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    mitaka

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    mitaka

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    開門フェス2開催おめでとうございますー!!!

    弟子大好きなフィガロとまだ素直になれないファウストが歩み寄るきっかけのお話です。
    フィガロがめんどくさかったり、弱気になったりしますが、悲しい話ではありません。
    ※嵐の谷の様子や師弟時代などなど、捏造満載です。

    後日、年齢制限部分の続きとファウスト視点の短編を加えて、支部に掲載したいと思っています。

    #フィガファウ
    Figafau

    ブルーモーメントに染まる朝いつからこうしていたのか。
    それすらわからなくなるほど、緋色の焔に冒されて、次第に現の感覚を失っていく。
    確かなのは、そこにきみがいて、そこに俺がいるということ。
    ただそれだけ。

    それだけのことが、なぜこんなにも苦しくて、なぜこんなにも幸福なのだろう。







    ◇◇◇

     ひと目見て、ああ今日は一等気分が良いのだ、ということがわかった。薄檸檬の柔らかい空気の色と、可愛いらしい幸福の小花。それを全身に纏っていることが可視化できそうなくらいだ。口元は軽く緩んでいて、心なしか笑みを浮かべているようにも見える。本人は周囲には漏れていないと思っているのかもしれないが、その実、自身の内に正直で、存外顔に出やすいタイプなのだ。何よりも、拒否されず対面で食堂の席に座っていられることが大きな証拠だった。悲しいけれど、普段ならこんなにあっさりと近くに寄ることはできないから。

     こうして、眼の前で遅めの朝食をとっている人物を、自らも匙でスープを掬いながら、注意深く観察する。口に運んでいるものは確かに彼の好物だったはずだが、そのこと以外にも何か気持ちが上向くような良いことがあったのだろうか。

     東の国の魔法使いファウスト。呪い屋をしていて、東の先生役で、俺と同じ賢者の魔法使い。

    「……なんだ」
    「いや、別に。ただなんか嬉しそうだなって」
    「…………そんなことはない」
    「なんで嘘つくの。顔に書いてあるのに?」

     ファウストはこれまたわかりやすく、意表を突かれたという表情を浮かべて、言葉を詰まらせる。ここはあえて聞かない、という選択肢を取るべきだったか。

    「…………猫の」
    「猫の?」
    「猫のパイをネロが焼いている。さっき見たがとてもいい出来だった」
    「それはよかった。他には?」
    「シノとヒースクリフがブランシェットに戻っていて、数日魔法舎を留守にするから、今日の夜は授業や任務を気にせず、ネロと呑むことにしたんだ。パイも食べるし、バッカスのワインもある」
    「そういえば、きみたちは一緒にバッカスのところに行ったんだったね。俺もルチルから土産で貰った」
    「ああ。年代様々飲み比べて、好みの味のものを持ち帰らせてもらったよ。それを思い出して、お子様たちがいない間に開ける話になった。そのためにうちの料理人が朝からいいつまみを用意してる」
    「そうかそうか。つまりきみは、俺以外の男と酒を呑むのを楽しみにしてたわけだ。妬けるな〜〜はぁ〜〜」
    「は?」
    「うわ、眼冷た」

     ファウストは機嫌を損ねた素振りを見せて、そのまま視線を外す。俺もその後は何も言わずに、冷めかけの食事に手をつけた。

     摂食、飲酒、猫。こんなにも簡単に彼の心を満たすもの。そして、当たり前のように隣にいることを許されている者。そのどれにも属さない俺は、彼にとって一体何になれるのか。互いを繋いでいた絆の糸は、自ら手放してしまったのに。

     しかし、ここまでの思考は再会して――正確には数百年の昔――から幾度となく繰り返されてきたもので、もはや日常の一部と言ってもいい。感傷と呼ぶには、この胸のざわつきに慣れすぎている。それよりも今は、ぬるま湯へ浸かったように浮かれる、腑抜けた彼を見ていたいと思ったし、できるならもっと喜んだ顔が見たいと思った。

    「夜までまだ時間あるだろ。渡したいものがあるから、その前に一度俺の部屋に来てよ。嫌ならきみの部屋を俺が訪ねてもいいけど」
    「……急に何」
    「心配しなくても、きみたちの時間に水を差したりはしないさ。ほんの少しでいい」
    「…………そこまで言うなら。このあと邪魔する」

     ありがとう、待ってるよ、と短い返答をこちらがすると、きれいになった食器を音もなく持ち上げ、ファウストは踵を返した。無駄のない所作と美しく伸びた背筋は、かつてのあどけない面影を感じさせる。その愛おしい後ろ姿が遠くなっていくのをじっくりと見届けて、ようやく俺も席を立った。







     彼が自室を訪れたのは、それから程なくしてからだった。渋々、という雰囲気ではなく、呼ばれた理由を単純に知りたくて来たといった様子だ。座るように促すと、室内に椅子が一脚しか置かれていないことを確認して、ファウストは慎ましくベッドへ腰掛けた。そして、ガラス玉のように繊細な菫色の瞳を眼鏡の隙間から覗かせて、上目気味に話しかけてきた。

    「それで、用件って」
    「うん。手を出してくれる?」

     そう言って自らの胸ポケットから取り出したのは、円形の小さな鏡が取り付けられたチャームだ。真鍮のオーナメントが細かく造形されていて、その所々に小宇宙を閉じ込めたような深い色合いの宝石が埋め込まれている。また、中心の鏡は不自然なほどに光を反射して、朝陽に照らされた水面のように澄んだ輝きを放っていた。それを手渡すと、ファウストは不思議そうに天に翳してみせた。

    「幻影鏡だよ。古い知り合いから譲って貰ってたのを思い出してさ。これは、映したいものをイメージして魔力を込めると、その空間にいる者に、虚像の景色が見えるようになる魔法道具なんだけど……さらに俺が持続の魔法を重ねて、錯視の効果を強化してる」
    「……? どういうものなのかはわかったが……何故僕に」
    「今日ネロと過ごすんだろ。これを使えば、夢が溢れるのを気にせず済むかもしれない」

