小噺皇帝ラインハルトが崩御してから約二十年、立憲君主制へとゆるやかに舵を切るローエングラム王朝の国務尚書、ウォルフガング・ミッターマイヤーはフェザーンのとある邸宅の前にあった。
呼び鈴を押し、家令が開ける玄関を即座にくぐると、ミッターマイヤーは勝手知ったる様子で長い廊下を抜ける。
それから一際大きな両開きの扉の前へたどり着くと、その重厚な木製の扉を勢いよく開いた。
「ロイエンタール、邪魔をするぞ」
ミッターマイヤーが扉を開きながらそう言うと、声をかけられた張本人であるロイエンタールは、美しい革張りのデスクチェアに預けていた身体を、少しばかり起こしてみせた。
「おい、いくら俺と卿の仲でもノックくらいするものだぞミッターマイヤー」
「すまんすまん」
ミッターマイヤーはそう軽く謝ると、勝手知ったる様子でデスクの前に置かれた応接用のソファーへと腰を下ろした。
その様子を見たロイエンタールは慣れているのか小さくクスリと笑うと、デスクの上に置かれていた空のロックグラスを手に取り、椅子から立ち上がって壁際に設えられた小さなバーカウンターへ向かった。
そしてカウンターの上へ置いた、空のグラスと同じデザインのグラスを棚からもう一つ取り出すと、慣れた手つきで氷とウィスキーを注ぎ、ミッターマイヤーの隣へと腰を下ろす。
「それで、今日は何の用だミッターマイヤー」
ロイエンタールが手に持ったグラスの一方を、ミッターマイヤーに差し出す。
「昼間から飲んでいたのか」
「国務尚書の卿と違って、俺のように退役して長いこと隠居生活をしていると、酒を飲むくらいしかやることが無いのでな」
ロイエンタールの皮肉屋な言い様に、ミッターマイヤーは少しばかり眉を顰めつつも、差し出されたグラスを受け取ると、グラスの中身を軽く口に含み一口飲み下す。
「美味いな」
「そうだろう 」
「ああ、これなら昼間から一杯やってしまうのも頷ける」
ミッターマイヤーはそう言って人好きのする顔でニカリと笑うと、グラスをテーブルへ置き、代わりに上着の内ポケットから一枚の紙を取り出した。
「ん」
「なんだこれは 」
「今度行われる軍の公開演習の案内だ。 フェリックスも参加するから卿も一緒に見に行こう」
「おいおいミッターマイヤー、卿は何を考えている いくらお許しを得たとしても、俺は先帝に弓を引いた人間だぞ。 そう易々と公の場に出るのは憚られる」
ロイエンタールはそう言いつつも、ローテーブルの上に置かれた紙を手に取ると、細かく書かれた書類の内容に目を通すべく、シャツの胸ポケットから眼鏡を取り出した。
「ロイエンタール、お前……まさかそれ、老眼鏡か 」
ミッターマイヤーが心底驚いた様子でロイエンタールに問いかける。
一方問われたロイエンタールの方はというと、さほど気にしていないのかミッターマイヤーをチラリと一瞥すると、慣れた様子で老眼鏡をかけ書類に目を通し始める。
「老眼鏡くらい今更驚くようなことでもなかろう。俺も卿も、もう五十なんだ。いい歳と言ってもいい」
「だがしかし...」
「俺は白髪が交じるようになった時点で諦めた。 そもそもマインガイザーへ反旗を翻した時に、一度は死にかけた身だ。 今更老いに対して抵抗して何になる 」
そう言って顔を上げるロイエンタールの黒髪には、確かに幾筋か白いものが交じっている。
双璧と評され互いに雌雄を競った争覇戦は、今では皇太后となったヒルダと、当時上級大将であったメックリンガーらの働きで、ロイエンタールを陥れようとする奸臣ラングとグリルパルツァーの企みは白日の元に晒された。
瀕死だったロイエンタールも、部下たちの献身によりなんと一命を取り留め、こうして今日まで命を繋いでいる。
それ以降約二十年、ロイエンタールは争乱の責任をとって退役し隠居生活を、一方でミッターマイヤーは国務尚書として、なれない政治の世界に引っ張り出されている。
