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    ド没。何が来ても許してくれる人向け

     初めて、力任せに本多ちゃんをベッドの上に投げた。普段なら押し倒す時だって頭をヘッドボードにぶつけないかとか痛くないようにだとか気にしているのに、今日はそんな余裕が持てなかった。
    視界がくらくらと揺れて、怯えたような表情の本多ちゃんが歪む。怖がらせてるな、怖がらせたくなかったな、なんて頭では考えていても身体は止まらない。
    「っやだ、やだ、山廃、ねえっ」
    「うるさいな…!」
     自分でも聞いた事のないくらい大きな声が出て、本多ちゃんが肩を揺らす。怯えられている。僕、一応カレシだったはずなのに。
     ……そう、彼氏だったはずなのに。心にずんと深く伸し掛るその事実に、カッと瞬間的な怒りが湧いて、本多ちゃんが着ている服を力任せに捲って、ワンピースをたくしあげた。
    本多ちゃんにしては珍しい、淡い水色の可愛いシャツワンピース。初めて見た。これも“あの男”の為にした格好なのかと考えると無性に腹が立つ。
    「やだ、やだしたくない!山廃やめて!」
     下着に手を掛けると、本多ちゃんが本気で嫌がった声を出した。普段なら止めてあげられるけど、何処かヤケになっているのだろう。一瞬だけ手が止まったが、構わずに続けた。
    「僕のことなんて、本気で嫌なら簡単に突き飛ばせるでしょ」
     本多ちゃんの手首を掴んで、無理やり右耳を舐める。髪をかけている耳は、いつも丸見えで、いつもいい匂いがする。本多ちゃんは耳の裏に香水をつけるから、いつだって甘い香りがした。
    「アイツ誰、彼氏?」
    「っちが……ただのっ、刑、事さん…」
    「こんな可愛い服着てわざわざ休日に会って。ただの刑事。……ふーん…」
     醜い嫉妬だ。もう恋人ですらない僕に何か言う権利は無いはずなのに。本多ちゃんが顔を赤くして身を捩らせている。耳を舐められただけで簡単に骨抜きになる。……あの男とはもう寝たのだろうか。ギリ、と奥歯が音を立てた。
    「ハハ……もう濡れてんじゃん……あぁ…そう……」
     太腿を撫でてそのままショーツの上から触れば、小さな水音を立てた。デート中ビッショビショに濡らすほどあの刑事におネツなのか。一週間前、僕とした時はビックリするくらい濡れなくてそのまま辞めてしまったのに。そんなにあの男が好きなのか。……考えれば考えるほど、目元が熱くなった。視界が歪んで、ぼたぼたと涙が垂れる。情けない、情けない、情けない……。
    「山廃っ、やだ、やだ!脱がさないで……お願い……」
     本多ちゃんが声を荒らげて言った。一年付き合っていたけど、こんなに声を荒らげるのを見たのは初めてだった。
    僕が手を止めると、本多ちゃんは僕の腕の中からするりと抜けて、「ごめん……」とだけ言った。
    「…本多ちゃん、アイツのこと好きなの?」
    「え……」
    「……いや、いいや、ごめん。……被害届出すなら出していいから。女の子相手に…僕サイテーだね」
     なんか、もうどうでもよくなった。もう好きでもない元彼に簡単に着いてくるところは不用心だなとは思うけど、今回は全面的に僕が悪い。ラブホに入れば同意、だなんて古臭い価値観で僕は生きてない。つまりこれは不同意わいせつ罪。本多ちゃんが被害届を出せば僕は晴れて犯罪者だ。警察が犯罪だなんて笑ってしまう。しかも性犯罪だなんて。部下に合わす顔がないな、なんてどうでもいいことを考える。
    本多ちゃんは少し困った顔をしながら「ちゃんと話がしたい」と言い始めた。話し合いも何も、一週間前、本多ちゃんからMATEで急に「別れよう」とだけ言われた側からすれば、今更の話だ。
    「僕よりあの刑事のことが好きになったから僕と別れて、ホテルに連れ込まれそうになって急に怖くなって喧嘩になってるところを僕が助けた。でも結局僕…嫌いな元カレにホテルに連れ込まれてイヤなことをされた。それ以上でも以下でもない、話なんてないよ」
    「違う……違うの、話を聞いて」
    「…………じゃあ、僕の話も聞いて。先に僕から話していいかな」
    「…何…?」
     本多ちゃんは、やっぱり怯えた目をしてた。ほんとに僕嫌われてんなあ、と再認識して思わず乾いた笑いが出る。
    「……嫌いなら、…手酷く振って欲しい。急に別れようって一言だけ。…メールもMATEも電話も無視されて、僕、流石に飲み込めない。せめて、別れる理由が知りたい」
     本多ちゃんの、冷たい目が刺さる。一度、山梨へ飛ばされた時。苦しいほど浴びた冷たい目だ。2度目はない。もう、もう一度好きになってもらう可能性は尽きた。
    「……別れた理由にも繋がるから、私の話していい?…あ、まず…座ってもいいかな……?」
     怯えられている。へらへらと媚びを売るような笑顔が突き刺さる。僕は二歩後ろに下がった後に、少し遠くの椅子に腰を掛けた。本多ちゃんにすぐには手の届かない距離になると、本多ちゃんは少し安心したように笑ってベッドに腰を掛けた。なんだか複雑な気持ちだ。