     瞬間、ファウストが微かに肩を揺らしたのがわかった。目を見開いて何か言葉を紡ごうとしている。その期待感がこれ以上膨らまないように、大袈裟な説明口調で俺は続けた。

    「そうは言っても、あるものをないように視せるだけのことだから。所詮はまやかしだ。傷の根本的な解決になるわけじゃない。そもそも厄災に対して、この程度の代物で対抗できるのかすら保証はできない。でも――」
    「でも?」
    「夜を楽しむための気休め、いや違うな、お守り程度にはなると思うよ。もし意識が落ちたとしても、安心材料があれば多少は保険になるかと思って」
    「……なるほど。わかった。気が向いたら使わせてもらう」
    「受け取ってくれるんだ? ああ、でも気をつけて。発動は一度だけ。それに些細な魔力の気配は、相手に気取られてしまうかもしれないから」
    「ネロは……何か魔法を使っていることに気づいても、きっと黙っていてくれる。そういう性格だから」
    「信頼してるんだね。羨ましいよ」


     気恥ずかしそうに押し黙る彼の近くに、机から引き抜いた椅子ごと移動して間合いを詰めた。窓から差し込む淡い陽光で、ファウストの巻き毛が一層明るく輝いている。俺はその柔らかな感触をずっと前から知っていて、こうしている今も、それに触れたくてたまらなくなってしまう。そんなことを考えながら手をいたずらに伸ばすと、届くまであと数センチ、というところで互いの視線がぶつかった。

    「……あなたが僕にここまでしてくれる理由を、まだ聞いていない。それに祝福の魔法もかけているだろう」
    「そんなの、いつでもきみの幸せを願ってるし、きみに笑顔でいてほしいからに決まってる」
    「すぐに軽率なことを言う」
    「もういい加減信じてほしいなぁ……」

     禅問答のようないつもの会話に痺れを切らし、押し切る形で彼のこめかみの辺りを触ってみる。眼鏡の細いテンプルを蔦って、頬にかかる髪を耳の方へさっと流すと、普段は隠されていることの多い、小ぶりなファウストの耳が顕になった。するとその場所は、人知れず紅を纒っていて、彼に何かしらの心情の変化があったことを伝えていた。ああ、そうだ。昔から照れたときは耳から紅くなっていたっけ。
     急に自身の脈が早くなったのを感じたかと思うと、ふわふわと揺れるダークブロンドのウェーブに気づいたら指を通していた。撫でた心地が曖昧になるくらいには、俺も動揺していたらしい。だって、軽く触れただけなのに、こうなるとは思わないじゃない。

     それから耳朶を優しく捏ねて反応をうかがうと、ファウストはきれいに漂白された手袋で顔を覆い、ゆっくりと口を開いた。

    「……あなたとの距離感がわからなくなるから、やめてほしい……」
    「きみ……それって……」

     どういう意味、とそう聞く前に、身体が動いていた。またひとつ、鼓動がどくんと跳ねる。うわー、うわー、可愛い。なんで俺の弟子はこんなに可愛いんだ!? いっそこのまま引き寄せようか、厚い黒衣に皺を刻んで、それから――
     しかし、体感では0.5秒にも思えるほどの懊悩虚しく、彼を求めて差し出した腕は盛大に宙を切った。俺が決心するよりも先に、ファウストが身を躱して、立ち上がったからだ。いや待って、いくらなんでも速すぎる。本当に引きこもりの呪い屋?

    「僕はもう行く!」
    「あっ、ちょっと、ファウスト」
    「気遣いどうもありがとう!!!」
    「え〜……」

     脱兎の勢いで飛び出すと、ファウストはこちらを振り返ることなく、勢いよく扉を閉めて出て行ってしまった。彼が去ったその場所には、寂しさを助長させる風が、ひゅうと一吹き通り抜けた気がした。

     深く息をこぼし、まだ温かさの残るベッドへ、重力に任せて身体を沈める。嵐の余韻を残しながらも、室内は驚くほどに静かだった。そこに、ぽつんと一人取り残されて、気持ちの行き場もなく天井を見上げた。分け与えたかった二人分の熱を、手のひらに持て余したまま。

     あのまま抱きしめていたらどうなっていただろうか。涙の膜で潤む瞳を穴が開くまで見つめて、薄く開かれた唇を勿体ぶったようになぞって――

     なんて、身勝手な欲望が次々と湧いて出る。こんな気持ちが残っているのなら、自分もまだ生にしがみつく余力があるのだな、と見当違いのことを今度は考えながら、彼の赤らむ表情を、何度も何度も瞼の裏に焼き付けた。







    ◇◇◇

     少年少女の初恋のようなときめきを柄にもなく味わったのもつかの間、ここからの半日は最悪という他なかった。落差で風邪を引いてしまいそうなほどに。

     ファウストを見送ったすぐあと、窓の外から不穏な魔力の発露を察知した。お決まりの北の魔法使いたちによる殺し合いだ。多くの場合、双子のどちらかは仲裁役として魔法舎に残っているのだが、あいにくその日は任務のために揃って不在であった。そんな時に限って面倒事は起きるものだ。

     偵察も兼ねて現場へ向かうと、北の3人は珍しい呪具の所有権で争っていたようで、それがエスカレートした結果、三竦みの状態になっていたらしい。毎回よく飽きないものだとむしろ感心する。
     ここで厄介なのは、彼らが好き勝手することが、ひいては憂慮すべき事項を連鎖的に生じさせるということだ。オーエンの死体が教育に悪いとか、その程度の笑って済ませられることだけであればいいが、そうもいかない。魔法舎が中央の国に属している限り、倒壊なんてことになったら管理上の責任問題は避けて通れないし、我々の立場だってすぐに危うくなる。賢者である晶が、普段どれほど魔法舎のリスク管理に骨を折っているか知っているがゆえに、若造たちの悪ふざけをおいそれと見逃すわけにも行かないのだ。
     勿論、そんなことは1ミリだって気にしない最高の脳みそを持つ渦中の彼らを、俺は諭すように問いただした。すると、悪意の塊をどろどろに溶かし込んだ言葉をオーエンから投げられ、ブラッドリーには、銃口を向けられながらわざとらしく煽られたので、堪らず額に青筋が走る。折檻してやろうかと、オーブを出現させようとしたその時だ。

     ゆらりと禍々しい魔力を纏うミスラに、背後を取られた。まるで息をするような動作で。

     決して油断していたわけではなかった。なのにだ。一瞬で末端神経まで駆け抜けるのは生命の危機。細胞が、本能が、警報を鳴らしている。まずい。

     見ると、その日彼はとても調子が良さそうだった。濃く刻まれた隈はそのままだったが、いつもより魔力に神気が通っていて、精霊たちも生彩を放っている。久しぶりに晶と一緒に睡眠を取ったのかもしれない。なんだか今日は殺せそうなんですよね、とさも当然のごとく呟く声と、鋭い氷の眼光。それはまさしく、確実に獲物をしとめる捕食者のものだった。心臓を猛獣に舐められたように、じわじわと戦慄と焦燥が這い寄ってくる。一寸先の地獄を想像して、内側に冷や汗が滲んだ。

