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    planet_0022

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    書きなぐった短編たちの供養所

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    現パロ
    旅館経営者御曹司ウツシと住み込みで旅館で働く苦労人元JK愛弟子ちゃんのド健全ラブストーリー

    ろまこさん(@romako_ex)が書いていらっしゃった元ネタ(https://poipiku.com/6214969/8696907.html)を許可頂き小説化したものです。
    めーっちゃくちゃ楽しかった!書かせて下さってありがとうございました!

    #ウツハン
    downyMildew

    夜明けのワルツ ピピ、というアラーム音が鳴るのとほぼ同時にぱちりと瞼が開いて覚醒する。時刻は朝の四時。日の出まであと三十分といったところだろう。窓の外はまだ薄暗い。けれどやるべき仕事は山ほどある。掃除、朝食準備、来訪予定のお客様の人数把握……数えればキリがないほどに目まぐるしい。この生活にもずいぶんと慣れてきたけれど、それでも朝方の布団の中ほど離れがたい場所はないものだ。
     うー、と唸るような声を上げて後ろ髪をひかれる思いであっても、仕事は待ってくれやしない。がばり、と勢いよく起き上がってそのままの流れで布団を畳み、身支度を済ませて……と、一連の動作を流れでやってしまわないことには、いつまでたっても次へ進まないことをヤコは嫌というほど知っていた。ふわぁ、と大きなあくびを一つして、洗面台の鏡に映るまだ寝ぼけた瞳をしている自分へ喝を入れるべく、ぺち、と両手で軽く頬を挟むようにして叩いた。蛇口を捻って出てくる冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗って、気合の入れ直し。
     今日もきっと目まぐるしい一日が待っている。

     おはようございます、と同僚に挨拶をすればいつものようにおはようと返されるものの、何やら浮足立った様子でひそひそと話に夢中になっている。一人二人であればまぁいつものことか、と看過できたがそれが旅館の女性陣のほぼ全員がそんな様子であったせいで、ヤコは首を傾げた。
     朝の早い仕事であるから、早朝にバタつくのは日常のことであったが、どうやら今日の女性陣のそわそわとした落ち着かなさっぷりには理由があるらしかった。
    「どなたか大口のお客様でもいらっしゃるんですか?」
     たまたま庭先の掃除当番で一緒になった年嵩のベテラン仲居にヤコがそう尋ねると、彼女は竹箒でせっせと石畳を掃きながらにっこりと微笑んでいる。その微笑みが休憩室のテレビで放送されているワイドショーを見ながら芸能人のゴシップを見て微笑んでいる時の彼女の姿とまったく同じであることに気づき、なんとなくヤコは嫌な予感がした。
    「ヤコちゃんは知らないんだった? 今日からね、御曹司が来るのよぉ」
     ふふふ、と笑う彼女の顔はほんのりと赤く染まっている。御曹司、という単語を聞いてようやくヤコも得心がいった。
    「あぁ、この旅館の跡取りっていう……」
     ヤコが住み込みで働いている旅館は、観光地でちょっと名の知れたそれである。広大な敷地、絶景を眺めながら入る露天風呂、四季折々の彩を身近に感じられるというのが、口コミで広まっているこの旅館の評価だった。少々山間に近いという立地的な問題はあれど、それが隠れ家的なお宿として最近は人気を博しているらしく、ありがたいことに予約は先々まで埋まっており、ヤコも忙しない日々を過ごしているというわけである。
     そんな旅館の跡取りと称されている御曹司の噂はヤコも少しだけ聞いたことがあった。
     創業者の息子で、今は経営の勉強をしているらしく、創業者グループの経営するリゾート関連事業の会社での指揮を若くして任されているらしい。聞くところによれば容姿端麗、性格も穏やか、仕事も出来る有望な人物……ということらしいが、果たしてどこまでが本当なのか疑わしいところであった。まさかそんな、漫画の世界ではあるまいし、とヤコとしてはその噂に対しては半信半疑であったが、とはいえ自分と関わることもないだろう殿上人の話である。それが本当であろうが嘘であろうが、ヤコにとってはどちらでもいいことであった。
    「だから皆さんちょっと今日は嬉しそうなんですね」
     比較的年代の高い主婦層の女性従業員が多いとはいえ、皆やはり女性は女性である。見目のいい男が来るとなれば色めき立つのは自然なことであった。恋愛関係を差し挟まない、所謂アイドルを応援するファンのような賑やかさはヤコも嫌いではなかった。
    「ヤコちゃん、彼の姿を見たことは?」
    「いえ、ないです。私はお客様のお出迎えや、お部屋廻りもほとんどしませんから……」
     ヤコの主な業務は施設や部屋の清掃、仕出しの準備の比率が多く、あまり客前に出ないことが多い。旅館の支配人にはお客様への接客をやってみないか、と一度打診されたこともある。住み込みで働かせてもらっている身だし、と一度は承諾したのだが、若いヤコを酒の席に招こうとする所謂迷惑客に何度か当たってしまったことがあり、対応に苦慮したことが思い起こされる。
     そんなヤコの姿を見て、支配人自ら軽率なお願いをしてしまって申し訳なかった、と謝罪を頂き、それ以来ヤコは接客対応については積極的にしなくてもよい、ということとなったのである。迷惑をかけてしまったな、と一時期は落ち込んだものだが、若い子にはああいったお客様のあしらい加減は難しいわよね、と皆が同情的であったことは幸いだった。
     どれだけ旅館側が注意苦言を呈したとしても、旅先で抑圧された心が解放される少々軽率な客というのはどうしても出てくるものなのだ、とヤコはこの時肌身で感じて思い知ったのである。
    「それじゃあ今日が初めてってことね」
     件の御曹司もヤコがこの旅館で働くようになってから、度々視察を兼ねて訪問をしていたらしいのだが、生憎とヤコはそういった事情もあり、顔を合わせた事がなかった。
    「なんでも今日から本格的にこちらにいらして旅館の経営修行を始められるらしいから、従業員一同でお出迎えをすることになってるのよ」
    「そうなんですか?」
     確かに跡取りということであれば、ゆくゆくはこの旅館の総支配人という形で収まる事となるのだろう。であれば、その例の御曹司は自分たちの未来の上司である。もてなしの基本はお出迎えから、と従業員研修の時に聞かされたことが思い起こされる。せめて身だしなみぐらいは気を付けよう……注意されない程度には。と、少しだけ身の引き締まる思いがした。
    「緊張することないわよ。気さくな人だから、年の近いヤコちゃんが話しかけたら喜んでくれると思うわ」
    「そうですかねぇ……」
     そんな機会ないだろうけど、とヤコは心の中で呟きながら笑顔で返事をする。カサ、カサ、と石畳の上を滑る竹箒の擦れる音。
     住む世界の違う人間がやはりこの世の中にはたくさんいるのだな、とヤコは小さく嘆息をした。

     さらさら、とノートと擦れる芯の音。従業員専用の休憩室では音量を下げられたテレビから漏れる笑い声と、それよりもボリュームの大きい噂話に花を咲かせる皆の声がヤコの耳に入ってくる。広げられたノートの隣にいくつか置かれている袋のうち、水色の可愛らしい包装がされたものを手に取って、あむ、と口の中に放り込んだ。ソーダ味をしたまんまるの飴玉だ。
     早番担当の多いヤコが夕方決まった時間に休憩室でこうして勉強をしていると、同僚の皆が偉いね、精が出るね、なんて言いながら、まるで小さな子供に与えるように飴やお煎餅、お饅頭、金平糖とあれこれ差し入れをしてくれるおかげでいつでもテーブルの上は賑わっている。頂いてしまう申し訳なさを覚えつつも、こうして勉強の合間に食べる菓子がささやかな楽しみの一つでもある。
     しゅわしゅわと口の中で溶けていくその味を楽しみながら、ヤコは使い込まれてボロボロになっている参考書へと目を通す。少し前に古本屋で購入した高校卒業認定資格試験問題集。誰かの手によって書き込まれた注釈は時に頼りにもなるのだが、カラーマーカーを引かれている箇所が多すぎることだけがネックであった。一文おきにマーカーが引かれていては、どこが重要箇所かわかったものではない。
     実のところ、少々込み入った家庭事情のせいでヤコは高校を中退している。とはいえ、勉学が苦であるというわけではない。ここで働きながら少しずつお金を貯めて、ゆくゆくは大学に通えるようになりたいという目標を立てている。人間、目標があれば少々嫌なことがあったとしても多少のことは目を瞑れるものだ。少なくとも今のヤコにとっては、目標とはそういうものである。
     うーん、とシャープペンシルの先端をこつんこつん、とノートにぶつけながらヤコはぼんやりと天井を眺めた。きゃらきゃらと楽しそうに笑って談笑している従業員たちの声が途端に耳に入ってくる。その話題の中心は今日皆でお出迎えをした例の御曹司。
     従業員全員でお出迎えを、という話であったので当然ヤコもその御曹司を玄関先で出迎える一員となっていた。朝の早い時間からフロントのあるエントランスホールに集まった従業員たちのテンションの上りようといったら、以前旅館にお忍びで不倫旅行に訪れていた有名人を目ざとく発見した時と遜色がないほどである。支配人や厨房の板前といった男性陣はそんな姿に少々呆れた様子であったけれど、女性陣はこれから来る御曹司との対面に胸を躍らせているのが手に取るように分かった。むしろ、はしゃいでいない女性はヤコ一人であったようにすら思える。
     はいはいお静かに、と支配人に窘められながらぞろぞろとエントランスホールを出て規則正しく横並びになる姿はなんだかちょっと滑稽ですらある。楽しみねぇ、なんて声があちらこちらから聞こえてくるのを聞きながら、ヤコはこのお出迎えが長引くようであればこの後に控える大浴場の清掃準備を急がなくてはな、と頭の中で今日のスケジュールの組み直しを行っていた。
     そんな時、ずいぶんとピカピカに車体を磨かれた高級そうな車が控えめなエンジン音と共にやってきて、旅館の前へと止まった。その車の姿を見た突端に、支配人が慌てて駆け寄って何やら車中の人間に声をかけている。なるほど、あれが例の御曹司であるらしい。自ら車を運転してきたらしい御曹司は、エンジンを止め、車から降りて支配人にキーを預けてぺこりと頭を下げると、ずらりとエントランス前に居並ぶ従業員たちの姿に気づいたらしく、ぎょっとした表情になった。
    「そんな、皆さんお忙しいでしょうに出迎えなんて……」
    「いえいえ。皆、貴方の到着を楽しみにしていたんですよ」
     渡されたキーを持って車に乗り込んでしまった支配人に向けて、眉を下げて困り果ててそう言っているのがヤコの耳にも聞こえた。開けられていたウィンドウに縋り付くように言っていたものだから、可愛い、と、幼い少年を揶揄うかのような声色があちらこちらから聞こえてくる。
     やがて無情にも車のウィンドウは支配人によって閉じられて、お高そうな車は御曹司を残して軽快にこの場を去っていった。近くにある従業員用の駐車場へと置きに行ったのだろう。少しの間去っていった自身の車を目で追っていた御曹司は、やがて何かを諦めたかのように小さくため息を吐いてから、横並びで待ち受けている従業員たちの視線の中心へと立って深々と頭を下げた。
    「皆さんお忙しい時間帯にも関わらずお心遣いを頂きありがとうございます。まだまだ若輩者ですので色々とご面倒かけるかと思いますが、精一杯学ばせて頂きます」
     朗々と通る声で告げられた丁寧な挨拶と所作の整った礼。なんだか、とても真面目そうな人だな、とヤコは第一印象でそう感じた。御曹司という言葉にあまり良い印象を持っていなかったが、少なくともそういったことを鼻にかける人ではなさそうだと思った。
     ぱちぱち、とまばらだった歓迎の拍手がいつしか大きなものに変わり、皆がこの御曹司を心から歓迎しているのだということがわかる。ヤコもつられたように小さな拍手を御曹司へと送った。御曹司が深々としたお辞儀から顔を上げると、照れくさそうに笑って頭を掻いている。確か聞いた話によるとヤコより年齢が十以上は上だったと思うが、その仕草に少々幼い印象を受けた。
     ヤコがぼうっと拍手をしながら照れている御曹司の姿を眺めていると、突然パチリ、と御曹司と視線がかち合った。御曹司は二度程どこかわざとらしい瞬きを繰り返して、それでもヤコから視線を離さなかった。なんだか居心地の悪さを覚えながらも、露骨に視線を逸らすのも失礼だろうとヤコもまた少しだけ意地になって視線を逸らさずにいると、御曹司はそんなヤコの姿を見てにっこりと微笑んだ。
    ――さ、それじゃあこの辺にしてお仕事を始めましょうね。
     女将の一言で拍手は止み、従業員と御曹司の顔合わせも終了。さぁお仕事お仕事、と皆は蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの持ち場へと足早に去っていく。旅館には今もお客様がいて、当然ながら御曹司の出迎えをしたからとて自分たちの仕事がなくなるわけではないのだ。一人、二人と去っていく同僚の後を追わなくては、とヤコもそこでようやく御曹司から視線を逸らして、パタパタと急ぎ足で旅館の中へと入っていく。
    「ヤコちゃん、ウツシくんと知り合いだった?」
    「いえ、初めてお会いしてるはずですけど……多分」
     どうやら御曹司のヤコにあてた微笑みに他の同僚も気づいていたようで、不思議そうに尋ねられたが、それを聞きたいのはヤコの方である。なんならヤコは、あの御曹司の名がウツシというのだということもたった今知ったのである。どこか自分におかしなところがあったかな、とその後ヤコは従業員専用の化粧室で入念に自分の姿を確認したが、変な寝癖も来ている作務衣に乱れもなにもなかった。
     結局、仕事を終えて自主勉強の時間となった今をもってもその謎は解けないままである。
     