    「……私。山廃の子を妊娠してるの」
    「……えっ?」
     本多ちゃんはお腹を撫でて、「今、十二週」とだけ言う。十二週。つまり二、三ヶ月前のセックスだろう。確かにその頃は毎日のようにしていたし、相手が僕であることは間違いなさそうだ。
    「でも、癌だった」
    「え……」
    「子供は諦めなきゃいけないみたい。……でも踏ん切り付かなくて。進行してでも、ギリギリまで待って子供を取り出せないかとか考えたけど、リスクは高くて」
    「ちょ、ちょっと待ってよ、なんで言ってくれないの。妊娠のことも、僕初めて聞いたし……」
    「だって山廃に相談したら、癌の治療を優先しろって言うでしょ?」
    「当たり前でしょ」
    「私はお腹の子と会いたいからさあ。……こっそり産んで、こっそり育てて。…まあ、育てられないで死んじゃうかもしれないけど。…山廃には、こんなめんどくさい女じゃなくて、別の…普通の彼女が出来て、その人と上手く行ったらいいなー、なぁんて」
    「なにそれ」
    「五分五分なんだって!帝王切開できる週数まで持つかどうか!……手術したらもう妊娠できないからさ」
    「なんだよそれ、なんで言ってくんないの!?」
     本多ちゃんは悲しそうに笑った。全部を諦めたような、寂しい顔。
    「前にも言ったでしょ、死に顔は見られたくないって」
    「……っだからって…」
    「私より、良い人がいるよ。……なんて言っても、山廃は別れてくんないでしょー」
    「……本多ちゃんより良い人なんて居ないよ」
    「ほら、やっぱり。……ふふ。…山廃さ」
    「…なに?」
     本多ちゃんが手招きをした。どうやらもう距離を取らなくていいらしい。隣へ行って腰を掛けると、ぎゅっと手を握られた。
    「もし私が死んだら、私のことも、この子のことも忘れて。幸せになってね」
     本多ちゃんはぎゅっぎゅっと何度も強く僕の手を握った。願うかのように、念じるかのように何度もそうすると、エヘヘ、と悲しそうに笑った。
     ここまで覚悟が決まった彼女は、もう動かない。
    何を言っても聞かないし、聞いてもくれない。
    「妊娠したら結婚しようって約束…」
    「この先すぐ死ぬかもしれない人と結婚なんてしちゃダメだよ~」
    「ヤダ、…もう僕のこと嫌い?まだ僕のこと好きなら結婚して……お願い…」
     本多ちゃんはフッと手を離して、視線を外した。その行動が意味するのは、否定だろう。
    僕のことがもう嫌いか、結婚する気は無いか、そんなような事を、彼女は視線だけで言った。
    「私、明後日からめ~~っちゃ早めの産休入るからさ。あと頼んだよ~」
     本多ちゃんはひらりと手を躱して立ち上がり、スカートをパッパッと手で伸ばした。
    「ねえ待って、行かないでよ」
    「山廃」
     ドアの前でスニーカーの紐を結ぶ彼女が徐ろに名前を呼んだ。強ばった、突き放すかのような冷たい声だった。
    「もし手術終わって、私も子供も何事もなく元気で、それでも山廃の気持ちが変わらなかったらまた会お」
    「……それまで、会ってもくれないの」
    「うん」
     本多ちゃんはスニーカーの紐を結び終わると、自動精算機の前で財布を出して、部屋の支払いを終えた。僕は扉を開けて出ようとする本多ちゃんを追いかけるため一瞬だけ部屋に戻ってジャケットを取ったあと、忘れ物の確認もせず本多ちゃんを追い掛けた。
    「次会った時、本多ちゃんのこと振り向かせられればまた付き合ってくれる?」
    「アハハ、ないない」
     本多ちゃんは久々にちゃんと笑って言った。冗談だと思われたのかそうじゃないのか分からないが、完全に脈ナシの反応。でも、嫌われているような雰囲気では無さそうだ。
    「……子供、お父さんいないの寂しくないかな」
    「今どき珍しくもないでしょ」
    「……男の子?女の子?」
    「まだ分かんないかな~。……山廃は?どっちだと思う?」
    「……どっちでも可愛いとおもう」
    「それはそうだけどそうじゃないー」
     ホテルを出て、駅までの道を歩く。少し離れた場所だから駅まではまだ時間が掛かりそうだ。もう少し話を続けたくて、必死に本多ちゃんの隣をキープして歩いた。手を繋がせる気は無いのか、本多ちゃんはポケットに手を入れて歩いている。それが寂しくて、風に靡く本多ちゃんのサラサラした髪を働かない脳のまま見つめた。
    「……ていうか、さっきのあの刑事は何者なの」
    「孔雀さんの部下の人~。私が妊娠してることひょんな事から知っちゃって。今日はたまたま検診の帰りに会ったの。心配だから着いてくるって言ってたんだけどねえ。まさかホテル連れ込まれそうになるとは思わなかった」
    「………なんで抵抗しなかったの」