    ――悟られてはいけない。

     心に強く言い聞かせて、俺は正攻法の力勝負ではなく、穏便な折衝の選択肢をとった。無論、そう簡単に負けてやるつもりはなかったし、北の魔法使いたちを相手にするのだ、それなりの覚悟はしてきたけれど。ここは最適な道を選ばなければ。そう思って、彼らの敵意と殺意を霧散させることに傾注する。結果、果たしてそれは成功したらしく、興が冷めたらしい3人は、諍いの痕跡を一欠片も残さず、散り散りに消えた。発端となったブツは、ブラッドリーが騒ぎに乗じて回収していったようだ。

     つくづく、彼らが扱いやすい思考回路をしていてよかったと、胸を撫で下ろす。そうでなかったら俺はその日、寿命を全うすることなく、無念の死を迎えるところだったかもしれない。怖すぎる。こんな巻き込まれ事故で死ぬなんて、死んでも御免だ。
     しかし、強者を相手にいつまで己の老衰を隠し通せるのか。事なきを得たあとも、その心痛は拭えない。

    愛と憎が、生と死が、いくつもの相反するものが紙一重にひしめく、狂った日常、この魔法舎で。

    一体いつまで。

     俺は自分の力を過信したりしないし、見限ったりもしない。オズのこともミスラのことも、オーエンやブラッドリー、他の魔法使いのことだってあまねく、冷静に慎重に正しく警戒しているつもりだ。だからこそ嫌になるほどに、自身の限界を知る瞬間があるのだ。偶々この時がそうだっただけのこと。

     気の遠くなる永い生涯の中で、常に付き纏っていたのは、供与と奪取。与えることと奪うこと。その反対は慣れていない。慣れないことをすると、誰だって身体の何処かに異常が出るだろう? わかりやすいのは肉体疲労だ。

     そう、つまり俺は疲れている。

     昨日のことだというのに、まだ緊張が残っている気がする。俺ともあろうものが情けない。老いというのは本当に恐ろしい。だからというわけではないけれど、なんだか無性に弟子の顔が見たくなった。だらけきった態度をミチルに見せて、だめな大人だと叱ってもらうのも良いが、何故だろう。ファウスト。今は彼と話がしたい。
     昨夜は楽しかった? 無事に魔法道具は使えた? 今度は俺ともゆっくり呑もうよ、と話題を切り出す予行練習を脳内でしながら、朝の廊下を進んだ。彼の部屋の前まで辿り着き、一呼吸置いて戸を叩く心構えをする。そして、いよいよ手をかけようとしたところで、俺はとっさに動きを止めた。こういった場合の嫌な予感は、大抵外れないものだ。

     バレたら何を言われるかわからないのに、こらえきれず魔力を指先に走らせた。そのまま軽い帯電の音を鳴らして、ほんの少しだけ結界に干渉する。

    『っっうわ、ファウスト! 今何時だ?!』
    『う〜〜ん……? まだ22時じゃないか……』
    『寝ぼけてる……。昨日どんだけ飲んだんだよ。いや、俺も人のこと言えないけど……ってそれ俺のシャツ!!』
    『ああ、そうか。悪かった。……服を着ないで目が覚めるなんて経験、覚えるほどないから』
    『あ〜〜…………。なんかもう、あれだな。お子様たちには見せらんないよな……』
    『全くだ。ふっ、はは』
    『ちょっと先生、何笑って――』

     強制的に暗転する突飛な舞台演出の如く、五感を自ら遮断した。あーあ、やめだやめだ。自分の部屋に戻って仕切り直し。そもそも倫理観の高い南のお医者さん魔法使いが盗み聞きなんてするわけないから。何も聞かなかった。

     結局、またこれだ。彼には俺よりも優先すべき人がいるのだという、疎外感を伴った諦め。自分から塩を送る真似をして、楽しい夜を、なんて笑わせる。そうやって誰にも知られることなく自嘲すると、引き摺られるように乾いた笑いが零れ落ちた。彼に笑顔でいてほしかったのは本当だ。なのに、どうしてこんなに心が狂う。

     元から、俺が贈り物をする必要なんてないくらい――夢が溢れるのなんて気にする必要がないくらい――彼らはもっともっと密接な関係だったんじゃないか。ただの友人だと思っていたが、そうじゃなかったのだ。それならあの日、顔に、耳に触れた時、期待させるような表情をしたのはなぜ。
     そんなことを考えても、現実は無情だろう。終末は前触れなく、青天の霹靂のように訪れるものだと、頭が痛くなるほど知っていたはずではないか。

     ファウストしかいらないのは、俺だけ。相手にもそれを求めるなんて、それこそ身勝手で傲慢な思考だ。だからこそ400年も前に線を引いたのに、どこまで引きずっていくつもりだ?

     気がつくと、すでに身体は寝台の上だった。明日の授業のために、教材を準備しなきゃだったな、そういえば東の従者がいつぞやこっそり来たから、包帯のストックがなかったな、今日はまだ何も食べていなかったな……と、無気力に独り呟く。しかし全て放り出して、虚無に身を任せる。未だ陽の光は高い場所にあって、到底深い眠りにつける時間帯ではなかった。むしろ益々、これから昼食をする者たちで、食堂へ続く道は慌ただしくなっていくだろう。もしかしたら、ルチルたちから誘いがあるかもしれない。それでも起き上がることをせずに、この場所に留まることを選んだ。そうしてただひたすらに時が過ぎるのを待って、奥底に沈殿していく浅はかな羨望と失望とが、共に消失していくことを願った。







     明瞭な光が地平線の彼方に落ちて、〈大いなる厄災〉がその姿を見せる頃、控えめに扉を叩く音が鳴った。それはつい昨日聞いたばかりの、待ち焦がれていたもの。聞き間違えるはずはない。律儀な彼のことだ、過去とはいえ師弟の繋がりがあった俺に対して、はからいの礼を言いにくることは容易に想像できた。
     お楽しみの邪魔するようなお節介をして悪かったよと、いや、そんな皮肉ではなくてもっとうまく、何か波風の立たない言葉をかけなくては、と頭では思うのに、すぐに戸を開ける気にはなれなかった。