     こつん、こつんとシャープペンシルとノートのぶつかりあいは終わることがなく、またヤコの口から漏れる小さな唸り声も止まることはない。今朝見た御曹司……ウツシに向けられたにこやかな笑顔が頭をよぎり、その横を数々の数式が通り過ぎていく。ごちゃごちゃとした脳内イメージの煩雑さにヤコは文字通り頭を抱えるしかなかった。集中しなければとは思うのに、それをうまく脳の方が処理してくれない。はぁ、と息を零して少し休憩した方がいいかと持っていたシャープペンシルをノートの上に転がしてやろうかと思った時だった。
    「頑張ってるね」
     聞き慣れない男の声が頭上から聞こえてきた。なにせこの休憩室で聞こえてくるのは女性特有の甲高いお喋りや、テレビから漏れ聞こえるわざとらしい笑い声ばかりである。張りのある優しい男性の声なんてものが聞こえてくるわけもない筈だった。
     ヤコが恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは先程まで数式との交通渋滞を起こすほどに考えていた渦中の人物。ウツシはうんうん唸り声をあげるヤコの姿を見て、にこやかに微笑みながら佇んでいた。
    「あ、う、ウツシ……さん?」
    「覚えていてくれたの?」
     ヤコが男の名を呼ぶと、嬉しいなぁ、と本当に嬉しそうにそう言うのだからたちが悪い。隣いいかな、とヤコの左側にある空席の椅子と空間を指さされて尋ねられてしまえば、当然断る理由もなかったのでこくりと小さく頷いた。
     音も立てずに椅子を引き、ヤコの隣に腰かけたウツシは、進捗芳しくないノートの状況や開かれている参考書のページを見ると、顎に手を当てて何やら考え込んでいる様子である。こちらから何を話しかけたらいいのかもわからず、妙な緊張感に包まれてしまい、ヤコは身動きすら取れずにただじっとウツシの動向を伺うしか出来なかった。
    「それじゃ、基礎から説明するね」
    「え?」
     朗らかな笑顔を浮かべたウツシは、まずここなんだけど……と言いながら指先で丁寧に参考書に引かれているピンク色のマーカーラインをなぞっていく。いったいどういう状況なのか、もう何が何だかわからないけれど、とにかく聞き逃さないようにしなければ、とヤコは滑るように流れていくウツシのその指先の動きを懸命に追った。
     ゆっくりとスライドし、時に注目と言わんばかりにトントン、と紙面を叩かれ、指先の動き一つとっても感情が豊かなのだな、とむしろ感心するほどであった。抑揚をつけながら、テンポよく行われる解説は実にシンプルながら明快で、不思議なほどに耳になじみ、するすると頭の中にその説明が刻み込まれる。
     ウツシは順序だてての説明が非常に上手く的確だった。必要な項目だけを提示し、考えるべきことを整理させて、答えへと導く。理路整然とした説明に、ヤコはただただ頷く。字面を目で追って理解していた気になっていたのが恥ずかしいとさえ思えたほどである。
     今まではなんとなく解答にたどり着いていた程度の理解度だったものが、どうしてその解答にたどり着いたかの説明が出来るという自信が湧いてくる。学ぶということの意味を身をもって知っているという実感に、ついついヤコの体は前のめりになった。
    「ということだから使う式が……」
    「これになるってことですね! すごい!」
     見事ウツシに見守られながらノートへと書き出した数式の羅列は正解を導き出していた。わぁ、と思わず感嘆の声を上げたヤコにウツシは大きな手で小さく拍手をしてみせた。よくできました、と優しくそう言ってくれたウツシにヤコもまた笑顔を向ける。
    「数学って見た目がなんとなく難しそうだろう? だから敬遠されがちなんだけど、実はどの数式を使えばいいのかの判断が出来ればそこまで難しくないんだよ」
     記述問題みたいに答えが複数あるわけでもないからね。たった一つの答えを探せばいいだけ。そう考えると気が楽にならない? とウツシは笑っている。
    「私、数字を見るとなんとなく拒否反応が出てたんですけど、解けた時の……爽快感って言うんでしょうか? 初めて楽しいと思いました!」
     これまでとっかかりの一つも掴めず、なんとなくで敬遠をしていた数学の問題がこんなにするすると紐解けるなんて、とヤコは少し興奮した様子で隣に座るウツシへそう告げた。まるで難しいクイズ問題をずばり言い当てた時のような楽しさに、ヤコはにっこりと笑みを深めてウツシに礼を述べた。すると、しぱしぱと数度瞬きをしてウツシはヤコの顔をまじまじと眺めている。まるでヤコの勢いに気圧されているかのような反応だった。ウツシとヤコの間に少しの沈黙が流れる。はっ、とヤコは我に返って、慌てて俯き、ウツシからその顔が見えないように隠してしまった。
    「どうしたの?」
    「あ、いえ、その……はしゃいでしまって……すみません!」
     ウツシの方から話かけてきてくれたとはいえ、よくよく考えてみればヤコはこの旅館の従業員で、ウツシはまだ正式ではないとはいえ、いずれはこの旅館の総支配人となる人物である。所謂雇用主と従業員。社長と平社員だ。こんなに気安く話しかけていい相手ではないことは明白であった。
     子供のようにはしゃいで教えを受けていた自分への気恥ずかしさが唐突に頂点へと達してしまい、ヤコは耳まで真っ赤にして、こちらを覗き込んでこようとするウツシから見えないように、ぷいと顔を背けた。
    「え? 教え甲斐があって楽しかったよ? あ、そうだ。他にもわからないところはあるかい? 俺でわかる範囲なら説明するけど、どうだろう?」
    「あ、あの……」
     ウツシはヤコの不躾な様も全く意に介していないようで、むしろ力になれるのならば、とその真っ赤になった顔を覗き込むようにしてどうだろうかと伺いを立ててくる。人好きのするその笑顔を見ると、いいです、大丈夫です。と突っぱねる事は流石に憚られた。それじゃあ、とヤコは恐る恐る参考書に開かれているページを指さしながらウツシへと言った。
    「それじゃあ、この辺りの問題とかもいいですか?」
     どれどれ、とウツシがヤコの指さす問題を見ると、可愛らしい赤文字でわからない!という記述と泣いているような顔の落書きがあって、思わずフフと微笑ましく笑う声がウツシの口から零れ落ちる。
    「あっ、ちち、違うんですこれはその……!」
    「うんうん、じゃあこれも説明するね」
     落書きを見られてしまった気恥ずかしさからあわあわと言い繕うヤコの姿を見て、面白いなあと内心思いつつ、ウツシはあまり揶揄ったら可哀想かなと再び参考書へと指を滑らせるのであった。