    「え~~……お腹殴られたりしたら嫌だし。本当にギリギリまで耐えて、ダメだったら抵抗して反撃される前に逃げようかなって思ってて」
    「……だからさっき僕が襲った時も怯えてたの?…お腹殴られたりするかも、って?」
    「まさか。山廃は私に暴力なんて振るわないでしょ」
     本多ちゃんはふふっと笑う。けど、目線は交わらなかった。ポケットから右手を出して、まだまだ小さくて妊娠の実感が湧かないお腹を撫でると、ふぅ、と少しだけ細く息を吐いた。本多ちゃんの痛みを誤魔化す時の癖。
    「本多ちゃん……少し休もう、無理しないで」
    「…大丈夫よ、もうすぐ駅だし。この時間なら電車も空いてるだろうから」
    「でも……」
    「ホントに、大丈夫」
     本多ちゃんはふぅふぅ息をして歩いている。少し歩くペースが落ちてきて、時折痛そうに下腹部を抑えるのが見ていられなくなって、その手を掴んだ。
    「休も。……痛いなら無理しないで」
     本多ちゃんは少し考える素振りをした後、素直に頷いてくれた。ゆっくり手を引きながら、近くに座れる場所を探すが、カフェもなければ広場がある訳でもなく困ってしまった。
    スマホで座れる場所を検索してると、本多ちゃんは手を離してよてよて歩いてガードパイプにもたれ掛かった。「ここでいいよ」と言って、痛みを逃がすように下腹部を摩った。
    「痛い?」
    「3日前手術したばっかりだから」
    「手術?」
    「どれくらい進行してるかどうか、子宮を切って確認するやつ」
    「術後3日で歩いていいものなの?」
    「だいぶ無理言ったよ」
     本多ちゃんはクシャッと笑って、いてて〜、と明るく呟いた。どうして無理してまで、入院せずに家に帰ったのか、ましてやその結果を聞くためにわざわざ電車で来てるのは何故か、気になったけど彼女はきっと答えてくれないので押し黙った。
    「本多ちゃん」
    「ん?」
    「……好きだよ」
    「あははっ、知ってるー」
     このまま帰りたくなくて、帰したくなくて呟いても、本多ちゃんは応えてくれない。普段より口数が少なくて、声のトーンが低いのは気のせいじゃないだろう。どうして僕を、頼ってくれないの。
    「……やまはい」
    「…なに?」
     本多ちゃんは変なところで呼吸をして、少し躓きながら僕の名前を呼んだ。ハッとして顔を上げ、本多ちゃんの目を見ると本多ちゃんは寂しそうな顔をして、ゆるりと手を伸ばした。
    「握って」
    「……うん」
     本多ちゃんの手を握った。
    暖かくて、少しカサついてる、傷まみれのカッコイイ手。
    指が細くて、爪がつやつやで綺麗な、女性の手。
    少し震えていて、強ばっている、独りぼっちの手。
     怖いに決まってる、つらいに決まってる。でも、彼女は僕を頼ってはくれない。それはきっと僕が頼りないから、なんて理由じゃなくて、彼女の性なんだろう。
    「…NHIを宜しくね」
    「……」
    「私が居なくても、みんな大丈夫だとは思うけど」
    「…そんなことないよ」
    「嘘。みんな強いもん」
    「まだまだヒヨっ子でしょ。桐生さんも茅野さんも。…それに、居ないと寂しいよ」
    「……そっかあ、じゃあ頑張って戻ってこなきゃね」
     本多ちゃんは僕の手を振りほどいた。温もりが消えた両手の行き場所を失って、でも、離したら行けない気がして、振りほどいた本多ちゃんの手をもう一度握った。
    「本多ちゃん、僕、なんでもするから」
    「…」
    「手術の後のリハビリとかも付き合うし、子育てだってやるし、家事でも、仕事でもなんだってする」
    「……」
    「お願い、いつでも頼って。……僕本多ちゃんの彼氏、…だから……」
    「……元、でしょ。まあ、ありがとう。何かあったら頼るよ」
     本多ちゃんは笑ってもう一度手を解いた後、僕の頭をくしゃっと撫でて、ガードパイプに預けていた身体を起こした。痛みが少し治まってきたのか、ゆっくりだけど、キチンと真っ直ぐ歩いて駅まで向かった。僕はそれを必死に追い掛けて、執拗に好きだとか頼って欲しいだとか、そういう月並みなセリフを投げ掛けた。きっと僕を見た人は、振られて一生懸命になってる哀れな恋人だと思うだろう。一言一句違わずそうだが。
    「家まで送る」
    「……それは、…嫌かも」
     駅の改札口まで来ると、本多ちゃんは途端に僕を避けるようになった。着いてきて欲しくない、と言うのがとても分かる。
    「やだ。……もう暫く会ってくれないんでしょ、だったらせめてギリギリまで一緒にいたい」
    「ここでいいじゃない」
    「……やだ」
    「……分かった、じゃあ手術の前に一回会お。それでいい?」
    「…」
    「無事に手術終わって何事もなければ、NHIも復帰する予定だし、そしたらいつでも会えるじゃない」
     そんなの、分からないじゃないか。……なんて言葉は、喉元でグッと押さえ込んだ。縁起でもない。