     再び、在室を窺う木音が三度。これを逃したら、きっとファウストは帰ってしまう。帰って――

    「な、なんだ……いたのか――」

     葛藤の末、ほとんど自棄の状態で廊下と自室を繋いだ。それでも顔をうまく見られなくて、俺は俯いたまま強引にファウストの腕を掴んだ。薄暗い室内に言葉もなく引き入れ、投げやりにベッドへ彼の身体を縫い付ける。横たえられた反動で、彼の帽子や装身具が無造作に広がった。突然のことに困惑したファウストは、腰回りをよじり、どうにか力を逃がそうと足掻いている。ここでようやく、手首を思ったよりも強く握りしめてしまっていたことを自覚した。

    「……フィガロ?」

     不安げにこちらを見上げてくる瞳に、月光が差し込んで淡く揺れている。ごく僅かに露出された肌が、重々しい装束と双極の色を成して青白く冴える。どうせ別の誰かに暴かれたのなら――

     感情の激流に飲み込まれるままに、その首筋に唇を寄せた刹那、俺はぷつり、と糸が切れたように倒れ込んだ。彼を傷つけたいわけじゃない。何をしているんだと、激しい自責の念がにわかにこみ上げてくる。頰を掠める癖毛がくすぐったくて、触れ合った皮膚が温かくて、余計に胸が締め付けられた。

    「ごめん、少し疲れてたんだ。なんでもないから。今灯りつけるね」
    「なんでもないわけないだろう!」

     上体を起こして、普段通りに振る舞おうとすると、それを咎めるような怒りを孕んだ声が降ってきて、四角い部屋の中で反響した。ファウストはそう話すやいなや、俺のシャツの襟を捕らえ、頭突きの勢いで胸元に飛び込んできた。

    「……全然大丈夫って顔してないよ」
    「理由も言わずに急に悪かった。もうしない」
    「だからそういうことじゃない……。もしかして僕はまた、あなたに見限られることをしたのか」
    「違う、きみには何の責任もないんだよ……。これは俺の問題なんだ」
    「じゃあその顔をやめてくれ。あなたはいつだってそうだ。勝手に気持ちを決めつけて、自己完結して、また僕から離れていくんだろう」

     投げかけられたのは、積年の悲痛な思いの丈。言い開きの余地すらなく、その叫びが痛いところに容赦なく突き刺さる。結局また悲しい思いをさせてしまった、こうなったきっかけを話してしまったら、きみはもっと幻滅するだろうな、と申し訳無さばかりが先行して、うまく返答できなかった。

    「…………フィガロ、教えてほしい。あなたのことを。ずっと……ずっと前から知りたかった。あなたの望みは、あなたの幸せはどこにある? 僕はそのために何ができる?」

     意識が昏い海の底に沈潜していくさなか、あまりもまっすぐで、非情なほどに慈悲深い響きが不意に舞い降りた。その問いかけに、俺は再び硬直する。ファウストは同情するでもなく、蔑むでもなく、請うるでもなく、こんな状態の俺にこんな言葉をかけてきたのだ。

    ――ああ、それでこそ彼だ。

     花火が開くように、一瞬で脳裏に蘇ってきたのは、在りし日の高潔な横顔。眩しい希望と生きる意味をくれた、あの澄んだ輝きだった。いくら外見や身を置く場所が変化していたとしても、決して揺らぐことなく、今も彼の中にそれが息づいている。


    ――ねえ、ファウスト。最初で最後の、唯一の俺の弟子。きみのことが好きだよ。


    「……嵐の谷のきみの家、行ってもいい?」
    「…………それが願い?」
    「うん。今のうちに向き合っておきたいと思ったから」

     予想外の願望が自然と湧いてきたことに、自分が一番驚いている。ファウストはそれに対してわかったとだけ答えると、明日の予定をいくつか言い残して部屋をあとした。どうして、とはもはや聞かれなかったし、俺も話さなかった。いや、深い理由なんて元々なかったのかもしれない。ただ静かに彼のそばにいたい。そう思った。それが結局は自分自身の救いになるなんて、つくづく屈折した人生を歩んでいるな、と唐突に自戒する。

     愛を手に入れられなくてもいい。始末し損ねた炎のように未だ燻る甘い未練を、少しでも鎮められるのなら。

     また独りになって、眠りの淵にゆっくりと落ちていく。星々の囁やきさえも聞こえそうな静寂、その波間を漂いながら、長い夜が更けていった。






    ◆◆◆

     その日は比較的天候が穏やかで、屋外の修練場を使うには絶好の日和だった。やらなければならないこと、教えなければならないことは山のようにある。まずは課題だった精神干渉のコントロールから始め、続けてひたすらに魔力を出力し続ける持続力の訓練。軽食を済ませたあとは、少しの座学を挟んですぐに山岳で魔法草の採取。その場で毒性を見極めさせ、野営を想定した環境下で、汎用性の高い薬へと加工する術を学ばせる。

     打てば響く、とは正にこのこと、過密な修行計画をさも有り難いことのように受け入れると、彼は目にも止まらぬ早さで、膨大な学とそれに基づいた身体知を得ていった。こちらの低くはない要求にも怯まず、そして会得した業の万能感にも溺れず、地の果てを見据え邁進する殊勝な姿は、言いようのない庇護欲と高揚感を自らにもたらす。他の者とは“何か違う”と、稲妻のように駆けめぐった直感に間違いはなく、彼は紛れもなく特別で、これこそが天命なのだと思った。

     中央の国の魔法使い、ファウスト。時代の革命者で、気高く、清廉な意志を宿した流星雨の使者。

     今日も無事生を繋いだ優秀な弟子を労うのなら、一刻も早く寝支度を整えさせ、寝室にハーブ酒と毛むくじゃらの珍獣が載った図鑑でも差し入れるべきだったのだが、あいにく俺たちがいるのは苛烈な吹雪の中心。夜のピクニックだと称して、疲労感たっぷりの弟子を無理矢理連れ出している最中だった。彼からしたらありがた迷惑だろうに、それにさえも難色を示すことなく、後方から箒で付き従ってくる。次第に似てきた横乗りの仕草がなんとも可愛らしい。

    「フィガロ様、なんだか雪の様子が……」
    「この辺りは、針の雨と呼ばれているくらい激しい雹が降る地帯でね。僅かでも保護の魔法と箒の操作が乱れると、たちまち皮膚が血の海になるから用心して」
    「なるほど。つまりこれは、如何なる状況でも精神を一定に保ち、飛行を安定させるための訓練ということですね。恩情に感謝いたします」
    「おまえがそう思うならそれでいいよ」

     こちらとしては追加課題を課しているつもりは勿論なかった。だというのに、起こる事一つ一つを、貪欲に自らの血肉へと変えようとしている。実直すぎる彼のこの性質は、時として恐ろしく感じさえする。