     
     ◇◇

      
     こういう言い方は語弊があると理解をしているが、しかしウツシは思わずにいられなかった。
     人生というのはなんとも面白みのないものである、と。
     ウツシは何も己の身の上を嘆いている訳ではない。他人からすれば十分すぎるぐらいに恵まれている環境を与えられているという自覚も勿論持っている。
     生活に不自由を感じたことはない。資産家の両親が経営する会社はこれまで業績が陰ったこともなく、手堅い事業で地盤を整えていることもあり、身も蓋もない言い方をするのであれば、今後の人生で金に困る事などもないのだろう。
     幼い頃から勉学も運動も人並み以上に出来る事ばかり。交友関係は人当たりのいい笑顔を浮かべておけば大抵はなんとかなるものだということも知っていた。そうやってのらりくらりと、皆がやっているような人のフリをしながら年を重ねていく内に、ゆくゆくは親の経営する会社をいくつか引き継いでさほど興味もない仕事をこなしながら生きていくことになるのだろうな、という漠然とした青写真を持っていた。
     特にそのことに文句があるわけでもない。親を疎んでいるわけでもない。友人が嫌いなわけでもない。ただ、つまらないだけだ。無味乾燥で刺激もなく、心を動かされることのない日々。
     そんなウツシへ著名な観光地に建てられたグループの経営する旅館の総支配人の肩書をつけられたのは、少々想定外の出来事であった。グループ事業の一つであるリゾート経営についての会社を任された時にその可能性を考えなかったわけではないが……確かに何度か視察で訪れたことのある旅館ではあるので、馴染み深いといえばそうなのだろう。しかし、それにしてもあまりに唐突な辞令である。とはいえ、ウツシにその辞令を断る権限などない。都会の喧騒を煩わしく思う性質であることは幸いだな、と思いつつ謹んでその辞令を受けたのがつい先日のことであるように思える。
     旅館の従業員の顔ぶれは何度か訪れている内に把握していた。皆人当たりのいい人物ばかりである。しかし、歓迎はいらないと事前に伝えていたにも関わらず、気持ちだからとウツシが旅館へと着任した際には従業員総出で出迎えられたのには流石に参ってしまった。困ったな、と思いつつ好意を無碍にするわけにもいかないだろうと謝辞と挨拶を行った時、玄関先に立ち並ぶ従業員の中で、一人だけウツシには見覚えのない少女がその場にいることに気付いた。
     少女、というと失礼かもしれないが、女性というには少々幼い。どう見ても年頃は十六か十七かそこらである。確か支配人との雑談の中で少しだけ聞いた事があった。若い女の子が住み込みで働き始めたけれど、今時珍しいぐらいに働き者な子であると。少々込み入った事情があるようで、住み込みで働けるのならばどんな仕事でもします! と泣きそうな顔で面接にやってきたものだから、ついつい可哀想になって採用したのだとか。
     ウツシはそこにどんな理由があるにせよ、懸命に、そして真面目に何かに取り組む人間が好きだった。それはもしかしたら自分に欠けているものを持っているという羨望であったのかもしれない。いずれにしても、そんな話を聞いていたウツシにとって、少女の印象は悪くないものであった。じろじろと不躾な視線を向けてしまっていることには気づいていたが、ついついじっと少女を眺めていると、やがてぱちりと少女と視線がかち合う。ウツシがにこりと笑みを向ければ少女は大層怪訝な顔をしていた。
     その後、従業員の休憩室に立ち寄ったのはたまたまだった。現支配人から改めて施設内の見学でもされてはどうですかと勧められてのことだった。曰く、対外用の客向け施設はあらかた把握しているだろうけれど、内々の所謂従業員用施設はきちんと見ていないだろうと。ぐうの音も出なかった。
     本社から派遣された経営グループ一族の御曹司。そう旅館の従業員たちに呼称されていることもウツシは知っている。それは侮蔑とはまた異なるが、線引きではあるだろうなという思いがあった。信頼関係というものは時間をかけて紡がれていくものである。一朝一夕に築かれるものではないのだ。従業員を尊重し、自分から歩み寄りをし、働く者の視線に立たねば得られない。ウツシとて肩書を背にした、ただのお飾り総支配人になる気は毛頭なかった。
     そうして立ち寄った従業員用の休憩スペースに少女はいた。何やらきゃいきゃいと世間話に花を咲かせる女性たちの輪に入る事もなく、かと言って適当につけられているテレビを眺めて、あははと笑っているでもない。彼女は真剣な面持ちで何やら手元の書籍へと視線を滑らせながら難しい顔をしている。ぼそぼそと小さく口を開けて呟きながら、手に持っているシャープペンシルで下唇をうにうにと押し上げている。学生時代によく見かけた風景がそこにあることにウツシは思わず笑みが零れた。やはりまだ少女だ、と。
     眉間に皺を寄せながらうんうんと唸るような声を上げている彼女は、その皺をなんとか揉み解しながら、机の上にお供え物のように置かれた飴玉を手に取ってぱくりと赤い舌の上で転がした。途端に誰が見ているでもないというのに零れ落ちてしまうかというほどの笑顔を浮かべている。
     面白い子だな、と思った時には、もうウツシは彼女のすぐそばまで近づいていた。何も深いことを考えていなかったし、難しいことも考えていなかった。
    「頑張っているね」
     ただ、話がしてみたい。そう思った。

     彼女、ヤコという女の子とウツシがそうして共に夜の勉強会をし始めて季節が一つ、二つと移ろい数か月が経過した。勉強会といっても示し合わせて約束をしているわけではない。ウツシも多忙な身であるし、ましてヤコも旅館で忙しなく働いている身である。ヤコが早番で仕事を終え、ウツシも時間の都合をつけられた時だけ行われるちょっとしたイベントごとのようなものであった。それでも休憩室で必死になって勉強に取り組んでいるヤコの姿を見かければ、やぁ! と声を掛けることをウツシは忘れなかったし、そのウツシの声を聞いてヤコがこんばんは、と微笑んでくれる事に心が温まる思いであった。
     ウツシとヤコの勉強会は、他の従業員たちの間でも半ば休憩室の名物的に捉えられているようで、近頃ではウツシが休憩室をこっそり覗いてみると、今日はヤコちゃんいませんよ、だとか、もうヤコちゃんがお待ちかねですよ、だとか、そういった妙な心遣いを受けるようになってしまっていた。ありがたいはありがたかったが、老婆心であるとも言えないことはなく、ウツシはそのなんらかの期待を込められているのだろうお節介な言葉にハハ、と苦い笑いで返事をすることしかできなかったのだった。
     そんなある日、自身の仕事がひと段落ついた夕刻。茜色した太陽が山の向こうに姿を消す頃合いに、ウツシが休憩室をそっとのぞき込むと、いつもヤコがいる定位置にその姿はなく、別の従業員たちが会話に花を咲かせている様子であった。今日は遅番だっただろうか。そういえば旅館内でも姿を見ていないな、とウツシが考え込んでいると、あら、とちょうど通りがかったらしい仲居頭の女性がそんなウツシの様子を微笑ましそうに見つめて声を出した。
    「今日ヤコちゃんはお休みですよ」
    「あっ、そうなんですね。すいません、つい……」
     何も謝るようなやましいことをしているわけではないのだが、なんとなく気まずさを覚えて頭を掻きながら、いつもの癖で様子を見に来てしまったと言い訳を述べた。仲居頭の女性はそんなウツシの照れ隠しもお見通しのようでくすくす笑いながら、仲がよろしいですものね、と笑っている。
    「ヤコちゃん、今日から三日間いないんです。珍しいですよね、あの子あまり積極的にお休みを取る子じゃないから……」
     なんだか寂しいんですよ、と仲居頭の女性は眉を下げてそう言った。
    「元気な子ですからね。俺も元気をもらっています」
     私もですよ、と仲居頭の女性はそう言って、せっかくだからといつもヤコに勉強中の差し入れとして渡しているビニールに包まれた温泉饅頭をウツシへと手渡し、その場を去っていった。忙しい身だろうに申し訳ないと思い、ありがとうございますと声をかければ、三日なんてすぐですよ、と慰めるような言葉が返されて笑ってしまった。まるで寂しがる子供を慰めるような言葉である。

     そうか今日からだったか、とウツシは自室に戻って一息ついた後、少し前に勉強会の最中にヤコに言われたことを思い出した。
    「近々親戚の家に行く予定なんです」
    「親戚の?」
     それじゃあちょっと休憩、と声をかけて温かいお茶を啜りながらお菓子をつまんでいる休憩時間。唐突にヤコはそんな話題をウツシへと切り出した。
    「里帰りってことかな?」
    「そう……ですね。両親を亡くしてからお世話になっている親戚の方の家ですので」
     そういうものかもしれません。そう告げるヤコの笑顔がどこか無理をしているように感じられて、ウツシは首を傾げる。
    「場所は遠いのかい?」
    「ここからだと少し遠いかもしれませんね」
     どういう場所なのかとウツシが聞いてみると、何も面白いものはないですよとヤコは困ったように笑っていた。山と田んぼ、自然だけはいくらでもあるような昔ながらの土地です、と。
    「なので、支配人にお願いして、あまりご予約が集中していない時に三日ほどお休みを頂く予定なんです」
     ご迷惑かけちゃいますけど、と言葉を濁すヤコにウツシは言った。
    「気にすることはないよ。キミはいつも一生懸命働いてくれているじゃないか。三日と言わずもう少し時間を取ったって……」
    「いえ、いいんです」
     いつもウツシの言葉を一言一句逃さぬように最後まで聞き続けるヤコにしては珍しく、ウツシの言葉を遮ってぴしゃりと断言をした。有無を言わせぬその言葉を聞いてウツシはまじまじとヤコの顔を見つめる。ヤコは、どこか知らぬ土地で迷子になって途方に暮れ、今にも泣きだしてしまいそうな子供のような顔をして言った。
    ――私、この旅館が大好きなので。
     
     はぁ、と小さく嘆息をしてウツシは旅館の別棟にある自室の作業机の上を整理し始める。滑り止め用のマットの上には、ノミ、木工刀、キリ、鉋、鑢、丸まった木屑たち。作業環境の荒れっぷりは自身の心の在り様を現しているようで、とてもいい状態とは言えなかった。
     あまり他人には理解をされないが、ウツシは木工制作、木工細工が趣味である。寄木で作るコースターや盆などは友人に見せても評判は悪くないし、旅館にもいくつか飾らせてもらっている。一方最近始めた木を彫りだして作る木製のお面は評判が今一つであった。妖怪? 見た目が怖い、可愛げがない、と散々な評価である。
     不思議と木を彫りだしている時は無心になれるのだ。鼻腔をくすぐる木材の香り。芯に近づけば近づくほど青臭くなるその香りに生命の息吹を感じる。細かな削り出しも、図柄の描き出しも、色付けも、その瞬間だけは煩わしいことを全て忘れて夢中になれる。集中しすぎて時間さえ忘れてしまうのがたまにキズといったところだ。
     カチ、と作業机に置かれているテーブルランプのスイッチを入れれば、ぼんやりと淡い間接照明が机の上を照らす。隣接する大きな窓からは欠けた月が覗いていた。もうすっかり陽が暮れてしまっている。ちらりと机の隅に置かれている作業途中の寄木の小物入れへと視線をやった。自分の趣味として、自分の思うままに木工をしている。趣味であるからそれは当然である。けれど、休憩室で使われている寄木のコースターを見た彼女が、それを作ったのは自分であると告げた時に、とっても素敵ですね! と目を輝かせて言ってくれたことを思い出す。
     これを渡したら同じように言ってくれるだろうか、そう思ったのは初めてだった。誰かの為に何かしたい、何かを作りたい、そう思ったのは彼女が初めてだったのだ。するり、とまだ荒い寄木の表面を指先で撫でて、今日の作業はこれにしようと決めた。
     それから数時間経った頃。ブ、とおもむろに机の端に置いていたスマートフォンの振動を感じてふと我に返った。ついつい作業に集中してしまうと周りのことが見えなくなりがちだが、スマートフォンで時刻を見てみればもう日付も変わろうかという時間である。少し集中しすぎてしまったか、とグッと腕を伸ばし首をコキコキと左右に鳴らして、こんな時間にいったいなんの連絡だとスマートフォンの画面を改めてみたウツシは、ガタッと驚きのあまり椅子から立ち上がってしまった。
    ――今、駅前にいます。
     連絡をしてきたのはヤコであった。
     