    「ね?……出産と手術の予定日が…何事もなければ来年の春ね」
    「そ、そんな早いの!?もう秋だけど…!?」
    「早めに出産して手術だから……。ね、すぐだよ。またすぐ会えるって」
     別に、本多ちゃんが一言会うって言ってくれたら、僕はいつだって駆けつけるのに。
    本多ちゃんは強情だから、何言っても聞かないけど。
    「じゃ、また近いうちに一回会おっか。追って連絡するよ」
     本多ちゃんがニコッと笑って、僕の目を見つめた。目には泣き腫らした跡があって、鼻も赤くなっている。……そんなに泣くほど辛いなら、頼ってくれればいいのに。
    僕は悔しくなって、本多ちゃんの目を見つめ返せなかった。
    すると、本多ちゃんは不思議そうに僕の顔を覗き込んで、「やっぱり、怒った?」と聞いた。
    「山廃の子でもあるもんね。……勝手に私が全部決めて、そりゃ怒るよねえ」
    「あ、…いや、怒ってるわけじゃ。…僕の身体の事じゃないから、口出しは出来ないよ。……言いたいことは山ほどあるけど」
    「…例えばー?」
    「……今すぐ、…堕ろしてでも、治療を優先して欲しいとか。…そうじゃないんならせめて僕と一緒になって欲しいし、子育ては僕に任せて、治療に専念して欲しい……って思う」
    「……結婚したい?」
    「そりゃ勿論」
    「そっか。……考えとく」
    本多ちゃんはそう言った後、僕の目を見つめた。少し潤んで涙の膜が貼った瞳が、じっと僕を写した。
    大きな、ツヤツヤした綺麗な目。ぱち、とゆっくり瞬きをすると、微笑みかけてきた。その表情は慈愛に満ち溢れていて、細い指が壊れ物を触るような手つきで、僕の頬を滑らせた。
     ちゅっ、と軽いリップ音の、触れるだけのキス。普段は絶対にしないのに、本多ちゃんから。僕は目をまんまるくして驚いてみせると、本多ちゃんは「じゃあね」と一言言って、改札を越えて行った。
    僕は唖然として彼女の後ろ姿をただ見つめた。
    ぼーっと後ろ姿が見えなくなるまで見届けて、MATEで「気をつけて帰ってね」と送る。
    そのメッセージに既読が着くことは無かったが。
     
     ◾︎◾︎◾︎
     
     本多ちゃんと連絡がつかないまま、本多ちゃんが僕に伝えた出産予定日を超えた。それも何ヶ月も。僕は毎日のようにMATEを送ったが、既読は一つも着いていない。ブロックされたか、ケータイを変えたか。ケー番に掛けても繋がらないあたり、後者濃厚だ。
     NHIの方は、もう辞めていた。休職扱いだったはずなのに、気が付いたら本多ちゃんの名前が全て消えていた。酒井さんに聞いても、よく分からないと答えられてしまった。彼女はNHI本部にもツテがあるし、時々食事に行くほど仲のいい司令官もいる。本部に何か言って、僕らに会わずに辞めたんだろう。本部の人間が、とんでもなく口が堅いのを知ってるからそっちに託したんだ。
     僕は心労からかすっかり身体を壊して、それでも、縋るようにしてNHIに出勤する日々を送っていた。3日間徹夜したような雲がかった脳ミソで毎日必死に仕事をしているが、そろそろ本格的にお荷物だった。それでも僕をまだここに置いてくれているのは、同情と過去の成績のおかげだ。
     それでも、みんなから向けられる慰めの目線は痛い。辞めてしまった方が気が楽なのは分かっているが、辞めたところで次の仕事の宛がある訳では無い。つらくて、しんどくて、くるしくて。
    回らない頭を使って何とか事務作業に取り掛かる。文字が滑ってなかなか頭に入ってこないが、少しでも自分に出来る仕事を、と。無理に頭を働かせた。
    「山廃さん」
    「……茅野さん?」
    「お昼ご飯行きましょ、酒井さんが先に行って席取ってくれてます」
    「あ、…ああ…」
    すっかり時計を見るのを忘れていたが、どうやら昼時のようだ。お腹はあまり空いていないが、こうして誘われているうちが華だろうと思って毎日のように連れ出されている。
    茅野さんの後ろをとぼとぼ歩いて着いていくと、身長も体格も似ているから本多ちゃんを思い出してしまい、思わずグッと胸に込上げる。似ていないところは顔と胸元くらいだろうか。最近は笑い方も少し似てきた。本多ちゃんの姿を追っているから、それも仕方の無いことだけど。
     分駐所近くのイタリアンに連れてこられ、チェーン店じゃないの珍しいな、と思いながら席に着いた。
    六人掛けのテーブル席で、やけに広い席だなと思うも口に出すことはせず、黙って誰かが話し始めるのを待った。
    「あ……揃ってますね」
     桐生さんが遅れて店に入ってきたと思えば、ちまい女の子を携えていた。折鶴小春、確か捜査一課の人だったはずだ。
    「食べながら話しましょうか、注文しましょう」
     折鶴さんが中心となって、皆がそれぞれメニューを開いて見始めた。隣に座った桐生さんに「どれがいいスか」と聞かれ、パッと目についたサラダを指差すと、ジッと重たい目で見られた後に、「んじゃあ食べ切れなかったら俺食べるんで、ドリアも頼みましょう」と付け足された。こういう世話焼きなところ、本多ちゃんに似てる。