    「もうそろそろだ。ここから少し速度を上げる。くれぐれも呼吸と保温を絶やさないように、結界を維持していなさい」

     そう伝え、自らが身につけていたストールをファウストの首に巻いていく。加えて、彼に危険が及ばないよう、いくえにも加護を授ける。ファウストはそれを受け取ると、噛みしめるように小さく、ありがとうございますと礼をした。嬉しさを綻ばせた彼のその笑顔が、不思議と胸の奥深くに残った。本来ならば息すらままならないほどの極寒の中、俺はその時確かに、親愛の温かさを知ったのだ。

     それから再び、吹き荒ぶ山嶺の上空を進み始めた。容赦なく降り注ぐ氷の粒を掻き分けながら、ふたり肩を並べて先を目指していく。幾分か飛行を続けると、方位代わりにしていた魔力の灯火が、何かに反応するようにゆらゆらと揺れ出した。仄蒼い炎が指し示しているのは、遥かな年月を感じさせる厚い氷層の断崖。突き出た岩肌の下には、槍と言わんばかりの氷柱がぶら下がっていて、人間では触れることすら叶わない酷烈さを、これでもかと見せつけている。その頂に、俺が目指していたものがあった。

    「あそこだ。ここまで付き合わせてすまなかった。行こう」
    「何をおっしゃいますか。フィガロ様からの施しはすべて、僕にとっては宝石のようなものですから。まだまだお供いたします!」

     数時間前まで、遅効性の植物毒による麻痺で伸びていたとは思えないほどのタフさで、健気に応じる弟子を、逞しく、やはり恐ろしく、どこまでも愛おしく感じながら、一気に下降していく。しかし、崖の頂上に差し掛かり、ようやく足をつけると思った矢先 。悲鳴を思わせる不快な疾風が突如として襲いかかってきた。跋扈する精霊たちが、こちらの力量をうかがって、挑発して来ているのだ。俺はその戯れに微塵も構わうことなく、彼らに向かってこう告げた。


    《ポッシデオ》


     詠唱して至極単純に理解させる。北の国における魔法使いと精霊の関わり。従える者と使役されるもの、定められた力の理を。

     破裂音が鳴り、凍てつく空気を巻き込んで広がっていた旋風は、砂塵となって弾けていく。たちまち周辺の降雪が止んで、白い闇が晴れると、峰の地表が顕になった。そこへ降り立ち、続けて箒から降りようとする弟子の手をとる。そして、険峻な斜面を避けながら、かろうじて平坦な地をふたり進んだところで、ついにたどり着いた。地を覆う氷を割って、力強く根を張る大樹のもとに。それは、畏れを抱かせる威厳と神聖な霊気を携え、この限界の土地で生命を繋ぎ留めていた。蜷局の如く歪に螺旋した幹を伸ばし、瑠璃色の瑞々しい樹冠を天空に向かって広げている。孤高に聳える、この偉大な大木を前に、ファウストが思わず息を呑んでいるのがわかった。

    「すごい……。こんな過酷な場所に」
    「それ自体が魔力を持つ霊樹のひとつだからね。精霊たちが常に宿り、護っている。あえて人間の手の及ばない高所に根付くから、エーテルダフネと呼ばれている」

     彼に知識を授け終え、先程とは別の意味を込めて呪文を唱える。樹肌に触れると、内部に自らの魔力が満ちていく感覚があった。それによって活力の漲った梢が、タクトのように優雅な線を描いて揺れる。

    「ファウスト。俺のことを思って、同じように触れてみてはくれないか」
    「僕がフィガロ様のことをですか……? 恐れ多いですが、やってみます」

     溌剌と頷いて手をかざしたファウストは、迷いのない凛とした声で呪文を口にした。小夜に奏でられる美しい旋律、そんな清らかな響きでもって。

     その途端、風の中でざわめいていた枝先に、無数の白い蕾が生まれたかと思うと、瞬く間に淡雪のような花が開き始めた。小さな星型の花たちは葉の中心に集合して、慎ましく、されど揚々と咲き誇っている。月の光を集めて艶めく花弁からは、厳しい冬の冷たさに混じって、静かに春を待つ、儚く甘い香りがした。

     次第に、ぽつ、ぽつ、と光の粒が浮かび上がり、大樹を包み込んでいく。魂が登りゆくが如く漂う灯火は、祝福のベールとなって開いたばかりの花々のもとに舞い降りた。

     光の色はエメラルドグリーンとヴァイオレット。俺とファウスト、俺たちを魔法使いたらしめる源、その色だ。

     夕闇に煌煌と映し出されたこの光景は幻想的で、まさに神秘というべきものだった。しかし森羅万象、不可思議な現象に慣れ親しんだ魔法使いにとって、この程度のことなどありふれた事象の一つにすぎない。異質な咲き方をするこの花とて、最後は自然の法則に従って、枯れ朽ちて行く。

     それでもやはり、この瞬間が忘れ難い記憶になるだろうという予感があった。

    「……なんてきれいなんでしょう」
    「ああ。おまえに見せられてよかった。この樹が自身の霊力で永らえていることは説明したね。しかし花を咲かせるのは、魔法使いから、融和した2つの魔力を与えられたときだけだという。嘘偽りのない清廉な真心。それに反応して明かりを灯す」
    「互いを思い合う、真実の心……。フィガロ様と僕の……」
    「魔法使いは約束をしない。血の繋がりよりも濃く、愛人よりも情深い師弟の関係であっても、この呪縛から逃れることはできない。だからこそおまえに、何か契に代わるものを与えたかった」
    「ありがとうございます、フィガロ様。あなたのお側にいられること、それは僕にとってもこの上ない喜びです」

     夜中に連れ出されて、見せられたものがただの花木と光の塊だったなんて、落胆されても仕方ない。弟子からしたらありがた迷惑もいいところだと、逃げ道を用意していた。だが彼はそうはならず、心を返してくれたばかりか、温かい光を受けて感動で瞳を潤ませている。その事実に安心していたのは間違いなくこちらの方だ。

    「おまえにすべてを残したいと思っている。俺ができなかったことを成し遂げ、救えなかったものを導く力があると、確信しているからだ」
    「フィガロ様……。身に余るお言葉の数々、なんと申し上げたら良いか」
    「謙遜などするな。他でもない、俺が言っているのだ」

     確固とした心の内を伝えるために、努めて厳格な態度で伝える。未来ある彼へ一つでも多く導きを授けたい、その一心で。こちらの意を感じ取ったのか、恭しくファウストは俺の前に跪いた。

