンの意味もよく分かってはいないが。

    「すみません遅れましたあ……」
    「仕事溜まってるぞ」
    「うぇえええ、帰るんじゃなかった、つらい」

     仕事に取り掛かってから数分して、最年少の新人が重役出勤した。茅野は本多と桐生のちょっぴり鋭い視線を受けながらいそいそと自身のデスクに座り、押し付けられた雑務の山に目を通した。研究所への結果報告文書の提出だったり、上層部への予算提出だったり、やらなきゃいけないけどめんどくさいことが茅野に大量に回ってきていた。そういう事務作業を好き好んでやる人は、少なくともこの部署には居ないので。

    「本多先輩、助けてください」
    「無理忙しい」
    「そんなこと言わないでください……」
    「無理」

     本多が冷たくあしらうと茅野はしょんぼりして自身の仕事にようやく向き合った。
    こんなに嫌がっているが、実は茅野の仕事が一番簡単(ただし単純作業なので頭は使わなくてもかなりしんどい)だ。

    「そういや、後でヘルプが来るから。本多の作業分担しろよ」
    「えっ!」
    「いけ好かないやつが来るよ」
    「えっ…」

     その話を始めてすぐ、三度ノックと同時に返事も待たずに「失礼します」と男が入ってきた。
    手入れのされた長い髪を靡かせて革靴の音を響かせながら部屋に入ってくるその男は、ゆるりと口元で軽く弧を描くと、「随分と苦戦してるみたいですねぇ」と小馬鹿にするように言った。
    その男はパッと扇子を開いて顔周りを扇いだ。神奈川NHIの銀杏 喜一郎(いちょう きいちろう)だ。
    本多はソイツをジッと睨むと「居ない方がマシなんですけど」と酒井に向かって声を掛けた。
    銀杏は警察学校時代本多と同期だった男で、二人は本当に仲が悪い。というか、銀杏は本多をからかって遊び、本多はそれがキモくてウザくて仕方がないといった様子だった。

    「ははっ、寂しいこというね文乃ちゃん。久々に会えたのに」
    「キモイ、触んないで。……来たなら仕事して。アンタメビウスの方の資料洗いなさいよ」
    「全くつれないねぇ……どれ、資料を見せてご覧なさい」
    「いちいち顔を近付けるな。…はァ、セクハラで上に報告するわよ」
    「そんな。わたしがいつセクハラしたって言うんだい?」

     銀杏は扇子を口元に当てて驚いた顔をする。本多はそんな銀杏の様子に頭を抱えて、メビウスの資料をガーッとスライドさせて銀杏へ押し付けた。
    銀杏は、山廃と違って好意がない。ただ単に嫌がらせのためだけに顔を近付け、好意的な言葉を吐いて、仕舞いにはキスをしようとする。本多がそれでイチイチ反応するのが面白くてからかっているだけで、銀杏の恋愛対象からは完全に外れている。銀杏は年上のお姉様が大好きなので。
     銀杏は資料を渡されて、大人しく本多の隣に簡易テーブルを持ってきてパイプ椅子を開くと、それに目を通しながら大きな丸眼鏡を着けた。パラパラと紙をめくる音だけがして、本多は「やっと静かになった」と思いながらゼファーライトの資料をじっと見つめた。

    「この記述って、………ああ、やはり……」
    「何?」
    「いえ。クラウド上でゼファーライトの解剖結果は見れたので、行きがけに見てたんですよ。メビウスのこの記述とやけに重なるなあと思って」
    「何処? ……本当だ。胎内の数値は?」
    「異様に高いね。……人の手が加わってるような数値では無いけど、混ぜ物だと思うよ」
    「はー……これは繁殖確定かなあ。生態特徴調べて居住地探すよ」
    「二体とも人間を嫌ってますし、人がいないところ……あぁでも都内の自然公園とかでも発見されてるのか……」
    「メビウスは必ず水辺の近くだから、交配後もその生態は変わらないかも。……都内ならこの辺も怪しいわね」

     本多はパソコンを操作して地図を操作すると、パッと候補に上がった場所を画面に表示させた。
    銀杏はそれを覗き込んで、「その辺のセンサーは反応してる?」と聞いた。が、自分で見た方が早いので、異形生命体管理センターの画面に入り、自動センサーが反応してるかどうか調べる。上から順に調べても何処もピンと来ないが、一箇所だけERRORの表示が浮かんでいた。