そんなつい昨日のことのように感じる出来事を思い返しながら、ミッターマイヤーがもう一度ロイエンタールの顔を見ると、眼鏡越しにのぞくかつては猛禽を想わせた涼やかな金銀妖瞳の目元にも、いつの間にやら小さく薄らとシワが刻まれていた。
「ロイエンタール、卿も老けたな」
今度こそまじまじと言うミッターマイヤーの言葉に、今度はロイエンタールの美しい眉間に薄らとシワが寄る。
「そんなことを言うがなミッターマイヤー、そういう卿も年相応に老けたではないか。 わかりにくいが卿の髪も耳の辺り……ほら、ここだ。 しっかりと白髪が生えてるではないか」
ロイエンタールはそう指摘しつつ、ミッターマイヤーの耳の上のあたりの毛を少しばかり弄ぶ。
そして指摘された通りミッターマイヤーの蜂蜜色の収まりの悪い髪にも、チラホラと白いものが交じり、確実に月日の流れがその身に現れていた。
「やめろ、くすぐったいだろう。子供でもあるいし。 はぁ...フェリックスもまだ幼いし、あまり老けたくはないんだがな。 なにより老けるとエヴァに嫌われる」
ミッターマイヤーのうんざりしたような言い草に、ロイエンタールの方こそそれこそ聞き飽きたような顔をして、それまで掛けていた眼鏡を外した。
「そんなこと今更心配することではなかろう ミッターマイヤー夫妻と言えば、帝国きっての仲の良さで有名ではないか。それにフェリックスも幼いと言っても十八だ。 俺も卿もその年頃には、もう軍籍に就いて遠征にも出ていたではないか」
「それはそうなのだが……」
ミッターマイヤーはそれでもどこか納得いかないのか、テーブルの上に置かれていた老眼鏡を手に取ると、手の中で確かめるようにそれを弄ぶ。
肉厚な指先でフレームをなぞり、あれこれと思考を逡巡させながら、もう一方の手でウィスキーを一口煽る。
「なぁロイエンタール、少しだけこの眼鏡……掛けてみてもいいか 」
老いに対して抵抗したい気持ちはあるものの、好奇心が勝ったのだろう。
ミッターマイヤーのグレーの瞳が、若い時分幾度となく見せた、好奇心の色をのせてロイエンタールを見る。
「好きにするといい」
ロイエンタールは小さく笑い目を伏せながらそう言うと、氷が少し溶けたウィスキーを一口飲み下しす。
「どうだ 似合ってるか」
年甲斐もなくはしゃいだ声音でミッターマイヤーが問う。
ロイエンタールが一度伏せた瞼を押し上げて、眼前のミッターマイヤーへ目を向ければ、そこには先程まで散々老いるのは嫌だと言っていたくせに、今度は嬉々としてグレーの瞳をくりくりと動かすミッターマイヤーの姿があった。
「似合っている、とてもな」
「本当か 」
「ああ、本当によく似合っている。その姿ならきっと新米士官と間違われるな」
「あっ、此奴~〜〜」
ロイエンタールの言葉にわざとらしく、ミッターマイヤーが怒った顔で拳を振り上げる。
するとロイエンタールはすかさずその拳をパッと掴み、そのまま手をグッと自分の方へ引き寄せると、拳のままの指先へチュッと愛おしそうに軽く口付けを落とした。
「なっ ……はぁ、卿も昔とちっとも変わってないな」
眼前でかつてと寸分違わず、自分へ熱の篭った視線を向ける金銀妖瞳の親友を見て、ミッターマイヤーは呆れたようにそして肩をすくめると、そのまま観念したようにロイエンタールに身体を預け、その胸の鼓動に耳をすませる。
「俺も卿も、こうして穏やかに生きていられるだけでも良しとすべきだな」
「そうだな、かつては思いもしなかった」
そう言ってロイエンタールは過去の思い出に想いを馳せるように、かつてよりも幾分透き通った蜂蜜色の髪をゆっくりと撫でる。
ミッターマイヤーはその手の感触に微睡みながら、ゆっくりと目を閉じた。
おまけ
「ロイエンタール すごいぞ これ掛けると本当によく見えるな 」
「卿も老眼鏡を買う気になったか ミッターマイヤー」
「……それは、嫌だ」