    「おまえは生きなくてはならない。生きて、使命を全うするのだ。立ち止まることは許されない。だが、天よりも高いその悲願が成就された暁には、俺のもとに帰っておいで。連綿と連なる悠久の果てまで、ともに生きていこう」

     これは自らの願望だった。与えるだけ与えたあとで、泡沫と消えゆく脆い縁ではなく、確かに信じられる唯一のものがほしいと。これを人々は愛と呼ぶのだろうか。

    「――魔法使いは約束をしない。ここで、はいと申し上げることはできません。しかし、その意志を引き受け、ゆめ忘れぬよう然と胸に刻みます」
    「それで良い。それでこそ俺の弟子だ」

     ファウストは、迸る閃光ような強さでそう口にした。揺るぎなく、淀みなく。それがあまりにも彼らしい態度だったものだから、不意に笑いが込み上げてきてしまった。つられて表情まで軟化して、すっかり北の大魔法使いの威厳をなくしてしまった俺は、心の赴くままに彼の前髪を分け、額を撫でた。そして言葉を続ける。

    「高潔なる魔法使い、ファウスト・ラウィーニア。愛しい弟子よ。師の心はいかなる時も、この誓いのしるべとともにあることをどうか覚えていてほしい。おまえの前途が幸福と輝きで満ちることを、絶えず願っているよ」






    ◇◇◇

     俺が魔法舎を出られることになったのは、ファウストが出発してから、数時間以上あとになってだった。本来はもう少し早く身支度を済ませる予定だったけれど、授業が想像以上に長引いてしまったのと、彼の家に行く理由をうまく説明できないために、ミチルたちの目を盗んで部屋を留守にする必要があったのとで、予定通りとはいかなくなってしまったのだ。うっかり時間に関する約束をしていたら、それだけで魔力を失うところだった。つくづく非合理な制約だ。ともあれ、自分から訪ねたいと伝えておいて、これ以上遅刻するのは心証が悪いだろう。そう思って、柄にもなく駆け足で正面の扉を目指した。その途中、視界に入ってきたのは見知った眼鏡の大男。小型の羊を連れて、無害のふりをしているが、俺と同じく、もしくはそれ以上に厄介な性格をした魔法使いだった。

    「……何も聞かないの」
    「何をですか」

     話しかけたのはこちらだったのに、訳を知っているという様子で強気に返されてしまった。もしかしたら、ファウストから今日のことを聞いているのかもしれない。

    「いや、別に。引き止めないんだなって」
    「俺にそんな資格はありません。逆に、そう聞くのは、あなた自身にやましい思いがあるからでは」
    「まあ、無いといえば嘘になるけど」

     聞いてきた彼が威圧的に黙るものだから、謎の沈黙が流れて数秒間時が止まる。とはいえ、そもそもこいつに許可を取るのもおかしな話だ。それを言うならネロの方を気にするべきではないか。仮に彼らが恋仲だとしたら、ファウストが一人待つ隠れ家に、ずけずけと別の男が邪魔することになるのだから。この辺りの倫理観や知見は、南で人間たちと暮らすようになって得たものだった。

    「……あの方は、あなたと会話することを望んでいます。普段はああいった態度をされていますが、本心ではずっとそうしたかったように思います」
    「耳が痛いな……」
    「フィガロ様。次またファウスト様を傷つけるようなことがあったらその時は――」
    「お前に言われなくても、わかってるよ」

     通り過ぎ様に耳打ちして、彼の肩をすり抜ける。レノックスと視線を交わすことなく別れた俺は、陽が落ちかけて、静けさが深まり続ける空へついに飛び立った。







     東の国の嵐の谷は、別名「迷いの谷」とも呼ばれるらしい。そのため、部外者が安易に踏み入れることはできず、気を抜くとすぐに精霊たちに惑わされる。その噂に違わず、奇妙な植物や現象で満たされた道を、俺は慎重に進んでいた。迷うことを恐れているからではない。正直に言うと、単純に緊張しているのだ。一番彼が辛かった時期には会いに行かなかったくせに、今更どの面を下げて、というやつだ。
     ここに来ることを望んだ時、ファウストは谷に入ったらわかるようにしておく、と言っていた。その言葉通り、足元や頭上の草木がぼんやり光を灯したり、蔓が行く先を示してくれたりする、道標の魔法が至る所で発動して、一人でも目的地に行くことができる手配がしてあった。侵入した時点で精霊に拒まれる覚悟もしていたが、不思議と攻撃的な様子はなく、ひとまず門前払いを食らわずには済みそうなので安心した。

     案内に従っていくらか歩を進めた辺りで、いかにも隠者が根城にしていそうな雰囲気のうろが見えてきた。小高くなっている現在地からその中へ降り立つと、開けた先に、川に沿ってひっそりと建てられた小屋を発見した。おそらくあれが、ファウストの棲家だ。

     ひと呼吸置いて、ようやく踏み出そうと、石造りの低い階段に足をかける。その時だった。見覚えのある一本の大樹を前に、俺は息を呑んだ。

     肉厚で青みがかった葉に、竜巻のようなうねりを持つ太い幹。精霊の寵愛を受け、底知れぬ魔力を秘めたそれはまさしく、遥か昔に遠い北の地で探した天空の霊樹だった。

     俺とファウストにとって、眩しい日々の象徴だったもの。渾然の想いに心震えて、戯れに頬へ触れて、花が舞い散るのを静かに待つ、そんな優しくて儚い一夜の追憶。その分身がここにある。確かにあの日、種を乞う彼にいくつか手渡していた。けれど、この場所にそれを蒔き、守り育てていたなんて思いもしなかった。

     突如として沸き起こる感情を言葉にすることができないまま、おそらく樹齢400年ほどであろう成木に手を伸ばした。恐る恐る魔力を通わせてみたが、俺がここに来る以前にファウストが触れた形跡は見られず、花が開くことはなかった。しかし俺の力に反応したのか、何か別の波動が蠢きはじめ、管を通ってそれがせり上がってくる。


    『ああ、ああ、――ぁ――レノッ――ス、すまな――す――ない』
    『アレ――、どうしてだ』
    『川――火傷――せめて冷や――て』
    『なぜまだ生きて――――、いっそ死――――』

    『フィガロ様、どこに』


     葉のざわめきの中に混ざった、微かな叫びが耳に届く。途切れ途切れに聞こえたその声は、この樹が取り込んだファウストの記憶に間違いないのだろう。肥大化した〈大いなる厄災〉、東の精霊たち、嵐の谷の性質、そしてファウスト自身の魔力の変質。北の国とは異なる環境と要因の中で、エーテルダフネ自体にも変化があったということだろうか。

