心臓の門を叩くかつて
そこに村があったこと。
そこに人がいたこと。
そこに不思議な力をもつ子どもがいたこと。
いつからか
そこに雪しかなかったこと。
そこに海しかなかったこと。
そこにただひとりしかいなかったこと。
はじまりとおわり、繁栄と衰退、獲得と喪失、誕生と臨終。
人間も魔法使いも隔てなく定められた、この世の基本構造。世界が存在してから現在に至るまで、すべての生きとし生けるものが背負ってきた宿命だ。時間に可逆性はないのだから、遅かれ早かれ誰しも最期を迎える。
それなのに、心というものはその時を無感情で受け入れるようにはできていない。なんと皮肉なシステムの欠陥だろう。他人の死を想い、嘆き、そして自らの終末を恐れ、必死に足掻こうとする。儚く残酷なさだめ。しかし、だからこそ生命は黎明の光のように尊く、時として何よりも美しいのだと人は言う。
◇◇◇
南の国の魔法使いフィガロには、近頃頭を抱えている問題がある。それは、同じく賢者の魔法使いとして生活をともにしているファウスト――彼との距離感が以前と比べて近いことだ。正確には対応に困っている、というほうが当てはまるかもしれない。
再会したばかりの頃は、とにかく格闘の日々だった。まずフィガロが視界に入ることすら困難で、加えて会話となるとさらに難易度があがる。その手強さから、どう彼と話せばよいか賢者に相談したこともあった。アプローチの方法を思い悩んでは、算段をつけるのにひどく苦労したものだ。強行手段を取る場合も時々、いや、ままあったが、その度に機嫌を損ねてしまわないか気を揉んでいた。
そのはずだったのに、ここ最近の彼の様子はどうだろう。顔を合わせても、まずいものを見たというふうに踵を返すことがなくなったし、各国の先生会議では自然と隣同士に座っている。昨日行われた南東合同訓練においても、生徒たちの指導方法についてファウスのほうからフィガロに指南を仰ぎ、素直に礼を言う姿を見せていた。
つまりは、はじまりがあまりに最悪だったばかりに、現在の状況が信じ難く、何故かフィガロのほうが疑心暗鬼になっているという、謎の状態に陥っているのだ。無遠慮に腕をつかんでくる心理も、時折見せる笑みの真意も、真正面から受け止めて良いものか、いまいち踏み込めないでいる。距離が縮まって、関係が上向きになったことを正直に嬉しいと思う反面、行動次第では、目にも留まらぬ速さで信用が地に落ちるかもしれないという焦りも同時に宿してしまう。綱渡りをしているような危うさを拭えない限りは、次の一手は慎重にならざるを得なかった。
開放的な自室の窓辺に佇み、フィガロはそんな思索に耽る。視線の先では、目下の考え事であるファウストが、西の若い魔法使いクロエと何やら会話をしている。さすがクールでダーティな呪い屋を自称しているだけあって、その表情筋は鉄の様相を極めているが、話し相手の彼がタンポポのような満開の笑顔を浮かべているところを見ると、どうやら二人のやりとりは円満らしい。暖かく降り注ぐ太陽に不釣り合いな黒装が、優しくひらひらと揺れている。
「……嫌だな」
ファウストに対してか、はたまた自らに対してなのか判然としない一言を密やかにこぼして、フィガロは寝台に横たわった。
胸に巣食う黒々とした独占欲が、柄にもなく弱気にさせる。なんにしても早めに手を打たなければ。残された時間は決して多くはない。しかしやり残したことはまだたくさんある。その中でも、ファウストとの和解は優先すべき事項のひとつなのだから。
その日の真夜中のこと。いつもとは異なる時間帯にフィガロは浴場へ向かった。我ながら、遠回りで煩雑な方へ思考が傾いている気がしたからだ。これ以上停滞しているのは明らかに非効率的だと判断した。計画が、ひいては人生が、予想外のものに左右されるのは好きではない。その原因が自身の内面であっても、それは同じことだ。とはいえ、入浴で根本的な問題が解決される訳ではないのだが、それでも気休め程度の転換にはなると思った。
手早く脱衣を済ませ戸を滑らせる。立ち込める無色の蒸気が素肌に貼り付き、ほんのり温かく薄い膜を作る。滴り落ちる雫が高い水音を奏でるのを聞きながら視線を湯船へ移すと、フィガロは捉えた光景に目を少しばかり丸くさせた。しっとりと濡れたダークブロンドの髪を揺らし、桜色に染まった真白い肌を湯に浸して、角の辺りにひっそりと縮こまっている人影がひとつ。共用の大浴場には、到着した時点で明かりが灯っていたから、先客がいることはわかっていた。こんな時間に来る人も案外いるものかと、深くは考えていなかったけれど、まさかそれがかつての弟子かつ現在の同僚であるとは、思いもしていなかった。ここ魔法舎で共同生活を始めてから幾分か経つが、この場所で会うのは初めてだ。