     以前ヤコとした雑談中、ウツシの実家で今も飼っている犬と猫の話をしたことがあった。どちらも捨てられ彷徨っていたところを保護したのだ、とその写真を見せたところヤコは随分と喜んでいた。どうやらヤコも動物好きのようで昔近所にいた子たちを思い出すらしい。どの写真を見せても可愛い可愛いとしきりに言うものだから写真送ろうか? なんて軽い気持ちで聞いてみたのである。特に意識をしていたわけではなく、そんなに喜んでもらえるならと提案をしてみたのだが、よくよく考えてみれば成人した大人である自分から未成年の少女の連絡先を聞くというのもあまりよろしくないことだろう。慌てて冗談だよ、と訂正をしようとしたのだが、ウツシの訂正よりもヤコの返事の方がよほど早かった。ぜひ、お願いします! と。
     それ以来、所用で実家に足を運ぶことがある際には彼女のためにとできるだけ愛犬、愛猫の写真を撮るようにした。今日も元気だったよ、なんてウツシからのなんの面白味もない報告めいた連絡ですら彼女は喜んで返信をしてくれた。
     ペットの写真を送る為、という名目で交換した連絡先である。それ以外の私的な用事で連絡することはさすがに憚られた。彼女とのトーク履歴は報告と画像、返された愛らしいスタンプと喜びの声ばかり。ヤコもヤコで自分からウツシに連絡をすることはなかった。従業員と総支配人見習いという仕事上の関係を考えればヤコの対応は実に適切だったと思う。時に教師と生徒になったり、稀にお互いただの犬猫愛好家になったりはしたけれど、それもあくまで仕事上の関係の延長線上にあった。パーソナルな部分には踏み込みすぎず、一定の距離を保っていた。そういう暗黙の了解となっていたはずだったのだ。だからこそ。
    ――迎えに来てもらえませんか。
     こうしてヤコがウツシへ向けて個人的な連絡を、それもこんな深夜にしてくるというそれ自体が、彼女に何かあったということに他ならないのだ。
     時刻は深夜。ヤコの言う駅名はこの旅館の最寄り駅である。最寄りとはいえ、山裾にあるこの旅館から近いわけもない。車がなければ駅からマイクロバスやタクシーを使わねば訪れるのは困難な距離である。勿論都会のそれと終電時刻も異なる。彼女が連絡した時間よりずっと前に最終の電車は終わっている。観光地なんてものは大抵そんなものだった。昼に賑わい、夜は閑散とする。人の気配もなくなった静寂に包まれた場所で、彼女は一人待ち続けているというのか。
     そう考えた途端にウツシの体が動いた。スマートフォンを握り締めたまま、部屋のドア横のキーフックに掛けてある車のキーを引っ掴み、慌てて駐車場へと駆け出した。治安が悪い地域ではないが、そうは言っても女性が一人で出歩くにはあまりにも遅い時間帯である。一人になんてしておけるわけがなかった。
     どうしてもう戻ってきたのだろう。どうしてこんな時間になったのだろう。どうして、ウツシに連絡をしてきたのだろう。
     頭の中を様々な疑問が浮かんでは消えていく。静かなエンジン音。整備された片側一車線の道路。ライトで照らされる夜道。すれ違う車はほとんどいない。早く迎えに行かなければと気ばかりが急いてしまう。何もなければいいと思いながらも、何もなければ彼女は連絡などしてこない、という願いと結論の繰り返し。どんなことがあったとしても、手を伸ばしてくれたからにはその手を取りたい。そう思いながらウツシは速度を気にしつつアクセルを踏み込んだ。
     普段は人で賑わう古めかしくも立派な駅舎の灯りはすでに落とされている。駅前のロータリーにある街灯がぽつり、ぽつりと蛍のように点在した淡い光を灯しているおかげでヤコの姿をすぐ見つける事が出来た。ロータリーにはタクシーが一台もいない。当然バスもとっくに最終便が出てしまっている。彼女が途方に暮れるのも当然であった。ひょろりと背の高い頼りない街灯に身を預けて俯く彼女。足元にあるそう大きくないボストンバッグもまた、力なく項垂れているようにも見えた。
     ヤコのすぐ近くへと車を停車し、ハザードランプを点灯させ、運転席から降りて彼女の元へと駆け寄った。顔を上げたヤコは、ウツシに気付いた途端に二度ほど瞬きをした。まさか、本当に来てくれるなんてと言わんばかりに驚いた顔をしていたが、あのように乞われてここに来ない選択肢などあるわけもなかった。
    「ごめん。返事を先に送ればよかったね」
     慌てて駆け付けたものだからついつい今から行くとも言わずに来てしまった。下手に移動されたりしてはもう彼女を追いかけようもなかっただろう。我ながらひどく焦っていたのだな、と今更冷静になったウツシは大きく嘆息をする。ヤコはウツシが眉を下げて申し訳なさそうに謝る姿を見てふるふると首を横に振った。頭上から降り注ぐ街灯が彼女をいまだ照らしている。暗がりであれば気付かれなかっただろうに、ウツシはヤコの頬に涙の痕が残っているのを見逃さなかった。
     やはり、彼女に何かがあったのだ。それはウツシが確信をするのに十分すぎるものであった。いったい何があったのかと聞いてもいいのか、それとも何も言わずにただ一緒に帰るべきなのか。どれが彼女にとっての正解なのかを模索しているウツシの姿を、ヤコはただ黙ってじっと見つめていた。口を開こうとしては噤みの繰り返し。もごもごとウツシの口元が揺れる度にヤコは目を細めてそんなウツシの姿を見つめていた。
    「あの、さ……」
     やがて、会話のとっかかりを見つけようとしたウツシがヤコに向けて何かを語り掛けようとしたその瞬間。ウツシの言葉を遮る様にしてヤコはウツシの胸元へと飛び込んだ。ぎゅっと細い腕をウツシの背中に回し、肩口に顔を擦りつけて、甘えるような仕草。いったい急にどうしたのだ、と驚いたウツシはその柔らかい体温を自分から引き離そうとヤコの肩に手を触れようとした刹那に気付いてしまう。ヤコの体が震えている。何かを思い出し、何かに怯え、涙を零すほどの出来事から彼女は逃げ、ウツシに縋りついてきたのである。ただ事ではないのは間違いがないようだった。
     とてもその体を引き離すなんてことはウツシには出来なかった。彼女の気が済むのであれば、いつまでだってこうしててもいい。そう思い、落ち着くように背中を撫でてやろうと思ったその時だった。
    「抱いてください」
     確かに、はっきりとヤコの声でそう聞こえた。ぴたり、とウツシの動きがわかりやすく止まる。聞き間違いでなければ、捨て鉢のような言葉が聞こえた気がする。
    「……なにかあったの?」
    「お願いします」
     なるべく優しく優しく。彼女を怖がらせないように、怯えさせないように、ウツシは囁くように問いかけた。けれども彼女から返ってくる返答は身も蓋もない懇願であった。それも随分と意志が固い口ぶりである。
     とにかく彼女と話をしなければならない。いつまでもこんな場所にいるわけにもいかなかった。けれど、彼女の心の整理がつかないままに旅館へと帰してしまえば、何故だか二度と彼女と今までのようにはいられないような気がした。
    「とりあえず場所を変えよう? ね? 詳しい話を聞かせてよ」
    「……それじゃあ、私が案内する場所まで連れて行ってもらえますか? 静かで二人きりになれる場所です」
    「うん、勿論!」
     ウツシは彼女の気が変わらない内にと、地面に置かれたままであった草臥れたボストンバッグを拾い上げ、ヤコの腕を引き車の助手席のドアを開けた。ヤコは文句を言うでもなく黙って助手席へと乗り込むと、ぼうっと星の輝く空を眺めている。急いで運転席へと乗り込みエンジンをかけたウツシはヤコの誘導に従って車を走らせた。まだここにきて日の浅いウツシは主要な施設以外の土地勘が薄い為、ヤコの誘導に従う他なかった。この田舎町で遅くまでやっている店を知っているなんて珍しいな、と思いつつ案内されるがままに車を走らせ、しばらく後にここですと指差し言われた先を見てウツシは絶句した。
    「……ここは、違うんじゃないかな」
    「静かで二人きりになれてお話ができる場所ですよ」
     ヤコが指し示したのは所謂ラブホテルである。ずいぶん見た目が豪奢な城を模したような外観と、わざとらしいほどに大きく表示された休憩と宿泊の料金表を見れば明らかであった。左折する為のウィンカーを出しながら、後方から車が来ないのをいいことにパーキング入り口前で車は停止する。ちらりとパーキング内を覗いてみたが、そこそこの台数が駐車されていた。お盛んなことである。
    「でも……」
    「ここじゃなきゃお話はしません」
     ヤコの意志は固いようだった。ぷい、と臍を曲げたように窓の外へと視線を向けてしまう。頑なになっている彼女の心を解すには、言う通りにしてあげるべきなのだろう。何もしなければいい。そう心の中で言い聞かせ、わかったよ、と諦めたように呟いたウツシはそのまま車をホテルの駐車場へと向かわせるのだった。

    「体を綺麗にしたいので、先にシャワー使いますね」
     ウツシがうんともわかったとも返事をする間もなく、ヤコは手にしていた草臥れたボストンバッグごとバスルームへと消えて行った。バタン、と部屋の扉が閉じられた瞬間からそわそわと落ち着かい心地となっているウツシとは対象的にヤコは不自然な程に落ち着いていた。
     こんな閑静な場所にあるラブホテルだなんて、と思っていたが駐車場の賑わいからもわかる通り、フロントのパネル板に表示されている空室はわずかであった。有人フロントであれば他人の目という抑制も相まって、やはりこんなところに来るのはよくないと再度説得をする機会もあっただろうに、などと今さら考えてももう遅い。
     どこでもいいですよね、なんて少々投げやりな言葉を吐きながらヤコがウツシの答えを聞くより先にぺかぺかと鈍い光を放つパネルに設置されているボタンを押してしまい、あれよあれよという間にキーを受け取ってこの通りもう部屋の中というわけである。流されるがままに共にここまで来てしまった責任はウツシにある。室内はずいぶんと小綺麗にされているが、建物の作り自体は粗雑なようで、入り口ドア前に立っているウツシの耳にバスルームからの水音が聞こえてくる。いや、あるいはわざとそういう作りにしているのかもしれないけれど。
     立ち尽くしていても仕方があるまいと室内に足を踏み入れるが、余計なものがほとんどないこざっぱりとした部屋だった。ずいぶんと大きなベッドが部屋の中央を陣取り、サイドテーブルには古めかしい内線電話と簡素なメニュー表。そう大きくないテレビ。頼りないコートハンガー。ベッドのヘッドボードにはティッシュケースとスキンケース。場に似つかわしくない可愛らしい小型の小物入れのようなバスケットケースに飴のような物が入っている。ひょい、と一つ摘み上げてみて驚いた。ローションだ。うわ、と不覚にも声を出しながらそっと手にしたものを戻すと、ふと鏡に映るウツシ自身の姿が視界に入る。ベッドのヘッドボードが隣接する側の壁は鏡貼りである。昔ながらの悪趣味な内装だった。そこに映っているのはずいぶんと弱り果てた顔をした情けない男の姿である。
     ヤコに何かがあったのは確かなのだ。そのせいでこんなところへ来たいと言ったのもわかっている。半ば自棄になって我儘を言う彼女の姿などウツシは初めて目にした。話をしてくれると言った。こんな場所ではあるけれど、いや、こんな場所であるからこそ、誠実に彼女と向き合わなければならない。彼女はまだ子供で、これから先の未来がある。勢い任せでこんな場所に来たいと言うような子などではない。この数か月決して少なくない時間を共にしてきたウツシだからこそ断言ができた。
     こんな場所に連れて行ってほしいと言ってはいけない、男の人を無条件で信用してはいけない、自分を安く見てはいけない、伝えたいことはたくさんある。けれど、まずは何より彼女が胸の内に溜めているだろう何かを吐き出させてやらなくては。
    「お待たせしました」
     鏡越しにヤコと目が合った。くるりとウツシは背後を振り向く。このホテルのアメニティなのであろう薄手のガウンを身に纏ったヤコがウツシに笑みを向けていた。シャワーを浴びた後だというのに多少は濡れたであろう髪も綺麗に乾かされ、先ほどかすかに見えた涙の痕を隠すかのようにうっすらと化粧を施しているようだった。いつも見る彼女の幼い姿と少し異なる大人びた顔つき。
     普段ゆったりとした従業員用の桃色をした作務衣を着ている姿をよく見ているからか、体のラインにぴたりと沿ったガウン姿を目にして思っていたよりも華奢な体をしているのだなと始めて知った。きゅ、とくびれた細い腰で紐が結ばれているせいでずいぶんと胸元が強調されている。少し幼い顔つきに似つかわしくない程豊満な胸元は、よくよく見てみればガウンの生地を押し上げるようにしてその先端がぷくりと尖っている。ヤコがガウンの下に何も身に着けていないのは明白だった。上がそうならば、下も……と少しだけ視線を落とそうとした自分を心中で叱りつけ、ウツシは慌ててガウンの合わせ目に沿って腰の辺りまで降ろしていた視線をふいに逸らし、ヤコに声を掛けた。
    「とりあえず、座らない?」
     ひどく下手くそな誤魔化してある自覚はあったし、きっと彼女にも気づかれてしまっていただろう。それでもヤコはウツシを責めることはなく、はい、と素直に頷いてくれた。はぁ、と脱力しながらウツシがギシギシと派手なスプリング音を立てるベッドに腰かけるとヤコもまたウツシの隣に腰かけた。二人分の体重で、ベッドが大きく沈む。
     むに、とウツシの体に柔らかなものが触れた。ぎくり、と肩を揺らして隣を見ればヤコが甘える子猫のように自分の体をウツシの腕に擦りつけている。柔らかい感触と体温。上下に擦りつけていると、尖った先端が擦れるらしく、んっ、と時折鼻にかかったような甘い声が小さく漏れ聞こえてきて、ウツシは理性を総動員することに必死であった。誘われている。わかりやすく、ヤコの女としての部分を直接ぶつけられて、どうにかなってしまいそうだった。