     耳を塞ぎたくなるような過去を突きつけられて、なぜあの時彼の元を離れてしまったのか、なぜすぐ会いにこなかったのかと、後悔ばかりが堂堂巡りする。しかし彼がこの静謐な場所で、孤独に守られ、癒やされてきたのも事実だ。傷を負った彼を探し出して、そばにいたとして、果たして俺に一体何が出来ただろうか。

    考えても、未だ答えは出ない。

     樹幹に額を寄せて、何度も己の選択を省みる。それから少しして、目線を頭上に移すと、ちょうど体重をかけられる太さの枝先に、ひっそりと佇む黒猫を発見した。ファウストの気配を色濃くまとった彼は、月夜を背景に、ただじっと俺のことを観察していた。

    「あの子の側にいてくれてありがとう」

     聞いているのかいないのか、その黒猫はぐにっと目を細めて、こちらを見下ろしている。お前に言われなくても、と暗に伝えているのかもしれない。

     彼はそのあとすぐに枝から飛び降り、小気味よく走り出した。そして玄関の前でぴたりと止まった。木の扉に前脚の爪をたてて、カリカリと音を鳴らす。すると、それに気づいた家主が、蝶番を鈍く軋ませて出てきた。胸に白い猫を抱いて、もはや見慣れた黒装束を纏って。

    「…………遅くなってごめん」
    「全くだ。今何時だと思っている」

     これまでのこと、今日のこと、謝りたいことは数え切れないほどあったけれど、今はそれしか言えなかった。だからせめてこみ上げるこの思いが伝われば良いと、苦しいくらいに彼の身体を抱きしめた。






    ◇◇◇

     その家は、簡素な構造であるのに、生活しやすいように考えられていて、この地に彼が根付いているのがよくわかるものだった。彼好みの家具や可愛らしい雑貨などが、長い間自暴自棄の状態で、おざなりに生きてきたわけではないということを証明していて、少しばかり安堵する。それでも、生業に使うのであろう媒介や、わかりやすい呪具がところどころに見受けられ、やはりファウストはもう、あの頃の聖人ではないのだということも実感せざるを得なかった。彼は紛れもなく呪い屋で、東の国の魔法使いなのだと。天地を返したような変化も、現在に至る営みの過程も、全ては400年の空白の中に。

    「何を黙って立っているんだ。こっちに来い」
    「あ、うん。今行く」

     俺をテーブルに座るように促すと、彼はキッチンの方へ一人進んだ。それから手にして戻ってきたのは、一本のワインと木の皿に盛られたいくつかのつまみとバゲット。そして戸棚から魔法で形の違う2本のグラスを取り出し、そこに並べる。

    「客人なんて来ないから、不揃いですまない。まあ呑むのには問題ないだろう」
    「構わないよ」
    「ワインは谷を出たところの里で売っていた安物だし、つまみも備蓄食と来る途中で買い足したなんてことないものだ。ネロの料理とは比べ物にならないけど……それでもよかったら」
    「ありがとう。俺はきみが用意してくれたものがいい。それが嬉しい」
    「そ、そうか……。ならいい」

     彼の口から発せられる「ネロ」の響きに内心もやつきながら、向かい合わせで卓につき、出された食事と酒に手を付ける。乾杯はなかったが、そもそもファウストは何も用意していないのではとすら思っていたので、むしろ驚きのほうが勝っていた。

     今テーブルの上にあるのは、少し遅めの夕食と、何故か積まれた古びた数冊の書物。雑談もそろそろ許される頃かと、その存在に触れてみることにする。

    「これって、俺が指南に使ったこともある薬草辞典だろ。こっちは北のでたらめな寓話集だ。他のも全部見たことあるけど、今はもう古くてほとんど読んでる人はいないんじゃない?」
    「ああ。全部あなたが昔持っていた本だよ。同じものではないけれど、古書店や蚤の市で見かけるたびに、集めていたんだ」
    「……どうして」
    「どうしてかな。東に来てからの僕はとにかくひどかったから、何か縋るものが欲しかったのかもしれない。これがあれば、偉大な師の面影が、まだ近くにあるような気がしたんだ」
    「……じゃあ、今俺にこれを見せるのは何故?」
    「単純に、あなたと会話するタネにしようかと。とにかく昨日のあなたは変だった。だから何か気を紛らわせられるものはないかと考えた。けどこれくらいしか思い浮かばなかった。だって面と向かって話すことなんて、あんまりないだろう、僕たちは」

     感傷をぶち抜く彼の答えに面を食らった俺は、瞬きを数回して、ありがたく彼の気持ちを受け取った。そしてひと呼吸、ひと言ごと、記憶を辿って、かつての日々を紐解きながら、言葉を紡いでいく。

    それから俺たちは色んなことを話した。

    昔別れた恋人のように。
    今日初めて会った隣人のように。
    つい先程まで一緒にいた友人のように。
    ゆっくりと、じっくりと。

    心の氷がすぐには溶けないことを互いに理解しながら、まるで何事もなかったみたいに、穏やかに。

     そうしているうちに、外の闇は一層その濃さを増していた。夜が来るのも、朝になるのも速さは一定で、時は留まることがない。それを惜しいと思いはすれど、良い時間を過ごせた分だけ、心は救われて、身体は癒やされていた。ここに来られて良かったと、素直にそう思った。

    「そろそろ帰るよ。今日はありがとう。きみはせっかくだし、ゆっくり……」
    「は?」
    「え?」
    「……これだけで、昨日の変な顔がいつもの胡散臭い顔に戻るのか? ならよっぽど大したことのない願いだったんだな」
    「いや、でもきみ……」
    「この後はどうするつもりだ」
    「まあ、魔法舎に戻ろうかなって……。普通に帰れって言われると思ってたから」
    「こんな夜更けに追い出すほど、薄情じゃないよ」
    「……だよね、ごめん」
    「フィガロ。今日はとにかく自分のしたいことを考えろ。そのために僕だってわざわざ帰ってきている。……で、帰りたいの、帰りたくないの」
    「……ここにいたい、です」
    「じゃあそうすればいい。浴室に案内するからついてきて」
    「え、あ、うん……」

     言われるがままにファウストの背中を追って、気がついたらなすがままに入浴していた。それからファウストと交代して、彼が風呂場にいる間、落ち着かない一人の時間を居間で過ごした。

    「僕もあがった。じゃあこっちに来て」

     まだ少し水分の残る重い毛先を揺らして、またしてもファウストは事務的に伝えると、あろうことか今度は寝室に招いてきた。二人ではいささか狭いように見える寝台に、彼は迷うことなく足を埋める。