    「Aクラスなら、センサーを破壊しててもおかしくない」
    「そうね。……ちょっと遠いわね…銀杏、運転してくれる?」
    「え、いいですけど。文乃ちゃん運転出来ないの?」
    「私NHIでもう三台廃車にしてるけど隣乗りたい?」
    「アハハ、喜んで運転させてもらいます」

     銀杏は笑いながら本多から鍵を受け取った。二人は一声かけて、そのまま怪しいと思われる現場まで向かう事にした。
    本多は助手席に座って二分。カップ麺が出来上がるよりも早い時間で、ウトウトと船を漕ぎ始めた。
    寝不足が祟ったのだろう。同期だと言うのも相まって遠慮もせず大きな欠伸をすると、銀杏は苦笑いをした。

    「寝ててもいいよ」
    「バカ。警察が移動中寝て許されるわけないでしょ」
    「外から見て警察車両って分からないし大丈夫ですよ」
    「……それもそうね…」

     本多はちらりと到着予定時刻を確認し、まだ三十分以上あるのを確認すると、大人しく銀杏に甘えることにした。
    少しだけ座席を倒し目を閉じ、それでもいつでも無線を取れるように意識は完全に落とさないように。軽く目を閉じているだけだが、それでも随分と楽だった。

    「無防備ですね、男の前だってのに」
    「アンタの好みじゃないのは知ってるからね」
    「アハハ」
    「あと私彼氏居るから。手ェ出したら殺されるわよ」

     本多は目を閉じながら言った。銀杏がどんな顔をしているかは分からないが、小さく「えっ」という声がして、以降はただ黙っていた。銀杏は「文乃ちゃんに彼氏……?可哀想に、妄想と区別がつかないほど疲れてるんだね……」と思いながら本多を哀れみの目で見た。本多は警察学校時代、何度も銀杏を負かしていた。座学でも実技でも、とにかく銀杏は勝てなかった。座学はともかく、実技もだ。そんな粗暴な女に惚れる男がいる? 信じられるわけがなかった。仮に本当に付き合える人間がいたとして、それはヒトよりゴリラに近いんじゃないかとさえ思って。……口には出さず、ただ黙って車を運転した。
     その相手が、いつもとんでもなく馬鹿にしている山梨の男だとは知らずに。

     ◾︎◾︎◾︎

     本多が本格的に眠気に負け、すぅすぅと規則正しい寝息を立てた頃、銀杏は目的地の駐車場に到着していた。起こしてもいいが、疲れているだろうしセンサーを確認するだけだから、と銀杏は一人で車を降りて、センサーの設置ポイントまで歩いた。
     平日で人通りは無く、ガラガラの遊歩道に沿って園内を歩いた。小さな池の近く、防犯カメラに擬態した異形生命体用のセンサーを見つけて銀杏はそれに駆け寄ると、確かにセンサーの常灯が切れている。センサー本体が壊されている形跡はなく、電源の供給がされていないような、そんな雰囲気。
    銀杏は扇子を取り出して、パタパタと顔周りを仰ぎながらそのセンサーの近くをぐるりと回り、少し離れた位置にある点検小屋へ向かった。電源はそこで管理されているようで、中に入るとセンサーの電源だけがオフにされていた。小屋の鍵にはこじ開けたあとがあった。つまりこれは故意的なものだ。一体誰が。
    銀杏はフム、と顎に手を当ててその電源を入れてセンサーの近くへ戻ると、通常運転に戻ったのかランプが赤く光っていた。スマホからセンターを確認すれば、先程までERRORだった表示が消えている。
    銀杏はセンサーの写真を数枚撮ってセンターへ送り付け、点検小屋へ戻ってそちらの写真も数枚撮って送った。原因らしい原因は分からないが、誰かが故意的にこのセンサーを停止させたことだけは確かだった。
    それが全くの一般人なのか、異形生命体なのか、異形生命体を操る悪い人間なのか。それが分かれば良いのだが、手掛かりは無い。強いて言えばここにセンサーがあるのを知っている人間、となるがそれはかなり限られてくる。NH職の人間だ。現役かそうでないかは分からないけれど。身内を疑う真似はしたくないがそれ以外が考えられない。銀杏は遊歩道を再び歩いて車へと戻ることにした。コレはデカい事件になりそうだなあ、と、半ば他人事のように思いながら、パチッと音を立てて扇子を閉じた。まぁ、東京で何か起こる分には銀杏は関係がないので。