     ウツシとて、年相応に女性相手のそういった経験はある。わかりやすく誘惑をされることとて初めてではない。それでも、ヤコ相手となるとまるで話が違う。粗雑で古めかしいだけにやけに生々しさを感じるホテルの中で、うっすらと聞こえる隣室の甲高い声。隣にいるのは無防備な姿であからさまにウツシにその身を委ねようとしてくる、ずいぶんと年若い女の子。相手がヤコでなかったのであれば、きっと一夜だけの関係と割り切ってそのまま誘いに乗っていたのかもしれない。けれど、ウツシの脳裏に思い出されるのはあの旅館で、あの休憩室で、年相応にころころと表情を変えながらそれでも楽しそうに笑う無邪気な彼女の顔。このまま、何も聞かずに流されてはいけない、となけなしの理性はそう訴えていた。
    「えっと……今日は、どうしちゃったのかな」
     とにかく対話をしたかった。彼女がこうするに至った理由が知りたかった。それは勝手な思い込みだと揶揄されようとも、ヤコが何の考えもなくこんな不得手な誘いをかけるとはウツシにはどうしても思えなかった。性の匂いのしない少女。そんな彼女から香る普段とは違う安っぽいボディソープの香りに動揺する心を抑えつつ、ウツシは優しくヤコへと問いかける。
    「……勉強を見てもらっているときから、ウツシさんに異性として憧れる気持ちがありました。今日だってこんな時間に呼び出してしまったのに、何も言わずに来てくれて……そんなの、好きにならない方が無理じゃないですか」
     訥々と語られるヤコの告白にウツシの心臓は一々敏感に跳ね回る。それでもその言葉の中に冗談やごまかしなどは一つも感じ取れなかった。彼女はいたって真剣なのだという確信。ぎゅう、ともはや自分から離れないでほしいと求めるようにヤコはウツシの腕に身を寄せてくる。
    「それに、さっき駅で……私、急に抱き着いたじゃないですか。あの時に、好きな人と触れ合うのってこんなに幸せな気持ちになれるんだって思いました。だから私、初めては好きな人が……ウツシさんがいいんです」
    「うん、そっか……俺の事をそんなに好きでいてくれるのは嬉しいよ。でも、俺が聞きたいのは迎えに行くまでにキミに何があったのかっていうことで……」
     好きな人、初めて、あなたがいい。ヤコから発せられる言葉のすべてがウツシを揺さぶっていく。好きだから貴方に自分の身を差し出したい、と彼女は言う。縋りついてくる彼女の体はそれこそ何かしらの安心を求めてウツシに身を寄せているように思えてならなかった。触れ合いたい、幸せでいたい、貴方とそうしたい。過分すぎる愛情に喜びを覚えつつも、それでもウツシはヤコとの対話を諦めたくはなかった。そこには何か、ウツシと繋がりたいと思うに至った切っ掛けがあるはずなのだ。
    「言いたくありません。何も聞かないで、このまま抱いてはもらえませんか?」
     頼りない間接照明に照らされる黒曜の濡れた瞳がウツシの顔を見上げている。欲と色と熱を含んだそれは、ウツシの内に湧いてくる衝動を無遠慮に撫で上げてきた。
    「……それは難しいな。これは俺の勝手な推測だけれど、今キミは何かに困っていたりするんじゃないか? だとしたら、その事を置いたままにはできないよ」
     じっと黒曜の瞳から目を逸らさないままにウツシはそう告げた。確信をついたのであろうそのウツシの言葉を聞いたヤコの瞳がぐるりと揺れる。薄く血色のいい唇が微かに開かれて、やさしいひと、と小さな呟きが聞こえた。それは、ウツシの優しさに喜んでいるようにも、その優しさを責めているようにも聞こえた。
    「……それじゃあ、ウツシさんが私を抱いてくれたら話すって言ったら、私とセックスしてくれますか?」
    「え」
     ヤコは決して自身の希望を決して曲げようとはしなかった。会話の主導権はすでに完全に彼女の手中である。互いにお願いをしあっているものの、できないと断って困るのは圧倒的にウツシの方であった。そんなことはできない、こんなことはやめなさいと叱責をすれば彼女は二度とウツシにこの件に関して何も口を開いてはくれないだろう。それに対して彼女は譲歩案まで出している。自分とセックスさえしてくれれば、ウツシが知りたいことは話すとまで言っているのだ。どうしても彼女のことを知りたいのであれば、その体ごと暴けと彼女自身が言っているのである。
     今日、時間はある? なんていう軽い誘いに乗って女性と関係を持ったことは何度もある。特段そこに恋愛感情がなかったとしても、溜まって持て余している熱を発散する相手にさして困ったことはない。所謂体だけの関係である。後腐れのない関係でいてくれるなら、という交渉は事前にするものの、それでも他の女性の誘いには乗るくせに、今こうしてわかりやすく据え膳を目の前に差し出されても、最後の最後まで決断を悩む自分がいることにウツシは動揺が隠せない。確かにこの子が欲しい、と体が欲していることは間違いないというのに。それじゃあ今ヤコに求められている事は、いったいその他大勢のこれまでの女性たちと行ってきた事と何が違うというのだろうか。
     同じ据え膳であるはずなのに、ヤコにだけは容易く触れたがらない自分がいるのだとウツシは嫌というほど理解していた。大事にしたい。大切にしたい。これっきりではなくしたい。単なる思い出作りになんかされたくはなかった。
    「……難しいようなら、ウツシさんは寝ているだけでいいですから」
    「そういうの、どこで覚えてくるんだ……」
     ウツシからの明確な返答がないことに不安を覚えているのだろう。拒絶の色を感じ取っているらしいヤコはそれでもなお引き下がろうとはしなかった。全てこちらでやるのだから何もしてくれなくていいとまで言い放つ。経験もないのに知識ばかり先だって、やってやれないことはないだろうと高を括っているのだ。この年頃の女の子というものは、こうまで積極的なものなのか、とウツシはある種よくない感心すら覚えてしまった。
     一向に手を出されない現状にしびれを切らしたのだろう。ヤコは縋り付いていたウツシの腕から体を離すと、ふかふかしたベッドの上に沈み込んでいるウツシの手を取り、その指先を自身のガウンの合わせ目に触れさせた。擦れる安っぽい布の感触。その奥にあるものを想像して、ウツシの喉が上下に揺れる。ウツシの視線は否が応でもヤコの胸元へと釘付けになってしまっていた。
     そんなウツシの様子に溜飲が下がったらしく、ヤコは艶めかしく口角を挙げてほほ笑むと、するりと武骨なウツシの指先を自身のガウンの合わせ目の奥へと自らいざなった。さら、とした布に触れていたのは束の間のことで、そのすぐ奥にある柔らかい肉に指は埋もれている。温かく、少しだけ濡れた肌。興奮しているのか、呼吸が早く、上下する胸元。ヤコの胸元に差し込まれたウツシの手が不随意に肌の上を滑ると、ぴくりと可愛らしい反応を見せて身を捩る。
    「ふふ、汗かいちゃってるから、ちょっと気持ち悪いですかね?」
     ごめんなさい、と謝罪を述べながらも、その表情に悪びれた様子など何一つ見当たらなかった。子供が悪戯をした時に浮かべるような、幼気さを感じさせる笑み。もう冗談などでは済まされない領域だった。する、する、とヤコの手が重ねられたウツシの掌は誘導されるがままに合わせ目から侵入をし、少しずつ体に沿って下へと滑らされていく。やがてウツシの掌がヤコの胸の尖りをスリ、と掠めた時、あっ、と熱っぽい甘い息がヤコの口から漏れた。ぷくりと膨らんで主張をしていたヤコの乳首がようやく触ってもらえたと歓喜しているのは明白であった。
    「こうやって押し付けるだけじゃもう物足りないんです。触って。ね、お願い……」
     やろうと思えば彼女の手を振り払うことだってウツシには出来たはずだった。それでも振り払わず、ヤコの好きなようにさせたということでウツシはもう認めるしかなかった。どれだけ偉そうにあれこれ思考を重ねたところで、結局自分はこの隣にいる少女にどうしようもない劣情を催しているのだということを。くそ、と内心で自身の情けなさを罵倒する。決して彼女のせいではない。これは自分の意志が弱いからいけないのだ、とウツシは腹を括ることにした。
    「……一つ、約束してくれるかい。今から俺はキミを抱く。でも、最後までするから、キミに何があったのか後で必ず話をしてほしいんだ」
    「はい……!」
     ヤコはウツシの返答を聞いて、それはそれは嬉しそうに顔を綻ばせて返事をした。願ってやまないものを与えられた子供のような表情。あぁ、自分は今からこんな純粋で少し背伸びをしているだけの少女を犯すのだ。
    「初めてだったよね? 痛いこととか辛いこととかがあれば、すぐに俺に言うんだよ。その、できるだけのことはするから……」
    「嬉しい……! いっぱい、いっぱい抱いてください……!」
    ――絶対忘れない、大切な思い出にします。
     重なったままのヤコの手に力が込められる。自分の中に溶けて混ざってほしいと願うようなその言葉と、安心と信頼を預け切ったその表情を見て、少なくともこれからする行為がヤコにとっての救いの一種となるということだけはウツシにもなんとなく理解ができた。