     みんながメニューを決めるのを待っている間にぼーっとしていて、気が付いたら注文まで済ませてくれていた。茅野さんが、「食事中は烏龍茶がいいんですよね?」と言ってグラスを僕の目の前に置いたときに、ようやく気が付いた。最近はこうしてぼーっとすることが増えた。本当に良くない。やる気が無いわけじゃないんだけど……。
    「本多さんの居場所が分かりました」
     突如として、折鶴さんが口を開いた。いや、本当は前置きがあったのかもしれないけど。僕の耳は、その言葉しか拾えなかった。バッ、と思わず顔を上げると疲れた顔の折鶴さんが僕の顔を見て「わあ、酷い顔」と呟いた。
    「行方不明者届けが出されてからかなり経ってしまいましたが……ようやく見つかりました。ただ場所が……」
    「何処なの」
    「…大分です。詳しくは知らないですけど、多分本多さんの地元のあたりかと……」
    「大分!…それはまた…遠いですね……」
     茅野さんが目を真ん丸くして大きな声を出した。折鶴さんは困った顔をして、数枚写真を取り出すとそこには本多ちゃんと、ぷくぷくとした幼子が写っていた。
    「……一応、こっちでちゃんと調べました。名前からも見た目からも、……子供の大きさからも本人だと思いますが…」
     写真の中の本多ちゃんは幸せそうで、子供を抱いてほわほわ笑っていた。相変わらず元気いっぱいらしくて安心する。本多ちゃんの無邪気な笑顔を久々に見て、目頭がぐっと熱くなった。
    「仕事は?……さすがにそこまで分からないか?」
    「舐めないでください。…総合警備会社、セキュリティプロダクションってところに属してるみたいです。…でもただの警備会社じゃないんです、対異能生物課っていうのがあって、そこにいるみたいです」
     酒井さんが聞けば、折鶴さんは簡単に答えてくれた。対異能生物課。…あの人は、NHIを辞めても異形生命体と関わっているのか。
    「ただ、異能生物課の上層部は梅崎財閥じゃないです。伊集院財閥……梅崎財閥とあまり仲が良くないので、下手なことするとバレた時怖いです。……なので、私はもうこれ以上調べません。大体の居住区と子供の保育先……勤め先の情報だけ渡しますね。…あんまり褒められた行為じゃないので、孔雀さんにはどうか内密に」
     折鶴さんが茶封筒に写真を流し込んで、それを僕に渡した。反射的に受け取ると、何やらびっしりと文字が書かれた書類が入っていた。
    「……その近くの病院を当たりました。お借り…正確にはちょっと…グレーな方法で入手した本多さんの医療データが少しだけ入ってます。……会うなら早くした方がいいです」
     そう言われて、それらしき書類を探した。三枚だけ、印刷されたデータではなく、盗撮のような角度で撮られた写真を白黒印刷したような紙が入っていた。
    写真はブレていたり、一部がぼやけていたりしてハッキリとは読めないが、解読できる文字列から察するに、まだ治療が終わっていないと言うことだった。
    「医療データ……本多先輩、どこか悪いんですか?」
    「あぁ、いえ。出産の記録を渡しただけですよ、山廃さんは父親ですから、知っておいた方がいいと思っただけで」
     折鶴さんが茅野さんを適当に丸め込んでくれている。本多ちゃんが癌だと知ってるのは僕と酒井さんと捜査一課の一部の人達だけだ。本多ちゃんが嫌がるだろうと思って、みんなで黙ることを決めたんだ。
    じっと酒井さんの方を見ると、視線に気付いたのか少しして「行ってきたらいいんじゃないか?」と一言言った。僕はその言葉を聞いてガタッと立ち上がると、その手を桐生さんに掴まれて、「まずはご飯食べてからですよ」と言った。酒井さんもウンウン頷いてるのを見て仕方なく椅子に座り直す。
    「行くなら、私も一緒に行きます」
     折鶴さんがピッと胸元で手を挙げた。数年前のおどおどした雰囲気は無く、最近は孔雀さんの目を欺くようになった彼女は、なんというか随分と逞しくなった。
    「山廃さん一人で長距離移動させるのは心配です。……こんな今にも死にそうな顔で。NHIの皆さんは何もしてあげなかったんですか」
     責めるように言うと、桐生さんが隣でガタッと音を立てて立ち上がり、「仕方ねえだろ!」と怒鳴った。ちょうど、料理を持って現れた店員が困ったようにしながら、恐る恐るサーブを始めた。サラダしか頼まなかったはずの僕の目の前には、ドリアとピザとミニチキンとアヒージョが置かれていて、思わず「えぇ…」と声を漏らした。
    「食えなかったら食うから。好きなの食いな」
    「ここのピザ美味しいんです、ホントに!本多先輩もお気に入りだったんですよ」
    「これだけ人数いるんですし、食べれなかったら残して全然大丈夫ですからね」
    「ほら山廃さん!冷める前にどうぞ!本多ちゃんに会いにいくならそんな顔してたら心配させますよ」