やあ、奇遇だね、と何気ない一言をかけて、努めて通常通りに振る舞う。身を清めるために先に洗い場へ腰掛けて、熱いくらいのシャワーを勢いよく浴びる。その間にもしかしたらファウストは立ち去ってしまうのではないかとフィガロは思ったが、聞こえてくるのはにわか雨のように肌をみだれ打つ、水の玉が弾ける音だけだったので、おそらくまだ湯に浸かっているらしかった。
キュッと蛇口を締め、奥に居る彼と対角になる位置まで移動する。可能な限り波が大きく立たないように注意を払って、脚からゆっくりと沈んでいく。湯船の縁にもたれかかり、ふぅと一息ついた。
「いつもこの時間なの?」
「……まあ大体は。静かでいいよ。今日の誰かさんみたいに、きまぐれで来る人がいない限りは」
「なんか急に棘があるな……。共用なんだし、誰がいつ来たって自由でしょ」
「それはそうだな。謹んで訂正するよ」
視線を合わせることなく、背中越しにファウストのひねくれた小言を聞く。今彼は、どんな顔をしているのだろうか。大切な時間を邪魔されて不機嫌になっている、もしくはいつもの無表情、いやもしかすると、緩く広角を上げて稀に見る微笑を浮かべているかもしれない。いくつも思い浮かぶけれど、そのどれをとっても今の彼らしくていいな、とフィガロはほのかな熱を灯した。瞬きの間すら惜しいという感覚を得たのは、生に限りがあることを自覚してからだ。
いっそこのまま勢いに任せてしまおうと、湯をかき分けながらファウストの近くまで身体を滑らせる。わずか10センチというところまで接近しても、離れる素振りは見せていない。ということはつまり、彼にとっては間違いなくこの近さは許容の範囲なのだろうと、フィガロは密かに胸を撫でおろした。一日かけて熟考していた距離の測り方を、まさかこんな形で行動に移すとは思ってもみなかったけれど。
「そういえば、きみ昔から湯浴みするの好きだったよね。俺の屋敷の風呂見たときも、感動して滅茶苦茶喜んでたし。魔法使えばいいのに、隅から隅まで自分で掃除してさ、可愛かったなあ」
「…………いつの話だ」
「もうずっと昔、でも昨日のことみたいに思い出せる、そんなある日の話だよ」
どこか座りの悪い雰囲気で、ファウストが視線を落とす。身体をじわじわと火照らせていくとろけた湯が、照明の光を反射させてゆらゆらと揺れている。作られては流れ、やがて消えていく水紋を二人はしばし無言で見つめていた。
「そろそろあがる?」
「そうだな。だいぶ長湯になったから先に失礼する」
「……ねぇファウスト、このあと俺の部屋に来ない?」
「……なんで」
「うーん……特に理由はないんだけど……。強いて言えば確かめたいことがあるから、かな」
「…………わかった。行くよ」
「えっいいの? なんでっ!?」
「ふ、ははっ、あなたも“なんで”? なら僕も同じだよ。――理由なんてない」
フィガロは不意の笑顔に絆されて、一瞬心の身動きが取れなくなる。優しげな面影を残したその眼差しに、曇りのない高潔な瞳の紫に、己の理性が吸い込まれていく心地がした。ついには腹を括ったような心胸にさえなってきて、気がつくとファウストの手を強く握っていた。
部屋に招いたものの、晩酌をするという気にはならず、フィガロは何も言わずに寝台へ腰掛けた。ファウストもそれに倣った様子で、隣に身体を落とす。室内はやけに静かだったけれど、不思議と嫌ではなかった。湯上がりで上気した肌を持て余しながら、二人はただぼんやり窓の外を眺める。真っ黒なインクで果てしなく塗りつぶされた夜空には、相変わらず今日も〈大いなる厄災〉が煌々と浮かんでいる。その月は、青色と銀色の丁度中間のような色合いで輪郭を滲ませて、こちら側をじっと照らしていた。
フィガロはまたひとつ検証するかの如く、ベッドに置かれているなめらかな手の甲へ、つつっと指先を這わせた。浮き上がっている筋を辿って薄い皮膚をなぞると、甘やかなくすぐったさからか、ほんの少しファウストが身をよじるのを感じた。
「逃げないで居てくれるの」
「確かめたいことがあるんだろう。応じたからには、付き合うよ」
「……へえ、それってどんなことでも?」