     空が白む頃まで夢中で熱を交し合い、眠りに落ちる前にかけたアラームの音に反応して体を起こしてみれば、時刻は朝の五時。仮眠という程度にしか眠れなかったけれど、それでもやけに頭はスッキリしていた。安っぽいベッドの中、隣で眠るヤコもアラームの音で目を覚ましたようで、少しとろんと眠気を湛えた目で体を起こしたウツシを見つめている。 
    「大丈夫? 起きられる?」
    「はい」
     互いに少しだけ掠れた声で、それがホテルの乾燥のせいだけじゃないということに少しの気恥ずかしさをウツシは覚える。どうやらヤコもまた同じだったようで、頬を赤く染めながらゆっくりと体を起こして大して乱れてもいない髪を手櫛で一生懸命直していた。
    「先にシャワー浴びておいで。昨日のままじゃ気持ち悪いだろうし」
    「えっ、あ、はい……」
     昨日の夜の積極性ををどこに置いてきてしまったのか、ヤコはウツシの掛けた言葉に過敏に反応を示しては恥ずかしそうに俯いていた。ちょっと前までもっと恥ずかしいことをしていただろうに、と思わなくもないが彼女にとってそれだけ必死な思いであったということなのだろう。ヤコ自身が紐を解き、それを脱がせたウツシの手によってベッドの下に乱雑に落とされたままであった薄手のガウンを羽織り、ヤコはとてとてとバスルームへと向かう。あ、と小さな声を上げて立ち止まったヤコはくるりとベッドから降りようとしているウツシの方へと振り返る。
    「どうしたの?」
    「……一緒に、入りますか?」
     軽く羽織っただけの薄手のガウンの向こう側にどんな肉体が隠れているのか、ウツシはもう知っている。豊満な胸の柔らかさも、可愛らしい臍も、たおやかな丸みをもった臀部も全部知っているのだ。貪るように求めた先程までの情事を思い出してしまい、腰の奥の方が微かに疼いた。あぁ、まずい、と思い頭を掻いてウツシは言葉を返す。
    「早く入っておいで」
     はい、というヤコの小さな返事の中には残念だという響きが隠されもせずに乗っていた。渋々ではあったが、ヤコはそのままバスルームへと消えていった。パタン、とバスルームのドアが閉められた音を聞いてからウツシは両手で顔を覆って項垂れる。初めて女を抱いたわけじゃあるまいし、と思いながらも体は正直なものであった。
     ヤコがバスルームから出てきて交代でウツシがバスルームに入り、そうして身支度を整えれば、後はそのままチェックアウトをして旅館に戻るだけとなった。本題はここからである。
    「昨日は私のわがままを聞いてくださって、本当にありがとうございました」
     ベッドの縁に互いに腰かけたまま、どちらからも言葉を出せない状況を打破したのはヤコの方であった。スッと立ち上がるやいなや、ウツシの目の前に立って恭しく頭を下げる。旅館働きのなせる技か、実に綺麗な所作であった。
    「本来はこの後旅館に帰ってから正式にお伝えすることですが、約束ですので先にウツシさんにはお話ししますね」
     精一杯の笑顔を作りながら、ヤコは淡々と事実を述べるようにウツシへと話始めた。彼女がいうには、こうである。
     まず、旅館の仕事を辞めるということ。当然、旅館を去るということは住み込みであるヤコはこの地から離れるということになる。とりあえず親戚の家に一旦身を寄せるつもりであると彼女は言った。そして、その後――
    「結婚?」
    「そう、結婚するんです。私」
     ウツシにとっては寝耳に水の話であった。家に戻されるというのであればそれなりの事情であろうとは思ったが、まさか嫁入りの為だとは思わなかった。それではいったいなんの為にあんなに彼女は今まで頑張っていたというのだ。ウツシの脳裏に浮かぶ旅館でのヤコの姿。懸命に汗水たらして働き、疲れているだろうにそんな素振りは一つも見せず勉学に勤しんでいた日々彼女の努力が水泡に帰すという事実にウツシは顔を顰めた。
    「……相手はどんな人なの?」
     なるべく平常心で、なんの動揺も載せないよう、殊更に平板な声を出し、ウツシは気を使いながら言葉を発した。これが、彼女の選択だと言うなら尊重するほかないというのはわかっていたからだ。
    「そうですね……年齢は亡くなった父より少し年上ぐらいの方です」
    「は?」
     ヤコの発言を聞いて、ぐわ、とウツシの心の中で冷たい感情と熱い怒りが交差する。
    「でも、いいお話なんです。私には亡くなった両親が残した借金があるんですが、私の背負っている借金を肩代わりしてくれる上に、学費も出してくれるそうで。だから私、大学に進学できそうなんですよ」
    「ねぇ、それって」
     ヤコからの説明は止まることがない。ウツシに口を挟ませないようにあれもこれもとつらつらといらない情報まで全て震える唇からは飛び出していく。可哀そうな子だね、助けてあげようって言われた。お金のことならなにも心配しなくていいって言われた。黙って自分のそばにいればそれでいい、と。
    「ただ、大学については妊娠したらすぐ辞めることっていう条件付きでした」
    「それは、大丈夫じゃないよね?」
     大丈夫なはずがなかった。甘い言葉で惑わせて、その実人の大切にしているものを搾取する人間の常套句である。金をチラつかせて欲するものを欲するだけ手に入れようとする下種が、ヤコを手に入れようとしている事実にウツシの怒りは腹の底で沸き立っていく。明らかに身売りと言っても差し支えがなく、意のままにヤコを操ろうとする意図を隠さないその内容にヤコ自身も思う所があるようではあったが、彼女の背負う借金という枷が反発を諦めざるを得ないということもまた理解しているようであった。
    「あの人、初めて顔を合わせた私の姿を上から下まで値踏みするように見た後、笑ったんです。こっちに来なさい、と言われても断れなかった。仕方なく隣に座ったら、最初は服の上から体を撫でるだけだった手が服の中にも入ってきて……それで、思わず逃げ出してしまって……」
     親族一同が集まる席で酒も入っていたからなのか、誰も結婚相手の男の所業を窘める者はいなかったのだそうだ。むしろ、若い嫁をもらえるなんて羨ましいと囃し立てられたのだ、と。彼女の尊厳をどこまで傷つければ気が済むのか、とウツシのこめかみがヒクリと震える。
    「さっきスマートフォンを確認したんです。私が逃げ出した事を責められているのかと思ったら、簡単な報告の連絡が入っていただけでした。顔合わせは無事に終了したから、手続きを進める日取りを決めたらまた連絡すると……もう届けを出す準備を進めているんです。私がどういう態度を取ろうがあの人達には関係ありません。この先に行う事に変更はないから」
    「キミは、それでいいのか」
     卑怯な聞き方をした自覚がウツシにはあった。そんなわけない、と言わせたいが為の問いかけは現状から逃げることの出来ないヤコを追い詰めてしまう事になりかねない。それでもウツシはそう問わずにはいられなかった。薄暗く一つも望まない悪路以外歩むことを許されなかったとしても、それでも彼女の本音が聞きたかった。
    「……当然、良くはありません。もし、できるなら普通の子みたく学校に通って、素敵な人に恋をして、そんな生き方をしたかった」
     悲し気に眉を寄せてヤコは俯きながら語る。
    「でも、亡くなった両親に貸していたお金のせいで今お世話になっている親戚のお家は苦しい状況みたいで……そろそろ返済の目途をつけてほしいと泣きながら言われたんです。もちろん毎月頂いているお給料から少しずつお金は返しているんですが、全額返済の目途となると今すぐ返せるような額じゃありません。だからこうする他ないんです」
     ヤコは自分自身で語ったような本当にささやかでごくごくありふれた幸せを得る為に努力を重ねてきていた。けれど、そんな普通に生きていれば得られるだろう小さな幸せすらも、彼女にはその一端に触れる事すら難しい。ぎこちない笑みを浮かべ、経緯を語りながらも、その実自分に現実を言い聞かせるように語るその姿にウツシの胸がひどく痛んだ。
     仕方がない。そうするしかない。それで全てが解決する。最善の選択なのだと必死で納得しようとする姿にウツシは何も言えず、何も問う事ができなかった。そんなのはよくない、やめたほうがいい、そんな無責任な言葉だけを投げかけたところで彼女の救いにはならない。今、彼女に必要なものはもっと別のものなのだ。
    「ウツシさん。最後にもう一つだけ、お願いしてもいいですか」
    「……いいよ」
    「ぎゅっと抱きしめてもらってもいいですか」
     これで本当に最後だから、とヤコは言った。彼女の切なる願いを叶える為、ウツシは立ち上がり目の前のヤコの体を自分の体で覆い隠すかのように強く抱きしめた。誰の目にも見えないようになってしまえばいいのに、なんてことを考えてるとはきっと彼女は露とも思っていないだろう。
    「好きな人と触れあっている時は、本当に幸せな気持ちになれました。今もそうです。だから、この気持ちさえ忘れずにいれば、私はきっとこの先何があっても……」
    「……」
    「素敵な思い出をありがとうございました」
     綺麗で大切な思い出は心の奥底の箱に閉じ込めて、辛く苦しいことがあってもその箱を開ければいつでもその温もりを思い出せるように。ヤコはゆっくりとウツシの広い背中に腕を回してぎゅうとたどたどしく力を込めた。その緩い拘束の心許なさを惜しむように、ウツシは離したくない、とまたヤコを抱きしめる腕に力を込めるのであった。


