貴方が想うよりずっと。父と兄の無念を晴らす為、帝国の存続の為、この世界の未来の為。
その為の邪魔になるものは継承初代であるジェラールが全てを取り払っておかねばならない、今後1000年を越えて続く皇帝継承の為にも。
だからこそ血によって繋がれるバレンヌの血の継承を自らで打ち切ると宣言した。
元々第二皇子だった時から自分の婚姻は国の増強の為と割り切っていたが、それも今は武力を持って行わなければならない。継承についても血ではなく能力で。
自らの幸せを擲つ事を魂を帝国に捧げると誓ったジェラール自身は既に受け入れている。
ただ、このしがらみに彼を巻き込む訳にはいかない。
だから覚悟を決めて今夜、彼…ヘクターを人払いをした皇帝の自室に呼び出した。
ヘクターには幸せになって欲しい、ジェラールに付き従い婚姻や子孫を持つ喜びを捨てる必要は無い。
短い間ではあったがヘクターがジェラールを真っ直ぐに見て、ジェラールだけをその青い瞳に映して、その大きな手のひらでジェラールに触れ、全ての感情を込めた熱いものでジェラールの中を埋めて満たしてくれた。
その事実だけで、それを思い出にして生きていけると思って。
ジェラールが全てを伝え終わったあとのヘクターはただ無表情で静かなものだった。
昼間の公な場での報告の時も彼はその場に居たから既に何かしらの思う所はあったのだとジェラールは感じた。
受け入れてもらえて良かったと安堵したジェラールだったが突然腕を掴まれ、身体を横抱きにされ、自室の奥の寝台まで運ばれて投げ出された。
突然の事に投げ出されたまま動けずにいると大きな影が覆いかぶさってくる。
その影に向き直ると先程のヘクターの表情とは打って変わって不快感をあからさまにしていた。
「なんで…!?なんで俺の幸せをアンタに勝手に決められないといけない…!!」
「え…?」
心の奥から絞り出されたような悲痛な声。ヘクターのこんな声を聞いた事があっただろうか。
イラついたような声なら何度もあった、この貫くような視線すら与えて貰えなかったあの頃に。
「アンタが帝国の為に自分の全てを投げ打つ覚悟でいる傍でオレがアンタ以外の女と幸せに?有り得ねえだろ…!?」
でも自分ではヘクターに幸せをあげられない、何一つ与える事が出来ないのだ。秘されながらも今まで続けていた爛れた関係も幸せとは縁遠いものだ。
これ以上ジェラールの為に付き合わせる訳にはいかない。
「私では君を幸せには出来ない、だから…別れよう。」
嫌だ。離れたくない。離したくない。
そんな心の奥底からの声に蓋をして。
「……だ…」
ぽつり、とジェラールの頬に冷たいものが滴った。
ふと目線を上げるとジェラールの見た事の無いヘクターがそこにいる。
放心したような表情で、いつもは涼やかで凛とした瞳が無垢に揺れ、溢れ出る涙を止めることすらしない、
「へ、くた…?」
「や、いやだ…そんな、そんなの、おれは…ッ!」
ヘクターの声が耳に響いたと同時にジェラールの顎を押さえ付けられそのまま噛み付くように唇を奪われた。
「ん、ん、ぅんっ…!」
唇を割られ、歯茎を舌でなぞられるがジェラールは口内を固く閉じる。このまま流される訳には行かない。
そう思って歯を立てると強引に押し入ろうとしてくるヘクターの唇を噛んでしまい、ジェラールの口内に血の味が広がる。
もちろん傷つけられたヘクターを見ると口元に赤い物が見えた。
私はヘクターを傷つけてまでも彼を拒否しなければいけない?
ヘクターを泣かせて、無理矢理別れて、誰を傍に置くこと無く1人で永い時を過ごす。
愛する人が他の誰かとの幸せを得たとしても祝福を伝えて。
皇帝を継承した時点でそんな事は覚悟が出来ていたはずなのに。
「君のこと、これ以上…傷つけたくないのに――!だから…ッうんんっ!!」
ジェラールが言葉を繋いだその隙をついてヘクターの舌が口内に入り蹂躙してくる。
薄い唇が切れたからか先程の血の味も更に感じられてしまう、ヘクターが生きているという命の味。
この命を自分に付き合わせる訳にはいかないのに。
やっと唇が解放され大きく息をつくとヘクターは涙を残しつつも憤ったような表情を見せた。
ジェラールが忌避されていたあの頃の、でもその目が違った。
ジェラールの無力を呆れるようなものでは無い。熱い熱を持って、ただジェラールだけをその深い蒼に捕えるような。
「アンタが、オレを傷付けてるんでしょ…?」
「え?」
「オレを傷付けたくないって言うなら、最後にアンタの事ください。
――それを生涯抱えていくんで。」
それじゃあ意味が無い、そういう想いがジェラールの顔にも出ていたのだろう。
そんなジェラールを嘲笑うかのようにヘクターが応える。
「俺は、貴方しか要らない。俺の心に居て欲しいのは貴方だけだ…!!」
穏やかな口調から一転してジェラールの両手首がヘクターの大きな手のひらによって頭上で強く固定される。いつになく力を込められている為、関節が痛みを上げる。
「いッ……うぁ…あ!は、なして…!」
「離したら逃げるでしょ?」
ヘクターは軽く嗤うようにジェラールを否定する。
だがあの頃とは違う。むしろ逆でジェラールだけを見て、離さない。
ジェラール自身もそのヘクターの瞳から腕から逃げる事が出来ない。逃げなければいけないのに身体が、心がそうする事を由としない。
(だってこれは、私がずっと求めてやまない物だったのに…!!)