    ◾︎◾︎◾︎

     銀杏が車に戻ると、本多はまだ眠っていた。どうやら一度起きたのか、銀杏が脱いで置いていったジャケットを勝手に掛けていた。

    「文乃ちゃん」
    「……」
    「文乃ちゃん、起きないとキスしますよ」
    「やめてキモい……」

     銀杏がいつも通り揶揄うも、本多はまだ目を閉じたまま空を手で引っ掻いた。銀杏は避ける事無くスカした本多を見て、おや、とどこか違和感を感じる。
    ジッと本多を見つめた後「失礼」と一言声を掛けてから本多の額に手を当てる。

    「……ちょっと待ってて」

     銀杏は小さなため息をついてもう一度車から出ると、スマホで一番近くのコンビニを調べ、徒歩でそこへ向かった。その道すがら酒井に電話を掛け、本多をそのまま家に送ることを伝えて返事も聞かないまま通話を終了させた。
    コンビニで冷えピタとイオン飲料を買って車へ戻り、子供にしてあげるみたいに丁寧に髪を掻き分けて冷えピタを貼ってやると、本多は何をされたかよくわかっていないような顔をしてただ渡されたイオン飲料を両手で持って、「冷たいなあ」と思っていた。

    「文乃ちゃん、家の鍵持ってる?」
    「うん?」
    「家の鍵。今持ってる?」
    「うん」
    「家はどこ?」
    「家……」
    「……スマホ見るね。パスワード打って」
    「うん……」

     本多は回らない頭で、パスワードを打って銀杏に手渡すと、「冷たい……」と言ってペットボトルを頬にぺたりとくっ付けて項垂れた。
    銀杏はスマホを渡され、何処なら住所が確認出来るだろうか、と考えながら電話帳を開くと、プロフィール欄に几帳面に記載してありホッとして住所を確認する。近くて助かった、と思いながらその住所をナビへ移すと、目的地へ案内します、という合成音声と共に地図にラインが表示された。
     本多は眠そうに目を擦って、しんどそうに窓に頭を預けてぼうっと外を見ていた。銀杏は困った顔をしながら緩くアクセルを踏んで車を発進させた。

    「文乃ちゃん、頼れる人居ない?」
    「んぇ……」
    「風邪ひいた時面倒見てくれそうな人。…あ、彼氏いるんでしたっけ。誰です?私の知ってる人?」
    「やまはい…」

     本多はほとんど反射のように返して、ゆっくりと目を閉ざした。思ったより日差しが眩しくて頭が痛くなったので。ちょっぴり息がしづらくて、ゆっくり呼吸に意識を置くとどんどん眠くなってしまい、細く息を吐きながら心地いい揺れに身を預けた。