微かにスプリングが弾む音がする。そのまま身を乗り出し、緩やかに二人分の体重を傾けて綿の中へ倒れ込んだ。その拍子に舞い上がった洗いたての髪からは、お揃いの清潔な石鹸の香りがする。ここまで接近しなければ感じることのできない、ささやかな幸福の匂いだ。
「…………何」
「きみは触れるのをどこまで許してくれるのかなって、そればっかり考えたから」
「それでこれ?」
「まあ、うん。若干色仕掛けもあるけど」
「は?」
「ごめん忘れて……」
フィガロがとっさに身体を離して起き上がると、ファウストも続けて上体を起してきたので、二人は改めて向き合う態勢になる。
「嫌、とは言ってない」
「……あのさ、きみ本当に……。俺がどれだけ悩んでると」
「まるで僕のせいみたいな言い方だな。それを言ったらおまえだって急に頭を撫でようとしたり、顔が近かったり、理解できない行動をしてる」
「嘘! いつ!」
「とぼけるな。再会したときから、ずっとそんな感じだろう」
「え〜〜……。でもそっか。なんだろうね、これ」
そう言ってフィガロは、ぽすんとファウストの肩にもたれ掛かった。少し痩せ気味で突き出した鎖骨の辺りに彼の個性を感じて、それさえも愛おしい。
「……ひと言で、不毛だよね」
「…………かもしれないな」
言葉足らずで、干渉を躊躇うがゆえの相互不理解。ゆえの膠着状態。内面を曝け出すのが互いに不得手なばかりに、気がつくと着地点がズレている。同じ想いでいることだって少なくないはずなのに。それがあまりにもおかしくて、フィガロはなぜか笑いがこみ上げてきた。ファウストにもその感情が伝播したらしく、自分たちの不器用さに、意味もなくひとしきり笑いあった。
ほんの些細なことですぐにすれ違ってしまうのだから、全てを理解することはこれからだってきっとできないのだろう。けれど、わかりあいたいと思う気持ちがファウストの中にもある、それを知れただけでもフィガロにとっては十分だった。銀河を駆ける彗星のように、水槽の中で揺れる熱帯魚の尾のように、いつもならするりとすり抜けていく想いの端を、今日は掴まえられたのだろうか。
「改めて触れてもいい?」
すると顔の前に、ぐいっと手のひらが差し出された。意図を汲み取れなくてフィガロは小首をかしげる。
「急には無理だから、またここから頼む……」
殊勝なその態度に心揺さぶられて、色を持たない灰色の瞳へ流星のきらめきが落ちる。肯定の意を込めて、要求の通りまずは手の先に優しく指を通した。少し差のある温度がゆっくりと混ざりあい、その境界をなくしていくのを悠揚と待つ。言葉は静寂に閉じ込めて、含羞と困惑によってファウストの睫毛が小さく振動しているのを悉に見つめた。それから頬へ、耳の裏へ、額へ順に移動して、皮膚の柔らかさやざらつき、感触のすべてを確かめていく。
ここまでに抵抗がなかったことを見届けて、顎のラインから首筋を撫でる。次の動きを推測できたのか、ファウストが視線を逸らして、少しだけ肩に力を入れた。それをあやすようにウェーブした髪をやんわりと梳き、いよいよ胸のボタンに手をかける。
「あ、なんだその……僕だけなのか?」
「うん?」
「あなたは……」
「……じゃあ俺のはきみにお願いするよ」
対象的な色をした互いの衣服に手を掛け、ひとつ、またひとつと交互に留め具を外す。先に顕になったのはファウストの素肌だ。つい数十分間前にも湯けむりに包まれたその姿を捉えていたはずなのに、どうしてか今の彼は先程よりもずっと特別な気がして、思わずフィガロは息を呑む。そうしている間にファウストが身じろぎをして、掛布の下にある一枚の白布を引き抜いた。羞恥からなのかそれを肩から掛け、上半身を隠してベッドの上に横たわっている。それを見たフィガロは、彼の気が変わってしまう前に急がなければと、勢いよく黒のネックシャツを脱ぎ去り、ファウストに身を寄せた。そして自らもひやりとしたその布の中へ滑り込んでいった。
近くなればなるほど傷つけ合うことを知っていてもなお、この瞬間の重なりを選んだ二人は、剥き出しの肌を通して切実な温もりを分かち合う。共有している一人分の寝具の下では、次第に湿った熱が籠もり始め、それと比例して体温も上昇していく。愛だとか未来だとか、そんな不確かなものは今はどうでも良くて、息も忘れるような幸福の高鳴りだけが彼らの内側を満たした。
「誰かと抱き合うってあったかいね」