ヘクターに自分を見て欲しかった、声を掛けたら笑ってくれて、取り留めのない話をして、ただ一緒に居て欲しかった。
それなのに自分が求めていた以上にヘクターは自分を求めてくれた。
嫌っていたはずなのに目が離せなくて、放っておけなくて、こちらを向いて欲しくなった。
向いてくれたと思ったらいつでも付き従いたくなった、それが余暇であっても自分の都合の何を差し置いたとしても強引に。
一緒にいられると思ったらその目に映りたくなった、自分の腕の中に閉じ込めたくなった。
腕の中に来てくれたと思ったら今度は唇を割り、肌に触れ、身体をも拓きたくなった。
そんな止めど無く溢れる欲求に翻弄されたと懺悔のような告白をヘクターから貰ったのはいつの事だったろう。
ヘクターからしたら血を吐くような吐露だったと後から聞いたが、自分と同じようにジェラール自身をヘクターが求めてくれるなんて夢のようで返事をする前に彼の腕の中に飛び込んでしまっていた程だ。
そんなやっと手に入れる事の出来た夢のような幸せを自ら切り捨てなければならない。
幸せだった出来事を反芻して抵抗する力が抜けそうになるのを思い直して更に力を入れるが、歴戦の戦士である傭兵の本気の力を振りほどく事が出来ない。
苦戦するジェラールの姿を見て薄く笑いながらヘクターが問いかけてくる。
「だからいつも言ってるじゃないですか、嫌なら術でもなんでも使って抵抗してくださいって。」
ヘクターと交わる時には冗談のようにいつも言われていた言葉だ。
本当に嫌だと思ったら蹴っ飛ばしてでも、やり過ぎてもいいから術を使ってでも拒否して構わないと。
実際はそんな事にはもちろんなることも無く、ヘクターにされて本当に嫌だった事なんて何一つ無い。
優しく抱かれることもあったし、少し意地悪だった事も、強引だと思った行為もあったがジェラールにとっては全てヘクターが与えてくれた幸福でしか無かった。
だからそんな事はした事が無かったし、今だってする気は起きなかった。
それならばヘクターが望むように、これを最後の思い出に。
「思い出になんて……」
ジェラールが思っていた事を自分を押さえ付ける男にも口にされた事で思考が止まる。
ふと気が付くと押さえられているはずの手首の痛みもほとんどなく、外そうと思えば外せる程の力しかかかっていないようだった。ただそれでもそう出来ない理由が、自分の目の前にある。
「思い出になんて、出来るわけが無い……!貴方はここに居るのに…!」
ヘクターの叫ぶ様な言葉にジェラールは何も言えず、動けないままだ。
そうしているうちにジェラールの手首をまとめあげていた自らの手を外し、ジェラールの腕を辿り、シーツの上に散った髪を梳き、脇の下から腕を入れられたと思えば強く抱きしめられてしまった。
ジェラールの胸元にヘクターの頭がある状態なので表情は分からないが少し震えているようにも見える。
本当はこんな弱った姿を見せられたとしても拒絶しなければいけないのに。
いつも自信家で覇気の溢れる男の柔らかな部分を晒されて、誰よりも愛する人が悲しむ所を見せられてそんな薄情な事はジェラールには出来なかった。
そもそもこうやってヘクターを泣かせているのが自分自身の勝手な思い込みからなのかと冷静になるきっかけにもなった。
離さなくてもいいのか、触れてもいいのか、そう思いつつも自分のすぐ近くで揺れる青い髪の毛に指を絡める。この髪をこうして同じ様に梳くジェラール以外の誰かを愛しいと見つめるヘクターの姿を思い浮かべると心の奥がぎゅうと苦しくなる。
「なんて顔してんですか?」
「それは…お互い様だと思うけれど…?」
ジェラールの胸に埋めていた顔をいつの間にかヘクターは起こしていた。
先程零れていた涙がまたぶり返したようで目が赤くなってしまってヘクターが付けるには珍しい色合いだなとくすりと笑いがもれてしまう。今そんな事態ではなかったはずなのに。
「オレを泣かせるのなんてアンタくらいのもんです。責任取ってください。」
そう涙声混じりに言われてもなんだかおかしいだけだ。ちょっと前までの争いの様相はどこかに行ってしまった。ヘクターの涙が押し流してしまったのかもしれない。
「私も…君が泣くのを見るのは嫌だなと、思って…。」
ヘクターの目尻を見るとまだ涙が溜まっているので何だか勿体ないと思い唇をあててぺろりと舌で舐め取ると、ヘクターは顔をも少し赤らめながら今日の中では珍しく笑みを見せてくれる。
そうだ、自分はヘクターのこの顔が見られるだけで幸せなのに。なのに今日は泣かせてばかりだ。
もしこのままジェラールの希望通りに別れたとしてジェラール自身は平静を保てたとしても、ヘクターはどうするのだろう。