    「山廃って……あー……山梨の。あいつか。流石に遠いなあ……一応連絡入れてみますか…」

     銀杏は山廃の事が、というより山梨NHIの事がとにかく嫌いだった。関東NHIの中でナンバーワンの発生率、取り逃しも多く何より成績が悪い。彼らのことを陰で落ちこぼれと呼んで馬鹿にしていた。山廃は特に、月イチの集会で顔を合わせ、山梨NHIの報告をする際に必ず舌打ちをしていた。本人にそれが届いているかいないかは置いておいて、要領の悪い奴らだと信じて疑わなかった。
    しかし、実際は違った。山梨での異形生命体は発生率が異様に高く、東京や埼玉の比ではなかった。神奈川NHIは驚くほど発生率が低く、こうして借り出す手があるほどだった。つまり銀杏は、山梨の忙しさを知らなければ想像ができるほど過酷な仕事をしていなかった。取り逃しが多いとは言っても、そもそも出現数が違うのだ。東京や埼玉では基本的に一体〜二体の異形生命体が同時に発生する。片方が調査に当たってる最中に片方が〆る、なんてことも多くそれで回せるほど異形生命体自体も強くはなかった。
    が、山梨の異形生命体はそもそも同時に発生する数が異様に多いのだ。三体〜四体は当たり前、多ければ六体もの異形生命体が群れを成すようにして出現する。勿論その分、ほかのNHIより配置される人員は多いが、それでも回しきれないほど異形生命体の数が多く、人手も足りていない。そんな中でも特に山廃班の成績は良い方で、数値だけで比べれば大したことは無いが、山梨でその成績を出している、という点を加味すると、関東のNHIで一、二を争える程には優秀だった。発生率が低い方が美徳だと考える神奈川NHIはそれを素直に評価するつもりはない上、強さが実感できない神奈川NHIは皆揃って山梨NHIを馬鹿にしていた。本当は自分らの方がぽんこつだと知らずに。
    井の中の蛙というやつだ。
     それはさておき、交流が全く無いわけではないので、銀杏は素直に山廃へ連絡することが出来た。プライベートの連絡先は知らないので、仕事用のMATEに「文乃ちゃんのことで連絡したんだけど監視下でやり取りしたくないからコッチにかけて」と、銀杏のプライベートナンバーを添えて送った。仕事用のMATEは管理センターから覗こうと思えば覗けて、不要なやり取りは注意が入る。わざわざいちいち確認しないし、そんな注意が入ったなんてことを耳にしたことは無いが、本多のプライドの高さを知っているため、管理センターにバレたくないだろうという銀杏なりの配慮だった。
     数分車を走らせて返事を待っていると、突如として着信音が鳴った。銀杏はハンズフリーにして応答すると、山廃の少し慌てた声が聞こえた。

    『あの。本多ちゃんのことってなんですか』
    「今すぐ東京来れますか?」
    『えっ。な、なんでですか? もしかして本多ちゃんに何かあったんですか?』
    「風邪をひいてしまったみたいで」
    『風邪』
    「体感で申し訳ないですが多分40度近くありまして」
    『えっ』
    「今から家まで送るんですが、私は文乃ちゃんから任された仕事が残っていて。文乃ちゃんの分も仕事したいので、面倒見てあげられなくてですね……」
    『あ、な、なるほど』
    「来れなさそうでしたら私の部下に来させますが」
    『行きます、……夜になっちゃうんですけど……』
    「……文乃ちゃん一人にするのは危険なので、それまでどうにかしますね。出来るだけ早めに来てください」

     その後、適当に約束を取り付けて電話を切った。山廃が来るまでは桐生に来てもらうことにした(バディだからという理由だけで)ので一安心だ。
    風邪ひいたくらいで何をこんなに騒ぎ立てているのか、と言うと、本多は過去に熱を出した時、独りでにパニックを起こした後に幻覚や幻聴(小児の熱せん妄に近い)を引き起こして、その後がとんでもなく大変だったのだ。それから本多が熱の度に接し方を見直し、少しでも異常があれば都度起こして意識を戻せば大した被害も無かったので、本多が熱を出した時には誰かがついて回るようになったのだ。
     これは“本多だから”では無く、NH関係者に良くあることだった。普段から人智を超えた生命体を見ていて、本人も知らず知らずのうちに心をすり減らしているのだ。桜路もこの症状に悩まされているし、千風に至ってはNHD時代のPTSDも加味して、どれだけ高熱でも寝ていられないほどの悪夢と嫌儲感に苛まされる。
    同じように桜路が熱を出した時は誰かが着いて回るし、千風が熱を出した時は少しでも彼女が安心出来るように誰かが感染る覚悟で膝を差し出してヨシヨシ頭を撫でてやっているのだ。
     これらは全て「山廃班でしょ?」と言われ、山廃が一身に引き受けている。物の見事に彼の周りは熱の時に弱る女性しか居なかった。
     銀杏がチラリと本多を見遣ると、うーんうーんと魘されていて、下唇をグッと噛んで、時折乱れたようなヒクッという呼吸をしてグッタリとしていた。