     僕は凄い良い人に恵まれたんだな、とふいに思って嬉しくなると同時に、本多ちゃんの姿を思い浮かべて、誰か頼れる人はいるのかと心配になった。僕はこんなに良い人達に恵まれてぬるま湯に浸っているのに、彼女は。女手一つで子供を育てて、仕事も家事も全部一人で、もしも周りに頼れる人が誰もいないなら、心細いなんてもんじゃ済まないだろう。……僕だけがこんな、しあわせでいいのだろうか。
     ぽた、と気がついたときには手の甲が濡れていた。
    折鶴さんも酒井さんもギョッとしてすぐにハンカチを当ててくれて、桐生さんは背中摩ってくれて、茅野さんは手を握ってくれていた。情けない。本当に情けない。
    「ほら、烏龍茶飲め。だぁいじょうぶだって」
    「あ、サラダ食べます?お腹すきました?」
    「温かいうちにチキン食べちゃいましょ!ほらほら!」
     子供にするみたいに甘やかされて、酒井さんに差し出された烏龍茶を飲むと全力で頭を撫でられる。本多ちゃんが昔してきたような手癖に懐かしくなってさらに泣きそうになっていると、茅野さんと桐生さんが「酒井さん〜!!」と酒井さんを責め始めた。申し訳ない。
     キリがないので全員揃って給食のように手を合わせ食べ始めると、折鶴さんはお行儀悪くスマホをいじって、「あ、今から飛行機取れますよ」と呟くように言った。
    「今からだと……夕方前くらいですかね。退勤後凸れますよ」
    「折鶴さん、行動力ありすぎじゃない?」
    「うちの上司に似たので」
    「身体壊すからやめとけ」
    「でも、どうせなら早い方が良くないですか?」
     折鶴さんが僕の目を真っ直ぐ見つめた。僕は少し悩んで小さく頷く。覚悟なんてとうに決まっていた。
    「私は付き添います。…ほか誰か、行きますか?」
    「……誰も行かないなら俺も行く。唐堂も居るし、東京の方は大丈夫だろ」
    「でも、唐堂さん病み上がりじゃ……大きな現場が入ったら対応出来ませんよ」
    「大丈夫だよ。もう現場慣らしはしてるし、お前らももうだいぶ慣れただろ」
    「それは…そうかもしれませんが…」
     折鶴さんはそれに聞き耳を立てながら、チケットの購入に進んでいた。もう行くことは確定しているらしい。夕方に着いてあっちに泊まるのだとしたらせめて支度くらい整えたいのだが、この雰囲気だとこのままドナドナされそうだ。というかそのへんちゃんと考えているのだろうか。
    「私と山廃さんと酒井さんでいいですか?チケット取りますよ」
     一声かけて、するするとスマホをいじっている。茅野さんと桐生さんはそれに頷いた。東京に残ってくれるらしい。NHIの仕事を任せてしまって申し訳ないが、どうせ僕がいても何も出来ないので、空いた穴は酒井さんの分だけだろう。それならきっとどうにかなるはずだ。

     ご飯を食べてからすぐにタクシーを捕まえて空港へ向かった。昼食だけのつもりだったので、あまりに少なすぎる手荷物に少しだけ不安を覚える。ほかの2人ももちろん似たようなものだが、さして気にしていないようだった。
     今から、本多ちゃんに会いに行く。
    いつぶりだろうか。僕が妊娠を知ったあの日以来だろうか。もう一年以上経っている。子供はもうそろそろ一歳を迎える頃だろうか。
     ……どんな気持ちだったのだろう。両親には会えない、頼れないと言っていた彼女がわざわざ地元に帰って、右も左も分からない状態で子育てをして、それも未婚の母という状態で仕事を探して勤めているなんて。
    そんなに自分は頼りなかったのだろうか。彼女を傷付けて、今更会う資格なんてあるのだろうか。会うことで更に傷つけてしまわないだろうか。
     不安になって、ギュッと強く手を握ると、酒井さんが手を握ってくれた。言葉は無かったけど、“大丈夫”と目で語り掛けてくれて、少しだけホッとする。
    二人、主に酒井さんに励まされつつ何とか空港に着くと、いよいよ実感が湧いてきて思わず口元を抑えた。
    もし拒絶されたら、どうなってしまうのか容易に想像ができた。飛行機に乗る前から吐きそうだ。
    折鶴さんが僕の袖口を引いて、「吐き気止め、良かったら」と言ってて渡してくれたそれを有難く貰うと、飛行機に乗るまでの僅かな時間でウトウトとし始めて、ぼーっとしたまま二人について行くように朦朧としたまま歩いていると気が付いたら機内で、なんならスマホを見れば既にかなりの時間が経過していて、着陸直前だとようやく理解した。
    「寝不足だったんだな」
    「あ……すみません……」
    「退屈だしな、いいんだよ」
     酒井さんも寝てたのか、クァと大きな欠伸をして、着陸を待った。あの感覚苦手なんだよなあ、なんて思いながらボーっとしていると、通路を挟んだ席で折鶴さんがぷるぷる震えているのが見えた。…成程、あの人も苦手らしい。
    それなのによく着いてきてくれたなあ、なんて思いながら、僕もその独特の感覚に「ィ…」と呟いてそれに耐えた。

     初めて降り立つ地は、旅行に来たワクワクとはまた別の心臓の疾さだった。どちらかといえば鳩尾の奥深くがグッと圧迫されるような、そんな嫌な感覚。