    ◇◇


     早いもので、あの日訳も分からず親戚の家を飛び出してから二週間が経過していた。自分のキャパシティを超える出来事が次々と目の前で繰り広げられて、もう嫌だと涙ながらに逃げ出そうとした日。そして、逃げ出してきた自分を受け止めてくれた好きな男に優しく抱かれた日。
     後は手続きを進めるだけ、という連絡をもらった時からいつ呼び戻されてもいいようにと、すでにヤコの自室の荷物はまとめてある状態である。連絡が来ればすぐにでもこの場を去れる準備だけは整っていた。旅館の支配人には事情を話し、他の従業員の方には言わないでくださいねと口止めもしてある。この旅館での仕事が好きだ。この旅館で働く皆が好きだ。顔を見て別れを告げれば後ろ髪をひかれることは容易く想像ができた。世話になりっぱなしの身で卑怯だとは思ったけれど、離れがたくなる要素は少しでも摘まなくてはならなかった。でないときっと、あの封鎖的な故郷へ帰った時に縋り付きたくなってしまう。
     支配人はヤコが家庭の事情で故郷へ帰ることになりそうであること、次に親戚からの連絡があった際にはそのまま退職をして帰郷する旨を伝えてある。突然の報告に支配人は驚いた顔をしていたけれど、もう決まったことなので、と告げるヤコの言葉を聞いて承諾をしてもらうことはできた。不義理を許してほしいと誠心誠意謝罪をするヤコにむしろ支配人の方が困り果てていたほどであった。気にしなくていいんだよ、と支配人は優しい慰めの言葉をヤコに告げ、その後どこか得心がいったように支配人は呟いていた。
    ――そういうことかぁ。まぁでも、ヤコちゃんは待っていればきっと大丈夫だよ。
     そういえばあの日以来、ウツシの姿を旅館で見かけていない。支配人曰く、なんでも長期の出張に出かけているのだという。どうしても外せない大事な出張だとかで、話がまとまるまではしばらく戻れないと言っていたのだそうだ。いつものように休憩室で勉強に励むヤコの隣はぽっかりと空白のままである毎日。避けられているのかもしれない、とは思っていた。あんなめちゃくちゃなわがままを言ってしまっては当然である。それでも、あの日あの場所でウツシと熱を交わした事は、ヤコの心に優しい炎を灯す。記憶に刻み込んだ優しい声も、体に触れる手つきも、貫く熱もあの一回きりを絶対に忘れない。ぎゅう、と薄手のパーカーの袖口を握りしめて、ヤコは火照る顔の熱をなんとか散らそうと首をぶんぶんと左右に振った。
     親戚からの連絡はあれ以降来ることはなく、さてはなんらかの手続きが遅れているのかもしれないな、と思いながらヤコは変わらぬ日々を過ごしていた。いったいいつこの大切な日常はなくなってしまうのだろうと怯えながら過ごす日々。スマートフォンが受信、着信を告げる度に画面を確認するまでひどく緊張をして、関係のない連絡であったと知っては胸をなでおろすことの繰り返し。
     いつともしれない終わりに心を握られ続けている不安を払拭するべく、ヤコは参考書へと目を滑らせる。隣から快活な声が聞こえてこないことがひどく寂しい。もうウツシとは会うことのないまま、ここでの生活が終わってしまうのかもしれないな、という諦念うずまく心中を宥めながら、歴史年表をノートに書き写す。
    「よかった! ここにいたんだね!」
     バン、とやや乱暴に休憩室の扉が開かれたかと思うと、唐突に聞き覚えのある声が背後から聞こえて、無心に復唱と筆記を繰り返していたヤコは驚いて後ろを振り返った。そこに居たのは安堵した表情を浮かべたウツシであった。え、と呆然とするヤコおよび休憩室を使用していた従業員一同。いったい何なんだと皆の視線がヤコへと集中する。そんなこと、こちらが聞きたいぐらいである。
    「あ、えっと……どうして、ここに? 長期の出張だったのでは……」
     ウツシの顔を見るのも、ウツシと話をするのもあの一件以来初めてであった。視線を合わせるのもなんとなく気まずさを覚えてしまい、スス、と視線を流しながらウツシにそう問いかけると周囲から好奇の視線が遠慮なく突き刺さるのを感じた。
    「キミに話があって……。大事なことだから二人だけで話をしたいんだ……ちょっと一緒に来てもらってもいいかな?」
    「え? え?」
     来てもらってもいいだろうかと伺うような問いかけの割に、すでにウツシの大きな手は参考書を開いていたヤコの左手首をがっちりと握りしめていた。断ることも逃がすこともするつもりはないとその行動が雄弁に伝えてくる。さ、早くとウツシに促されて何が何だか状況が読めないままに、ヤコはウツシに手を引かれて休憩室を横断する。あらあら、なんて休憩室にいるほかの従業員の冷やかすような声と視線をかき分けながら、二人が向かったのはウツシの私室であった。
     うわぁ、と部屋の中をきょろきょろと見まわしているヤコに向かって散らかっていてごめんね、などとウツシは言うが、なんらかの作業用と思われる机の上以外はきちんと清掃されていて綺麗なものであった。まさかウツシの部屋に足を踏み入れる機会など訪れるとも思っていなかったせいで、ついあちこち物珍しく視線をやってしまうヤコであったが、あまりにも無作法だと思い直して俯いた。見られて困るものなんて置いていないから大丈夫だよ、とウツシは優しくそう言ってくれたが、そうであったとしても失礼に当たるだろう。さぁそこに座って、と示された座卓を挟み込むようにして向かい合いながらウツシとヤコは腰を下ろした。二週間ぶりに見るウツシは随分と上機嫌な様子であった。
    「まずはキミに渡さなくちゃいけないものがある」
     そういってウツシは座卓の脚の傍に置かれていたシンプルな黒字の紙袋から厚みのある紙の塊をドサドサと卓の上へと置いていった。偉人の肖像、くすんだ色、数字の桁は五つ。描かれた偉人と目が合ってようやく認識ができた。一万円札の束である。その紙束の塊が一つ、二つ、みっつ……よっつ……途中で訳が分からなくなってヤコは考えるのをやめた。とにかくこんな量の紙幣を、それも束にされて紙帯がついた姿のものを目にするのは生まれてこの方初めてであった。
    「こ、このすごい量のお金はなんでしょうか……」
    「うん、いい質問だね! これは、全部キミのお金だ」
    「え……え?!」
     勉強時間に出された問題を解いた時に正解! と褒めちぎられる時のように、ウツシはよくできました言わんばかりに破顔した。対してヤコはといえば、目の前に広げられた札束達が自分のものだと言われても全く何が何だかわからない。
    「それじゃあ、順を追って説明するね」
     休憩室で聞き慣れた、難しい問題に立ち向かう答えを示してくれる時のウツシの言葉。今、自分の置かれている状況がなんであれ、ウツシがそう言うのであれば必ずヤコにとって最適な答えを示してくれるという信頼がそこにはある。こくり、とゆっくりヤコが黙ったまま頷くとウツシは再び口を開いた。
    「まず、キミの借金……正確にはキミのご両親が親戚にしていたっていう借金のことだけど、アレ、逆だった」
    「逆……?」
    「そう。俺、あの後キミの親戚って人に会いに行ったんだ。借金の額によっては俺が肩代わりできるかもと思って」
    ――あ、一応、弁護士をやっている高校の同期にも同伴してもらっていたから大丈夫だよ!
     初手から詳しくお聞かせ頂きたい事項のオンパレードでヤコは頭が爆発しそうであった。かた、がわり? なんで? え、べんごし? と、頭の中を整理する速度が追いつかない。ウツシはそんなヤコの様子を見ながらゆっくりと話を続けていく。
    「まぁ、アッサリ断られちゃったけどね」
     やれやれ、と呆れた様子でウツシは肩を落としている。だが、突然家に現れた名も知らぬ若い男に、お宅でお預かりしているお嬢さんの借金を肩代わりしたいのですが、と申し出られたならばヤコとて不審がる気持ちはほんの少しだけわからなくもない。
    「仕方がないから一旦仕切り直しってことで時間を置いてまた同じように申し出てみたんだけれど、やっぱり駄目だった。確かに身なりや暮らしぶりを見るに金銭的な困窮が見えはしたけれど、それよりもあちらさんはキミにどうしても結婚をしてもらわなきゃ困るっていうような言いぶりでね。俺としては、どうもそこが気になるなーって」
     確かに、こんなにいい話はもう他にはないのだからこの機会を逃してはいけないと親戚がヤコへと必死に言い聞かせてきたことは事実である。ヤコもその条件を聞けば確かにそうなのだろうと親戚の言葉を疑いはしなかった。借金が実在している以上、それを一気に解消できる手があると言われればそれを吞むしかないのだと。
    「ということで、ちょっと俺の方で色々なツテを使って、どうにかキミのご両親と親戚の間で交わされた借用書の原本を入手したんだ」
     スパイ映画みたいだったなぁ、と間延びをした口調でウツシはそう言った。ヤコの背に冷や汗が流れる。
     いくら私文書とはいえ、借用書なんていう大事なものがそこらに粗雑に置かれているわけがない。ヤコですらどこで保管をされているのか把握していないのである。人目につかぬ場所に保管されているだろうそれを、当然見ず知らずの人間に渡すわけもない。つまり、それは正統ではない手段で手に入れたという推察は容易かった。例えば不法侵入とか――
     ちらりとヤコはウツシの顔を覗き込んで様子を伺ったが、その顔にはやましいことなど一つもしていません、と大きく書かれている。いや、いるような気がした。きっと気がするだけなのであろうが、ヤコはウツシが差し出す真実だけを信じる事に決めた。どうあれウツシがヤコの為に尽力してくれたという事実は変わらない。弁護士のお友達も同伴したと言っていたし、まさか法に触れる事なんてしてないはず、とヤコは自分にそう言い聞かせることにした。
    「で、これがその借用書の原本。これを見るのは初めて?」
    「いえ、両親を亡くした後、借金の話を初めてされた時に見せて貰ったことがあります。あの時はその……両親が亡くなってすぐだったのでショックで頭が真っ白で……なので、書かれていた数字の印象ばかりが頭に残っています……」
    「うん。じゃあ、今よく読んでみようか」
     卓の上に広げられている札束をまるで台にするようにして、ウツシは手にした借用書をはらりと広げた。ゆっくりでいいよ、というウツシの言葉に従って内容を漏らす事のないように最初から順番にヤコは読み進めた。一度頭から読み進め、終いの押印まで見終えた後に再度頭に戻る。視線が何度も上下して、その内容を噛み砕こうと必死になるものの、どうしても内容に辻褄が合わなかった。これでは聞いていた話と違う。
    「あの……これ、は……名前の場所が、違いませんか」
     確かにそれは金銭の貸借が発生していることを示す文書ではあるのだが、何度見ても借金をしている筈のヤコの父親の名前が債権者の欄にあるのだ。そして親戚の名前が債務者の欄にある。これでは貸している側と借りている側がまるで反対なのだ。
    「違うのは名前の位置じゃなくて、キミの認識。この借用書はキミのお父さんがあの親戚にお金を貸した時に作られた借用書だよ」
     何かの間違いではないかとヤコは再度目を凝らして借用書を眺めるが、筆跡も見覚えのある父親のそれであり、改竄を疑う余地もない。ウツシの言う通り、ヤコの父は金を借りた側ではなく、貸した側であったのだ。
    「ソイツは、キミのご両親が亡くなったのをいいことに借金を踏み倒そうとするどころか、自分が貸した側だと言い張った。ご両親の死で混乱しているキミに間違った認識を刷り込ませて、ありもしない借金をキミに背負わせたんだ」
     さぁ、とヤコの顔から血の気が引いた。お前の両親が残した借金のせいで。そう言われ嘆かれたことは一度や二度ではなかった。親戚の顔を見れば反射的にごめんなさい、と口から零れ出てしまいそうになる程、彼らとの会話でヤコは謝罪を重ねてきた。お前には返済の責任がある。そう言われ、両親を悪く言われない為に、なんとしてでも借金を返さねばと躍起になっていた。
     だというのに――
     う、とヤコは口元を掌で押さえた。渦巻く悪意の質量に吐き気がする。
    「初めのうちは、キミから返済と称してお金を巻き上げるだけで満足していたんだろう。でも、そのうちキミが社会に出て正しい知識を身に着けたなら?」
    「……」
    「当然、行った悪事は自分に跳ね返ってくる。キミだっていつまでも子供じゃない。こうやって文書を見ればその真実がわかるようになった。だから、キミが無知で世間のことも何も知らない子どもであるうちに無理やり結婚をさせようとした。不要な知識を身につけないまま視野を広げさせずに、自分たちの手の内へ閉じ込めてしまおうと考えたんだ」
     ひどい、と思わずヤコの口から痛切な言葉が零れる。
    「ほんとムチャクチャすぎるし、その筋の人から見ても相当酷いって言っていたね。もし、どこかの段階で第三者が介入出来ていればこうはならなかったと思う」
     ウツシは卓の上で拳を握り締めて、顔を顰めている。悔し気なその表情を見るとヤコの溜飲が下がった。我が事のように怒ってくれることがこんなにも嬉しいだなんてと少し不謹慎にも考えてしまった。
    「ウツシさん、それならこのお金はどういったものになるんでしょうか?」
     ヤコは再度列となって並べられた札束たちを左から右へと眺めた。壮観であるといえばそうかもしれないが、ヤコにとってはいまだ得体の知れない金である。
    「あぁ……その、こう言っちゃなんだけどキミの親戚の人はなかなか悪質でね。キミのお父さんだけでなく、あちこちに借金をしているようだったから、俺の祖父の知り合いで金融業を営んでいる人にちょっと紹介したんだ」
     最低の人間であるとはいえ、一応はヤコの親戚である。素直な気持ちを言えばきっともっと罵倒の言葉が出てもおかしくないだろうに、ウツシは最大限ヤコを気遣ってオブラートに包んだ表現をしてくれているようだった。
    「その祖父の知り合いが、いろんなところから借りているキミの親戚の借金を肩代わりして……つまり、借金の返済先を一本化したんだ。枝葉に別れて散開したものを把握するのは骨が折れるからね。その過程でこのお金が返ってきた」
     ウツシは卓に並べられている札束を改めて笑顔で紹介し始める。心配することは何もない、とその表情は語る。
    「キミのお父さんが親戚に貸していた金に利子と……あとはキミへの慰謝料が少し加算されてはいるけど、間違いなくこれは本来キミが手にするべきだったお金だ」
    「じゃあ今後、私はあの人達に関わらなくてもいいんですか……?」
    「勿論さ」
    「……結婚も?」
    「うん……もう、望まないことをする必要はないんだよ」
     帰郷も結婚もする必要などない。どれだけその言葉にヤコが救われたか、ウツシはわからないかもしれない。ただ生きているだけで誰かに迷惑を掛けているのだという後ろ暗い思いを抱え、それでもなんとか誰かの迷惑にならないようにと必死に頭を下げて、いつか借金さえ返せば自由になれるからと一生懸命自分に言い聞かせてきた。知らぬ誰かとの結婚話を持ち込まれ、あぁやはり自分には幸せになる権利などないのだと絶望したあの瞬間は、きっと忘れることはできない。
    「キミに代わって新しく債権者になった人はかなり面倒見のいい人だから、親戚の様子に変わりがないかずっと見続けてくれると思う。俺からも『返済が滞ることがあるかもしれないけれど、完済できるまでどうか待ってあげて欲しい』ってお願いしてあるんだ。きちんとそこの責任は果たさせるよ」
    「そこまでして頂いたんですね……何から何まで……」
    「俺としてはもっと色々やってあげたかったんだけど、やり過ぎは良くないって怒られちゃった。だから、君への慰謝料を多めに乗せただけ。後は本職の人にお任せする事になったよ」
     少々悔いの残るような表情をウツシは浮かべているが、ヤコにしてみれば十分すぎるほどである。借金の真実を知れた。親戚に後ろめたい思いを抱き続けなくてよくなった。あの得体の知れない人と結婚もしなくていい。学校にも行ける。旅館の仕事だって続けられるのだ。多重に積み重ねられて、もう手の施しようがないと思っていたことが全て綺麗に解決したのである。
     やはりウツシは、ヤコが思い悩むどんな問題ですらその手で導いて解決してくれるのである。
    「で、さ! これだけのお金があれば進学は勿論のこと、社会に出てからの蓄えにも十分。だから、今はこれからの事を考えてみようよ。楽しいことをさ」
    「はい……なんだか、夢みたいですけど……でも、嬉しいのは確かです。学校のことも具体的に考えなきゃですね」
     ヤコの声が弾むように跳ねていると気づいたのだろうウツシはうんうん、と頷きながら顔を綻ばせている。目の前に突如として開けた夢路にはたくさんの分かれ道が存在している。今のヤコはどの道を選ぶのも自由なのだ。
    「それで、ね。ここから先は俺からの個人的な提案になるんだけど、聞いてくれる?」
     妙に改まったようにウツシはそう言った。ゴホン、となんだかわざとらしい咳払いまで一つして、場の雰囲気を変えようとしているのか……あるいはなんだか少しだけ緊張しているような様子である。ピシッ、と居住まいを正し、背筋を伸ばしてヤコと向き合うウツシの姿に感化され、きちんと聞かねばなるまい、とヤコもまた背筋を伸ばした。
    「キミの素直で飲み込みの早いところは長所だけど、悪い人間に付け込まれやすいっていう欠点にもなる。だから、しばらくは信用できる大人を近くに置いた方がいいと思うんだ。こうして大きなお金を持つことになるのなら猶更にね」
    「そう……ですね。今回のことも私一人だったら、到底解決には至れなかったと思います。自分がどれだけ世間知らずであるかを痛感しました」
     もしウツシと出会うことがなかったら。ただ親戚の言われるがままに生きていたのなら。ほんの些細なきっかけが自分自身を救うこととなった。己の無知さを嘆かずにはいられない。たまたま近くに悪意のある人間がいて、たまたま自分の味方となってくれる善意の人間がいた。しかしこんな強運が二度も三度も起こるとは限らない。ウツシの言い分にヤコは深く頷いた。
    「だから候補者として俺は、どうかな。実家がそれなりに色々持っている都合で、ある程度の知識は身に着けているし、知り合いに頼れるツテもいくつかある。キミが俺を信用してくれるなら嬉しい……と思うけど、それは今までの俺の印象から改めて判断して貰えればいい」
     ぱち、ぱち、とヤコは二度瞬きをした。真剣なウツシの訴えが、いつもほどの大きな声でもないというのに耳殻にビリビリと痺れるように響く。
    「もし俺でもいいのなら、俺みたいな男が何かあった時にキミの傍にいるのに自然な理由が欲しいんだ。そう、例えば……その、婚約者……とか」
     段々と尻すぼみになっていくウツシの声。ヤコは口を小さく開けては閉じ、なんと言えばいいのか考えあぐねた。これは、つまり、そういうことだと思うのだが違うのだろうか。
    「その、ウツシさん。借金の件でかなり助けて頂いた上に、その提案をして頂いたことも踏まえて是非聞きたいんですが……私のこと、どう思っているんですか?」
     ただの親切だと言うのならば底抜けのお人よしだ。いや、ウツシが親切であることを疑っているわけではない。けれど、こんなにも親身に、そして本気で守ろうとしてくれている理由をヤコは知りたかった。そこにあるのが保護欲だけだとは言わないでほしいと願いながら。
    「キミは言ったよね。『好きな人と触れあっている時は、本当に幸せな気持ちになれる』って。俺の場合はそうだな……キミといる時の自分が一番自分らしいと思える」
     ウツシは、その蜜色の瞳を輝かせながら言葉を続けた。
    「だからさ、夜にキミの勉強を見ていたあの時間がすごく好きなんだ。またああやってキミと過ごしたい。でも、それだけじゃ、キミが進学した後に俺はお役御免だろう? だからその先でもキミの傍に居られるようにしたいと思った。もし、俺にその立場をくれるのであれば、いつでも頼ってもらえるように努力したいと思っているよ」
    「それで婚約者……なんですね」
     はぁ、と小さくヤコは嘆息する。どうしてこの人はこんなにも……と。
    「先の関係に進むには双方の合意が必要な関係だ。キミがこの先、俺の事が必要じゃなくなった時にすぐにでも関係を解消できるっていうのもメリットになるかなと思って」
     もし、そうなったときには勿論潔く身を引くつもりだけど、万が一の時はちゃんと専門家を頼るんだよ――
     ウツシはそう言った。もうそこに答えはとっくに出ているというのに。
     ――それならば、どうして最初から専門家を紹介しないで、自分を婚約者としないかと言ったんですか?
     もしここでヤコがそう問いかけたなら、ウツシはいったいどんな顔をしてしまうのだろうか。
    「……酷いです。それじゃ、あんまりすぎます」
     ウツシの提案は到底受け入れがたい提案であった。どうしてヤコがウツシを必要なくなる時が来る、などと有り得ない未来を想像しているのか全く理解が出来なかった。
    「……あー、うん。わかった。それじゃあ誰か信用できる人の紹介だけでもさせてもらってもいいかな? やっぱり女性の方がいいかな……?」
     ヤコの口から飛び出た拒絶の言葉にウツシの視線が揺れた。顔に動揺を出さないよう努めているのだろうが、ごまかし笑いと少しの声の震えを聞けばそんなことはすぐにお見通しだった。こちらとて、だてにその姿を見続けていたわけではない。好きな人の変化を見逃すほどの子供だと思ったら大間違いだ。
    「えっと、たくさん喋ったから飲み物が欲しいよね。ちょっと取ってくるよ」
     やや気まずくなった場の雰囲気を取り戻すように、ウツシはそう言って立ち上がり気分を切り替える為に中座を試みた。もちろん、それを逃すヤコではない。なんにも気付いていない鈍い男にわからせてやるのは今しかない。たまらずヤコはウツシが向けた大きな背中に向けて渾身の叫びをぶつけた。
    「――そうじゃなくて!」
     婚約者になりたい。自然な自分でいられる。一緒に過ごす時間が好きだ。キミの傍にいたい。いつでも頼ってほしい。そこまで言っておきながらその根っこにある肝心要の感情をどうしてぶつけてこないのか。こんなにもわかりやすい答えがあるのだから、貴方なら容易く解けるはずでしょうに。
     仕方がないから、今回だけは自分がその問題を解いてわからせてあげよう。
    「私が好きなら! 今! 結婚してくださいッ!!」
    ――その後に響いた男の愛の言葉と共に、ヤコのプロポーズは旅館中によく響いていたらしい。
     ほらー、やっぱりあの二人そうだったでしょう! と従業員一同が皆顔を見合わせて祝福の言葉を口々にしていたことを二人はまだ知らない。
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    planet_0022