    「文乃ちゃん、何か食べます?」
    「……いい…」
    「じゃあ何か食べたくなったら彼に連絡してくださいね」
    「うん……」

     本多の家から比較的近いであろうスーパーが目視できる距離になったので声を掛けたが、本多は首を振ることもせず本当に声を発したか発してないかくらいの小ささで呟いた。
    銀杏はただ黙って運転し、ナビの通りに本多の家へ向かった。
    「本当にここか?」と思ってしまうような、女性一人で暮らすには心許ない設備のマンションの前で車を停め、本多を下ろすと、本多はのろりと冬眠から起き上がったクマみたいにマンションの中へ入っていき、そのままある一室の前で鍵を開けて玄関へ雪崩込み、そのままばたりと倒れてしまった。
     銀杏はアチャー、という顔をして本多の肩を担ぐと、そのままずりずりと半ば引きずるようにしてベッドに連れて行き、下手にセクハラだとか騒がれないように触れる場所に気を付けつつベッドに投げ込んだ。
    銀杏は部屋をパッと見回して気付く。この人、本当に少し寝に帰ってきてるだけなんじゃないか?
    忙しいと言っていた割にはキッチンは異様なほど綺麗で、脱ぎ散らかしたであろう下着が数組落ちていて、床にはペットボトルが数本転がっていて、とてもじゃないが、正常な人間が暮らしている部屋には見えなかった。
    本多はふぅふぅ息をして、手癖のようにワイシャツのボタンを外した。銀杏はそっと目を逸らして意識をやらないようにすると、本多は「あつい」とだけ言ってスラックスを脱ごうと、ずりずり足で脛の当たりを蹴っているが、きちんとベルトをされているが為にそれを脱ぐことは叶わなかった。

    「そういうのは彼が来てから頼んでください」
    「んん……」
    「頭は痛いですか?お腹は?」
    「へいき……」

     銀杏は桐生が到着するまでここに居なければいけなくなったので、散らかった部屋の床を手で掻き分けて座る場所を作ると、そこに座って唸りながら寝付く本多をじっと見つめた。
     銀杏は、元々は神奈川県警の捜査二課刑事で、神奈川NHIの設立と同時に異動している。神奈川NHIの刑事課長、杠巴(ゆずりは)と一ヶ月だけ東京NHIで研修をした最古参である。
    銀杏にとっては警察学校ぶりの再会だ。
    その警察学校では成績はどっこいどっこいで、お互いを常に意識して次こそ負かしてやる、の気持ちで競い合い、とてもいいライバルだったが、NHIにいる本多は、その頃の本多より遥かに強くて、首尾一貫という言葉があまりにも似合う凛とした女性になっていて。
    銀杏は素直に尊敬したのだ。過去のライバル、配属先が違う同期だとしか思っていなかったのに、NHIでいきいき働く本多に憧れた。たった一ヶ月の研修で、警察学校時代にはそんなに違いが無かったはずの能力に差という差を見せつけられ、銀杏は嫉妬を通り越して酷く尊敬した。銀杏自身がNHIに所属して、その凄さが尚のこと身に染みた。それはそれとして、東京での異形生命体の発生率に対してはかなり馬鹿にしているが。
     神奈川では、杠巴が考案した予防方法を用いて異形生命体の発生率を抑えている。
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    PROGRESS数年前の千風と柿木。
    書きたいけどなんか全然上手くレールが引けなくて進まなくなったのでみてみてしちゃう😭
     その日は目が眩むような快晴だった。
    八月のアスファルトジャングルは、次第に簡単な思考も出来ないほど灼熱の海へと変貌を遂げた。燦々と輝く太陽に照らされ、滲む汗が頬と髪をぴたりとくっつけてとてもうざったい。身体が熱を放出出来ず、じわじわと脳みそが茹だっていく。あつい頭と、ぬるい腹部。アスファルトに流れ出る鮮血を、ぼやける視界で見つめた。手に持っていたはずの拳銃は気付いたら無くなっていて、どんどん冷えていく腹部に、思わず嘔吐く。身体の温度調節機能が壊れてしまったように、寒くて暑くて目が回る。鉄板のように熱帯びたアスファルトに当たる頬はヒリヒリと皮膚を刺激するのに、肋骨から下の感覚がどんどん無くなっていく。その度に胃から込み上げる液体を吐いて、中身がなくなって胃酸を吐いて、それすらも吐けなくなって喉から胃袋が出そうになって、身体中がメチャクチャになった錯覚を起こした頃、フッと急に軽くなる感覚を覚え、何か聞きなれた声で散々耳元で叫ばれて、それで……――気がついた頃には、集中治療室だった。
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