    「あなたもどうぞ」
    「ちょっと待って、それは俺の許容範囲を超えてる。え、待って」
    「ど う ぞ」
    「う……はい。えっと、失礼します」

     ファウストと同じように足だけ掛け布団に通して、ベッドボードにもたれる形で座る。肩が密着するほどの距離で並ぶこの状況に、ときめくよりも不安のほうが募って、居た堪れなくなる。いやまさか、ファウストに限って。でも、もしかしたら。

    「きみって、ひょっとして慣れてる?」
    「どういう意味」
    「その、同衾……とか。言い寄られたら誰にでもこういうことするの?」
    「……なるほど、おまえはそうやって生きてきたわけだ」
    「何、なんで俺の話になってるの……? そうじゃなくて、きみネロと……」
    「は? なんでネロ……って、まさか昨日の朝聞いたのか!?」

     あからさまに驚いたという様子で、急に声を大きくする彼に、やはりあれは真実なのだと胸を抉られる。今日は、和やかにファウストと話せたいい思い出だけを持って帰りたかったんだけどな。

    「一昨日の夜は……あなたにもらった魔法道具が期待通りの効果で使えて、久しぶりに記憶が曖昧になるまで呑んでしまったんだ。気が緩むと僕が服を脱いでしまうのは、あなたも知っているだろう」
    「え? あ、そういえばアレクとも……」
    「友人……と気兼ねなくあんな夜を過ごせたのは、若い頃以来だった。だからあなたにきちんと礼を言いたかった」
    「そ、そうなの……」
    「そうだよ。つまりあなたが考えている不埒なことはない。ネロに謝れ」
    「ごめんなさい」
    「全く、それであんなに取り乱していたのか? 馬鹿じゃないの」
    「でも、数日の間に二人の男と布団の上にいることは事実だろう。それに師匠に向かって馬鹿って言ったこと、憶えておくからね」

     怒涛の問答を終えたファウストは、そっぽを向いて聞かないふりをしている。そうか、ネロとは何も……何も? 何もなかったら、今この状況は何だ?

     急速に鼓動が高鳴って、体内で反響する。体温が上昇して、思考が鈍る。ファウストは俺のことどう思ってる? だめだ、まとまらない。

    「……あの、ファウスト。もし俺がきみに触れたいって言ったら、許してくれるの」
    「許すも何も、そのつもりで今まで触っていたんじゃないのか。散々人の頭やら、頬をいじっておいて。僕がそれを理解するのにどれだけ苦労したと思っている」
    「ちょっとぉ、本当に待ってよ……。俺ってそんなにだだ漏れてる?」
    「……それは、違うな。わからないことのほうが多いよ。でも、あなたが触れてくる場所が温かいことだけは確かで、僕はそれを不思議と嫌だとは思わなかった」
    「ファウスト……」
    「だから昨日あなたの願いを聞いた時、そういうことになるのも覚悟していた」
    「えっっっっっっっっっ」

     急転直下の展開に、さらに脳がぐるぐると回る。その高速回転によって、頭の中では火花が散り始めた。それが理性を乗せた吊り橋に見事引火して、自らの退路があれよあれと断たれていく。炎が瞬く間に広がると、いよいよロープは焼け切れて、ついに橋が落下する。

    「い、い、いいの!?」

     ファウストは、耳を赤く染めて小さく頷いた。まるで夢のような現実を、まだ往生際悪く疑う。

    「いいの!!!?」
    「だから、いいって――」

    “あなただから”――いい

     きっとそういう意味だと、最大限前向きに捉えて身を乗り出した。唇で塞いでしまったから、言葉の続きはもうわからない。

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    Replies from the creator

    mitaka

    DONE開門フェス2開催おめでとうございますー!!!

    弟子大好きなフィガロとまだ素直になれないファウストが歩み寄るきっかけのお話です。
    フィガロがめんどくさかったり、弱気になったりしますが、悲しい話ではありません。
    ※嵐の谷の様子や師弟時代などなど、捏造満載です。

    後日、年齢制限部分の続きとファウスト視点の短編を加えて、支部に掲載したいと思っています。
    ブルーモーメントに染まる朝いつからこうしていたのか。
    それすらわからなくなるほど、緋色の焔に冒されて、次第に現の感覚を失っていく。
    確かなのは、そこにきみがいて、そこに俺がいるということ。
    ただそれだけ。

    それだけのことが、なぜこんなにも苦しくて、なぜこんなにも幸福なのだろう。







    ◇◇◇

     ひと目見て、ああ今日は一等気分が良いのだ、ということがわかった。薄檸檬の柔らかい空気の色と、可愛いらしい幸福の小花。それを全身に纏っていることが可視化できそうなくらいだ。口元は軽く緩んでいて、心なしか笑みを浮かべているようにも見える。本人は周囲には漏れていないと思っているのかもしれないが、その実、自身の内に正直で、存外顔に出やすいタイプなのだ。何よりも、拒否されず対面で食堂の席に座っていられることが大きな証拠だった。悲しいけれど、普段ならこんなにあっさりと近くに寄ることはできないから。
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    Shiori_maho

    DONEほしきてにて展示していた小説です。

    「一緒に生きていこう」から、フィガロがファウストのもとを去ったあとまでの話。
    ※フィガロがモブの魔女と関係を結ぶ描写があります
    ※ハッピーな終わり方ではありません

    以前、短期間だけpixivに上げていた殴り書きみたいな小説に加筆・修正を行ったものです。
    指先からこぼれる その場所に膝を突いて、何度何度、繰り返したか。白くきらめく雪の粒は、まるで細かく砕いた水晶のようにも見えた。果てなくひろがるきらめきを、手のひらで何度何度かき分けても、その先へは辿り着けない。指の隙間からこぼれゆく雪、容赦なくすべてを呑みつくした白。悴むくちびるで呪文を唱えて、白へと放つけれどもやはり。ふわっ、と自らの周囲にゆるくきらめきが舞い上がるのみ。荘厳に輝く細氷のように舞い散った雪の粒、それが音もなく頬に落ちる。つめたい、と思う感覚はとうになくなっているのに、吐く息はわずかな熱を帯びてくちびるからこぼれる。どうして、自分だけがまだあたたかいのか。人も、建物も、動物も、わずかに実った作物も、暖を取るために起こした頼りなげな炎も。幸福そうな笑い声も、ささやかな諍いの喧噪も、無垢な泣き声も、恋人たちの睦言も。すべてすべて、このきらめきの下でつめたく凍えているのに。
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