ジェラール以外は不要だと言い切ったヘクターの自分への執着を身を持って知ってしまった今、同じ事を伝える事はもう出来ない。
なによりヘクターの幸せを勝手に決めつけてしまったジェラールの横暴な仕打ちだったのではと今更になって自らの言動に後悔を覚える。
「君を泣かせるような事が君にとっての幸せではないよね…?」
そう言ってヘクターの頬を撫でるとヘクターの大きな手で覆われそのままさらに頬に押し付けられる。
「オレはこうしてアンタに触れて貰って、その目にオレを映して貰えたらそれで幸せです。別にアンタの心にオレがいなくても。せめて俺の心に貴方を居させてくれたらそれだけで。」
この小さな幸せをも自分は叶えられないとはジェラールは思いたくなかった。
自分だって彼を心の奥に置いて耐えようと思っていたくせに彼にはそれを与えないだなんて。
「君に渡せるのであれば渡したい物が1つあって…それを渡せるなら君を私の中にに置く事が出来ると思うんだ。」
伝承法にも捕らわれたくない、愛しい人を恋しいと思うこの心を。
元々これが最後の機会と考えていたのはジェラールも同じだった。ヘクターに愛された最後の思い出として遺してもらおうと。だから自分の身体の都合の方も付けていたのだが、それを今になって言い出すのもなんだか面映ゆかった。
そんな思いでいるジェラールとは裏腹にヘクターは先程の泣き顔はどこに行ったのかと思う程の喜びを笑みに乗せている。
自分は涙に弱かったのか、はたまたいつもは見せない顔を見せられてしまったからなのか、あれだけの覚悟を持っての思いも今になればなぜあんなにも自分は頑なだったのかと不思議に思う程だ。
「私は国の形を変えようと思ってるのにどうして人の幸せを決めつけてしまったんだろう…。」
思わず本音を零してしまうと苦笑いしつつもヘクターが答えてくれる。
「そう思える環境で育ったって事ですよ。オレだってアンタのお父上と兄君がアンタの事大切にしてたのは知ってます。オレはそういうのは縁遠いので羨ましい所もありますけど。
男の本能って方でも子孫を繋げるより帝国の繁栄と宿敵討伐のために強くあろうとする皇帝陛下にお仕えする方がオレには魅力的なので。アンタとこういう関係になってなくてもそこは変わんないです。」
「私も君が側で仕えてくれていたらそれだけで…。」
でも知ってしまった、彼に与えられるものによる幸せを。それを自分も与える事が出来るのなら。
そう思う気持ちに押されてか自然と手が伸びる、触れられる程近くに居る与え合いたいその人に向けて。
ヘクターが拒む事は無かったのでジェラールは難無く抱きつく事が出来たが、先程言うまいか悩んだ事をどう伝えるかとなれば話は別だ。
あの、その、と口火を切ろうとしてもなかなか言い出す事が出来ずにいると柔らかく抱きしめられる。
「言い難い事なら無理しなくて良いですよ、こうやって甘やかして貰えてるだけでオレは嬉しいです。」
「…でも、それなら私は君をもっと甘やかしたいと思うんだ。」
出来たらここで、と自らの腹部を軽く撫でるとヘクターが固まったような気がした。
「へ、へくたー?」
「あの、アンタにお仕えできるだけで十分ってさっき言ったばかりでなんなんですけど…すいません。」
抱きついた事で密着しているのでヘクターの身体の一部が一瞬にして熱を持った事もジェラールにもすぐ分かってしまった。翌々考えると結構露骨な誘いだったと自分でも今更驚く。
「今夜が最後、と思って…でも、そんな事出来るわけがなくて…だから――っ!」
伝えている途中でヘクターに強く抱きしめられてジェラールは息が詰まってしまう。
「最後にオレに抱かれたいって思ってくれてたんです…?」
ジェラールの耳元に艶めいた声を吹き込まれて耐え切れずに目を瞑る。
そう、最後の思い出が欲しくて。そんな浅ましい望みを隠しながらあんな酷い事をヘクターに伝えて。
「君の事をずっと抱えていこうって…君には私を忘れろって言ったのにね?」
それでも自分にとっての唯一の恋だったから、それだけは抱えていきたかった。
「アンタを忘れるなんて…オレは死んでもアンタの事は忘れません。次の人生でも覚えてるかもしれませんよ?」
「次の人生?」
「それくらいアンタの事忘れたくないって事です。」
見た目もやる事も軽いと悪評される男だが本当の所は重いだなんて事を誰にも教えたくない、知って欲しくないと思う欲を持っていてもいいのだろうか。本当は手放さなければいけないと思っていたのに。
「他の誰も知らない貴方の事を、俺だけにもっと教えてください。」
最後になる筈の夜は、これから新しく始まる関係を甘やかに紡ぐ夜に。