    空は晴れているのにどんよりとしていて、思わずため息がこぼれた。
    「ここから電車を乗り継いで……一時間くらいです」
    「結構あるんだな」
    「……昔は、かなり活気ある温泉街だったみたいです。今は……アレですけど…」
    「……成程。何か防具でも持ってきた方が良かったか?」
    「どうでしょう……少なくとも、歓迎されてない雰囲気だったら言ってください、私だけでも逃げるので」
    「お前な…………ホント孔雀に似てきたな…」
     二人に連れられ特急列車へ乗り込むと程なくして列車は動き、車窓から見える景色がみるみると廃れたものに変わっていった。追従するように車内の乗車率も落ち、目的地に着く頃には僕達だけになっていた。
    随分と過疎っているらしい。時間帯の問題もあるだろうが、きっと歓迎されない地だろう。余所者を排除するタイプの街だとしたら、ちょっと面倒だな。
     駅へ降り立ち、静かな少しひりついた空気に思わずウッとなる。宗教や集落のような特有の空気感は感じるが、この辺りで直接行っているような気配は無い。が、近い。折鶴さんは普通の顔をしているが、酒井さんは僕と同じなのか、少し緊張した顔をしている。
    「こっちですね。……怖がらせそうですけど、家の前で待ち伏せが一番確かかな…」
    折鶴さんはそう言いながら、テクテクと奇妙な町を歩いて行った。朽ちた街だった。つたでまみれた建物があったり、空きテナントになって何十年も放置されたような建物があったり。それでも、たしかに昔は賑わっていたんだろうと思えるような、広大なアスファルトと、不釣り合いな自然風景。昔はもっと活気があって、きっとビルには居酒屋が入っていたりして、夜遅くまで明るい街だったのだろう。
    今ではまるでゴーストタウンだ。フッと人が消えてからそのまま時の流れに任せて朽ちたような異常さが気持ち悪い。きっと、なにか逃げないといけない事があって、それから帰ることも叶わないまま朽ちてしまったのだろう。思い当たるものが多すぎて、一体どの災害が原因かは分からないが。
    「あのアパート……でしょうか……?」
     折鶴さんが見付けたのは古びた小さなアパートだった。所々錆びて塗装が剥がれていて、東京に住んでた彼女の部屋を何処か思い出した。まぁ、今回はアレよりも酷いが。
    「写真で見たところと一致するな。……信じたくないが」
    酒井さんはため息をついて「あいつはホント…」と小さく呟いた。物騒な世の中だから自衛してくれと何度も言ったのに響いていなかったから嘆いているのだろう。
    「本多ちゃん……」
     ここに住んでるんだ、と実感出来ないなりに呟いてみる。
    ここで待っていたら、本多ちゃんに会える。……本当に、会っていいのだろうか。
     不安な気持ちの中数分黙って待っていると、ゆっくりとした車輪の走行音と、ゆったりとした足音。足音は二人分で、なにか喋っているような声が聞こえた。
    フッと何かに突かれたようにしてそちらを見ると、会話をしていた人物の一人と、目が合った。
    「……山廃…。それに、酒井さんに……折鶴さん?」
    「え、誰?知り合い?」
     本多ちゃんの隣に居る人は、すらりとした背の高いイケメンだった。……もしかして、結婚しているのだろうか。
    「ごめん先帰ってて」
     本多ちゃんがそう言うと、そのイケメンは首を傾げた後、本多ちゃんからベビーカーを預かるようにしてアパートの一室に入っていった。……どうやら、嫌な勘が当たってしまったようだ。
    「どうしてここに?……私、ここの場所は誰にも教えて無いはずだけど」
    「……ごめんなさい、調べました。……山廃さんが…、…………あまりにも使い物にならないので」
    「えっ」
     え、僕そんなこと思われてたの??なんかツラい。いやわかってた事だけど……。
    じっと本多ちゃんから視線が向けられる。…髪、伸びたな。前はもう少し短かった気がする。服もすごいシンプルになった。……僕に見せてくれなかっただけかもしれないけど。
    「……なんか痩せ……窶れた?」
    「…5キロ落ちた……」
    「身体壊すよ、……もしかして、私のせい?」
     本多ちゃんは目を逸らして、ばつの悪そうに言うと「私のせいよね……」と呟いた。僕はそれに返事もできず、唇を噛んだ。酒井さんと折鶴さんはそれをただ見つめて、少し困ったようにして、折鶴さんが口を開いた。
    「あの……さっきの方は……?」
    「あぁ……。なんて言えばいいのかな……」
     本多ちゃんは口ごもって、少し考えた後に「付き合ってるとか、結婚してるとか、そういうのじゃないよ」と否定した。
    僕は安心したのか少し肩の荷が降りて、ようやくちゃんと、本多ちゃんの顔を見つめた。
    少し痩せた頬に、手入れのされてない長い髪、隈が目立って、少し老けて見える。疲れたような顔をしているけれど、表情の作り方はあの頃の本多ちゃんと変わらない。確かにここに存在している。