    DONE現パロ
    旅館経営者御曹司ウツシと住み込みで旅館で働く苦労人元JK愛弟子ちゃんのド健全ラブストーリー

    ろまこさん(@romako_ex)が書いていらっしゃった元ネタ(https://poipiku.com/6214969/8696907.html)を許可頂き小説化したものです。
    めーっちゃくちゃ楽しかった!書かせて下さってありがとうございました!
    夜明けのワルツ ピピ、というアラーム音が鳴るのとほぼ同時にぱちりと瞼が開いて覚醒する。時刻は朝の四時。日の出まであと三十分といったところだろう。窓の外はまだ薄暗い。けれどやるべき仕事は山ほどある。掃除、朝食準備、来訪予定のお客様の人数把握……数えればキリがないほどに目まぐるしい。この生活にもずいぶんと慣れてきたけれど、それでも朝方の布団の中ほど離れがたい場所はないものだ。
     うー、と唸るような声を上げて後ろ髪をひかれる思いであっても、仕事は待ってくれやしない。がばり、と勢いよく起き上がってそのままの流れで布団を畳み、身支度を済ませて……と、一連の動作を流れでやってしまわないことには、いつまでたっても次へ進まないことをヤコは嫌というほど知っていた。ふわぁ、と大きなあくびを一つして、洗面台の鏡に映るまだ寝ぼけた瞳をしている自分へ喝を入れるべく、ぺち、と両手で軽く頬を挟むようにして叩いた。蛇口を捻って出てくる冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗って、気合の入れ直し。
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