菅原先生と誕生日三十歳になった。この歳になるともう誕生日なんてただの平日である。デスクワークで凝り固まった首を右へ左へと傾けるとポキリ、ポキリと小気味の良い音がする。すっかり陽が落ちた窓の外と、目の前にあるプリントの山。国語、算数、理科、社会。小学校教諭はオールマイティに担当しなければならない。菅原がとくに気を張っているのが特別授業である道徳で、プリント一枚作るのも一苦労だ。何せ、受け持つのは柔らかい時期の子どもたち。自分の授業が、自分の一言が、子どもたちにどんな影響を及ぼすのか予想もつかない。子どもたちが傷つかないように、誰かを傷つけないように願うばかりだ。特別授業があるのは金曜日。奇しくも今日は授業の準備の山場である木曜日だった。
プリントの最終チェックを終え、立ち上がってその場でうんと伸びをする。背中がペキポキと音を立てたのを確認して脱力。さらに首をぐるりと回してから、夜風でも浴びようと窓際へと向かった。ほんの少し建て付けの悪い窓を引くとカラカラと音が鳴る。お前もくたびれてんなあ、と菅原はなんだか窓に対して親近感が湧いて、そっと窓枠を撫でた。昼間とは打って変わってひんやりと冷えた風が耳のそばを抜ける。うっすらと生臭い草の匂いが鼻に届いて、夏が来る、とぼんやり頭のなかで思った。
しばらく風に当たり、そろそろ帰るか、と考えたところで胸ポケットに突っ込んでいたスマートフォンが震えた。シャツの形が崩れるからせめてスラックスのポケットに、と以前恋人に云われたこともすっかり忘れて、ジャージを羽織らない時期はすっかり胸ポケットがスマートフォンの定位置である。二本の指で引っ張り上げて液晶を見れば、恋人からの着信。「及川徹」の文字と半年ほど前に及川のチームメイトから送られてきた及川の寝顔が表示される。チームメイトの自宅で酔い潰れた際に撮影されたものらしく、ものすごくだらしない顔をしている。ソファでぐんにゃりとする姿は馬鹿でかい猫のようにも見えて、菅原のマイブームだった。
「Ola.ハァイ、スガちゃん。もう家?」
電話に出ると、軽快な声と同時に遠くでジュウと何かを焼く音がした。時刻は夜八時。及川のいるアルゼンチンは日本と十二時間の時差があるから、あちらは朝である。どうやら朝ごはんを作りながら電話しているらしい。
「んにゃ、残念ながらまだ学校」
「ええええ!誕生日なんだから早く帰んな!」
「だって明日、道徳あるからさ」
「あー……、そっか」
まだ学校にいることを伝えると及川は諌めるような声を上げたが、道徳の授業があることを伝えるとすぐに納得した。というのも、道徳の授業で判断に迷うことがあると結構な頻度で人に相談するからだ。母親、友人の澤村、後輩の縁下などなど、とにかくいろいろな人間の意見を聞くことにしている。及川もその一人。とくに海外で生活する及川の意見は、ときに菅原にとって目から鱗。思わず膝を打ちたくなるような意見も多い。
そのままの流れで「受け持ちの子たちは最近どう?」なんて雑談に発展し、個人情報を漏らさない範囲に応じる。合間合間に後ろで聞こえる調理の音に耳を傾けると、カンカンとフライパンを菜箸で叩くような音が聞こえて、スクランブルエッグかなあと及川の朝食に思いを馳せた。
「……じゃなくて、早く帰んな!」
雑談に花を咲かせて約十五分。ふと我に帰った及川が再度声を上げる。
「十五分喋り続けたくせによく云う」
菅原が揶揄うような言葉を返すと、受話口から「ぐっ」という呻き声が聞こえた。食器片手に項垂れている姿が目に浮かぶ。
「うそうそごめん、もう帰るよ。ありがとな」
「スガちゃん意地悪……」
「だからごめんて」
「良いけどさあ」
「もういっこ意地悪云って良い?」
けらけら笑いながら菅原が続けると、「やだよ!!!!」と間髪入れずに返事が来る。それを無視して、菅原はさらに言葉を続けた。
「愛しのダーリンから、まだお祝いの言葉もらってねぇなあ」
いかにもガッカリという声で祝いの言葉をねだる。チュッと通話口に向けてキスをすれば、また受話口から「ぐっ」という呻き声が聞こえる。
「まだ学校なのに、そんなチュッチュしてて良いんですかぁ、菅原先生ぇ」
「かなしいかな、もう俺以外残ってないのでぇ」
煽るような声を真似て返せば「マジで早く帰んなってば」とあきれ混じりの笑い声が聞こえた。事実、職員室には菅原一人。防犯カメラなんてものも存在しないので、今ここは菅原の天下である。
「はーあ」と笑いを断ち切るようにため息をついて、及川は「コホン」と一つ咳払いをした。それから目一杯の優しい声で「お誕生日おめでと」と囁いた。