    「……上がってく?」
     本多ちゃんはどこか諦めたような、少し困ったような顔をして僕たちに聞いた。
    酒井さんと折鶴さんは僕の顔を見た後、小さく頷いてこっちだと促す本多ちゃんについていった。

     扉を開けると、お世辞にも広いとは言えない玄関と、人一人分程の横幅の細い廊下。引き戸を開けるとそこはダイニングになっていて、間仕切りで隔てられた奥にはリビングがあった。
    リビングにはおもちゃが散乱していて、先程のイケメンが幼子の様子を見ながらゾロゾロと大所帯で入ってきた此方をじっと不思議そうに見つめていた。
    「ごめん、今日は……」
    「ああ、分かった。……こんばんは」
     怪訝そうに頭を下げたそのイケメンは、荷物を軽く纏めて、僕たちの横をすり抜けて出ていった。本多ちゃんはいたずらをしようとする娘ちゃんを叱り、やれやれと言った様子でその子を抱き上げながら、「どうぞ、座ってください」と僕たちに着席を促した。
    子供用の椅子に座って、拙い仕草でたまごボーロを食べている娘ちゃんは、間違いなく僕と本多ちゃんの子だった。自分でも驚くほど、顔が似ている。女の子は男親に似るってマジなんだなあ、なんて思いながらその子を見つめた。
    「まぅ」
     小さく喋ったその子を見て、純粋に可愛いと思った。一歳ってこんなに出来るだ、なんて思いながら。
    僕の方を見てたまごボーロの入ったおわんをひっくり返したその子は、何が起こったのか分からず首を傾げ、いそいそと椅子から降りた後床からそれをちみちみ拾っては口に運び、ハムスターのように口の中をたまごボーロで埋めていた。
    本多ちゃんはキッチンにお茶を用意しに行っていて、子供の扱いが分からず大の大人3人でオロオロしていると、本多ちゃんがそれに気付いたようで、「ひっくり返しちゃダメでしょ~」なんて軽く言いながら、その子をまた椅子に座らせた。
    「……この子、名前は?」
     酒井さんがようやく本多ちゃんに話し掛けると、本多ちゃんは唇をちょっと突き出し、若干嫌そうな素振りを見せた後に小さく「なずな」と呟いた。
    「……本多なずな。まだ…喋ったりはしないけど…」
    「……なずなちゃん……」
     僕が名前を呼べば、なずなちゃんはキョトンとして僕を見つめてきた。
    目の色は本多ちゃんそっくりだ。赤くて、どこまでも深い、引き込まれるような綺麗な瞳。
    「まぅま」
    「ま、ママじゃないよ」
    「まぅ」
     何か一生懸命しゃべっているのを見て困っていると、本多ちゃんがなずなちゃんを抱き上げて「父親って分かるのね。この子人見知りなのに」と言って僕の膝に載せた。
    「ちょ、僕子供の扱いとか分からないって……」
    「大丈夫よ、落とさないようにだけしてくれれば」
    「っわ、可愛い。山廃さんそっくりじゃないですか。…なずなちゃ~ん」
     折鶴さんがなずなちゃんをあやすと、ふぇ……と小さく泣き始めて、次第に大声で泣き始めた。慌てて背中を撫でてやって落ち着かせると、僕の服をギュッッと強く握って、力いっぱい抱き着いてきた。それがあまりにも可愛くて、ほっと心が暖かくなった。
    「……それで。逃げた理由でしょ?もう素直に話すよ」
     本多ちゃんは僕たちが座っているソファから少し離れた位置にクッションを置いて座り、白い封筒を机の上で拡げた。
    「検査結果。……今は、転移した肺がんの治療をしてる」
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    777_3_7

    PROGRESS数年前の千風と柿木。
    書きたいけどなんか全然上手くレールが引けなくて進まなくなったのでみてみてしちゃう😭
     その日は目が眩むような快晴だった。
    八月のアスファルトジャングルは、次第に簡単な思考も出来ないほど灼熱の海へと変貌を遂げた。燦々と輝く太陽に照らされ、滲む汗が頬と髪をぴたりとくっつけてとてもうざったい。身体が熱を放出出来ず、じわじわと脳みそが茹だっていく。あつい頭と、ぬるい腹部。アスファルトに流れ出る鮮血を、ぼやける視界で見つめた。手に持っていたはずの拳銃は気付いたら無くなっていて、どんどん冷えていく腹部に、思わず嘔吐く。身体の温度調節機能が壊れてしまったように、寒くて暑くて目が回る。鉄板のように熱帯びたアスファルトに当たる頬はヒリヒリと皮膚を刺激するのに、肋骨から下の感覚がどんどん無くなっていく。その度に胃から込み上げる液体を吐いて、中身がなくなって胃酸を吐いて、それすらも吐けなくなって喉から胃袋が出そうになって、身体中がメチャクチャになった錯覚を起こした頃、フッと急に軽くなる感覚を覚え、何か聞きなれた声で散々耳元で叫ばれて、それで……――気がついた頃には、集中治療室だった。
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