「…………ああ。軍にいたときは何もかもが目まぐるしかったから。それにあの頃のあなたには恐れ多くてこんなことできなかった。家族との触れ合いがどんなものだったかも、とうの昔に忘れてしまったよ」
「俺だって同じさ」
「南の国では、よく皆一緒に寝てるんじゃないのか」
「はは、服脱いで密着なんてするわけないだろ」
「……そういうものか」
「そう。きみだけだよ」
その言葉を聞いて、また照れくさそうに涙の膜を揺らめかせる愛しい弟子を、フィガロはありったけきつく抱きしめる。
「ねえ、このままひとつになってさ。朝目覚めなくてもいいって思わないぃぃぃいだだだだだだ」
渾身の想いを込めて伝えたつもりの言葉が、自身の力を上回る圧でキツく締め上げられて、呆気なく行き先をなくしてしまった。
「ちょっ、何!」
「おまえがろくでもないことを言うからだ」
「ひど……。今こそ、きみも俺と同じ気持ちでいるよね的な流れだと思ったのに」
「そんなわけあるか」
ファウストは呆れ顔で細く長いため息をこぼし、葡萄色の澄んだ瞳を目蓋の裏にしまう。頭の中で何かを整理しているのか、しっかりとためを作って、それから薄く口を開いた。
「……いくら魔法を伝承されて、師弟の系譜を辿ったとしても、どこまで行ってもあなたはあなたで、僕は僕だ。ひとつになんてなれるわけがない、永遠に」
これから紡がれる言葉を予測して、フィガロは押し黙る。一瞬のしじまに、ふたつの呼吸が重なる。
「――――それでも、僕はあなたを忘れないよ。魔力の形も、その声も、当たり前に肌が温かいことも、全部覚えている。きっと。不本意だが、弟子だったよしみだ。あなたが何かを残したいのなら、僕が責任を持って引き受ける」
自然に発せられた凛とした声を合図に、春の嵐にも似た感情の突風が、強い勢力を保ったままフィガロの脳裏を一気に通り抜ける。ずっとあてもなく続けていた自分の居場所を探す旅。彷徨って、見失って、随分と遠くまで来てしまった、人生の放浪。彼の言葉は、その終わりを信じたくなるような、優しくて厳しい音だった。見たこともないけれど、心の奥でずっと懐古していた原始の海へ還ってきたみたいに、すっと透明なものが沁み込んでいく。
「……ありがとう。それしか今は出てこないな。きみは? 俺にしてほしいことはある?」
「別に……。少しでも長く、ここに居てくれたらそれでいい」
ファウストの言葉を素直に受け止めて、フィガロは何も言わずに額を彼の頬に擦りつけた。互いの吐息が間近で聞こえる、まるで恋人同士のような距離。それにあてられて、気がつくと目前にある薄紅色の唇へ吸い寄せられていた。あと一寸にも満たないかというところでその気配を感じたのか、ファウストはとっさに身体を反し、つい先刻も見た既視感のある動きで、くるまっていたリネンに顔を埋めてしまった。その姿はシーツで幽霊に擬態した幼子を思わせる、可愛らしくて少し間の抜けたものだったけれど、フィガロの瞳には別の、ある種神聖で、唯一無二の存在として映った。
始まりを思い出して、もう一度手を握る。体勢を整えて、ファウストを起き上がらせると、向き合ったその先で、まっすぐに、淀みなく問いかける。
「ファウスト。……目を瞑って。深呼吸をして。考えて。――キスしてもいい?」
びくんと、肩を震わせて、ほんの少したじろいだファウストは、沈黙を抱えて逡巡している。そうしてようやく心を決めたらしく、ささやかに、しかし明確に意思が伝わる程度に、首を縦に動かした。
またひとつ、彼の心に入り込むことを許されたフィガロは、体内で制御しきれない位に血液が循環し始めるのを認識した。痛みを覚えるような脈動に促されて、思考がどんどん巡っていく。美化された過去の輝きを全部捨て去ってでも、この刹那に縋り付いていたいと、大胆な欲が溢れて止められなかった。
――ああ、生きたいな。
幾度となく繰り返される破滅願望のその裏に、しがみついて離れない生への渇望。みっともなくも永らえたいとあがく本能。それが喉から這い上がってくるのをありありと感じる。
――思えばいつもそうだった。
あの時も、今この時も。
きみが。きみだけが。
生きよと己に命じる、熱い心臓の門を叩くのだ。少し乱暴に、悲しいほどに希望の光を抱かせながら。
そしてフィガロはゆっくりと、ファウストを覆い隠しているリネンを取り去る。
まるで純白のベールを開くように。
約束と呼ぶには未熟すぎる、ままごとのような行為かもしれない。けれどもそれは確かに、永遠を誓う儀式に似ていた。